表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
草原演義  作者: 秋田大介
巻一三
727/785

第一八二回 ③

ハーミラ義君の後背に出でて(にわ)かに突入し

カー鉄鞭の艶美に(おどろ)いて(ただ)ちに下馬す

 戦場に撤退を報せる紅百合社(ヂャウガス)の指笛が鳴り響く。前線にあった殺人剣カーの(チフ)にももちろん届く。


「ふうむ、撤退か。うまくいかないもんだな」


 暢気に呟いて馬首を返そうとしたところに伝令が至って、ハーミラの命を伝える。すなわちジャライルを討った女将軍を(ほふ)れというもの。カーは憮然として黙りこむ。何となれば、彼の信条として「()()()()()」からである。


「吸血姫はいつも無理を言う」


 とはいえ、やむをえぬ。カーはその信条を紅百合社のものに明かしていない。先にミアルンによってチルゲイ殺害を断念したときも、叱責されたが言わなかった。


「さて、どうしたものかな」


 命令を遂行することはできない。するつもりもない。かといって聞かぬふりをして帰ることもままならぬ。今また徒手で帰ろうものなら、どんな罰を(こうむ)るか計り知れぬ。いっそすべてを(なげう)って逐電してしまおうかとも思ったが、行くところがあるわけでもない。


 何より始末に負えないことに、カーはその女将軍に言い知れぬ興味を抱いてしまった。なぜかは判らぬが、どうしてもひと目見ないことには帰りがたい。


「さて、どうしたものかな」


 再び呟く。カーは、先ほどから(アクタ)を止めて佇んでいる。言うまでもないが激戦の最中。ぼんやりしている彼を見て、幾人もの将兵が襲いかかる。


 しかしカーの(ウルドゥ)はまるで自ら意志(オロ)を持つかのごとく、近づくものを片端から斬り伏せる。カー自身は思索に没頭して、人を斬っていることにも気づいていないようであった。


「相変わらず恐ろしい(エルデム)ですね」


 不意に(ダウン)をかけるものがあり、カーは我に返る。眼前に見知った白皙(はくせき)の佳人があった。しかしその表情は硬く、やや距離をとってカーを正視している。


「おお、お前は東城にいた……」


はい(ヂェー)、ミアルンと申します」


「はあ、それがお前の名か。俺の名はカー」


 緊張の色もなく、酒席で挨拶するような調子で答える。そればかりか、笑みを浮かべて二、三歩ほど馬を寄せんとする。ミアルンははっと身を固くしたかと思うと、視線は外さず声だけを後方に向けて、


「ハトン! いました! このものこそ例の剣士です!」


 即座に答える声。


「ほう、そやつが。待っていろ、今この私が相手をしてやるからな」


 応じてカーは何げなくそちらを見遣る。そこにあったのはもちろんジョルチ部の誇る(テムル・)(タショウル)のアネク。ところがカーは、その姿形(ウヂェスグレン)を目にするや、


「あっ!!」


 ひと声挙げたきり、言葉(ウゲ)を失う。呆然として目瞬き(ヒルメス)すら忘れる。


「どうした、臆したか。聞くところによるとお前は(ブスクイ)は斬らぬとか。(ウネン)かどうか確かめてやるぞ」


 アネクは(ガル)にした得物を軽く振って、カーを睨みつけながらゆっくりと近づく。しかしカーは微動だにしない。剣もだらりと()げたまま。ひたすらアネクの(ヌル)を凝視している。アネクは柳眉を吊り上げると罵って言うには、


「何とか言ったらどうだい! 戦うつもりがないのなら、得物を棄てて降伏しな!」


 するとあろうことか、カーは次の瞬間、


はい(ヂェー)! 仰せのままに」


 言うや否や躊躇なく剣を手放し、いそいそと馬を下りる。そのまま(ひざまず)いて何と言ったかと云えば、


「お初にお目にかかります。カーと申します。今より貴女に我が生涯を捧げます」


 これにはアネクも驚くやら呆れるやら、傍ら(デルゲ)のミアルンに言うには、


「ええと、これはいったい何が起きてるんだい? 降れと言われて、まことに降る奴があるか」


「そうですねえ……」


 問われたところで困惑しているのはミアルンも同じである。カーは顔を上げると、やや早口で言い募って、


「おかしな奴だとお思いでしょうが、お聴きください。俺はこれまで貴女ほど美しい人を見たことがない。貴女が現世(イュルトゥンツ)の住人であるとは到底信じられません。きっとテンゲリにある天女の類。天女様に逆らうことなど、どうしてできましょう」


 言っていることはわけがわからぬが、戯言とも思えぬ口吻(こうふん)(注1)にアネクとミアルンは顔を見合わせる。いつの間にかその場にあって、黙って経緯(ヨス)を見ていたシャイカがふと言うには、


「そういえば妙ですね」


「何が?」


 アネクの問いに答えて、


「そこのカーさんは、紅百合社の人でしょう?」


 カーが嬉しそうに答えて、


そうです(ヂェー)。ファルタバンからはるばる来たのですよ」


 シャイカが小首を傾げて、


「なら、やっぱりおかしい」


「だから何が」


「どうして苦もなく会話できてるんです? 言語が異なるはずでしょう」


「あっ」


 今さらながらに気づいたアネクらは、かえってカーに胡乱(うろん)な目を向ける。カーはおおいにあわてて、


「俺はたしかにファルタバンの民ですが、(エケ)草原(ミノウル)出自(ウヂャウル)なもので、多少言葉が解るんです」


 それについては得心したが、この怪しげな男をどう扱うかについては容易(アマルハン)には決められない。彼女たちを害するつもりがないのは真だろうが、帰投を快諾するのは何となく躊躇(ためら)われる。ミアルンが(ようや)く言うには、


「ともかく本営(ゴル)に連れ帰って、ハーンや軍師の裁可を仰ぎましょう」

(注1)【口吻(こうふん)】口ぶり、言い方。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ