第一七六回 ④
カントゥカ死地を逃れて紅火将と合し
ミアルン東城を棄てて殺人剣と競う
白刃を閃かせつつチルゲイに迫るカー。その異名たる殺人剣が示すとおり、手にした剣がまるで意思を持つかのごとく自在に走って、確実に敵騎を屠っていく。
チルゲイも漸く異状に気づく。周囲にはカコ、ヤザムという二人の賢婦人と、ササカ、ミアルンという両個の女丈夫がある。ちらりと顧みて、
「おいおい、危ない奴が追ってきているぞ」
もちろん武勇に優れたササカとミアルンはすでに察している。ミアルンが硬い表情で言うには、
「蒼鷹娘殿は、みなを護ってください。私が留まって時を稼ぎましょう」
ササカは勃然として柳眉倒豎(注1)するや、
「何を言ってるの、あれは尋常のものじゃない。一人では危険だわ」
「しかしそれではこの先、雪花姫殿たちを護るものがなくなります。心配は要りません。決して命は粗末にいたしません」
ササカは、先にミアルンがヤムルノイの無謀を諫めたことを思い出して、
「承知した。待ってるよ、必ず生きて追いつくんだよ」
そこで別れて、ササカはチルゲイたちの後背を護って進み、ミアルンは独り馬首を返す。見れば敵影は指呼の間に迫る。剣を掲げると、馬腹を蹴って立ち向かう。
カーはと云えば、まっすぐに近づくミアルンを一瞥して、ふふんと笑うと、
「少しはできるようだが、俺には勝てぬ」
余裕綽々、得物を握り直して相対する。そこへミアルンがものも言わずに斬りかかれば、笑みを浮かべたまま身を躱す。続く二撃、三撃も巧みに避ける。
「なかなか鋭い。だが人を殺めるには、正直に過ぎる」
ミアルンは一瞬、虚を衝かれる。すかさずカーの右手が翻る。
「きゃああっ!」
悲鳴を挙げつつ自然と手が動けば、辛くも頸筋への斬撃を弾き返す。はっとして身構えたが、次の攻撃が来ない。
訝しんで見遣れば、なぜかカーは呆然自失の体で佇立している。なおも怠りなく構えていると、カーが言うには、
「お、お前……。女か……?」
「だとしたら何です!?」
カーは困惑した様子で右顧左眄(注2)していたが、やがてふうと息を吐いて、
「……行け! 俺は女は斬らぬ」
「えっ?」
「行け、と言ったんだ。迅く失せろ!」
言い捨てると馬首を廻らして遠ざかる。ミアルンはわけがわからずにいたが、言うまでもなくここは戦場、ゆっくりと考えている暇もない。あわてて僚友のあとを追ったが、くどくどしい話は抜きにする。
イシを去ること数十里。漸く逃れて、馬を休める。敗兵を収容すればおよそ五千騎。いくら敵が、兵法に謂う「帰師は遏むるなかれ(注3)」を踏まえて退路を譲ってくれたとしても、やはり損耗は免れない。
カトメイが言うには、
「半数も助かったのだ、善しとせねばなるまい。早く大カンに合流しよう」
しかしチルゲイが異を唱える。言うには、
「焦ってはならない。一旦、中原に渡って迂回するべきだ。いわゆる『塗に由らざるところあり(注4)』さ」
ヤムルノイが憤然と反駁して、
「今は一刻も早く馳せ参じるべきだ。もたもたしているうちに雪で動けなくなったらどうする」
ヤザムがおずおずと間に入って、
「よろしいでしょうか。畏れながら奇人殿は、亜喪神の襲撃を懸念しているものと拝察します。きっと途上にて待ち構えているに相違ありません」
チルゲイは雀躍して、
「さすがは素蟾魄! そういうわけだ。雪花姫はどうだ?」
間髪入れずに答えて、
「奇人殿に順うべきです。それから大カンと義君に早馬を。大カンにはイシの失陥と我らの無事を伝えなければいけません。また義君には、版図を侵す許しと、もしものときの助力を請いましょう」
みな得心したので、即日出立して東を指す。これが功を奏したか、敵に遭うことなくメンドゥ河を渡る。さらに河岸を離れてしばらく進んでから、やっと道を更える。
幾日か経ったところで、癲叫子ドクトと雷霆子オノチが率いる二千騎に出合う。これは早馬を得たインジャが援護のために派遣したもの。
一同はおおいに喜ぶ。チルゲイとカコは返礼などのため、西原には帰らずインジャのオルドに寄ることにした。余のものは道中何ごともなくカントゥカの冬営に至ることができたが、この話もここまで。
カトメイを逐ったハーミラと紅百合社の一党は、西域軍を率いてイシへの入城を果たす。三日間の略奪を許したので、城内には怨嗟の声が満ちたが、気にする風もない。人衆を使役して、城壁などを繕い、また紅火砲を壁上に設置する。
ハーミラは内廷を収めると、城主然として高き座を占める。麾下を四門に配し、もともとあった役人を追放して色目人ばかりで固める。一朝にしてイシは碧眼紅毛の徒の都と化す。
かくして衛天王はついに双城を失ったが、これはさながら四肢を捥がれたようなもの。手も足も出ぬまま冬となり、ますます逼塞を余儀なくされてしまった。
冬はもとより雪害こそ恐るべきなれど、よもやそれをも凌駕する害毒に冒されようとは、誰が予測できたであろうか。果たして、好漢たちはいかにして再起を図るか。それは次回で。
(注1)【柳眉倒豎】容姿の美しい女性が眉を吊り上げて怒るさま。
(注2)【右顧左眄】右を見たり左を見たりして、決断できずに迷うこと。
(注3)【帰師は遏むるなかれ】帰ろうとしている敵軍を無理に留めて戦ってはならない、という意味。
(注4)【塗に由らざるところあり】道には通ってはいけないものもある、という意味。




