第五 七回 ② <ノイエン登場>
サノウ友邦を探りて漸く疑心を募らせ
アネク美声を顕して以て剣舞に和す
このことはベルダイの中でも一部のものが気づいて、おおいに憂えていた。一士があり、名をノイエンと云う。その人となりはといえば、
身の丈九尺、胴は大木のごとく、腕は棍棒のごとく、剛力は能く虎を素手で殺し、槍棒は能く敵を瞬時に葬る豪傑なるも、心性は学を好み、仁人の気風ある真の好漢。
彼は長く痛風を患っていたため、武勇を示す機会に恵まれぬまま統一の日を迎えてしまったが、やっと病も癒えたので、来たるべき時代にはおおいにはたらこうと志を養っていた。
ノイエンはある日、ゲルで密かに語り合う老人たちの言葉を耳にした。足を留めて、そっと聞き耳を立てれば、
「……よもやフドウに屈するときが来るとは思わなんだ」
「いかにも。ハーンはトシ・チノのほかにはおるまいと思っていたが」
「ジョルチも堕ちたものよ。これではいつになっても亡族の謗りを免れまい」
「インジャなどはかつて我らの前に膝を屈し、トシ様の同盟の誘いすら畏れ多くて断らざるをえなかったではないか」
「トシ様は悔しくないのか。ハーン家の誇りを失ったか……」
ノイエンは聞けば聞くほど不快を募らせていたが、ついに抑えきれなくなったのでつかつかとゲルに踏み入ると、老人たちを面罵して声を荒らげた。
「やっと念願の統一が成り、いよいよ草原に大義を行おうというときに何ということを! いったい今日あるは誰のおかげと思っているのです。ジュレンに追われた我らを快く迎えてくれた恩を忘れたのですか! さらにはトシ様をも中傷するとは、みなさまは恥を知らないのですか!?」
不意に現れたノイエンに気圧されて、老人たちは声も出ない。そもそも彼はジョルチでも類を見ない巨漢であったから、逆らいうる相手ではない。それでも一人が何とか言うには、
「め、目上のものに対して何たる言い種じゃ。無礼ではないか」
これをきっと睨みつけると、
「徳ある人を侮蔑するのは、テンゲリに対して礼を欠くのではありませんか」
そう言い捨てるとゲルを飛び出す。憤然と歩を進めると、トシのゲルへ直行する。周辺には無論衛兵が配されていたが、ノイエンは目に入らぬかのごとく無遠慮に進んでいく。衛兵はあわててこれを押し止めようとしたが、
「退け、氏族の大事だ!」
軽く押し退けて、ずかずかと中へ入る。側近と歓談していたトシは、巨漢の闖入に驚いてあっと声を挙げる。それが旧知のものと知って安心すると、
「何だ、ノイエンではないか。血相を変えてどうした?」
巨体を縮めて揖拝すると、
「お騒がせして申し訳ありません。重大事にございます。お人払いを」
ただならぬ気配にトシも顔つきを改める。
「何ごとだ。お前がそんなにあわてているのも珍しい」
「お人払いを」
トシは頷くと、側近を退かせる。手招きして言うには、
「もっと寄れ。話しにくいことなのだろう」
応じてノイエンはぐっと膝を進めると、声をひそめて言った。
「アイルに不逞の輩がはびこっております」
トシの顔にさっと暗い翳が過る。
「何と言った?」
「部族の和を乱す輩がおります。私は偶々発見したのですが、実際はそれだけに止まらないものと思われます」
「待て。和を乱すとはどういうことだ」
「……インジャ様の即位に不満を持つ連中がいるようです」
「何だと!?」
その眼に驚愕の色が浮かぶ。ノイエンは自身が見てきた一部始終を話すと、
「義を知らぬ小人が陰で不平を鳴らしているだけのことですが、ことがことだけに気になります。早急に手を打ちませぬと何かが起こらぬとも」
「待て、待て。寄り合って愚痴を零しているだけではないのか。迂闊に騒ぐと、影に体を与えることになろう。それに、どれだけのものがそう思っているのか判らぬではないか」
ノイエンは押し黙ってじっとトシの顔を見ていたが、やがて言うには、
「族長、もしや……」
トシは、はっとして首を振ると、
「まさか! かりにもわしは自ら義をもって任ずるもの、妄言に惑いはせぬ」
「申し訳ありません。邪推いたしました」
伏して詫びると、再び憂え顔を上げて言った。
「族長の意を示さねば不義は横行し、それに賛同するものも現れましょう」
トシは難しい顔で黙り込む。それに重ねて言うには、
「私は一介の羊飼いゆえ、氏族の大事にもただ憂えるばかり、ただ族長の命令に従うのみです」
ノイエンは立ち上がって拱手すると、その場を辞そうとした。
「待て」
それを呼び止めて言うには、
「よく報告してくれた。だがしばらくこのことは捨ておけ。わしが然るべき手段を講じよう。早まったことはするな」
「承知」
トシはすっかり鬱ぎ込んでしまったが、この話はここまでにする。




