第一八〇回 ②
タクカ戦地を挙げれば尽く雪辱を期し
スブデイ帰投を偽るも却って反間と作す
そうして待ち構えているところにスブデイが現れる。本営に集うインジャをはじめ、百策花セイネンも鉄鞭アネクも飛生鼠ジュゾウも、果ては長旛竿タンヤンまで、面には出さぬが内心では、「ははあ、これが軍師の言った『反間とすべきもの』か」とて、じろじろと眺め回す。
その顔色は真っ青、視線は右顧左眄して一向に定まらぬ。細かく震えるのを拳を固く握って堪えている。何とか跪拝して挨拶に及ばんとしたが、口を開くなり声が裏返って、あわてて言い直す。
「お初に、……失礼しました。お初にお目にかかります。ス、ス、スブデイにございます。前非を悔いて、大ハーンのご寛恕に縋ろうと、こ、こうして参りました。四頭豹は、草原に仇なす姦悪の徒、あのような男の、あんな酷い奴の下には寸刻もいられず、それでハーンに縋るべく参りましたもので……」
話すうちに混乱したものか、語尾は曖昧に消え入らんばかり。額に汗の粒を浮かべながら、ただただ平伏する。インジャたちはおかしくてしかたなかったが、努めて謹厳な表情を作る。サノウがわざと言うには、
「スブデイ殿と云えば、かの僭帝ヒスワの従弟で、かつて神都で大元帥だったものではないか。先にハーンに弓を引いておきながら、何という厚顔。ハーンよ、このような無恥の輩は首を刎ねるべきです」
スブデイはおおいにあわてて、
「お待ちください! 私はかねてよりハーンを敬仰しており、弓を引く気など毛頭なく、常々従兄を諫めておりましたぞ! 四頭豹のもとにあったのも偶々……、そう、偶々です!」
汗を飛ばして、わけのわからぬ釈明をする。目の前にあるものが、神都で会ったあのアルビン(注1)とは気づきもしない。
「そ、それに、私は深く四頭豹を怨んでおります! お聞きになったか判りませぬが、彼奴は諸将の前で、私を酷く侮辱し、笑いものとしたのです。私はあのものを恕しませぬ。そこで、ハーンに彼奴の本心を伝えんとて、危険を冒して長躯してきたのです」
「本心?」
興味を惹かれたふりをしてインジャが問えば、
「はい、はい! 我が計策を用いれば、必ずや四頭豹を擒えることができますぞ!」
必死に言い募る。インジャは莞爾として言った。
「貴殿が辱められたことはすでに聞き及んでいる。まったく四頭豹は人を遇する術を知らぬと、密かに心を痛めていたところ。きっと怨み骨髄に達していよう。我らは仇敵を同じくする、言わば同志。喜んで耳を傾けようぞ」
スブデイはあからさまに安堵の色を浮かべる。居住まいを正すと、
「然らばお聴きくださいませ。四頭豹がもっとも恐れているのは、ハーンが大軍の利を活かして兵を東西に分け、援兵との間に楔を打つことでございます」
先ほどとは一転して、流れるがごとき弁口。さては与えられた筋書きを懸命に覚えて披露に及んでいるに違いないとて、居並ぶものは笑いを堪える。そんなこととは知らぬスブデイはますます得意げな様子で、
「そもそも兵法においては『倍すればこれを分かつ』と謂います。ハーンの兵はまさに四頭豹のそれに倍しておりますれば、存分に活用されるとよいでしょう」
インジャはほうと嘆声を漏らして見せると、
「貴殿が万巻の兵書に通じているとの噂はまことだったか。で、兵を分けてどうする?」
「はい。まず東に一軍を割いて光都を窺い、悪くともあの目障りな橋を焼き、好ければ都城を奪還なさるとよい。梁軍は増強されていると聞きましたが、ハーンの精兵に敵うものではありません」
さらに続けて、
「また西に良将を遣って亜喪神を阻みなされ。四頭豹は亜喪神との合流を切望しております。それが成らなければ勝算これなく、自縛してハーンの膝下に身を投げだし、命乞いするほかないとまで申しております」
いよいよ舌は滑らかに、
「そうして左右の翼を捥がれた上に、堂々ヴァルタラに兵を進められては、もはや手の打ちようがないとのこと。四頭豹は、ハーンがヴァルタラを縁起の悪い地と看做して道を更えてくれないかと願っています」
インジャは深く頷いて、
「なるほど、よく教えてくれた。きっと貴殿の策に順って兵を分け、私は親らヴァルタラを押さえよう。貴殿こそ稀代の名軍師。『籌を帷幄の中に運らし、勝を千里の外に決す』とはまさに貴殿のことだ」
セイネンもまたスブデイを褒めそやして、
「神都の戦では貴殿は奸人に疎まれて、兵権を与えられなかったとか。奸人が貴殿をもっと重んじていたら、我らの勝利も殆うかったことだろう」
またチルゲイが言うには、
「四頭豹の懼れる策を知ったからには、勝利は疑いありませぬ。早速勅命を下して、東西に兵を送りましょう。まったくスブデイ殿は天王様が遣わした神人に違いない!」
アネク・ハトンも嫣然と微笑みつつ、
「無事に四頭豹を破ることができたら、貴殿の功績が一等。ハーンはきっと重く用いてくださるでしょう」
だんだんスブデイもその気になってきて、胸を反らすと、
「何の、たいしたことではありませぬ。形勢を鑑みて当然のことを申したまで。栄達など望みません。ただ憎き四頭豹を滅ぼすことこそ我が願いであります」
得々として述べたものだから、居並ぶ好漢たちはまた吹きだしそうになる。ともかく酒食を供してこれをもてなすことになり、一丈姐カノンや、黒曜姫シャイカといった佳人が左右に侍ってあれこれと気遣う。スブデイは幸福のあまり、テンゲリにも昇る心地であった。
(注1)【あのアルビン】サノウは神都でアルビンと名乗って、密かにインジャのために暗躍していた。第一六二回④参照。スブデイとの会見については、第一五九回③参照。




