第一八七回 ④
ナユテ鮮やかに予言して神箭将大いに喜び
ドクト巧みに弾奏して白夜叉妖しく舞う
ナユテはひとたびテンゲリに向けて一礼すると、すっと右手を挙げた。それを見たドクトは小さく頷いて、馬頭琴を構える。そしてゆらりと弓を動かしたかと思えば、おもむろに奏ではじめる。まずは穏やかに、軽やかに、高く、長く、歌うような旋律を反復する。
驚いたことには、轟々と強風が吹き荒れているにもかかわらず、なぜか一音一音くっきりと際立ってみなの耳に届く。
唖然としているうちに、徐々に曲調が変じていく。先までは戦場には似つかわしくない優しい曲調だったのが、幾度か繰り返す間に少しずつ音をずらしたものか、曲は次第に哀調を帯びていく。
また二弦を存分に活かして、主の旋律の陰にいくつも音を加える。車上で演奏しているのはドクト独りのはずなのに、まるで数人が重奏しているかのよう。それもまた衆をおおいに驚かす。
いよいよ妙技は冴えわたり、奔流のごとく音が溢れる。いつしか曲調は哀切を極め、長い音は激しく振動して波を打ち、短い音は連綿と繋がって耳が追いつかぬほど速く、和音はときに不協和の響きを放って、聴くものの心をざわつかせる。
そこでナユテが今度は左手を挙げる。応じたのはミヒチ。すっと立ち上がって両手を広げる。長い袖が風に靡いて、はたはたと揺れる。
まずは胸を反らしてテンゲリを仰ぐ。次いで目を伏せたかと思うと、俄かに上体を捻ってくるりと旋回し、ゆっくりと舞いはじめる。緩やかに、嫋やかに、何より艶やかに、妖しげに。
透けるような白い肌、しなやかな肢体のどこか尋常ならざる女人が舞うさまは、たちまち兵衆の目を奪う。
悠然たる様子ながら、よく見れば指先まで気が漲り、その無表情の奥にどことなく狂気を孕んでいるようでもある。これを見たものはなぜか狂おしいほどの不安に駆られ、どうしても目が離せなくなる。
すっかり兵衆の耳目を集めたところで、ナユテが卒かに腰に下げた鈴をしゃーんと鳴らす。両目を閉じると、手印を結んで呪文を唱えはじめる。草原の言葉でなければ、中華のそれでも、西域のそれでもない。
一節唱え終わると、かっと目を見開き、しゃーんと鈴を鳴らして、やあっと叫ぶ。テンゲリを仰いで膝を折り、恭しく叩頭する。また立ち上がって目を閉じ、手印を結んで一心に呪文を唱える。
南北の将兵は、戦も忘れて三台の車を注視していたが、真っ先に我に返ったのは亜喪神ムカリ。
「あんな見え透いた詐術に欺かれるな! ふざけた巫者どもを射殺せ!」
傍らにあったシャギチがはっとして言うには、
「承知! 我に続け! 巫者どもを屠ってくれん」
ところが、手近な百騎ほどを随えて、いざ突っ込もうと身構えたところで、あわてて手綱を引く。何となれば、中央の車の御者台に、ゆらりと立ち上がったものの姿に気づいたからである。
「あ、あ、あれは、盤天竜!?」
まさしくそれはナユテを衛るハレルヤの巨躯。ただ佇立するばかりで、得物を掲げるでもなく、気合いを発するでもない。静かに視線を向けただけだったが、ムカリたちを怯えさせるには十分であった。
「見ている! こっちを見ているぞ。盤天竜がこっちを見ている!」
遥か数百歩も離れていながら、まるで狩りの獲物にでもなったような殆うい心地にて、兵衆はわっと逃げ散る。
ムカリやシャギチもこれを咎める余裕があろうはずもなく、ともに後退してしまう。そのあとは誰も遮るものとてなく、ナユテは唱え、ドクトは奏で、ミヒチは舞い続ける。
尸解道士の傍にあった矮飛燕こと拓羅木公も、ナユテたちの出現に肝を潰して尋ねて言うには、
「敵もまた道士を立ててきたようだが……」
林孟辰はやや青ざめた顔でぎこちなく笑って、
「何の、ただの見せかけよ。誰が我が術を破ることができようか。貴公にはこの強風が感じられぬのか?」
「いや、無論そのようなことはないが……」
「ならば懸念は無用! 我が術こそ天下一、霊山にて奥義を極めた……」
語を強くして言いかけたそのときである。
はたりと風が止んだ。
「えっ?」
林孟辰は思わず声を挙げる。拓羅木公も愕然として、
「おい、どうなってるんだ!? 風が、風が……」
「む、むむぅ」
あわてて印を結び、呪文を唱える。ついには額に血管を浮き上がらせるほど力んでみたが、風はそよとも吹かない。旗はふわりと垂れ下がり、耳を鳴らしていた轟音も消えて辺りはしんと静まり返り、ただ馬頭琴の音色だけが流れる。
次の瞬間には、悲鳴と歓声が高原を埋め尽くす。もちろん前者は南軍の、後者は北軍のものである。浮足立った南軍の兵衆は命も待たずに馬首を廻らし、一方の北軍は一時に勇を得て、一気呵成に攻めかかる。
各処で南軍は撃ち破られて、無惨に潰走するほかない。散々に押し込まれて、もとの陣地を維持することすらできず、後背の丘陵を半ばまで駆け上って、やっとのことで攻勢を喰い止める。
ヒィ・チノはそれを見て、早めに撤退の命を下す。敵が退いた分、さらに前進して陣を築いた。まさに武勲赫々、前軍の重任を見事に果たす。あとは義君インジャ帥いる中軍の到着を待つばかり。
これもすべて神道子と、これを輔けた好漢たちの異能の賜物。賢者が信じて陳べたことには誤謬なく、佞者が詐って画したことには加護がないといったところ。
ナユテは本営にて万雷の拍手と賛辞をもって迎えられることになる。果たして、彼はそれに応えて何と言ったか。それは次回で。




