第一七七回 ③
チルゲイ祁んに兵法を引いて雄略を弁じ
カントゥカ忽ち叡裁を下して天命に沿う
チルゲイは一礼して、インジャをじっと見つめる。これに応えて呟くように言うには、
「春に中原で戦え、か……。なるほど、道理がある」
「ハーン、ひとつよろしいでしょうか」
ずっと黙って侍立していた小白圭シズハンが、初めて発言を求める。もちろん快く許されたので言うには、
「奇人殿にお尋ねします。総力を中原に集めるとは、東原の神箭将、西原の衛天王、そしてその将兵をもことごとく呼集するということでしょうか」
「然り。そうでなければ決戦とはなりえない」
シズハンは、なおも問う。
「そうすると、ナルモントとウリャンハタの牧地を守るものがなくなってしまいます。これを見た三色道人と亜喪神が軍を返さずに北上して、寇掠(注1)に及ぶということはありませんか」
「それはほぼない。何となれば、かの二人は四頭豹という脳の手足に過ぎぬ。手足は脳が死んだら、生きていられない。よって必ずこれを守るべく軍を返す。愚かなものなら眼前の小利に惑わされるかもしれぬが、仮にそうなればむしろ幸運というもの。我は集まり、彼は分かれた形勢なれば、順に撃てばよいだけの話」
インジャに向き直って言うには、
「今は東原と西原のことは考えなくてよろしいのです。そちらはあとでいかようにもなります。肝要なのは、敵を異族の援兵から引き離すこと。そしてそれをひと息に破ること。その形を成すために、あえて牧地を空にするのだとお考えください」
シズハンが再び口を開いて、
「いささか博奕めいた奇策のようです。ハーンの僚友はともかく、果たして西原の大カンが肯じるでしょうか……」
チルゲイは大仰に驚いて見せて言うには、
「おお、博奕などとんでもない! 算多きは必ず勝つ。私はもとより奇策などと思ってない。それに……」
「それに?」
問い返したインジャに、チルゲイは笑いかけて何と言ったかと云えば、
「まだ申し上げていないことがあります。実はこの策は、太師や獬豸軍師などと十分に諮った末に上奏に及んだもの。ハーンの僚友を差し置いて私が参ったのは、小白圭が言うとおり、我がカンが加わらなければ、この策は画餅に帰すからにほかなりません」
インジャはおおいに驚く。
「何と、すでに太師や軍師も了承していたか」
「はい。しかし我がカンは今のところ、ハーンの勅命に従うものではありません。そこで私が自ら西帰して道理を説いてきます」
「奇人殿のみならず、みなこの策を是としているのだな?」
「はい。何ならすぐにでもお確かめください。勅許が得られれば、すぐにもナルモントへ早馬が飛ぶでしょう」
インジャはしっかりと頷いて言うには、
「実に好い。雲が去って、青天を仰いだような気分だ。さすがは奇人殿。あなたはいつも私の憂いを解いてくださる」
「畏れ多いことでございます。私は常に駄弁を弄している愚物に過ぎません。僅かなりともハーンのお役に立てているならば、これ以上の喜びはありません」
「またまたご謙遜を。では西の大カンのこと、嘱みましたぞ」
「承知。神道子とも諮って、必ずやウリャンハタの精鋭を連れてまいります」
チルゲイは深々と拝礼する。そのまま小趨りに退出して、その日のうちに発った。雪花姫カコはそのまま留まったが、くどくどしい話は抜きにする。
急ぎ西原に戻ったチルゲイは、カントゥカのクリエンに直行する。まずは聖医アサン、潤治卿ヒラト、神道子ナユテと会って、密議を凝らす。この四名こそ部族の大略に与る中核とも云うべきものども。
チルゲイはおおいに弁じて、彼らに説く。ひとつには先にインジャに陳べた南征の方略。もうひとつは、インジャにも言わなかったウリャンハタの将来についての大胆な提言。
これを聞いたアサンたちはまずは驚き、言葉を失う。次いで憂色を浮かべて頭を抱える。チルゲイは彼らが沈思黙考を始めると、重ねて言うことなく、その思慮の赴くに委せた。多くを語らずとも、きっと同じ結論に至ると信じたからである。
やがてアサンが言った。
「囚われることなく瞰れば、唯一の方途かもしれません」
しかしヒラトが異を唱えて、
「大カンが何と言うかは想像もできぬが、麒麟児や小虎公が拒むだろうことは火を見るより明らか。結束こそが求められる今、あえて分断を招くようなことを言わなくてもよいのでは」
ナユテはと云えば、
「私は賛成する。もはや名に拘るときではない。我らは名誉とともに亡んでもよいが、残された人衆は塗炭の苦しみに呻吟せざるをえない」
ヒラトはなおも肯じるのを躊躇う様子。チルゲイが尋ねて言うには、
「何より潤治卿自身の心や如何?」
「……当面は最善の一手だろう」
それを聞くや呵々と笑って、
「ならば逡巡するな。批判や困難を怖れて好手を棄てるのは、名臣の為すことではない。自ら省みて正しければ、千万人といえども(注2)あえて往くべきだ」
アサンが諭すように言うには、
「潤治卿殿の憂慮も当然のこと。しかしここは往かねばなりますまい。ただ大カンの宸慮(注3)を確かめておくべきです。大カンが首肯しなければ、別の方策を考えましょう」
四人は互いに得心したので、うち揃ってオルドに伺候する。
(注1)【寇掠】他国に攻め入って、略奪すること。
(注2)【千万人といえども】反対するものが千万人あっても、という意味。
(注3)【宸慮】天子、皇帝の考え。




