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草原演義  作者: 秋田大介
巻一二
707/785

第一七七回 ③

チルゲイ(さか)んに兵法を引いて雄略を弁じ

カントゥカ(たちま)ち叡裁を下して天命に沿う

 チルゲイは一礼して、インジャをじっと見つめる。これに応えて呟くように言うには、


(ハバル)に中原で戦え、か……。なるほど、道理(ヨス)がある」


「ハーン、ひとつよろしいでしょうか」


 ずっと黙って侍立していた小白圭シズハンが、初めて発言を求める。もちろん快く許されたので言うには、


「奇人殿にお尋ねします。総力を中原に集めるとは、東原の神箭将(メルゲン)、西原の衛天王、そしてその将兵をもことごとく呼集するということでしょうか」


然り(ヂェー)。そうでなければ決戦とはなりえない」


 シズハンは、なおも問う。


「そうすると、ナルモントとウリャンハタの牧地(ヌントゥグ)を守るものがなくなってしまいます。これを見た三色道人と亜喪神が軍を返さずに北上して、寇掠(こうりゃく)(注1)に及ぶということはありませんか」


「それはほぼない。何となれば、かの二人は四頭豹という(タルヒ)の手足に過ぎぬ。手足は脳が死んだら、生きていられない。よって必ずこれを守るべく軍を返す。愚かなものなら眼前の小利に惑わされるかもしれぬが、仮にそうなればむしろ幸運というもの。我は集まり、彼は分かれた形勢なれば、順に撃てばよいだけの話」


 インジャに向き直って言うには、


「今は東原と西原のことは考えなくてよろしいのです。そちらはあとでいかようにもなります。肝要なのは、(ブルガ)異族(カリ)の援兵から引き離すこと。そしてそれをひと息に破ること。その形を成すために、あえて牧地を空にするのだとお考えください」


 シズハンが再び(アマン)を開いて、


「いささか博奕めいた奇策のようです。ハーンの僚友(ネケル)はともかく、果たして西原の大カンが(がえん)じるでしょうか……」


 チルゲイは大仰に驚いて見せて言うには、


「おお、博奕などとんでもない! 算多きは必ず勝つ。私はもとより奇策などと思ってない。それに……」


「それに?」


 問い返したインジャに、チルゲイは笑いかけて何と言ったかと云えば、


「まだ申し上げていないことがあります。実はこの策は、太師や獬豸(かいち)軍師などと十分に(はか)った末に上奏に及んだもの。ハーンの僚友を差し置いて私が参ったのは、小白圭が言うとおり、我がカンが加わらなければ、この策は画餅(がべい)に帰すからにほかなりません」


 インジャはおおいに驚く。


「何と、すでに太師や軍師も了承していたか」


はい(ヂェー)。しかし我がカンは今のところ、ハーンの勅命(ヂャルリク)に従うものではありません。そこで私が自ら西帰して道理を説いてきます」


「奇人殿のみならず、みなこの策を(サイン)としているのだな?」


はい(ヂェー)。何ならすぐにでもお確かめください。勅許が得られれば、すぐにもナルモントへ早馬(グユクチ)が飛ぶでしょう」


 インジャはしっかりと頷いて言うには、


「実に好い。(エウレン)が去って、青天を仰いだような気分だ。さすがは奇人殿。あなたはいつも私の憂いを解いてくださる」


「畏れ多いことでございます。私は常に駄弁を弄している愚物(アルビン)に過ぎません。僅かなりともハーンのお役に立てているならば、これ以上の喜び(ヂルガラン)はありません」


「またまたご謙遜を。では西(バラウン)の大カンのこと、(たの)みましたぞ」


承知(ヂェー)。神道子とも(はか)って、必ずやウリャンハタの精鋭を連れてまいります」


 チルゲイは深々と拝礼する。そのまま小趨(こばし)りに退出して、その(ウドゥル)のうちに発った。雪花姫(ツァサン・ツェツェク)カコはそのまま留まったが、くどくどしい話は抜きにする。




 急ぎ西原に戻ったチルゲイは、カントゥカのクリエンに直行する。まずは(ボグド・)(エムチ)アサン、潤治卿ヒラト、神道子ナユテと会って、密議を凝らす。この四名こそ部族(ヤスタン)の大略に(あずか)中核(ヂュルケン)とも云うべきものども。


 チルゲイはおおいに弁じて、彼らに説く。ひとつには先にインジャに()べた南征の方略。もうひとつは、インジャにも言わなかったウリャンハタの将来についての大胆な提言。


 これを聞いたアサンたちはまずは驚き、言葉(ウゲ)を失う。次いで憂色を浮かべて(テリウ)を抱える。チルゲイは彼らが沈思黙考を始めると、重ねて言うことなく、その思慮の赴くに(まか)せた。多くを語らずとも、きっと同じ結論に至ると信じたからである。


 やがてアサンが言った。


「囚われることなく()れば、唯一(ガグチャ)の方途かもしれません」


 しかしヒラトが異を唱えて、


「大カンが何と言うかは想像もできぬが、麒麟児や小虎公が(こば)むだろうことは(ガル)を見るより明らか。結束(ヂャンギ)こそが求められる今、あえて分断を招くようなことを言わなくてもよいのでは」


 ナユテはと云えば、


「私は賛成する。もはや名に(こだわ)るときではない。我らは名誉(フンドゥ)とともに(ほろ)んでもよいが、残された人衆(ウルス)は塗炭の苦しみ(ガスラン)に呻吟せざるをえない」


 ヒラトはなおも(がえん)じるのを躊躇(ためら)う様子。チルゲイが尋ねて言うには、


「何より潤治卿自身の(オロ)如何(いかん)?」


「……当面は最善の一手だろう」


 それを聞くや呵々と笑って、


「ならば逡巡するな。批判や困難を怖れて好手を棄てるのは、名臣の為すことではない。自ら省みて正しければ、千万人といえども(注2)あえて往くべきだ」


 アサンが(さと)すように言うには、


「潤治卿殿の憂慮も当然のこと。しかしここは往かねばなりますまい。ただ大カンの宸慮(しんりょ)(注3)を確かめておくべきです。大カンが首肯しなければ、別の方策を考えましょう」


 四人は互いに得心したので、うち揃ってオルドに伺候する。

(注1)【寇掠(こうりゃく)】他国に攻め入って、略奪すること。


(注2)【千万人といえども】反対するものが千万人あっても、という意味。


(注3)【宸慮(しんりょ)】天子、皇帝の考え。

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