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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
748/785

第一八七回 ④

ナユテ鮮やかに予言して神箭将大いに喜び

ドクト巧みに弾奏して白夜叉妖しく舞う

 ナユテはひとたびテンゲリに向けて一礼すると、すっと右手(バラウン・ガル)を挙げた。それを見たドクトは小さく頷いて、馬頭琴(モリン・ホール)を構える。そしてゆらりと弓を動かしたかと思えば、おもむろに(かな)ではじめる。まずは穏やかに、軽やかに、高く、長く、歌うような旋律を反復する。


 驚いたことには、轟々と強風(ハラ・サルヒ)が吹き荒れているにもかかわらず、なぜか一音一音くっきりと際立ってみなの(チフ)に届く。


 唖然としているうちに、徐々に曲調が変じていく。先までは戦場には似つかわしくない優しい曲調だったのが、幾度か繰り返す間に少しずつ音をずらしたものか、曲は次第に哀調を帯びていく。


 また二弦を存分に活かして、主の旋律の(エチネ)にいくつも音を加える。車上で演奏しているのはドクト独りのはずなのに、まるで数人が重奏しているかのよう。それもまた(バルアナチャ)をおおいに驚かす。


 いよいよ妙技は冴えわたり、奔流(キヤト)のごとく音が溢れる。いつしか曲調は哀切を極め、長い音は激しく振動して波を打ち、短い音は連綿と繋がって耳が追いつかぬほど速く、和音はときに不協和の響きを放って、聴くものの(セトゲル)をざわつかせる。


 そこでナユテが今度は左手(ヂェウン・ガル)を挙げる。応じたのはミヒチ。すっと立ち上がって両手を広げる。長い(カンチュ)(サルヒ)(なび)いて、はたはたと揺れる。


 まずは(チェエヂ)を反らしてテンゲリを仰ぐ。次いで(ニドゥ)を伏せたかと思うと、俄かに上体を捻ってくるりと旋回し、ゆっくりと舞いはじめる。緩やかに、(たお)やかに、何より(あで)やかに、妖しげに。


 透けるような白い肌、しなやかな肢体のどこか尋常ならざる女人が舞うさまは、たちまち兵衆の目を奪う。


 悠然たる様子ながら、よく見れば指先まで気が(みなぎ)り、その無表情の奥にどことなく狂気を(はら)んでいるようでもある。これを見たものはなぜか狂おしいほどの不安に駆られ、どうしても目が離せなくなる。


 すっかり兵衆の耳目を集めたところで、ナユテが(にわ)かに腰に下げた鈴をしゃーんと鳴らす。両目を閉じると、手印を結んで呪文を唱えはじめる。草原(ミノウル)言葉(ウゲ)でなければ、中華(キタド)のそれでも、西域(ハラ・ガヂャル)のそれでもない。


 一節唱え終わると、かっと目を見開き、しゃーんと鈴を鳴らして、やあっと叫ぶ。テンゲリを仰いで膝を折り、(うやうや)しく叩頭する。また立ち上がって目を閉じ、手印を結んで一心に呪文を唱える。




 南北の将兵は、(ソオル)も忘れて三台の(テルゲン)を注視していたが、真っ先に我に返ったのは亜喪神ムカリ。


「あんな見え透いた詐術に欺かれるな! ふざけた巫者(ボエー)どもを射殺(いころ)せ!」


 傍ら(デルゲ)にあったシャギチがはっとして言うには、


承知(ヂェー)! 我に続け! 巫者どもを(ほふ)ってくれん」


 ところが、手近な百騎(ヂャウン)ほどを(したが)えて、いざ突っ込もうと身構えたところで、あわてて手綱(デロア)を引く。何となれば、中央(オルゴル)の車の御者台に、ゆらりと立ち上がったものの姿(カラア)に気づいたからである。


「あ、あ、あれは、()()()!?」


 まさしくそれはナユテを(まも)るハレルヤの巨躯。ただ佇立するばかりで、得物を掲げるでもなく、気合いを発するでもない。静か(ヌタ)に視線を向けただけだったが、ムカリたちを(おび)えさせるには十分であった。


「見ている! こっちを見ているぞ。盤天竜がこっちを見ている!」


 遥か数百歩も離れていながら、まるで狩りの獲物(ゴロスエン・ゴルウリ)にでもなったような(あや)うい心地にて、兵衆はわっと逃げ散る。


 ムカリやシャギチもこれを(とが)める余裕があろうはずもなく、ともに後退してしまう。そのあとは誰も遮るものとてなく、ナユテは唱え、ドクトは奏で、ミヒチは舞い続ける。




 尸解(しかい)道士の傍にあった矮飛燕こと拓羅木公も、ナユテたちの出現に肝を潰して尋ねて言うには、


「敵もまた道士を立ててきたようだが……」


 林孟辰はやや青ざめた顔でぎこちなく笑って、


「何の、ただの見せかけよ。誰が我が術を破ることができようか。貴公にはこの強風が感じられぬのか?」


「いや、無論そのようなことはないが……」


「ならば懸念は無用! 我が術こそ天下一、霊山にて奥義を極めた……」


 語を強くして言いかけたそのときである。




 ()()()()()()()()()




「えっ?」


 林孟辰は思わず声を挙げる。拓羅木公も愕然として、


「おい、どうなってるんだ!? 風が、風が……」


「む、むむぅ」


 あわてて印を結び、呪文を唱える。ついには額に血管を浮き上がらせるほど力んでみたが、風はそよとも吹かない。(トグ)はふわりと垂れ下がり、耳を鳴らしていた轟音も消えて辺りはしんと静まり返り、ただ馬頭琴の音色だけが流れる。


 次の瞬間には、悲鳴と歓声が高原を埋め尽くす。もちろん前者は南軍の、後者は北軍のものである。浮足立った南軍の兵衆は(カラ)も待たずに馬首を(めぐ)らし、一方の北軍は一時に勇を得て、一気呵成に攻めかかる。


 各処で南軍は撃ち破られて、無惨に潰走するほかない。散々に押し込まれて、もとの陣地を維持することすらできず、後背の丘陵(ウンドゥル)を半ばまで駆け上って、やっとのことで攻勢を喰い止める。


 ヒィ・チノはそれを見て、早めに撤退の命を下す。(ブルガ)が退いた分、さらに前進して(トイ)を築いた。まさに武勲赫々、前軍(アルギンチ)重任(アルバ)を見事に果たす。あとは義君インジャ(ひき)いる中軍(イェケ・ゴル)の到着を待つばかり。


 これもすべて神道子と、これを輔けた好漢(エレ)たちの異能(エルデム)賜物(アブリガ)賢者(セチェン)が信じて()べたことには誤謬なく、佞者が(いつわ)って画したことには加護がないといったところ。


 ナユテは本営(ゴル)にて万雷の拍手と賛辞をもって迎えられることになる。果たして、彼はそれに応えて何と言ったか。それは次回で。

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