第五 九回 ②
赤心王ヂャサを制定して民人に遵わせ
義武君ハトンを冊立して兄弟を驚かす
さて、サノウらは次なる企画の準備に追われていた。何かといえばジョルチン・ハーンの即位式と、部族の祭典ナーダムの復活である。
ナーダムについては数少ない古老を訪ねて、いろいろと教えを請えばよかったが、即位式に関してはひとつ憂慮すべきことがあった。それを解くべく、サノウはハツチをしてインジャのオルドを訪ねさせた。
「おお、美髯公」
インジャは陽気に声をかける。ハツチは深々と拝礼して言った。
「非礼を承知で伺いたいことがあるのですが」
「何だ。何でも聞くがよい」
それでもしばし言い淀んでいたが、やがて言うには、
「その前に人をお退けください」
首を捻りながらも側使いを下がらせると、ハツチに近く寄るよう命じた。応じて小趨りに進み出ると声をひそめて、
「夏に即位式が予定されております。……ところが、そのう、ひとつ困ったことがありまして」
インジャは何ごとかと眉間に皺を寄せた。ハツチは目を伏せたまま言うには、
「はあ、まあ、何です。たいしたことではない、いや、そんなことはないのですが、その、即位式に欠かせぬもので、まだないものがあるのです。それをハーンにお聞きしようと……」
「何だ、歯切れの悪い。美髯公らしくないではないか」
呆れ顔で言えば、ハツチは幾度か咳払いをして漸く意を決する。顔を上げて大声で言うには、
「こ、古来、ハーンがあって皇后なき国家はありません! 然るにハーンにおかれましてはこれまで、そのう、意のあるところをお示しになっておりませんから、我々としてはいささか困っておるわけでして」
それを聞くとおおいに笑って、
「美髯公、人を退けたはいいが、そんな声を出しては意味がないだろう。要するにハトンをどうするつもりかと問いたいのであろう」
ハツチは再び目を伏せて、小さく「そうです」と答える。インジャは腹を抱えて笑うと、
「今さら声を落としても遅いわ! 実はその件については、近ごろ心配してくれるものが多いのだ。あちこちからやってきては、何々氏の某という娘は賢くて器量が好くて、まったくハトンに相応しき娘です、などと来るわけだ。ところがよくよく聞けば、そのものの縁者だったりするから質が悪い。ハーンになった途端に縁談にだけは困らなくなった」
また呵々大笑してハツチの反応を窺う。謹厳なハツチは眉を顰めて、
「まさかそのような話をお受けになったりはしないでしょうな」
「ははは、まさか。君はどう思う? 何か思うところがあるか」
「はあ、とにかくハトンともなればさまざまなものが縁者を推薦してくるでしょうが、結婚は同盟の手段のひとつでもありますれば、迂闊に選んではいけません。側室ならともかく一国のハトンです。慎重に、然るべき家からこれを迎えねばなりません」
「例えば?」
「ジョルチ部でいえば、やはりベルダイ氏でしょう。外に求めるのであればタロト部かマシゲル部がよろしいでしょう。今後、外敵と争うときに、その両者と結んでおけば必ず利があります。内外どちらにせよ家格は高いほうがよく、できればその親族に権門への欲がないことが望ましいでしょう」
インジャは興味深く耳を傾けていたが、やがて言うには、
「なるほど、結婚とは同盟の手段か。言われてみればそのとおりだ。私はてっきり惚れた娘を立てればよいと思っていたが、いろいろと難しいものなのだな」
ハツチは虚を衝かれて顔を上げると、
「ほ、惚れた!? いえ、あの、失礼しました。インジャ様には、いや、ハーンにはすでに惚れた、いえ、ええと、意中の方がおありでしたか」
「あってはいけないか」
「いえ! そのようなことはありませんが、い、いつの間に、いや、これは失礼を……」
動揺するハツチをおもしろそうに眺めていたインジャは、
「難しく考えずに決めたが、君らが心配することはない」
「と申しますと?」
「先に君が挙げた条件、偶々だがすべて合致している」
「はあ……」
「さらに言えば、容姿はハトンたるに相応しき美しさ。頬に光あり、目に炎ある、聡明にしてかつ雄心ある娘だ」
そう嘯いて顔を覗き込めば、ハツチは頭を掻きつつ、
「いやはや、これは参りましたな……。ハーン、いったいそのような娘をどこで……、あっとこれは立ち入ったことを……!」
あわてて口を噤む。これに笑いかけて言うには、
「ははは、もっと近く寄れ。立皇后の日まで秘しておくつもりだったが、特にその名を教えてやろう」
その耳にある一人の娘の名を囁けば、あまりに意外だったので思わずハツチは叫んで、
「ま、まさかそのような話になっているとは知りませんでした!」
「反対か」
「いえ、とんでもない!! ……しかし驚きました」
「そうか。ともかくこれは当人はもちろん、その実家もすでに了解していることだ。案ずることはない」
「はあ、しかし軍師あたりが何と言うか……。みな驚くでしょうなあ」
「このことは君のほかにはナオルら数名しか知らぬ。まあ、秘しておけ。しばらくは周りがうるさく言うのに委せておこう」
インジャは片目を瞑ってみせると高らかに笑ったが、この話はここまでにする。ハトンが誰になるか、それはいずれ判ること。




