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草原演義  作者: 秋田大介
巻四
226/785

第五 七回 ② <ノイエン登場>

サノウ友邦を探りて(ようや)く疑心を募らせ

アネク美声を(あらわ)して(もっ)て剣舞に和す

 このことはベルダイの中でも一部のものが気づいて、おおいに憂えていた。一士があり、名をノイエンと云う。その人となりはといえば、


 身の丈九尺、胴は大木(ネウレ)のごとく、腕は棍棒のごとく、剛力(クチュトゥ)()(カブラン)を素手で殺し、槍棒は()(ブルガ)瞬時(トゥルバス)に葬る豪傑なるも、心性(チナル)は学を好み、仁人の気風ある真の好漢(エレ)


 彼は長く痛風を患っていたため、武勇を示す機会(チャク)に恵まれぬまま統一の(ウドゥル)を迎えてしまったが、やっと病も癒えたので、来たるべき時代にはおおいにはたらこうと(オロ)を養っていた。


 ノイエンはある日、ゲルで密かに語り合う老人(ウブグン)たちの言葉(ウゲ)(チフ)にした。(フル)を留めて、そっと聞き耳を立てれば、


「……よもやフドウに屈するときが来るとは思わなんだ」


いかにも(ヂェー)。ハーンはトシ・チノのほかにはおるまいと思っていたが」


「ジョルチも堕ちたものよ。これではいつになっても亡族の(そし)りを(まぬが)れまい」


「インジャなどはかつて我らの前に膝を屈し、トシ様の同盟の誘いすら畏れ多くて断らざるをえなかったではないか」


「トシ様は悔しくないのか。ハーン家の誇りを失ったか……」


 ノイエンは聞けば聞くほど不快を募らせていたが、ついに抑えきれなくなったのでつかつかとゲルに踏み入ると、老人たちを面罵して(ダウン)を荒らげた。


「やっと念願の統一が成り、いよいよ草原(ミノウル)に大義を行おうというときに何ということを! いったい今日あるは誰のおかげと思っているのです。ジュレンに追われた我らを快く迎えてくれた恩を忘れた(ウマルタヂュ)のですか! さらにはトシ様をも中傷するとは、みなさまは恥を知らないのですか!?」


 不意に現れたノイエンに気圧(けお)されて、老人たちは声も出ない。そもそも彼はジョルチでも類を見ない巨漢(アヴラガ)であったから、逆らいうる相手ではない。それでも一人が何とか言うには、


「め、目上のものに対して何たる言い(ぐさ)じゃ。無礼(ヨスグイ)ではないか」


 これをきっと睨みつけると、


「徳ある人を侮蔑するのは、テンゲリに対して礼を欠くのではありませんか」


 そう言い捨てるとゲルを飛び出す。憤然と歩を進めると、トシのゲルへ直行する。周辺には無論衛兵(ケプテウル)が配されていたが、ノイエンは(ニドゥ)に入らぬかのごとく無遠慮に進んでいく。衛兵はあわててこれを押し止めようとしたが、


退()け、氏族(オノル)の大事だ!」


 軽く押し退()けて、ずかずかと中へ入る。側近(コトチン)と歓談していたトシは、巨漢の闖入に驚いてあっと声を挙げる。それが旧知のものと知って安心すると、


「何だ、ノイエンではないか。血相を変えてどうした?」


 巨体を縮めて揖拝(ゆうはい)すると、


「お騒がせして申し訳ありません。重大事にございます。お人払いを」


 ただならぬ気配にトシも顔つきを改める。


「何ごとだ。お前がそんなにあわてているのも珍しい」


「お人払いを」


 トシは頷くと、側近を退かせる。手招きして言うには、


「もっと寄れ。話しにくいことなのだろう」


 応じてノイエンはぐっと膝を進めると、声をひそめて言った。


「アイルに不逞の輩がはびこっております」


 トシの(ヌル)にさっと暗い(かげ)(よぎ)る。


「何と言った?」


部族(ヤスタン)(エイエ)を乱す輩がおります。私は偶々(たまたま)発見したのですが、実際はそれだけに止まらないものと思われます」


「待て。和を乱すとはどういうことだ」


「……インジャ様の即位に不満を持つ連中がいるようです」


「何だと!?」


 その眼に驚愕の色が浮かぶ。ノイエンは自身が見てきた一部始終を話すと、


「義を知らぬ小人が(エチネ)で不平を鳴らしているだけのことですが、ことがことだけに気になります。早急に手を打ちませぬと何かが起こらぬとも」


「待て、待て。寄り合って愚痴を(こぼ)しているだけではないのか。迂闊に騒ぐと、(セウデル)(ビイ)を与えることになろう。それに、どれだけのものがそう思っているのか判らぬではないか」


 ノイエンは押し黙ってじっとトシの顔を見ていたが、やがて言うには、


族長(ノヤン)、もしや……」


 トシは、はっとして首を振ると、


「まさか! かりにもわしは自ら義をもって任ずるもの、妄言に惑いはせぬ」


「申し訳ありません。邪推いたしました」


 伏して詫びると、再び憂え顔を上げて言った。


族長(ノヤン)(オロ)を示さねば不義は横行し、それに賛同するものも現れましょう」


 トシは難しい顔で黙り込む。それに重ねて言うには、


「私は一介の羊飼い(ホニチド)ゆえ、氏族(オノル)の大事にもただ憂えるばかり、ただ族長(ノヤン)命令(カラ)に従うのみです」


 ノイエンは立ち上がって拱手すると、その場を辞そうとした。


「待て」


 それを呼び止めて言うには、


「よく報告してくれた。だがしばらくこのことは捨ておけ。わしが然るべき手段を講じよう。早まったことはするな」


承知(ヂェー)


 トシはすっかり(ふさ)ぎ込んでしまったが、この話はここまでにする。

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