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草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
728/785

第一八二回 ④

ハーミラ義君の後背に出でて(にわ)かに突入し

カー鉄鞭の艶美に(おどろ)いて(ただ)ちに下馬す

 カーを(とら)えたアネクらは、追撃を中止して本営(ゴル)に帰還した。みなアネクの(エルテ・)(ウドゥル)と変わらぬ猛勇(カタンギン)を讃えて()まない。インジャは親しくその(ガル)を取って、


「さすがは我がハトン、心配は無用(ヘレググイ)だった」


 すると、ミアルンとシャイカに挟まれて座していたカーが俄かに叫んで、


「ハトンですって!? ということは、天女様はハーンの?」


 ミアルンがあわてて制したがときすでに遅く、あまりの大声にみなの視線が集まる。インジャが不審げな面持ちで尋ねて言った。


「そこの壮士(エレ)は見ない(ヌル)だが、いったいどなたかな?」


 応じてアネクが苦笑交じりに経緯(ヨス)を述べて言うには、


「このものは名をカーと云って、紅百合社(ヂャウガス)先駆け(ウトゥラヂュ)を務めた将軍です。ところが私に遭うや否や投降したんですよ」


 それを聞いたインジャは、困惑した様子で、


「ほう、紅百合社の……? しかしハトンに遭うや、すぐ降ったというのがよく解らぬ」


 アネクが何と説明したものか言い淀んでいると、見かねたミアルンが(アマン)を開いて、


「そのう、まったくもって不遜極まりなく、ご不興を買うであろうことを承知で申し上げます。このカーなるものは、その、何と言うか、ハトンの美貌(オンゲ)(セトゲル)を打たれて、たちまち得物を棄てたのでございます」


 居並ぶものは唖然として二の句が継げない。そこでミアルンは、あわてて言い直して、


いや(ブルウ)! ハトンの『()()』に、そう、威風に打たれたのでございます」


 しかしそれはやや遅きに失する。何よりカー自身が、ミアルンの訂正に(かぶ)せるようにそれを(くつがえ)して、


そうです(ヂェー)! ハトン様はまさに天女、俺はこの美しき(ゴア)方のためにこそはたらきたいと願ったのです! よもやハトンのごとき高貴(カトゥン)なご身分とは存じませんでしたが、初志に変わりはありません。何とぞ、何とぞ帰投をお許しいただきたく」


 ひと息に述べて幾度も叩頭する。そんな理由で陣営(トイ)を遷るなど、好漢(エレ)たちには理解しがたい。しかしどうやら正直(ツェゲン・セトゲル)真情(カダガトゥ)を吐露しているようでもある。


 居並ぶ諸将は、怒るべきか、笑うべきか、呆れるべきか、いずれとも決めかねて互いの顔色を窺う。(こと)にインジャがどんな反応をしているか気になる様子。


 そのインジャはといえば、なぜか気分を害した風もない。むしろこれをおもしろがる素振りすら見せて、尋ねて言うには、


「我がハトンはそんなに美しいか」


 カーは即座に答えて、


はい(ヂェー)!! (おそ)れながら、天下に(なら)ぶものはないかと存じます」


 そう言いつつ畏れる色もない。いよいよセイネンが(こら)えきれずに言うには、


「一国のハトンに恋慕するなど論外、ただの不敬ではすまされぬぞ!」


 カーはあわてて、


「恋慕!? とんでもない! 俺はハトン様の従卒……、いや(ブルウ)奴隷(ボオル)となってお仕えすることだけが望みです」


 諸将は俄かにざわめきはじめて、


「あれは恋するものと云うより、信者の(ともがら)だな」


 あるいは、


「その言、支離滅裂でまったく信用ならぬ。四頭豹が放った()()()()ではないか」


 またあるいは、


「たしかにわけはわからぬが、(クダル)を述べているようには見えぬ」


 などと互いに(ささや)きあう。インジャはそれを制するでもなく、苦笑を留めたまま黙考している。ちらとサノウを一瞥したが、気づかないふりをしたものか何の返答も得られない。


 と、そこへふらりと現れたものがあって言うには、


「おやおや、(ソオル)の最中というのにみなで集まって何をしておいでか。碧晴竜皇からの伝令として参りましたぞ」


 見れば奇人チルゲイが満面の笑みで立っている。途端にインジャは愁眉を開いて事の次第を告げれば、呵々大笑して、


「ほう、奇異なこともあるものですな。ですが、そういうことなら難しい(ヘツウ)話ではありません」


「そうなのか?」


「みなさんは肝心のことを忘れて(ウマルタヂュ)おりますぞ」


 居並ぶものは虚を衝かれる。そう言われても思いあたることがない。チルゲイは満座を眺め回すと、にやにやしながら言うには、


「先に決めたではありませんか。『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』(注1)、と」


 一瞬の間を措いて、座は喧騒に包まれる。半ばは激怒(デクデグゼン)し、半ばは大笑い。独り表情を変えずにいたサノウが尋ねて言うには、


「お前のことだから、ただふざけているわけではないのだろう」


「もちろん。このものは先に西原で我らを追撃しながら、白日鹿に()うや退いた。当時は純然たる敵人(ダイスンクン)であって、何の躊躇も要らなかったにもかかわらずだ。今またハトンたちに(まみ)えて、ただちに投降したのだから、その言動は実は一貫している。(ブスクイ)を斬らぬのも(ウネン)なら、ハトンに心服したのも真とするのが道理(ヨス)だ」


 これを聞いたカーは大喜び。先に殺さんとした相手が突如現れて、己のために弁護してくれたことに不思議な巡り合わせを感じずにはいられない。あのときミアルンと遇わなければ、きっと命令どおりチルゲイを(ほふ)っていただろう。となれば今日誰がカーを擁護してくれただろうか。


 まさしくテンゲリの定めた宿運(ヂヤー)は先には知りがたく、(チャク)を経て始めて腑に落ちるといったところ。異能の剣士がさらに真情を語れば、(テムル・)(タショウル)皇后(ハトン)はついに証験(注2)を欲することとなるわけだが、果たしてカーは何と言ったか。またアネクは何と答えたか。それは次回で。

(注1)【ハトンの容色を……】敵の奸謀による虚報を判別するべく戦前に定めた符牒。第一七九回③参照。


(注2)【証験】証拠となるしるし。あかし。

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