第一八二回 ③
ハーミラ義君の後背に出でて卒かに突入し
カー鉄鞭の艶美に愕いて径ちに下馬す
戦場に撤退を報せる紅百合社の指笛が鳴り響く。前線にあった殺人剣カーの耳にももちろん届く。
「ふうむ、撤退か。うまくいかないもんだな」
暢気に呟いて馬首を返そうとしたところに伝令が至って、ハーミラの命を伝える。すなわちジャライルを討った女将軍を屠れというもの。カーは憮然として黙りこむ。何となれば、彼の信条として「女は斬らぬ」からである。
「吸血姫はいつも無理を言う」
とはいえ、やむをえぬ。カーはその信条を紅百合社のものに明かしていない。先にミアルンによってチルゲイ殺害を断念したときも、叱責されたが言わなかった。
「さて、どうしたものかな」
命令を遂行することはできない。するつもりもない。かといって聞かぬふりをして帰ることもままならぬ。今また徒手で帰ろうものなら、どんな罰を被るか計り知れぬ。いっそすべてを擲って逐電してしまおうかとも思ったが、行くところがあるわけでもない。
何より始末に負えないことに、カーはその女将軍に言い知れぬ興味を抱いてしまった。なぜかは判らぬが、どうしてもひと目見ないことには帰りがたい。
「さて、どうしたものかな」
再び呟く。カーは、先ほどから馬を止めて佇んでいる。言うまでもないが激戦の最中。ぼんやりしている彼を見て、幾人もの将兵が襲いかかる。
しかしカーの剣はまるで自ら意志を持つかのごとく、近づくものを片端から斬り伏せる。カー自身は思索に没頭して、人を斬っていることにも気づいていないようであった。
「相変わらず恐ろしい腕ですね」
不意に声をかけるものがあり、カーは我に返る。眼前に見知った白皙の佳人があった。しかしその表情は硬く、やや距離をとってカーを正視している。
「おお、お前は東城にいた……」
「はい、ミアルンと申します」
「はあ、それがお前の名か。俺の名はカー」
緊張の色もなく、酒席で挨拶するような調子で答える。そればかりか、笑みを浮かべて二、三歩ほど馬を寄せんとする。ミアルンははっと身を固くしたかと思うと、視線は外さず声だけを後方に向けて、
「ハトン! いました! このものこそ例の剣士です!」
即座に答える声。
「ほう、そやつが。待っていろ、今この私が相手をしてやるからな」
応じてカーは何げなくそちらを見遣る。そこにあったのはもちろんジョルチ部の誇る鉄鞭のアネク。ところがカーは、その姿形を目にするや、
「あっ!!」
ひと声挙げたきり、言葉を失う。呆然として目瞬きすら忘れる。
「どうした、臆したか。聞くところによるとお前は女は斬らぬとか。真かどうか確かめてやるぞ」
アネクは手にした得物を軽く振って、カーを睨みつけながらゆっくりと近づく。しかしカーは微動だにしない。剣もだらりと提げたまま。ひたすらアネクの顔を凝視している。アネクは柳眉を吊り上げると罵って言うには、
「何とか言ったらどうだい! 戦うつもりがないのなら、得物を棄てて降伏しな!」
するとあろうことか、カーは次の瞬間、
「はい! 仰せのままに」
言うや否や躊躇なく剣を手放し、いそいそと馬を下りる。そのまま跪いて何と言ったかと云えば、
「お初にお目にかかります。カーと申します。今より貴女に我が生涯を捧げます」
これにはアネクも驚くやら呆れるやら、傍らのミアルンに言うには、
「ええと、これはいったい何が起きてるんだい? 降れと言われて、まことに降る奴があるか」
「そうですねえ……」
問われたところで困惑しているのはミアルンも同じである。カーは顔を上げると、やや早口で言い募って、
「おかしな奴だとお思いでしょうが、お聴きください。俺はこれまで貴女ほど美しい人を見たことがない。貴女が現世の住人であるとは到底信じられません。きっとテンゲリにある天女の類。天女様に逆らうことなど、どうしてできましょう」
言っていることはわけがわからぬが、戯言とも思えぬ口吻(注1)にアネクとミアルンは顔を見合わせる。いつの間にかその場にあって、黙って経緯を見ていたシャイカがふと言うには、
「そういえば妙ですね」
「何が?」
アネクの問いに答えて、
「そこのカーさんは、紅百合社の人でしょう?」
カーが嬉しそうに答えて、
「そうです。ファルタバンからはるばる来たのですよ」
シャイカが小首を傾げて、
「なら、やっぱりおかしい」
「だから何が」
「どうして苦もなく会話できてるんです? 言語が異なるはずでしょう」
「あっ」
今さらながらに気づいたアネクらは、かえってカーに胡乱な目を向ける。カーはおおいにあわてて、
「俺はたしかにファルタバンの民ですが、母が草原の出自なもので、多少言葉が解るんです」
それについては得心したが、この怪しげな男をどう扱うかについては容易には決められない。彼女たちを害するつもりがないのは真だろうが、帰投を快諾するのは何となく躊躇われる。ミアルンが漸く言うには、
「ともかく本営に連れ帰って、ハーンや軍師の裁可を仰ぎましょう」
(注1)【口吻】口ぶり、言い方。




