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夏季休暇中の学舎は、閑散としていた。とはいえ、人が全くいないわけではない。なんのためかは知らないが、生徒がちらほらと見えるし、なにより、教員のほとんどは出勤しているようだった。
「まあ休みといえば休みなんだ。少なくとも、他の地方の学舎に比べればね。だがまあ、ここの方が落ち着く、という人々なんだ、彼らは」
「ロゼール先生もですか」
担任教師は、突然の訪問にも驚かず、誰もいない教室へとエルデバードを誘った。教員室で話すよりもいいだろう、という判断らしい。二人きりのほうが都合の良い予感がある、ということだ。
「まあね。さて、僕に聞きたいことというのは、何かな」
「おかしな質問をするとお思いでしょうが、私自身のことです」
「うん。まあ、おかしくはない。むしろ当然のことだと思うよ」
きらきらしい笑顔で彼は肯く。当然と言われて、ほっとするよりも、不安が増した。ロゼールの言う通り、過去の自分について知りたいと思うことは、当然だ。けれどもいままで自分は、それを知ろうとは思わなかった。
「以前の私は、どんな生徒でしたか?」
その質問に、ロゼールは口元に笑みを残しつつじっとこちらを見つめて来た。真意を探られているのかもしれないが、エルデバードには裏も表もない。ただ純粋な質問だった。
それをくみ取ったのか、
「申し訳ないが、君の父君からうちの責任者を通して、かつての君について語ることは禁じられている。人の口に戸は立てられないが、それでもなお、禁を破ってまで君に何かを教える者は今までなかったね。
それはね、エルデバード君。今の君が、好ましいからだ」
「え?」
「記憶を失った君は、新しい。新しい君は、とても良い子だ。さてもう卒業間近の青年に対して、良い子というのは適切ではないかもしれないが、他に言いようがない。
君はよく笑う。明るく、活発で、人好きがする。誰とでも仲良くし、嫌味がない。父君の地位は、周囲をひれ伏させるほど高いが、きっと学友たちはそのことを今、忘れているだろう。君がとっても気さくだから」
ロゼールが語尾を静かに置いた後、沈黙が広がる。エルデバードは、猛烈に考えていた。目覚めて以来、自分の頭で何かを考えるということはあまりなかった。言葉の裏を読む、というのは、状況と相手と自分とすべての関係を含んで、現状を掴むことだ。
さび付いている。そんな気がした。頭が回らないのは、今まで動かしていなかったからだ。ただ生きていた。それでなんの問題もなかった。
「……父の意を知らないかつての友人が、言うのです。私は、リシュリー・フェルニッツ嬢と親しかった、と。
今の私は、とてもそうは信じられない。全く逆だと考えていた」
ロゼールは黙っている。が、その口元からは、よそ行きの笑みの残りが消えていた。
「そう、すべてが逆、なのでしょうか。先生が今おっしゃった、現在の私、というものが学友たちに受け入れられ、歓迎されていると言うのなら、かつての私というのは……いいえ、お答えにならなくて結構です。すみません、問いかける形にしてしまって。
先生は、過去に触れずに過去の私を教えてくださっている。そういうことなのでしょうから」
突然、ベルが鳴った。授業の開始と終わりになるベルだ。柔らかい音が、耳の奥から何かを引きずり出す。
――さてそれでは、今日は国境の戦いの歴史について、前回のおさらいから。
ロゼールの落ち着いた声だ。それは、目覚めるより季節をふたつばかり戻った時期の内容だった。自分は確かにここで、それを聞いたのだ。
「言っておくが、君の頭脳は本物だ。学術に関しても魔術に関しても、失われたところはひとつもない。欠けのない知識と技術がある。
君は本当に優秀なんだ。僕はね、エルデバード君。今も昔も、君を高く評価している。何かに迷ったらまたおいで。ただ、今はこれまでだ」
おどけた様子で両手を広げる彼に、ふと張りつめていた気持ちが緩む。同時に、表情も緩んだのだろう、ロゼールは微かな驚きと共に、笑みを返してくれた。
厩舎に移動する。今度は表からだ。学舎の敷地をぐるりと回り、牧場といってもいい広さの囲いの中で、馬が草をはむ様子を横目で見つつ、広い道を歩いた。馬を走らせる場所のない王都の中で、貴族の子らが乗馬をたしなむのに必要な設備、ということだろう。
レンガ積みの建物の脇で、馬にブラシをかけている男がいる。
「やあ。それ、君の馬か?」
「……そんなわけないだろ。学舎の所有だよ」
「ああ、だが、随分と懐いている。特別にかわいがっているのかと」
「フン。あれこれ馬を乗り換えるより、一頭を世話し続けるほうが理に適っている」
「普通に、かわいいって言えばいいのに」
「はぁ? てか何なのお前。話って何。わざわざ休暇中に呼び出して、しかも学舎に」
「いや、校舎に用があったから、ついでに」
「はぁぁぁ? お前の都合かよ!」
この口の悪さは、誰かに似ている。彼は、ディーヴィ・ソンダイクという名の、伯爵家の次男だ。さほど珍しくない名前だっただけに、探すのには苦労した。
彼は、いつかここでリシュリー嬢と話をしていた男だった。保養地へ行くという彼女を、心から心配していたことを覚えている。
そうだ、ジェイルだ。今日も撒いてきた、エルデバードの従者に口調がそっくりだ。そういえばジェイルはどうしているだろう。今頃、やっきになって自分を探しているに違いない。
「君、リシュリーとは親しいのか?」
どうでもいい会話から急に切り込むと、ディーヴィは少し怯んだ様子を見せた。それは、なにか、とても自分に馴染んでいた。当たり障りのない会話よりも、もしかしたら自分らしいような気がする。
「お前に関係ないだろう!」
「ない、かもな。実は以前、ここで君たちの会話を立ち聞きした」
「なんだと」
「だから親しいことは知っている。知りたかったのは、私のことだ。私は、リシュリー嬢と親しかったか?」
彼は、まるで睨んでいるように、エルデバードをじっと見た。透かし見るような視線に、真っ向から視線を返す。
「……お前のお偉い父親から、過去のことは話すなとお達しがあった。次男とは言え、我が家に難癖をつけられるのはたまらん。俺は何も話さない」
「否定はしないんだな」
「それが答えだと思うなら、思えばいい。エルデバード。君は今、幸福か?」
流れに沿わない質問に、素直に驚く。
「驚いているな。そう分かることに、こっちが驚く。だが、周囲もお前も、今のほうが平和で幸福だ。きっとな。そのことに甘えるがいい」
「甘え? 私が穏やかに暮らすことは、甘えか?」
「そうは言ってない」
「今の生活は、本当ではないということか?」
食い下がるエルデバードに、彼は少しだけ、険を緩めた。
「本当とはなんだ。今自分が見ているもの、感じているものこそが、本当だ。
信じないだろうが、俺は、今も昔も、お前のことを友人だと思っている。どっちでもいいんだ。お前は、今この時を生きるがいい。誰もがそれを願っている」
態度と裏腹の言葉だが、なぜか、それは嘘ではないと感じた。態度がジェイルに似ている、ということはすなわち、とても親しい、ということだからだ。
「リシュリー嬢も、そう願っているということか」
さらに会話を押し込んだ時、まるで怒鳴るような大声が背後から聞こえた。
「エルデバード! このクソ主、何回迷子になるつもりだ!」
「迷子ではない! ただちょっと道を忘れただけだ!」
ジェイルだ、と気づいて振り向く。逆光で影しか見えないが、確かに自分の従者だった。見つけられてしまった。
いつのまにか、すっかり夕暮れ時だ。つまり、夕食時だ。
「いかん。夕食に遅れてしまう」
「お、おう……」
駆け寄ってくるジェイルを待ちながらつぶやくと、ディーヴィは一歩後ずさりながら同意した。足元は湿っている。朝方、雨が降っていたのだ。少しじめじめしていると思ったのは、このせいだろう。
そんなことを思いながら、多少の雲が残る西の空を透かし、ジェイルを待つ。
太陽が低く。沈みかける。
辺りは徐々に、色が着く。仄かな橙色。
すべてが染まる。色濃い赤へと。
――兄ちゃま! みて、ゆうやけ!
めまいがする。視界がゆっくりと揺れ、回り、点滅する。
――危ない、サリューナ! 駄目よ!
長く尾を引く、甲高い声だ。
――いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!
視界が暗転し、エルデバードは、遠くにジェイルとディーヴィの叫び声を聞きながら、ゆっくりと倒れた。




