第五 六回 ④ <テヨナ登場>
ドルベン義君の影を射て闇中に消え
インジャ侍女の言に覚りて妻妾を恕す
インジャは眉を顰めて、
「しかし、幼子ではないか」
「非礼を承知で申し上げますが、かのサルカキタン・ベクはインジャ様を残したがゆえに斃れたのです。いかな幼子とはいえ、禍の種を蒔いてはなりません」
強く断言する。インジャは困惑した顔で言い淀む。すると、
「お待ちください! 義君とは、そうしたものでしょうか!」
卒かに高い声が挙がった。インジャははっとして声の主を探す。見れば、ボドンチャルの背後に控えていた一人の女が、きっと顔を上げて睨んでいる。
「女、無礼だぞ!」
コヤンサンが拏みかかろうとするのを制して、その女を観れば、
年のころは二十歳を超えたばかり、浅黒い肌に漆黒の髪、瞳は巨きく央心に光を宿し、鼻は長く通り、唇は固く結ばれ、手足は小さきも、大なる仁人の心性を持した一個の女丈夫。
インジャは思わず居住まいを正して尋ねた。
「貴女の名は?」
女は膝を折って拝礼すると、面を伏せて言うには、
「失礼いたしました。私は奥方様の侍女で、テヨナと申します」
「先の言葉の真意を問いたい」
「僭越ながらお答えいたします。インジャ様は仁義に富んだまことに尊い方と聞いておりましたが、先ほどは軍師様の不仁極まる愚言に心を動かされようとしていたように見えました。そもそも戦は男の方々が始めたもので、婦女子には何の関わりもないはず。戦には加われず、それでいてその勝敗によって命運を左右するというのは、いささか理に合いません」
そこで顔を上げて、インジャをその巨きな眼で正視しつつ、さらに言うには、
「それに幼子は自ら選んで敗家に生を享けたわけではありません。いったい何の罪をもってその貴い命を奪おうというのでしょう。とても仁義の君が行うこととは思われません。古の聖王は大罪人を処断するときですら哭し嘆いたと謂います。ましてや科を負ったものの家族まで罰することなどあったでしょうか。罪の意味も知らぬ幼子の命まで奪うことなどあったでしょうか。それこそテンゲリを恐れぬ傲慢なふるまいとは言えないでしょうか。ゆえに私は義君とはそうしたものか、とお尋ねしたのです」
「ううむ」
インジャは唸るばかり。テヨナはさらに続けて、
「そもそもサルカキタン・ベクは、我欲から人を殺し、その財を奪い、暴虐非道を恣にしました。ゆえにインジャ様に誅されたのです。もしサルカキタンが仁義を専らにし、大義のために一家を亡ぼしたとしたらどうでしょう。亡家の子弟がいかに力を尽くそうとも、テンゲリがそれを許しません。これをもってこれを覩れば、サルカキタンは決して復讐されたのではなく、テンゲリに滅ぼされたのです。戦に勝ってその子弟をも惨殺するのは、テンゲリに愧じるところのあるものです。ゆえに義君とはそうしたものか、とお尋ねしたのです」
テヨナは深々と拝礼して地に伏した。インジャをはじめ居並ぶ好漢は声もない。漸くインジャが言った。
「然り。教えられたぞ。あわや勝利に驕り、テンゲリに罪を得るところであった。ウルゲンの妻子は放免いたす。軍師、それで善かろう」
「愚見を陳べて、義君の名に傷を付けました。この罪、万死に価します」
「軍師の謝ることではない。テヨナが我らに理を教えてくれたのだ」
テヨナは額を地に付けたまま、
「いえ、身分をわきまえず暴言を吐きました。いかようにもご処断ください」
するとインジャはあわてて駈け寄ってこれを助け起こした。好漢たちは唖然とする。当のテヨナも驚いて目を瞠る。インジャが言うには、
「貴女は仁の理をよく解っている。大志をともにしていただけないだろうか」
これにはおおいにあわてて、
「何をおっしゃいます! 先の暴言で死罪に問われてもやむをえない身です。みなさまの末席を汚すなど思いも寄りません」
「いや、誰も気づかなかった理に貴女は気づかれた。今、我々は人材を求めています。貴女のような方が必要です」
そこへもとは同じ氏族のナオルが進み出て言うには、
「テヨナ、君が幼少より聡明であることは、ジョンシでは知らぬものはない。久しく名を聞かないので案じていたが、よもやウルゲンのもとにあったとは知らなかった。ジョンシ氏は今日をもってひとつになったのだ。ともに部族のためにはたらいてくれないか」
これを見て一同得心したので、テヨナは晴れて末席に連なることになった。
以後、インジャとその黄金の僚友は、敵を討っても女や子どもを殺すことはなくなった。すべてテヨナの進言の賜物である。草原の戦では他家を亡ぼせば、その血をことごとく絶やすのが常であったから、大きな変化である。
四頭豹ドルベン・トルゲは、内外を探索したが杳として行方は知れなかった。好漢たちがおおいに悔しがったのは言うまでもない。
インジャは論功行賞はひとまず措き、二、三日逗留したあとで、マタージとゴルタをタムヤの防衛と復興のために残して山塞に引き上げることにした。チルゲイらも平然とこの列に加わる。
エジシをはじめタムヤの長老たちは、これを城外まで見送った。
メルヒル・ブカへはジュゾウが勝利を伝えるべく走った。タンヤンは父クウイの墓を作るために残った。
道中は格別のこともなく山塞に到着した。留守の好漢たちが麓まで下りて、これを出迎える。負傷して戻っていたシャジ、ドクト、タアバもすでに恢復していた。
みな再会を祝して大喜び。インジャは軍装を解くと、母ムウチに戦勝を報告した。また諸将を集めて改めてテヨナを紹介すると、盛大な宴を開いた。
翌日にはトシ・チノら連丘を抑えていた諸将が帰還したので、また宴となった。これはタンヤンが戻ってくるまで幾日にも亘って続き、みな勝利の美酒に酔った。
宴が一段落したところでやっと論功行賞となる。第一の功はナオルであった。以下、コヤンサン、ジュゾウ、オノチなど諸将もれなく賞され、チルゲイら客人にも厚く礼がなされた。
こうして山塞軍は当面の敵をすべて葬ったわけであるが、これによりインジャの下でジョルチ部はついにひとつになった。部族が分裂してから三十四年、フドウ滅亡より二十三年、そしてインジャが族長になってから八年目の壮挙であった。
まさしく乱あれば英雄生まれ、その鞭の下、ことごとくその居処を得るといったところ。これはちょうど水の高きより低きに流れるがごとく、天星に比すべき英傑好漢の数多集い、異能をもって覇業を翼くといった格好。
ことは一歩進んでいよいよ英雄登極ということになるのだが、慶事を控えて新たな事件が巻き起こり、天星は再びその結束を固めることになる。果たして何が起こったか。それは次回で。




