【四十九丁目】「ところで、とおのさま」
「おはようございます」
「おう、おはようさん。今朝も早いね」
警備員のおっちゃんと、いつもの挨拶を交わし、僕は事務室に向かった。
ただいま午前7時30分。
開庁時間まで、あと一時間ほどある。
この時間に来ている職員はまばらだ。
そのほとんどは僕と同じ新人で、各々の課で業務開始までの間に掃除をしたりして、先輩や上司の登庁に備える。
入庁二年目の僕…十乃 巡は、配属先である特別住民支援課ではまだまだ新人である。
よって、事務室の床掃除、皆さんの卓上のふきんがけ、ポットのお湯の準備など、雑用を担当している。
早起きは得意ではないが、もはや日課となったこれらに、最初感じていた苦痛は今はもうなくなった。
そもそも大した労働ではないし、別段掃除嫌いでもない。
今となっては「一日の始まり」を意識できるので、逆に身が引き締まる気がした。
「さてと、まずは…」
事務室の扉を開け、中に入る。
その瞬間、息を呑んだ。
昨日まで、雑然としていた事務室の中が、嘘の様に片付いている。
それだけではない。
床はおろか、窓までピカピカだった。
卓上を見渡せば、散らかって魔境と化していた間車さんの机を含め、こぎれいに整理されている。
バカな…
卓上にあった物の量は変わっていないのに、何でこんなにきれいになっているんだ…!?
「おはようございます」
鈴の様な声に振り向くと、廊下に一人の少女が立っていた。
白衣に緋袴、長い黒髪を背中でまとめた巫女姿の美少女である。
少女は、手にした花瓶を抱えたまま、活けられた花もかくやという様に微笑んだ。
「あさはやいのですね、とおのさま」
「沙槻さん…おはようございます」
僕は頬を引き攣らせながら、笑い返した。
彼女の名前は五猟 沙槻という。
降神町の南部、白神地区を本拠地とする退魔の一族「五猟」が擁する“戦斎女”だ。
日本有数の退魔師で、紆余曲折を経て、ここ降神町役場に出向という形で来ている。
僕は、先週行われた役場主催の特別住民の皆さんを対象とした合宿旅行で彼女と出会い、とある出来事を通じて知り合いになった。
「あの、これ…全部貴女が…?」
僕が事務所の中を見ながらそう尋ねると、沙槻さんは首を縦に振った。
「はい。さしでがましいかとおもいましたが…きのう、りんさまがしょるいをさがすのにごくろうなさっているのをみて…つい」
少しばつが悪そうな顔になる沙槻さん。
「さいしょは、みなさんのつくえのうえだけをかんたんにせいりしようとしていたのですが、きがついたら、あちこちにてをつけてしまいました」
僕は唖然となった。
確かに昨日、間車さんが卓上の書類探しに悪戦苦闘していた。
彼女はそれを見て、親切心からあの魔境に踏み込んだとういうのだ。
加えて、魔境を開拓し、都市部並みの機能の付与に成功したのである。
「…もしかして、ごめいわくでしたでしょうか?」
何も言わない僕を、不安げに見上げる沙槻さん。
ドキッとなり、僕は慌てて首を横に振った。
「とととととんでもない!こんなきれいになったなら、きっと皆も大喜びだよ!」
「よかった…」
安堵の笑みを浮かべる沙槻さんに、僕は顔を背けて胸を押さえた。
顔が紅潮するのが分かる。
沙槻さんは、とても素直ないい娘だ。
その上、美人だし、気立てもいい。
家電は苦手なようだが、ご覧の様に家事全般は正に完璧である。
そう。
彼女が望む「ある目的」がなければ…
もっと、完璧なのだが。
「ところで、とおのさま」
沙槻さんのその言葉に、僕はビクッとなった。
「な、何でしょう?」
「はい。とおのさまは、おとこのことおんなのこ、さいしょのあかちゃんはどちらだったらうれしいですか?」
頬を染めて、そう尋ねてくる沙槻さん。
「え、えーと、何で?」
「ここにきてから、わたしはさまざまなちしきをえることができました」
沙槻さんが、幸せそうに微笑む。
「そのなかには『あかちゃんのうみわけかた』というものもありましたので…せっかくですから、とおのさまがのぞむほうをうめるよう、がんばってみたいとおもいました」
照れながらも、ガッツポーズをとる沙槻さん。
痛いほど一途な感情を目の当たりにし、僕は思わず目が眩んだように手をかざした。
「う、うう…何という前向きで清純なオーラ!!」
彼女が望む「ある目的」…それは今、聞いたとおりである
理由は定かではないが、あろうことか、彼女は僕と子作りを前提としたお付き合いを切望していた。
人、それを「婚前交渉」という。
当然、その先に待っているのは、避ける事の出来ない「おめでた婚」である。
「沙槻さん!」
「は、はい!」
僕が彼女の両肩にガシッと両手を置くと、沙槻さんは花瓶を取り落としそうになりながら、目をパチクリさせた。
「前にも言ったけど、そういった事は…」
ハッとなる沙槻さん。
「そうでした…もっと、おたがいのことをわかりあってから、でしたね」
シュンとして俯く沙槻さん。
そんな表情も、とてもいじらしく見えた。
普通、彼女の様な女性に求められれば、ほとんどの男性は嬉々として一線を超えるだろう。
実際、役場の男性職員の中では、彼女の人気はうなぎのぼりである。
噂ではファンクラブすらあるとか、ないとか…
中には真剣に交際を申し込んできた人もいたらしいが、その全てが告白の段階で玉砕しているとの事だった。
それを考えれば、彼女と交際する事は決して悪い話ではない。
だが…
それは違う。
それは…違うんだ。
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カッ!カッ!カッ!カッ!カッ!…
規則正しい繰り返される音は、まるで秒針の様だった。
だが、僕にとってそれは死刑宣告を受け、十三階段を昇る音に聞こえる。
音源は、僕の対面の卓上。
間車さんの机だ。
机の持ち主は、先程から手にしたボールペンで、卓上を落ち着きなく叩いている。
加えて、暴走族同士の抗争で見る様なガンを僕の方に飛ばしていた。
何故だ…
僕が何かしたんだろうか?
実は、ここのところ間車さんの機嫌がすこぶる悪い。
一体何が原因なのか、思い当たる節はなかった。
「とおのさま、つぎはどうすればよいですか?」
僕の席に座った沙槻さんが、見上げてくる。
僕は、慌ててパソコンのディスプレイに意識を戻した。
「あ、ごめん。じゃあ…次はこっちの表を今と同じ様に数式を入れてみて?」
「は、はい…ええと…こう、ですか?」
「あ、そこはね…ちょっと、貸して」
「あ…」
思わずマウスに手を伸ばした瞬間、沙槻さんの手に僕の手が触れる。
「わっ、ご、ごめん!」
咄嗟に手を引っ込める僕。
一方の沙槻さんは、頬を赤らめながら、自分の手を胸に抱いた。
「いえ、だいじょうぶです。すこしおどろいただけです」
そして、クスリと笑う。
「な、何かな?」
僕がそう聞くと、沙槻さんは、はにかみながら答えた。
「とおのさまのて、とてもあたたかいのですね…」
「え?」
「またひとつ、とおのさまのことがわかりました」
ボキィッ!!
不意に物凄い音が事務室内に響き渡る。
見れば。
間車さんの手にあったボールペンが、真っ二つにへし折れていた。
その視線はブリザードを超越し「バナナで釘が打てます」というレベルの冷たさだった。
「チッ…またか。最近のボールペンは柔くてダメだな」
無惨にも残骸と化したボールペンを、ゴミ箱に叩き込む間車さん。
覚えている限りだが、そこに消えたボールペンは、そろそろ二桁になるような…
「だ、大丈夫ですか、まぐる…」
チュイン!
思わず近付こうとした矢先、僕の鼻先を何かが掠めて飛来する。
硬直したまま、目線を巡らせると、銃の手入れをしていた摩矢さんと目が合った。
「ただの誤射。気にしないで」
何事も無かったように、猟銃の銃身を磨く摩矢さん。
僕は反対側の壁に目を向けた。
壁には弾痕の跡。
おまけに、罅まで走っている。
どっと冷や汗が出た。
一歩間違えば、頭が無くなっていたかも知れない。
覚えている限りだが、こうした誤射ももう少しで二桁になるような…
「…」
気のせいかもしれないが。
間車さん同様、摩矢さんもここのところ機嫌がよろしくない気がする…
思わず助けを求めて、二弐さんを見やると、無言のままニッコリ笑って手を振られた。
…な、何だ、この孤立感は…
その時だった。
「全員揃っているな」
事務室に戻って来た黒塚主任が、全員を見回す。
今日もビジネススーツに身を固め、一寸の隙もない。
室内の空気に異常を感じたのか、主任は変な顔なる。
「何だ?何かあったのか?」
「別に」
「何も」
「普段通りです」
「そうよねぇ?」
二弐さんにそう促され、僕は反射的に頷いた。
沙槻さんも(よく分かっていないようだが)一緒に頷いている。
「…そうか」
主任は合点がいかなそうだったが、手に持っていたファイルを開いて、僕達に見せた。
「早速だが、緊急の案件だ…今回の内容は対象の説得・保護」
そこで、主任の眼鏡がキラリと光る。
「もしくは…交戦の後、捕獲。ちなみに今回は、交戦にはあらゆる装備の使用が許可される」
その単語に、沙槻さんを除いた全員が目を剥いた。
とりわけ、摩矢さんの目が輝きを増す。
「総力投入で捕獲戦!?オイオイ、また随分と大袈裟だな。マジかよ、姐さん」
興奮する間車さんを、主任がギロリと睨む。
「だから『姐さんはよせ』と言っているだろう、間車」
そして、ファイルを間車さんに放って寄越す。
受け取った間車さんは、中身を見て目を見張った。
「マジだ。しかも…」
間車さんが、呻くように呟いた。
「相手は、カテゴリー『A』…“神霊”級!?」




