第一九〇回 ③
ムカリ耶律老頭を拐引して必生を期し
オノチ三色道人に肉迫して死命を制す
ムカリ主従は(ついでに云えばムライも)、命数いまだ竭きることなく、混乱に紛れてまんまと主戦場を脱した。斜面を駆け下って、一路西原を指す。途上、ハーミラ率いる「紅百合社」との合流すら果たし、付近を哨戒していた北軍第六翼(※花貌豹サチの兵)の追撃をも振りきった。
このとき、たちまち耶律老頭の技能が活きた。ムカリたちは当然ながらファルタバン語はおろか、西域の言語も解さない。耶律老頭の通辯がなければ、どうして能く色目人と連携できたであろう。
シャギチは主君の先見におおいに感服したが、ムカリ自身もこれほどすぐに役に立つとは思っていなかった。西帰したのちに味方になりえるものを数えれば、東城に拠る紅百合社、西城を占める梁軍、そして西域諸蕃やファルタバン朝など、言葉の解らぬ異族しかないことに想到したに過ぎぬ。
これをもってこれを覩れば先見というほどのこともなく、言わば直感の類ではあった。何はともあれ、テンゲリはこの猛将をもうしばらく生かしておくことにしたらしい。まったく天意とは人智の及ばざるものと云うほかない。
ムカリが難を逃れえたのには、もうひとつ理由があった。ヒィ・チノはじめ北軍諸将が、四頭豹が撤退しつつあることに気づいたことである。すでに崩れたムカリ軍よりも、かの仇敵の追撃を優先するのは当然のこと。
しかし殿軍を委された三色道人ゴルバンが、押し寄せる大軍の前に立ち塞がる。盛んに矢を放ち、敵軍が接近してくれば一列ずつ突撃する。彼らが命を的にしている間に、僅かに後退して再び迎え撃つ。そしてまた一列が盾となって散っていく。
こうして兵を磨り減らしながら、友軍のために時を稼ぐ。もちろん甚大な損害は免れない。みるみる数を減じて、ほどなく北軍の猛攻を支えきれなくなる。
最初に突破の道筋を見つけたのは、右翼の超世傑ムジカ。
「紅き隷民よ、行け!! 四頭豹を逃がすな!」
待ってましたとばかりに、ジョシ氏のゾルハンが軽騎二千を率いて駆けだす。先に命じられた「時」がついに至ったのである(注1)。撃ちかかる敵人もあったが、瞬時に退けて疾駆はいささかも緩まない。
三色道人に制止する余力のあるはずもなく、「紅き隷民」はその傍らを鮮やかに駆け抜ける。そのころには四頭豹の中軍は、いよいよ撤退の途に就きつつあった。先駆ける部隊は、高原の上段に達しはじめている。
「逃がすものか!」
ムジカは号令を発して、第三翼の総力を挙げて紅き隷民のあとを追わしめる。それを中央から望んだヒィ・チノは快哉を叫んで、
「好し、超世傑が行った! さあ、我らは三色道人を葬らん」
左翼から攻め上るギィもまた、
「我らは左方から回り込む。超世傑独りに行かせるな!」
応じて迅矢鏃コルブが、まさに矢のごとく飛びだす。隼将軍カトラ、鳶将軍タミチも遅れじと馬腹を蹴った。それを察した三色道人は眉を顰めて、
「超世傑はやむをえないとしても、獅子まで通すわけにはいかぬ」
そこで飛天道君トウトウに命じて、その進路を断たんとする。しかし敵軍約一万に対して、割けられた兵力は僅かに千騎。得意の奇兵を用いるべくもなく、ただただ一をもって十に当たる気概があるばかり。
だが戦とは、気概あらばどうにかなる、というものではまったくない。どっと繰りだしてはみたものの、獅子の爪牙に掛かって瞬く間に霧消する。トウトウは真っ青になっておもえらく、
「今は敵将の一人でも二人でも冥府に伴わん」
いざ剣を掲げて咆哮とともに敵中に躍りこむ。さあ、討つべきは隼将軍か、蓋天才かとおおいに昂奮する。そこへ悠然と馬を進めてきたものがあったので、きっと見遣れば、
「げっ、あ、あ、あれは、盤天竜!?」
見て魄散り魂離れ、会って心驚き肝裂けるとはまさにこのこと。命数が竭きるときは、概してかくのごとし。すっかり窮したトウトウは、何やら喚きつつ撃ちかかったが、ハレルヤは眉ひとつ動かさない。ただちらと一瞥して、
「退け」
呟くと同時に大刀一閃。あわれ飛天道君は、乳酪(注2)のごとく両断されてあっさりと逝った。ハレルヤは涼しい顔で、そのまま跑足にて去る。寸刻どころか、たった一歩の足止めもかなわない。おそらくハレルヤは、たった今屠ったものが一軍の将だったことにも気づいていなかっただろう。
かくして、三色道人麾下の済々たる勇将たちは、ことごとく命を落とした。こうなってはいかな三色道人といえども打つ手がない。戦列は千々に寸断されて敵中に孤立する。東原南半に君臨した河東公(注3)の栄耀も今は昔、己の身を保つことも殆うい有様。
「もはやここまでか」
呆然として言うのを幕僚の一人が聞き咎めて、
「何をおっしゃいます! 生きて退けば、相国様にきっと策がおありのはず」
「であるか」
辛うじて戦意を復して、退却に転じる。群がる敵兵を斬り伏せ、薙ぎ倒し、全身に返り血を浴びつつ血路を開かんとする。周囲はすっかり包囲されている。悪戦苦闘していると、どこからか一矢の飛び来たって卒かにその肩に突き刺さった。
「うぐっ!」
呻き声を漏らして顧みれば、一人の驍将が二の矢を番えつつ一直線に疾駆してくる。三色道人は顔を歪めると、苦々しげにその異名を口にした。
「……雷霆子!」
(注1)【先に命じられた……】ゾルハンはムジカから、「時が至らば、錐のごとく敵陣を穿って、どこまでも進め」と命じられた。第一八九回④参照。
(注2)【乳酪】牛や羊の乳を加工してつくる食品のこと。バター、チーズなど。
(注3)【河東公】三色道人ゴルバンはヒィ・チノから東原南半を奪って幕府を開き、のちに河東公に任じられた。第一六五回③参照。




