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妖しい、僕のまち 〜妖怪娘だらけの役場で公務員やっています〜  作者: 詩月 七夜
第十章 人と妖怪と ~山男・コサメ小女郎・錬金術師・魔動人形・石塔飛行・古庫裏婆・野寺坊・遣ろか水~
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【百二十丁目】「“人間達に出会えて、本当に良かった”」

美佐江みさえっ!!」


 人目も気にせず、長い病院の廊下を走り続けた男は、とある一室に駆け込んだ。

 ほの暗いその部屋の出入り口には「霊安室」と書かれたプレートがあった。

 中にいた女性医師と看護師が二人、突然駆け込んできた男に目を丸くする。

 そんな医師達には目もくれずに、もつれた足取りのまま、男は室内に置かれたベッドに向かった。

 ベッドの上には人間大の膨らみがあり、顔には白い布が掛けられている。

 それに震える手を伸ばす男。

 その手を女性医師がそっと押さえた。


「ご遺体の損傷が酷い。今はご覧にはなられない方がいいと思います」


「け、けど、本当に美佐江かどうか確認しなければ…」


 食い下がる男に、女性医師は透明な袋に入った小さな指輪を差し出した。


「こちらの方が身につけられていたものです。見覚えはありますか…?」


 男はそれを受け取ると、目を見開いた。


「あ…ああ…そんな…これは美佐江の…」


 高熱にさらされたのか、指輪はわずかに変形している。

 男はその指輪に見覚えがあった。

 見間違うはずがない。

 それは、20年以上連れ添った妻の左手の薬指にはまっていたものだ。

 まだ、安月給だった頃、男が身銭をはたいて購入し、彼女に贈ったものだった。

 あの時の妻の愛くるしい笑顔は、男にとってかけがえのない思い出だった。

 それから、何かと働きづくめだった男を、彼女は陰で懸命に支えてくれた。

 今思えば、家庭を顧みず、十分に構ってやれる状況にもなかった。

 しかし、妻は文句の一つも言わず、男の背中を見送り続けてくれた。

 男は口にこそ出さなかったが、そんな妻に深く感謝し、愛していた。


 その妻が…

 いま、男の目の前で、物言わぬ遺体となって横たわっている。


 その事実に、男は放心したように立ち尽くした。


「美佐江…」


 ベッドに一歩踏み出す。

 よろめきながら、男はその縁に振れた。

 冷たいシーツの感触が、男の意識を否が応にも現実へと縫い付ける。


「美佐江…」


 囁くように、呼び掛けるが、応えは無い。

 そして、男はへたり込んでしまった。


「美佐江っ…美佐江ぇぇぇぇッ…!!」


 激情がようやく追いついてきたのか、男の目に涙がこみ上げてきた。

 同時に、滲んだ視界の中で風景が輪郭を失っていく。

 何もかもがぼやけていき、ぐるぐると回り出す。


 男は慟哭した。

 愛する妻は失われ、思い出だけが取り残される。

 その残酷な運命を告発するように、男の声は響き渡った。


------------------------------------------------------------------


「ごほっ!げほっ…!!」


 息苦しさにむせかえりながら、黒田くろだ 権蔵ごんぞうは覚醒した。

 喉から凄まじい嘔吐感がこみ上げ、そのまま四つん這いになって吐く。

 口から大量の水が吐き出され、肺が空気を求める。

 何度かそれを繰り返し、ようやく収まると、誰かが黒田の背中をさすってくれた。


「大丈夫…ですか…?」


 か細い女の声に、顔を上げると、そこには一人の小柄な女性がいた。


「き…貴様は…」


 女性の顔には見覚えがあった。

 確か「K.a.Iカイ」総責任者である烏帽子えぼしと落ち合うためにとった宿…「深山亭みやまてい」で働いていた女性従業員だ。

 いや…烏帽子の説明が本当なら、この女性も十乃とおのとかいう小生意気な若造と同じ、降神町おりがみちょう役場の職員だろう。

 確か深山亭逗留一日目、もう一人、織原おりはらとかいう女性職員と一緒に自分の接客をしていた。

 名前は「水愛みあ」とか呼ばれていたように思う。

 初めてあった時、両耳の裏に魚のえらのような器官があったので、ひと目で特別住民ようかいであることが分かった。

 妖怪嫌いな黒田は、難癖をつけて水愛に絡んだのを記憶している。


「ここは…どこだ?何故、貴様が儂と一緒に…」


 周囲を見回す黒田。

 そこはごつごつとした岩場だった。

 背後には轟々と流れ落ちる滝がある。

 黒田は、その滝に見覚えがあった。

 確かこの「幽世かくりょ」に入り込む際に、烏帽子に案内され抜けてきた滝だ。

 その証拠に、前方の山並みに「夜光院やこういん」も見える。


「どういうことだ…?儂らはさっきまで夜光院あそこにいたはず…」


 呆然と呟いてから、黒田は唐突に思い出した。


 あの時。

 「五猟ごりょうの巫女」である沙槻さつきが黒田や烏帽子達に叛意し、それに激高した黒田は衝動的に手近にいた妖怪の少女…東水はるなを人質に取った。

 そのまま「ぬえの卵」を入手し「特別住民ようかいがいかに危険な存在であるか」という証拠として、世間に知らしめる目論見だった。

 だがその時、東水が不意に黒田へと問い掛け始めたのだ。


“あげましょうか?”


 何度も繰り返すその問い掛けに、怒りに我を忘れていた黒田は、つい「寄越さば寄越せ!」と怒鳴り返した。

 その直後。

 夜光院の裏手の山より流れ落ちる滝から、膨大な水が吹き上がり、鉄砲水のように押し寄せてきたのである。

 その激流に飲み込まれ、黒田は意識を失ったのだった。


「何だったんだ、あの大水は…」


「あれは…“ろかみず”の起こした鉄砲水です…」


 黒田の呟きに、水愛がそう説明する。


「“遣ろか水”だと?」


「はい…『やろうか?』と呼び掛けに答えると、たちまち大水を起こす妖怪です」


 “遣ろか水”の伝承にはこうある。

 激しい雨が降り切る中、川が増水すると、不意にどこからか「やろうかやろうか」と声がする。

 その声に「寄越さば寄越せ」などと答えると、たちまち大洪水となり、周囲を鉄砲水で押し流してしまうとされる。

 あの東水という少女は、その“遣ろか水”という妖怪だったのだ。


「そうだったのか…ふん、やはり『化け物』だな、貴様らは」


「…」


 ずぶ濡れになった自身を見てから、忌々しそうに睨み付けてくる黒田に、水愛は無言で俯いた。


「…で、貴様は何故ここにいる?」


「…」


「何も言えんか…まあ、大方儂の死骸でも確認しに来たんだろう?」


 皮肉な笑みを浮かべる黒田。


「だが、残念だったな。この通り儂はピンピンしている」


「いいえ、違います…私は…」


 悲し気な表情を浮かべる水愛。

 その時だった。


「おやおや~、()()()()にそれはないんじゃない~?」


 聞く者を脱力させるような脳天気な声が響く。

 見れば、岩陰から白衣のような長衣ローブに身を包んだ女性…六堂ろくどう 那津奈なづなが姿を見せた。

 その背後には、ボロボロになったイブ(魔動人形ゴーレム)の姿もあった。


「貴様、生きていたのか?」


 驚く黒田に、イヴは肩をすくめた。


「いいや、機能停止してしんでいたさ。我が王マイロードが応急措置を施してくれなければ、先程の大水で完全に大破していただろう」


 そういえば先程、沙槻が叛意した際には、那津奈は姿を消していた。

 てっきり一人で逃げおおせたのかと思ったが、ちゃっかり部下イヴを修繕していたようだ。

 那津奈はウィンクしながら続けた。


「手持ちの工具ツールが限られていたから、やっつけ仕事だけどね~。でも、無事に直ってくれてよかったよ~。おかげで、あの大水からも逃げ延びることができたし~。サンキュ~ね、イヴちん♡」


 よく見れば、那津奈は一切濡れた様子が無い。

 おそらく、俊足を誇るイヴが那津奈を抱え、東水が起こした鉄砲水を凌ぐ速度で安全域まで退避したのだろう。

 那津奈の言葉に、片膝をつき、深くこうべを垂れるイヴ。


「勿体無いお言葉です、我が王マイロード。不覚をとった私めに、こうして再び命を授けてくださるとは…このイヴ、これまで以上に御身に尽くさせていただきます」


「い~んだよ~。相変わらず、固いなぁ、イヴちんは~」


 脳天気な口調に頭痛を覚えつつ、黒田は尋ねた。


「そんなことより、いま言った『命の恩人』というのはどういう意味だ?」


「文字通りの意味だよ~。鉄砲水に飲み込まれたゴンちゃんを、そのが助けてくれたんだよ~」


「だ、誰が『ゴンちゃん』だ!……いや、待て!いま何と言った!?」


 怒鳴りかけた黒田が、驚いたように那津奈を見た。


「この娘が…儂を助けた…だと?」


「そうだよ~。私とイブちんが大水から逃げてここまで来た時、二人を見つけて助けるのを手伝ったから、間違いないよ~。ホント、偉いよね~。あんなに特別住民じぶんを毛嫌いしている相手なのにね~」


 那津奈は、水愛を見やった。

 那津奈も先程知ったのだが、水愛は“コサメ小女郎”という魚の妖怪だ。

 彼女は、自らの妖力“清流淵舞せいりゅうえんぶ”により人魚のように下半身を魚の尾びれに変化させ、荒れ狂う激流を泳ぎ切り、溺れていた黒田を助け、陸へと引き上げたのである。


「それに、溺れて意識を失っていたゴンちゃんに、人工呼吸マウス・トゥ・マウスまでしてあげてさ~」


 その視線に、水愛は真っ赤になって俯いた。

 一方、那津奈の言葉に、驚きを通り越して呆気にとられる黒田。

 そんな黒田に、那津奈は珍しく真剣な表情で指を突き付けた。


「正直、あのまま放置していたら、死んでたと思うよ~?ここは、素直に感謝した方がいいんじゃないかな~?」


 その言葉に、呆然となっていた黒田は、ハッとなってから、そっぽを向いた。


「…誰も助けてくれなどと頼んでおらん」


 そして、小さな声で続けた。


「…どうせなら、そのまま放っておいてくれればよかったのだ…そうすれば、()()の元に逝けたものを…」


 その言葉が終わらないうちに、黒田の左頬が高く鳴った。

 目を剥く黒田の正面に、水愛がいた。

 水愛は、うって変わって毅然とした表情で黒田を見ていた。


「…く…ださい…!」


「な…に…?」


 聞き返す黒田に、水愛は叫ぶように言った。


「『死んでもいい』なんて…そんなことを言わないでください…!」


 水愛の目には、涙が浮かんでいた。


「本当に危なかったんですよ…!?もう少しで、貴方は死んでしまうところだったんです…!!もうしそうなったら、貴方の帰りを待っているご家族だって…」


「そんなものはおらんよ」


 水愛の言葉を、黒田の固い声が遮った。

 押し黙る水愛と、顔を見合わせる那津奈とイヴ。

 黒田は、静かに続けた。


「儂には妻がいた」


 目を閉じる黒田。


「議員として独り立ちする前に知り合った女でな。儂が惚れ込んで、結婚を申し込み、一緒になった」


 遠い昔を懐かしむように、黒田はわずかに笑った。


「大人しい女だったが、優しくて、子供好きで、芯の強い女だった。外面そとづらでは亭主関白を気取っていたが、儂もよく尻に敷かれていたよ」


 そう言うと、水愛を見やる黒田。


「…そう言えば、お前さんは、どことなく家内に似ているな」


「…奥様は…もう、お亡くなりに…?」


 水愛の言葉に、黒田は頷いた。


「もう二十年も前になるか。ちょうど、お前さん方特別住民ようかいが世に出てきた頃だ。自宅の近所で大火事が起きてな」


 黒田は空を見上げた。

 四人の周囲を、“川蛍かわぼたる”の浮遊光がいくつも飛び回る。

 その燐光の中、黒田は唇を噛んだ。


「その時、儂は仕事で家を空けていた。当時、特別住民ようかいが姿を見せたことで、政府も大混乱に陥っていたからな。儂らも寝ずの仕事が多く、自宅に帰ることもままならなかったのだ」


 誰しも無言だった。

 だが、全員が理解していた。

 黒田の言う通り、当時の混乱は言葉では簡単に語りつくせない。

 政府、民衆、マスコミ…さらには国連まで騒ぎは発展し、この国の誰もが新たに姿を見せた特別住民ようかい達への対応に追いまくられたのだ。


「知らせを受け、病院に駆け付けた時、家内はもう息をしていなかった。聞いた話では、燃え盛る家の中に取り残された特別住民ようかいの子を助けるために、自ら炎の中に飛び込んだんだそうだ…そして、その時に負った火傷が原因で、そのまま命を落とした」


 黒田の顔がやるせない怒りに歪む。

 その拳がぎゅっと握りしめられ、ブルブルと震えていた。


「だが、家内が助けた特別住民ようかいの子はな、元々炎や熱に耐性を持っていた…つまり、家内のとった行動は、全く無意味だった…!」


 黒田の血を吐くような独白が続く。

 水愛だけでなく、那津奈やイヴも無言のままだった。


「しかも、その火事も、そいつら特別住民ようかいが起こした事故だったのだ…!」


 黒田は水愛を見た。

 そこに渦巻く怒りと悲しみが入り混じった表情に、水愛は硬直する。


「儂は特別住民ようかいが憎い…!」


 黒田の目から、涙が溢れた。


「貴様らは儂ら人間なんかより、優れた能力を持っている!それこそ、燃え盛る炎の中から平気で生還するくらいにな!それなのに、これ以上、まだ保護を求めるのか…!?」


「…」


「儂らの世界に混乱をもたらし、人間にいらぬ迷惑をかけ、それでも平然と『守られる側』を主張するのか!?儂らを…妻の命すら踏み台にして、それでもなお、儂ら人間に要求するのか…!?」


 黒田は嗚咽した。

 そして、そのまま両手両膝をついて、号泣する。

 それは、あの日…妻を失い、その亡骸の前で慟哭した姿そのままだった。


「…ゴンちゃん…奥さんのことは気の毒だと思うけど、それは…」


 那津奈が言いかけたその先を、水愛が無言のまま手で制する。

 そして、泣き続ける黒田の傍に座ると、その肩にそっと手を置いた。


「ごめんなさい…」


 その一言に、顔を上げる黒田。

 滲んだ視界の中、水愛もまた泣いていた。


妖怪わたし達の存在が、人間あなた達の世を乱し、劇的な変化を強いているのは事実です…それは、二十年経った今も変わらないのでしょう…」


 水愛は静かに続けた。


「何故、いまになってこの世に再び現れたのか…それは妖怪わたし達にも分かりません…ただ、私はこうして、人の世に生きる今生において、思ったことがあります…それが、何だか分かりますか?」


 水愛の言葉に、黒田は首を横に振った。

 それに、水愛は泣きながら微笑した。


「“人間あなた達に出会えて、本当に良かった”」


 目を見開く黒田。

 那津奈とイヴも、微動だにせず、水愛の言葉に聞き入っていた。

 水愛は続けた。


「私はこの現世に目覚めた当初、とても不安でした…私が知っていたかつての世界…それとはあまりにも様変わりしていたからです…山も川も、自然全てが見覚えのない風景になり、人間あなた達の文化や考え方も、かつてのそれとは変質していました…」


 それは、現代に復活した妖怪達全てが抱いた感想だろう。

 世界には、かつては存在しなかった「科学」が溢れ、自分達の拠り所になっていた「神秘」は、軒並み否定されていたのだから。

 実際、それを受け入れることが出来ず、かつての棲み処としていた深山大海に姿を消した妖怪達も多い。

 特に古くから存在し、強大な能力を持った妖怪ほど、その傾向が強かったとされる。


「ですが、途方に暮れていた私を人の世に導いてくれたもの…それは他ならぬ人間あなた達でした」


「…どういう…ことだ…?」


「人に近しい姿かたちになったとはいえ、人間あなた達は、妖怪わたし達を最初から排除しようとはしなかった…例え、全てを受け入れてもらえなくとも、共に歩く道を考えてくれています…」


 水愛が微笑む。


「だから…私は降神町役場に就職したんです…少しでも多くの人間達に恩を返すことが出来るように…」


 黒田は、鼻を鳴らした。


「…他の連中はいざ知らず、儂は妖怪おまえ達と共に生きようなどとは思わなかった。それどころか、儂は法律で、妖怪おまえ達の自由を縛り付けようとしていた側の人間だったんだ。妖怪おまえ達より劣る人間の儂にそんな仕打ちを受けて来たのに…それでも『出会えて良かった』と言えるのか…!?」


 水愛が頷く。


「だからこそ、これから『分かり合う喜び』を、一緒に分かち合えるじゃないですか」


 鼻白みつつ黒田は、水愛を睨んだ。


「では、この際ハッキリと言わせてもらおう!儂は、お前が妻を失う原因になった『特別住民ようかい』だから、あの時、わざと難癖をつけて、土下座までさせようとしたのだ!」


 水愛はもう一度頷いた。


「分かっています」


 平然とした水愛に、一瞬ひるむ黒田。

 だが、意を決して続けた。


「儂は!そんな私怨で公私混同し、挙句、卑劣な手段で妖怪おまえ達を貶めようとした男なんだぞ!?それでも…お前は『出会えて良かった』と言えるのかっ…!?」


 全てをさらけ出した黒田の告白にも、水愛はまっすぐな眼差しを外すことなく、黒田を見詰めながら頷いた。


「出会えたからこそ、貴方はこうしていま、本心を打ち明けてくれましたし、私も私自身のことをお話しすることができました…もし、お互いにすれ違ったままだったら、私も貴方も何も知らないまま、何も変わらなかったでしょう…それに…」


 微笑する水愛。


「“特別住民ようかい”の私としては、同じ嫌われるなら、よく知ってもらってから嫌ってもらった方が、いっそ諦めがつきますから…」


 その言葉に。

 黒田は表情を歪めると、無言で顔を伏せた。

 そして、小さく呟く。


「…ふん。胸糞悪い…言ってることまで、いちいち家内アレによく似とる…」


 そうして、黒田は水愛に背を向けた。


「水愛…といったな?」


「はい」


「改めて宣言しよう…儂は妖怪は大嫌いだ」


「…はい」


 僅かに項垂うなだれる水愛。

 それに黒田は一つ咳払いをすると続けた。


「それでも…()()()()()()()()()()()()()()()()()


 その言葉に、水愛は顔を上げて目を見開いた。


「えっ?」


 少しだけ振り返る黒田。


「『特別住民ようかいは全て危険な存在だ』…この考えを、少しだけ改める切っ掛けになった。それと…」


 黒田は、再び顔を背けると小さな声で告げた。


「…助けてくれたことに感謝する。ありがとう」


 水愛の目に、再び涙が浮かんだ。

 黒田の心は、まだまだ特別住民ようかいへの嫌悪で満ちているだろう。

 だが、二人の出会いは、少なくとも何か小さな変化をもたらしたのだ。

 その変化が、良い方向に向かうような予感がして、水愛は目じりを拭いながら笑った。


「はい…!」


 そこへ、那津奈とイヴが口を挟む。


「んっふっふ~、ゴンちゃんってば素直じゃないなぁ~」


「まったくです。それに、六十男のツンデレは全く萌えませんね」


「やかましいっ!いいから、とっとと幽世ここの出口へ案内しろ、貴様ら!役立たずだったんだから、それくらいの義務は果たせ!」


 真っ赤になって怒鳴る黒田に、那津奈は肩を竦めた。


「私の契約者は、烏帽子さんなんだけどね~…まあ、さっきの鉄砲水ではぐれちゃったし~、あの人なら一人でも現世に帰れるだろうから、仕方ないか~。よしきた~、ついといでよ、ゴンちゃん~」


「だから、誰が『ゴンちゃん』だ!?次に妙なあだ名で呼んでみろ!公安にタレこんで、国外追放にしてやるぞ、ピンボケ錬金術師アルケミストが…!」


「おい、貴様!我が王マイロードに無礼な口をきくな!」


「ふん、ポンコツは黙っとれ!大体、貴様らはだな…!」


 あーだこーだと言いあいながら、三人は幽世の境界である滝の表面へと向かう。

 一人見送る水愛へ、ふと那津奈が振り返った。


「水愛ちゃん~、とってもいい話、ありがとう~。十乃くんと沙槻さっちんに、よろしくね~」


「は、はい…皆さんもお元気で…!」


 そう応えると、那津奈はウィンクしながら、手を振った。


「うん~、()()()()()()~!」


 三人の姿が、滝の表面の向こうに消える。

 それを見届けると、水愛は夜光院へと歩き始めた。

 すると、程なくして。


「水愛ーっ!」


 自分の名前を呼ぶ同僚…織原 真琴まことの声が聞こえてくる。

 見れば、夜光院と暁光に彩られた山並みを背景に、見慣れた同僚たちの姿が遠くにあった。


「真琴ーっ!」


 それに声を返す水愛。

 そして、彼方に見える仲間たちの元へ走り始める。

 やがて、抱き合って無事を喜ぶ水愛達を、ゆっくりと舞い飛ぶ“川蛍”の柔らかな光が、まるで幻灯のように照らし出していた。

 





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