第一八九回 ④
オノチ火竜を飛ばして尸解兵を殄戮し
インジャ三傑を立てて四頭豹と会戦す
紅百合社の軍勢が退却しはじめたことに、ムジカたちが気づかぬはずもない。気丈なムジカの妻、打虎娘タゴサが眉を吊り上げて、
「色目人め、逃げるつもりだよ!」
今にも剣を操って駆け出さんとするのを制して、ムジカが言うには、
「放っておけ。それよりも亜喪神、何より四頭豹だ」
「でも!」
「ここを逃れても、西には花貌豹らが網を張っている。軍師の布陣は万全、我らは我らの責務を果たすべし」
そこで命令を発して無用な追撃を戒め、すばやく陣形を整えた。また「紅き隷民」を束ねるジョシ氏のゾルハンを召して、
「時が至らば、錐のごとく敵陣を穿って、どこまでも進め。我らはその踏み跡を辿って、これを押し広げん」
「承知!!」
かくしてムジカ軍は、地を蹴立ててチンラウト軍を襲う。すでにして潰走寸前だった弱卒どもが堪えられるわけもない。鎧袖一触、どっと崩れ立つ。
「討て、討て!」
マクベンが叫びながら槍を振り回す。兵衆は俄然勇躍して、いずれも一騎当千のはたらき。いつの間にか、タゴサもハトンたる身分を忘れて大暴れ。ムジカは戟を掲げると、
「さあ、このまま亜喪神の側背を突いて、一挙に勝ちを収めてくれようぞ」
とて馬を進め、戦況に応じて次々と指示を出す。もとより兵の運用にかけては、黄金の僚友随一の名将。いずれの手も的を外すことなく、確実に急所を抉る。
その後方を支えるのは碧水将軍オラル。ムジカたちが存分に戦えるのも彼のおかげ。四方に目を配って、殊に四頭豹の中軍に備える。
ついにチンラウト軍は撃破される。逃げ惑う兵士の一部は、隣接する亜喪神の陣に雪崩れこんだ。それは、攻勢に抗って懸命に保ってきた規律ある戦列を、おおいに乱すことになった。
ムカリは怒り心頭に発して罵詈を吐き散らしたが、どうすることもできない。ひたすら督戦に努めるばかり。
対するヒィ・チノは手を拍って喜ぶと、
「一丈姐! 超世傑に助力せよ」
「承知!」
打てば響くとはまさにこのこと。カノンは、くどくどと説かれずとも即座に意を汲んで、千騎ほどを連れて駆けだす。突き入ったのは、敵の左翼の付け根とも云うべき箇所。チンラウト軍とムカリ軍が入り雑じって混乱しているところに、さらなる一撃を加える。
これによって、戦列を再復することはおよそ不可能となった。指揮は届かず、いたずらに悲鳴と怒号が行き交う。恐慌は次第に全体に拡がり、善く戦っていたムカリの兵衆までもが、すっかり浮足立つ。
カノンは戦場を駆け巡っているうちに、右往左往するチンラウトに出合った。
「あれは敵の大将の一人じゃないか。何たる僥倖、テンゲリのお導きに違いない」
雀躍して呼びかけて言うには、
「おい、首を置いていきな!」
チンラウトはちらと顧みたが、鞍上に身を伏せて逸散に逃げだす。カノンはひとつ舌打ちして、
「逃がしはしないよ!!」
ぐんと馬を急かして、みるみる肉薄する。指呼の間に迫ったところで、
「臆病者め、女に背を向けるか!」
とて挑発すれば、本来は武勇をもって知られた豪のもの、かっとして馬首を返す。槍をしごきつつ目を瞋らせて言うには、
「ほざくな、小娘! わしを誰だと思っている」
カノンはせせら笑って、
「知らないよ。ただ、戦場でいつも逃げ回ってる宦者(注1)がいるって聞いたけど、あんたのことかい?」
チンラウトの怒るまいことか。俄かに赫怒(注2)して、顳顬にぶくりと血管を浮き上がらせる。
「この淫売が! 冥府で悔いても遅いぞ!」
甲高い声で言い放ったが、カノンに懼れる色もない。ただ嫣然と笑って言うには、
「何それ、己に向けて言ってるの? 冥府に行くのはあんただよ」
チンラウトは激昂のあまり唇をわなわなと震わせて、言葉も出ない。顔色は赤を越えて、紫と化す。むふう、むふうと鼻息荒く、ぎょろりと目を剥いて、ただただ睨みつける。
「何だい、その面は。話にならないね、お喋りは終わりだよ!」
カノンは手にした槍をぶんとひと振り、馬腹を蹴った。チンラウトもまた咆哮を挙げて槍を掲げる。すれ違いざまに刺突を交わせば、があんと鈍い音が響く。くるりと馬首を廻らして再び向き合い、互いに必殺の一撃を繰りだす。
カノンのそれは飛鷹のごとく、速く、鋭い。チンラウトのそれは野猪のごとく、猛く、強い。槍法はまったく違えど、いずれ劣らぬ名手。虎尾竜筋のごとく、竜鬚虎爪に似たりといったところ。
しかし次第にチンラウトの槍が乱れはじめる。攻める余裕を失い、必死に防ぐ。汗は噴きだし、顔は青ざめ、気息奄々、辛うじて命を保つ。兵書に謂う「柔能く剛を制す」とは、まさにこのこと。
かつては英王の寵臣として権勢を振るった佞者も、「亢竜悔いあり」(注3)と云うべきか。今や戦に敗れたのみならず、一個の女丈夫の前に己の命数まで竭きんとしている。
果たしてカノンは、首尾よくチンラウトを討ち取ることができるか。それは次回で。
(注1)【宦者】宦官のこと。カノンは、宦官であるチンラウトを揶揄したのである。
(注2)【赫怒】激しく怒ること。
(注3)【亢竜悔いあり】天に昇りつめた竜は、あとは下るだけなので悔いがある。栄達を極めたものは、必ず衰えるという譬え。




