【百一丁目】「それでも『誰か』を憎まないのですか?」
「あ痛っ…!」
地面に放り出された僕…十乃 巡は思わずそんな声を上げた。
二弐さん(二口女)によりゲリラ的に開催された「六月の花嫁大戦」
その優勝者が決定されようという最中、僕は当の優勝者である謎の銀髪眼鏡美女に誘拐されてしまった。
煙幕で視界を奪われた中、両手足を呪符で拘束され、巨大な鳥の爪に引っ掴まれた僕は、程なく空の上を飛翔した後、小高い丘の上に放り出された。
そこは「ウィンドミル降神」の外れにある、古代ギリシャ神話に出てきそうな神殿の複製がある丘だった。
天気の良いこんな日には、彼方に蒼い海も見渡せる場所だ。
その丘の上にある白亜の神殿の中に、僕は放り出されたのである。
大した高さではなかったが、そこそこ痛い。
痛みに顔をしかめていると、巨大な鳥は瞬時に消え失せ、一枚の呪符と化した。
そして、呪符は鳥の背に乗っていた銀髪の眼鏡美女に収まった。
「乱暴にして御免なさいね、十乃 巡さん」
薄く笑いながら、美女がそう言う。
呻きながら何とか身を起こすと、僕は美女を見上げた。
「貴女は…!?」
「私は凍若衣。三ノ塚 凍若衣と申します。貴方なら“舞首”と言えば分かるでしょう?」
そう名乗ると、凍若衣と名乗った女性は、短く呪文の様なものを唱えた。
同時に、両手足の呪符が燃え上がり、僕は自由になる。
やれやれ…イベント中に二弐さんに突然拘束されて以来の自由だ。
しかし、こんなタイミングで自由にされても、素直に喜んでいいものか困るが。
「“舞首”…では、貴女は特別住民という訳ですね?」
「ええ」
凍りついた滝の様な銀色の髪を掻き上げながら、凍若衣さんが頷く。
僕は続けて尋ねた。
「こんな所に連れてきて、僕を一体どうするつもりですか?」
「率直に言えば、抹殺します」
躊躇なく、そう答える凍若衣さんに、僕は焦る前に呆気にとられた。
………完全に予想外の答えだ。
しかも、彼女が向けてくる氷の様な視線からして、どうやら冗談とかドッキリとかという訳ではないみたいだ。
予告なしで命の危機にさらされる事になったが、僕は気を取り直して、再び問い掛けた。
「あの…何故でしょう?」
「済みませんが、雇い主の依頼なので、理由は知りません」
そう言いながら、凍若衣さんは懐から数枚の呪符を取り出し、扇の様に広げて見せると、ヒラヒラと煽ぎ始めた。
…どうやら、 僕の事をすぐにどうこしようという気は無いようだ。
よし…ならば、もう少し相手の真意を探ってみよう。
幸い相手はいま、会話に乗って来ている。
ひとまず、この流れを絶やさずにいくしかない。
僕は、彼女の発した一言に食いつく素振りを見せた。
「雇い主?…ということは、貴女はもしかして…」
「ええ。分かりやすく言えば『殺し屋』ということです」
うわあ。
「殺し屋」って、本当に居るんだ。
漫画や小説の中には、ごまんといる存在だけど、本物を目にする事になろうとは。
あっさりと白状する凍若衣さんは、僕に向かって続けた。
「先程『理由は知りません』とは言いましたが、経験上の推測でなら何となく分かりますよ?貴方、誰かから恨まれたりしていませんか…?」
僕は考え込んだ。
ごく普通に日常を生きている一小市民としては、仮に知らずに誰かの恨みを買っていたとしても、そんな物騒な事を考える人物に心当たりがない。
考え込む僕に、凍若衣さんはクスリと笑った。
「例えば『誰か』の邪魔をしたとか?」
「そんな事は…」
言いかけて、僕ははたとある事に思い至った。
「誰か」の邪魔をした?
そう言われると…実は思い当たる節は無い訳ではない。
ただ、その「誰か」は僕の想像通りであれば「個人」ではない。
…いや、ちょっと待てよ。
仮に彼らが彼女の雇い主だとして、何故「僕に目を付けたのか」が分からない。
「…どうやら、少しは思い当たる節があったようですね」
呪符を煽ぎながら、冷たく微笑む凍若衣さん。
「人の良さそうな顔をしている貴方も、結局は誰かの恨みを買い、そして誰かを憎まないと生きていけない…つくづく滑稽で哀れですね、人間というのは」
「…え?憎む?」
「ええ。だって、貴方も憎いでしょう?私に貴方を殺すように依頼した『誰か』が」
「いえ、別にそんな事はないですけど…」
即答した僕に、呪符を煽いでいた凍若衣さんの手がピタリと止まった。
「…やせ我慢ですか?」
ほんの少しだけ、その声に苛立ちに似た感情が混ざった。
「この状況で、貴方が助かる道はない。間違いなく私に殺されます。それは全て貴方を憎む『誰か』のせいでしょう。そんな『誰か』を憎むのは、人間として自然な感情です」
そして、彼女は嘲笑めいた笑みを浮かべる。
「勘違いをしているようだから教えて差し上げますが、こういう場合に虚勢を張る事は『勇気』とは言いません。いまさら平静を取り繕っても、逆に見苦しいですよ?」
僕は少し考えてから、それに首を横に振った。
「別にやせ我慢ではないです。僕は、本当にその『誰か』を憎む気が無いんです」
凍若衣さんの目が剣呑な光を帯びる。
「…そうですか…なら…」
不意に、凍若衣さんは僕の上に覆い被さる様に押し倒した。
白銀の長い髪が流れ、僕の顔を覆う。
日の光を遮られた青白い闇の中、彼女は氷そのものの目で真下にいる僕を見下ろし、囁くように告げた。
「改めて断言しましょう…私は、貴方が想像する百倍は残酷な方法で、貴方を始末する事ができます」
「魂が凍る」というのは、こういう目の事を言うのだろうか。
一体、どれだけの負の感情を貯め込んだらこういう目になるのだろう。
女性に押し倒されるなんて、初めての経験だし、シチュエーション的に普段なら慌てふためくところなのだろうが、僕はその凍った瞳に息を飲むばかりだった。
凍若衣さんは、一切の感情を込めない声で淡々と続けた。
「例えば、まず、私の術で貴方の意識を完全に繋ぎとめる。そして、式神の蟲共に全身を徐々に食い荒らさせる。貴方は気絶する事も叶わず、骨になるまで絶叫し続け、いずれ許しを請うでしょう。『早く殺してくれ』とね。でも、私はそんな願いは聞き入れませんし、発狂だって許しません。失血死もね。貴方の心も身体を生かさず殺さず、殺し、癒し、そしてまた殺す。無限に近い地獄の中でみっともなくのたうちまわる貴方。そして私は、その様を肴に極上のワインでも開けるでしょう」
そこで彼女は再び微笑した。
いままで見た中で、最も冷たい微笑みだった。
本気だ。
そして、本当だ。
彼女は、全てそれを実行できるし、する気なのだ。
そう考え、僕は思わずゴクリと喉を鳴らした。
すると、彼女は満足そうに、
「それでも『誰か』を憎まないのですか?」
眼鏡越しの氷の視線が、僕を射抜く
僕は…意を決して答えた。
「はい」
彼女の笑みが消える。
が、構わずに僕は続けた。
「ところで、失礼ですが、貴方は僕の職業を知っていますか…?」
不意にそう聞く僕に、凍若衣さんは一瞬意表を突かれた顔になった。
そして、頷いた。
「勿論です。獲物を丸裸にしてから追い込むのが『狩り』の基本ですから」
「なら、貴女は単純に僕の事を『知った』だけで『分かっていない』ようですね」
「…何ですって?」
その一言に、凍若衣さんの目に明らかな殺意が宿る。
だが、それにも怯まず、僕は続けた。
「僕は人間です」
「…そうですね」
「何の力も無い、ただの人間です。知恵も力もないし、すごい能力だって持っていない」
「その通りです」
「まあ、仮に異世界に転生しても、きっと無力なままの人間でしょう。それくらいに僕は平凡です」
「…結局、何が言いたいんですか?」
僕は彼女の氷の瞳を見詰めながら言った。
「そんな僕ですが、ご存知の通りとんでもない能力を持った妖怪達と対話し、共に歩んでいける様な世界を作るために働いています…凍若衣さん、ハッキリ言わせてもらいますよ」
凍若衣さんは無言だ。
僕は続けた。
「妖怪相手の交渉ってのはね、怪我もすれば、傷も負う。時に命懸けだし、僕みたいなただの人間には割に合うもんじゃないんです。でも、それでも、僕は僕を傷付けてくる妖怪と向かい合わなければならない…いや、向かい合おうと決めたんです」
彼女の目に、一瞬戸惑いの色が浮かぶ。
僕はそれを見逃さなかった。
ここだ…!
敵意をもった相手との話し合いで重要なのは「飲まれて縮こまらないこと」
そして、相手が揺らいだ時は、一気にたたみ掛ける。
特に彼女の様な理知的な相手なら、考える隙は出さないように。
僕は腹筋に力を込め、彼女を押し戻す様に上体を起こした。
その間も彼女から目は逸らさない。
身を起こし、奇しくも彼女と同じ目線になった僕は続けた。
「だから、いちいち『誰かを憎む』なんて考えに捕らわれていたら、この仕事は務まらないんですよ」
凍若衣さんは大きく目を見開いた。
そして、気圧された様に僕の腰の上にゆっくりと尻餅をつく。
しばし向かい合う僕達。
「貴方は…」
凍若衣さんが何かを口にし掛けた時、パンパンという音が不意に響いた。
視線を巡らせる僕達の目に、黒衣の女性の姿が映る。
その女性を見た僕は唖然となった。
「エ、エルフリーデさん!?」
そこには。
漆黒のウェディングドレスに身を包んだエルフリーデさん(七人ミサキ)が、笑いを堪える様な表情で、拍手をしていた。
「ククク…見事だ、十乃。そして、貴様の負けだ『CERBERUS』」
「『SEPTENTORION』…!」
凍若衣さんがそう呟く。
『CERBERUS』?
確か…ギリシャ神話に出てくる「地獄の番犬」の異称だったような?
何にせよ、凍若衣さんの目には、ハッキリとした敵意があった。
しかし、それを気に介した風も無く、喪服の様なドレスにを風に揺らし、エルフリーデさんは微笑んだ。
「まあ、仕方あるまい。相手が悪かったのだ」
「…どういう意味でしょう?」
エルフリーデさんを睨みつけながら、凍若衣さんが問う。
それに黒衣の花嫁は答えた。
「その男はな、根っから妖怪を差別する意識がない『妖怪バカ』だ。そして、いま聞いた通り『究極の平和主義者』で『筋金入りの頑固者』だよ」
…良く分からないが、褒められているのだろうか…?
「『憎悪』に由来する“舞首”の在り様にとって、その男は猛毒みたいなものだ。気を付けろよ?そんな風に真っ向からまともに相手をしていると…」
そこで、エルフリーデさんはニヤリと笑った。
「骨抜きにされるぞ?私の様にな」
凍若衣さんの顔に朱がのぼる。
氷の様な彼女が初めて見せる表情だった。
「裏切り者の忠告になぞ、耳を貸すつもりはありません…!」
…えっ?
「裏切り者」って…まさか、この二人は知り合いなのか!?
一体どういう事だ!?
思わぬ展開に言葉も出ない僕。
エルフリーデさんは、凍若衣さんの銀髪とは対照的な黄金の髪を掻き上げた。
「酷い言われようだ…しかし、その件については最初に言った筈だ。『我々は好きにやらせてもらう』とな」
「ほざきなさい」
凍若衣さんが鼻で笑う。
「独立愚連隊風情で、詭弁を弄するつもりですか?」
「貴様こそ、金さえもらえれば誰にでも尻尾を振る牝犬だろう」
からかうようなエルフリーデさんの言葉に、凍若衣さんの目が更に剣呑な光を帯びる。
「忠告します。いま、私はとても気分が悪い。次に下らない台詞を吐き出すためにその口を開けば、無駄に現世を彷徨う貴女を、すぐに煉獄に突き落としますよ?」
「フッ…怖い怖い」
エルフリーデさんは肩を竦めて笑った。
「だが『CERBERUS』よ、あと一つだけ忠告してやろう」
凍若衣さんが怪訝そうな顔になる。
エルフリーデさんは、あらぬ方…丘のふもとを見た。
?
何だ…?
何かが丘を駆け上ってくる「ドドドド…」という音が聞こえるよーな…
そして、丘を見下ろしていたエルフリーデさんは、凍若衣さんへと視線を戻すとニヤリと笑った。
「気を付けろ。以前、私も食らったが…奴の一撃は結構痛いぞ?」
「…何の事……ッ!?」
そう言いかけた凍若衣さんが、何かに気付いた様に僕の上から飛び退きつつ身構えると、素早く呪文を唱える。
「符転剛垣!急急如律令!」
バッ!
「見付けたぁぁぁぁぁぁッ!!」
そんな声と共に、何者かが丘を登りきり、太陽を背に宙へと舞う。
長い黒髪が広がり、影になって分からない顔の中で、二つの黄金の目が僕達を認め、大きく見開かれた。
そして、凍若衣さんの放った符が、鋼の光沢を放つ障壁に変化するのと、そこに何者かが物凄いスピードで突っ込んできたのは同時だった。
轟音と共に、障壁が粉々に砕けて降り注ぐ。
もうもうと立ち上る土埃の中に、二つの影が見えた。
一つは恐らく凍若衣さんだろう。
もう一つは…?
「…えっ…?」
次第に晴れていく視界の中に、僕はよく見知った人物の姿を見た。
「み、美恋…!?」
そこには。
花嫁のヴェールを纏った妹…美恋の姿あった。
「何…してたのよ…貴女…」
美恋がそう呟く。
僕は目を疑った。
美恋の目が金色に輝いている。
そして、ヴェールとほつれた長い黒髪の合間から見えるアレは…鬼の角!?
言葉を失う僕の前で、美恋はギン!と前を睨みつけた。
「お兄ちゃんを誘拐しただけでなく…馬乗りになって、一体ナニしてたのよ!?」
……
いや。
いま冷静になって思い起こせば、確かに傍から見るとそういう風にも見れなくもないが…
「絶ッ対に許さない…!」
勝手な妄想で猛り狂う美恋。
…何か、以前もこんな事があったよーな…
一方の凍若衣さんの姿は、土煙に遮られて確認できない。
どうにか防御壁が間に合い、直撃は避けられたように見えたが。
「…!」
瞬間。
土煙を裂いて、巨大な何かが突進してきた…!
キキイイイイ!!
それは百足だった。
ただの百足ではない。
目視できる限りで10mはある…!
大百足は巨体に似合わぬスピードで美恋へと迫った。
いけない!!
「美恋、逃げろ!!」
僕は思わず絶叫した。
毒牙を剥いて迫る大百足。
一方の美恋は、立ちすくんだのか逃げる素振りも無い。
たまらず、僕が駆け寄ろうとしたその時、
美恋は迫る大百足をギロリと睨みつけた。
「うるさい!!」
ごすっ!
ギイイイイイッ!?
…
……
………
…う、ウソだ…
い、いま…
美恋が片手の一振りで…大百足をブッ飛ばしたように見えたんだけど…??
理不尽極まりない暴力を受けた大百足は、なす術無く呪符へと変化する。
そ、そうか。
突然現れたので驚いたが、どうやら大百足は凍若衣さんが放った式神だったようだ。
「バ、バカな…」
そんな声と共に、土煙の中から驚愕の表情を浮かべた凍若衣さんの姿が現れた。
直撃は避けたようだが、呪符で編んだ障壁を美恋に砕かれてダメージを負ったのか、ウェディングドレスはところどころがボロボロだ。
先程まで冷笑を湛えていたその美貌も、信じられないものを見る様に美恋に釘付けになっている。
「たかが人間が…私の式神を…素手で…!?」
「…そこにいたのね」
美恋の黄金の瞳が、捕食者の輝きで凍若衣さんを射た。
こ、これは…
時折、家で見せる冷たい視線よりも遥かに迫力がある…!
美恋はゆっくりと凍若衣さんへと近付いて行った。
「私を騙して、お兄ちゃんを誘拐して、挙句に破廉恥な真似まで…」
「は…れんち?」
ワナワナと震える美恋の誤解に、凍若衣さんも一瞬キョトンとなる。
美恋は、くわっと牙を剥いた。
「五体満足で帰れると思わない事ね、この泥棒猫…!」
「くっ…符転顕刃!急急如律令!」
凍若衣さんが、美恋の迫力に押された様に数枚の呪符をばらまき、呪言を唱える。
すると、呪符から幾重もの剣が顕れ、美恋を取り囲んだ。
「穿て!」
掲げた手を振り降ろす凍若衣さん。
同時に数十本の剣が、まるで矢の様に射出される。
三百六十度、全方位から迫る刃の群れを、美恋は…
「うりゃあああああああああああああああ…!」
ガン!ギン!ゲン!ガアン!
何と。
飛来した剣を、両手で数本まとめて引っ掴むと、それを振るい、襲い来る刃の雨を片っ端から叩き落とし始めた…!
手の剣が折れると、迷わず投げ捨て、飛来してきた別の剣を得物にして応戦していく。
その動きたるや、もはや明らかに人間業ではない。
反応するスピードも残像すら見えるレベルだ。
「ラスト…!」
最後の一射を打ち落とすと、美恋は息一つ乱さずに両手の剣を投げ捨てた。
そして、呆然となっている凍若衣さんに笑い掛ける。
「…で?」
「な…何て…非常識な…」
「貴女に言われたかないわね、誘拐犯」
そこで、美恋の目が鋭くなった。
「さあて、もう変身できないように、その首、ひっこ抜いてあげましょうか」
バキボキと指を鳴らす美恋。
…我が妹ながら、そういう台詞がシャレに聞こえないところが怖い。
凍若衣さんは、一旦目を閉じると、観念した様に立ち上がり、両手を挙げた。
「…分かりました。降参です」
美恋の歩みが止まる。
「…何ですって?」
「『降参する』と言ったのです。正直、いまの術をあんな風に破られては、私にも抗する術がありません。よって、ここは素直に降伏をさせていただきます」
不承不承といった風に、凍若衣さんは続けた。
「私は術理戦に長けてはいますが、そもそも元々戦闘は苦手なのです。こうした荒事は『二の首』の分野ですしね」
「何を訳の分からない事を…」
「とにかく、降伏します。いかようにも好きにしてください」
その様子に、しばし思案していた美恋は、ゆっくりと凍若衣さんに近付いて行った。
「…ったく。降参するならするで、最初からこんな騒ぎを起こすなってのよ」
不服気にそう言う美恋に、一部始終を見ていたエルフリーデさんが呟く。
「まだ青い、な」
その言葉が終らぬうちに。
凍若衣さんに近付いていた美恋の足元に、八角形の呪紋が浮かび上がった。
「これは…!?」
「言ったでしょう?『私は術理戦に長けている』と。呪符だけが“陰陽道”の神髄ではありません」
言い放ちながら、凍若衣さんが大きく飛び退る。
「八将神“大将軍”!彼の者を塞ぎ止めよ!」
印をきりながら、呪紋を指し示す凍若衣さん。
すると、美恋の動きがピタリと止まった。
「か…体が…動か…ない…!?」
それに凍若衣さんが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「“八将神”は陰陽道における方位神のこと。そして、その一柱“大将軍”は『三年塞がり』を司る万事における大凶の神」
薄い笑みを浮かべながら、凍若衣さんは続けた。
「その方位印の中にいる限り、貴女は全方位に動く事は出来ません」
「く…そ…この…お…」
歯を噛み締め、渾身の力で動こうとするも、美恋は彫像となった様に棒立ちのままだった。
「諦めてください。貴女の馬鹿力でも、それは破れません。そこで、大人しく見ていなさい」
そこで、凍若衣さんはチロリと舌を出して指先を舐めた。
「貴女のお兄さんが、私の餌食になるところを…ね」
呪符を取り出しながら、凍若衣さんは次にエルフリーデさんを見た。
「貴女はどうします…?」
「お手並み拝見といこう」
そう言いながら、腕を組んで笑い返すエルフリーデさん。
ええええええ!?
助けてくれるんじゃないんですか!?
「果たして、貴様に私の良人を殺るが出来るかな?」
余裕綽々のエルフリーデさんに鼻を鳴らして背を向けると、凍若衣さんはゆっくりと僕に近付いてきた。
「お待たせしました、十乃さん。さあ、素敵なショーの始まりですよ?」
怜悧な美貌が喜悦に歪む。
僕は身動きできずに、立ち尽くしているだけだった。
「妹さんの前で、思う存分聞かせてくださいね…最高の苦悶を…!」
「させ…るか…ああああああああああああああああああッ!!」
瞬間。
死を覚悟した僕の目の前で、美恋の身体から炎の様な陽炎が立ち上る。
そして、
「こンのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ…!!」
ミキ…
「そ…んな…」
凍若衣さんの表情から笑みが消えた。
身体を捕える目に見えない鎖を断ち切ろうとするように、身をよじる美恋。
その足元に展開された八角形の方位印が軋みを上げる。
「破ろうというの、アレを…!?」
呆然となる凍若衣さんに、エルフリーデさんが告げた。
「寝ぼけているのか?『CERBERUS』」
聞き咎めるように振り向く凍若衣さん。
エルフリーデさんは腕を組んだまま続けた。
「見ての通り、奴は『鬼族』だ。貴様も連中に方位印を仕掛け、封じようとしても無駄だと知っているだろう?奴らは人間が定めた『方位』の外から来るモノ共だ。連中を『方位』の中で無力化したいなら、ある方位を閉ざさなくてはならん」
「…『鬼門』!」
「そうだ。丑寅…つまり、北東の方位を塞がない限り、連中は方位印の中で力を失う事はない…そら、どうする?もうすぐ自由になるぞ?」
エルフリーデさんの言葉通り、方位印の中で美恋の動きが徐々に滑らかになっていく。
それと同時に、その足元の方位印が、少しずつ崩壊を始めていた。
ミキ…ミキミキ…!
その様を見ていた凍若衣さんは、一つ嘆息した。
「冗談じゃありません。脳筋の鬼族と肉弾戦など、それこそ『二の首』の分野です」
そう言いながら、手にした呪符をしまう凍若衣さん。
そして、僕の方をじぃっと見詰めてくる。
「…命拾いしましたね、十乃さん。その命、しばし預けておきますよ」
「…」
「勘違いしないように。万全の装備なら、このまま仕事を続けてもいいのですが、今日はその装備がないだけです。私はプロですから、次に出会った時こそ、仕事は確実にこなしますよ?」
そう言うと、今度はエルフリーデさんを見やる凍若衣さん。
「貴女もです。次はありません。今度私の邪魔をすれば、そのドス黒い魂魄を地獄の釜を焚く薪にしてさしあげますよ?」
「肝に銘じておこう」
「…元より無い癖に」
薄く笑うエルフリーデさんに、鼻を鳴らす凍若衣さん。
そして、一枚の符を取り出して呪言を唱える。
符は一瞬で巨鳥へと変化した。
その背に乗りこむと、凍若衣さんは僕を見下ろした。
「では、また。貴方は私が折ります。必ず、ね」
冷笑を浮かべると、凍若衣さんはそのまま宙へ舞い上がる。
「に、逃がすかあああああ…!」
遂に自由を得た美恋が追いすがるも、巨鳥は既に空高く飛翔している。
美恋は空を見上げたまま歯噛みしていたが、不意にその身体をぐらつかせた。
ハッとなる僕。
「美恋!?」
僕は慌てて駆け寄った。
そして、崩れ落ちる寸前に辛うじてその身を抱き止める。
「…お…兄…ちゃ…ん」
僕を認めると、美恋は安堵の笑みを浮かべた。
「無事で…よかった…」
そして。
ゆっくりと目を閉じる。
ボロボロになったヴェールと黒髪が風に揺れた。
その下から覗いていた二本の角は既に見えない。
いつもの美恋だった。
「美恋…?」
僕の呼び掛けに、美恋は軽い寝息で応えた。
「ふふ…まるで、幼子の様だな」
それを見たエルフリーデさんが、クスリと笑う。
僕はその髪を優しく撫でて囁いた。
「お疲れさま、美恋」
ふと、遠くから鐘の音が聞こえた。
園内にある鐘楼の鐘だろう。
時報代わりに鳴らされていた筈だ。
カラ―ン…
カラ―ン…
カラ―ン…
白亜の神殿の中、天と地に輝く蒼い空と彼方の海が僕らを包む。
鳴りやまぬ鐘楼の鐘の音。
それは、長い戦いを終えてまどろむ乙女達に向けられた、祝福の鐘の様に優しく鳴り響いていた。




