『妹の友達』
「友達から聞いた話なんだけどね」
高校生の時の話だ。
妹の同級生に、Aちゃんという女の子がいた。
妹とは小学校からの親友で、中学が別になってしまってからも変わらず遊んでいたそうだ。友達から見ても、二人は本当に仲の良い友人同士だったという。
ある日、妹はAちゃんの家で開かれる誕生日会に誘われたと言って、嬉しそうに出かけて行った。
だが、帰ってきた妹は、持って出た筈のプレゼントをそのまま持ち帰り、包装ごとゴミ箱に捨ててしまったそうだ。母親が本当に捨てていいのかと聞いても、ふてくされたように黙り込むだけだった。
それ以来、妹の口からAちゃんの名前を一切聞かなくなった。これまでのように休日に遊ぶ約束をすることも、家に呼ぶことも、もちろん向こうの家に行くこともなくなったのだという。
あれだけ仲が良かったのに、とは思ったが、心からの親友でも、ちょっとしたことで仲違いしてしまったなんてのはよくある話だ。『誕生日会』の中で、何か大きな喧嘩でもしてしまったのだろう。
友達にとっては、妹の交友関係などわざわざ覚えておく必要もない事柄だ。名前を聞かなくなってからしばらくする頃には、Aちゃんのことなど忘れてしまった。
友達が次にAちゃんについて思い出したのは、『誕生日会』から十数年後。妹に出産祝いを贈った頃だったそうだ。
姪の誕生日を聞いた時に、ふと頭にAちゃんが浮かんだのだという。
「そういえば、あの子と誕生日が一緒だな」
それはほとんど独り言のつもりで口にした言葉だった。
親友だったとはいえ、もう十数年も付き合いのない友人の話を急に出されても、思い出すのにも時間がかかるだろう。友達自身、どうして日付まではっきりと記憶が浮かんだのかも不思議に思っていたくらいだった。
ただ、友達の言葉に対する妹の反応は、予想とは大分異なるものだったそうだ。
名前も覚えていないので『あの子』と口にしただけの友達に、妹はすぐに顔色を変えた。
「覚えてるの? Aちゃんの誕生日会のこと話したっけ」
表情と声から察するに、妹にとってはあの日の記憶は余程思い出したくない事柄だったらしい。何も聞いていないし、話したくないならそれでいい、と気遣う友達に、妹はしばらく悩んだ後、あの日に何があったのかを語った。
簡単に言えば、誰の誕生日会なのか分からなかった――のだそうだ。
あの日、妹がお邪魔した誕生日会では、妹の他にも二人の女の子が招待されていた。
四人がけのダイニングテーブルに椅子が五脚用意されていたのだが、お誕生日席とされる主役の席には、誰も座らなかったのだという。
Aちゃんは妹の隣に、他の友人は対面に座っていたそうだ。その日は確かにAちゃんの誕生日だった筈だから、妹は当然、親友の誕生日を祝うつもりで訪ねた。
けれども、主役となるべき席には誰も座らず、招待された友人たちは妹も含めて、困惑しながらテーブルについていた。
ケーキのプレートにも名前はなく、ただ祝の文言が記されているだけだった。加えて、蝋燭も立てなかったそうだ。
吹き消す人がいないから必要がない、ということだろうか。だとしたらこのケーキは何のために用意されているのだろう。
妙に居心地の悪い空気の中、Aちゃんとそのお母さんだけが、嬉しそうに微笑んでいたという。「お祝いしてくれてありがとう、とっても嬉しい」と、Aちゃんは名前の書かれていないケーキを見ながら繰り返しお礼を口にした。
Aちゃんは一人っ子だし、お母さんは座る様子もない。お父さんとは随分前に離婚したと聞いていたから、Aちゃんが座らないのであれば、本当に、一体誰の誕生日を祝っているのか、さっぱり分からなかった。
渡す筈だったプレゼントは、Aちゃん自身に断られてしまったそうだ。
『プレゼントはもう貰ったからいい』と笑顔のままに言われ、最後には『必要がない』と突っぱねられて帰ってきた。
誕生日会の内容はそれで終わりだ。それ以外に何か恐ろしいことが起きた訳でもなければ、Aちゃんやお母さんに冷たくされた訳でもない。
嫌なことがあったとすれば、と妹は小さく零した。
「ケーキがね、本当に美味しくなかったの」
妹はその時の味を思い出したように、渋い顔をしていた。
粘土みたいな食感で、飲み込むのも辛かったという。ただ、いただいたものを残すのは行儀の悪いことだから、と全て食べたそうだ。覚えている限り、残さなかったのは妹だけだったという。
「他の子みたいに残しちゃえば良かったかな」
苦笑交じりだったが、妹の言葉には強い後悔があるように聞こえたらしい。確かに、そんな嫌な思い出がある誕生日会と同じ日に我が子が生まれたとあっては、あまり良い気はしないだろう。
変なことを思い出させてしまって悪かったと謝る友達に、妹は軽く首を振った。
「別に思い出したのが嫌とかじゃないんだよね。ただ、あれは誰の誕生日会だったんだろうって思ってるだけで」
誕生日会以来、気まずくなって避けてしまったものの、成人式の際に一度きちんと話が出来ないかと連絡を取ってみたらしい。
だが、Aちゃんとは全く連絡がつかなかったそうだ。誰一人、彼女が何処でどうしているのかも知らないという。
妹夫婦は元々子供は一人だけと計画していたようだが、妹は二年後に女の子を産んだ。
予定日からかなりずれて、その子も誕生日会と同じ日に生まれたそうだ。
妹夫婦の家では、何故か全ての椅子にいつもぬいぐるみが置かれている。空っぽの椅子があると、姉妹が揃ってそこばかり眺めてしまうのだという。
「怖かった?」
「……まあ、怖かったな」
祝い事にそれ以外の意味が含まれると、妙な気味の悪さがある。良いも悪いもごっちゃになって、結局全てが台無しになるような気持ち悪さが。
それにしても、此処の友達には『妹』がいるんだな、と思った。『妹』がいる、別の友達の話かもしれない。あるいは、いなくなる前の話だろうか。
確か、友達の『妹』はいなくなった時には小学生だった筈だ。だとしたら、やっぱり、これは別の友達の話である。明確に別だと示された上で語られた話である。
「…………」
少し考えた後、俺はこれを、恐らくは弧見さんが聞く筈だった怪談のひとつだったのだろう、と捉えることにした。
比較対象を置かれることで自ら『友達』の輪郭を形取ってしまうような、あまり踏み込みたくない方向の嫌な予感がしたからだ。弧見さんに聞かせるつもりの話だったのならば、俺の中では離れた位置に置くことができる。
線引に使える理由があるのは有り難いことだ。まあ、きっと、あの肉塊が部屋の中に入り込めてしまったように、意味もない鍵のひとつでしかないのだろうけど。
脳裏に一瞬、古びたアパートの扉が浮かんで、すぐに消えた。
「そういや、伊乃平さんからお前宛に預かったものがあってさ」
「お中元だ」
「……毎年貰ってるんだったか?」
「そう。でも今年はタカヒロが居るから来ない。やなやつだね」
それは以前、年末にも聞いた声音だった。文言の割には軽い、面白がるような響きだ。
伊乃平さんは基本的に、隣人とはあまり顔を合わせないようにしている、らしい。別に隣人に限らず、誰に対してもそうであるようだったが。
対面で少し言葉を交わしただけの俺とも、別れ際に何やらしてから去っていった人である。ああいう対応を誰にでもする必要があるのなら、単に関わっただけでもあれこれと勝手に人の内側を覗くような隣人とは、あまり付き合いを持ちたくはないのかもしれない。
「なんか分かんないけど、これ」
俺は手に持っていた十五センチ四方の薄めの箱を、そのまま隣のベランダにいる隣人へと差し出した。
これは伊乃平さんから直接渡されたものではない。一応、弧見さん絡みの九階の件は伝えたのだが、彼にとっては様子を見に来る程度の事態でもないらしく、神藤さんの手元に届いた品を受け取ったものだ。
ちなみに俺の方にも、神藤さん経由でかなり上等な肉をいただいてしまった。
あまりにお高そうなので遠慮しかけたのだが、神藤さんからは「若いうちにたくさん食べておくのが良いよ」という、なんだか非常に重みのある言葉をいただいたので、素直にちょうだいした。
隣人にとっても、かなり良い品を用意したのだろう。丁寧に包装された箱を受け取った隣人は、六本指の手のひらには小さく見えるその箱を向きを変えて振りながら、ころころと中で転がるものの音を楽しんでいるようだった。
俺が受け取った時にはそれらしい音はしなかったような気がするのだが、一体何が入っているのだろうか。
あれこれと楽しげに箱を回す隣人をつい横目で眺めていると、ふんふんと機嫌よく鼻歌を歌っている口と目が合った。言葉にすると頭が痛くなりそうな状況だが、そうとしか言えないので仕方がない。
「あ。タカヒロの怪談も嬉しかったよ」
「……そうか。まあ、喜んでくれたなら何よりだ」
つい先日、俺は約束通りに隣人に怪談を語った。
『隣人に怪談を話す』なんて約束をどう処理していいか分からなかったので、肉のお礼のついでに伊乃平さんに軽く相談したところ、簡単なアドバイスを貰えた。
『有名な怪談でも拾ってきて話すと良い。間違っても個人的な経験から引っ張ってくるなよ』、とのことである。
神藤さんから見せてもらった画面の上の方には、『そもそもそんな約束をするな』という文言が見切れていたような気がするが、そこから上は見せてもらえなかった。多分だが、呆れられている気がする。
ともかく、約束してしまったものは仕方がないので、俺はネットで検索したなるべく有名な怖い話を、自分で話しやすいようにメモにまとめて語った。
『八尺様』である。元の良さを上手く表せた自信もないし、あまり上手く話せた気もしないが、隣人としては嬉しかったようだ。このタイミングで再度感想を言うあたり、怖い話を語ったこと自体が、贈り物と認定されているらしい。
食べ物を渡すにも手料理を避けるように、怪談も個人的な記憶には関わらないものを選ばないとならない、ということなのだろう。
隣人はしばらく、耳の辺りに箱を掲げて遊ぶように揺らしていたが、一度満足した様子でふん、と呟くと部屋の方へと腕を伸ばした。そっと、普段よりもかなり丁寧な仕草で箱を置いたのが所作から分かった。
どうやら、部屋の中で大事に開けることにしたらしい。正直なところ中身が少し気になるが、好奇心のために見なければよかったものと対面する羽目になるのは洒落にならないので、余計なことは言わないでおいた。
「イノヒラはね、きさらぎ駅好きだよ」
「……へえ」
これは後日なんとなく判明する事実の話だが、別に伊乃平さんはきさらぎ駅のことは好きでも嫌いでもないので、こいつが勝手に好きだと思っているだけだった。
もしかすると俺もこいつの中では八尺様が好きなことにされているかもしれない。それはちょっと困る。別に好きでも嫌いでもないからだ。
「コミは何が好きだろうね」
「どうだろうな。そもそもあの人、怖い話にはあんまり興味ないんじゃないか?」
「うん。怖いの苦手で嫌だって言ってた」
「そうだろ」
「でも嫌じゃなくしたから、今は好きだよ」
「…………」
どうだろうか。弧見さんだって、好きでも嫌いでもないと思うが。怖いので聞いてみるつもりはない。
隣人相手にはっきりと嫌を言えるのは、弧見さんらしいと言えばらしい。そして嫌じゃなくされている辺りが非常に恐ろしい。まあ、友達の嫌がることをするのは良くないからな。怖い話が苦手なら怖くならない方がいいもんな。親切なんだろうな。多分。
完全に何らかの詭弁に該当する整理の付け方だったが、あまり深くは考えないことにした。
「コミ、変なやつだったね」
宙を見つめて黙ったままの俺を見て何を思ったのか、隣人は付け足すようにのんびりと呟いた。
「まあ、そうだな」
「タカヒロとおんなじくらい」
「は?」
待て。弧見さんと同じ扱いをされるのはちょっと、流石に俺だって言うべきところはあるぞ。
まさか、此処に住んだ人間全てを変なやつだと思っているんじゃないだろうな。
心外だったが、むきになって反論すると尚更そうだと思われるような気もする。おんなじくらいに変、と評されただけで、『変』の種類が同じという訳ではない――と考えることで流すくらいしか出来そうにない。
余程微妙な顔をしていたのか、隣のベランダからは堪えるつもりで失敗したとしか思えない潰れた笑い声が聞こえた。楽しそうで何よりである。
「いや、あそこまでじゃないだろ……流石にあんなとんでも理論では生きてないし」
笑い声に混ぜるように小さく反論してみたが、あまり聞こえている気はしなかった。まあ、聞かせるつもりで言った訳ではないのでそれでいい。
弧見さんの名前を耳にしたためか、俺はデスクの端に置いたメモ紙について思い出していた。住所と名前が書かれたそれを、俺はどうにも持て余している。
弧見さんは俺に、子供の面倒を見るのは親の責任だと言った。そう言い切れるだけの何かが、弧見さんの人生にはあったのだろう。子供もまた、親の面倒を見る責任がある、という点を無視して寄りかかっても良いとまで思える何かが。
もしかしたら弧見さんにとっては、ああして過ごしていることそのものが十分に親を助けていると思っているのかもしれない。
弧見さんは彼が抱えるものについて、詳しいことは何も語らなかった。それは単に説明が苦手であるというのもあるかもしれないが、そもそも、言葉にしたくないというのが一番の理由ではないだろうか、と思う。
本当に大事な、心の底に関わることというのは、あまり口には出来ない。
語らないで済ませてしまおうとする部分にほど、捨てようにも捨てきれない思いが詰まっているような気がする。
弧見さんが言葉にしなかったように、俺にも言葉に出来ないことがある。
俺はきっと、あの人には俺が助けた分だけ助けてほしいと思っていたし、そういう風に支え合えるかもしれない未来が来ることを願っていたのだ。
あの人は生活の中で、形だけでも『幸せ』をなぞることは出来た。自分は他のひどい母親よりはずっと優しいのだと示す言い訳としてでも、時折はそうした普通の幸せの真似事をしていた。
俺は、そこに本当の愛情が生まれないかと期待していたのだ。
すぐにじゃなくていい。もっとずっと先のいつかでもいい。ほんの少しでも、あの人から返されたものが、与えられたものがあると思える時が来たなら、それだけで十分だった。
俺が今、こんな風に思えているのは、もう二度とあの人と顔を合わせる機会はないと分かっているからだ。安全圏を確保してからようやく、愛情というもので関係を築きたかったのだと希望を語り始めている。馬鹿げた話だ。
どんな方法を取ったところで、十中八九無理だと理解している。気づいているからこそ一度は離れようとしたのだし、中途半端に見ないふりをしたせいであんな歪な決着を迎えたのだ。
でも。弧見さんが捻じ曲がったままでも前を向こうとしたように、あの人だっていつか、もしかしたら、あの形のままの心でも、きちんと俺に向き合ってくれる日が来たかもしれない。
何の意味もない仮定だ。俺はもうあの人を澄江由奈にあげてしまった。仮に、彼女にあげなかったとしても、あの人はもう間に合わなかったに違いないけれど、それでもやはり、受け入れて決めたのは俺自身だった。
もしかしたら、という可能性ごと、全てを安心のために放棄した。その選択は別に全く間違っていない、と思っている。
ただ、事実として、失われた希望があったというだけの話だ。まあ、希望と呼ぶにも値しないのだが。呼んでいないとそもそもが嫌になる時もある。もう一度言うが、馬鹿げた話だ。
「なあ、お前さ」
「うん?」
こいつは、俺の父親の顔を知っている。あの人の名前だって知っていたのだから今更な話だが、指摘するには躊躇う程度の気味悪さは付き纏っていて、俺は一度口を噤んだ。
そもそも、どうやって切り出せばいいのだろうか。お前が真似した生首って俺の父親?という話題カード、かなり不味いだろ。空気が。
更に言えば、少なくとも、こいつが『早く死ぬといいね』というような人のようだし。ただ、あの時の声音を思い出してみてもやはり、単純な好悪に基づいた評価ではないように思えた。
ただ、名前すら知らなかったような父親の知り合いが、突然職場を調べて訪ねてきたのだから、それなりの理由があるに違いない。俺を通じてあの人の居場所を知りたいのかもしれないが、わざわざ俺の所在を調べるよりも、最初からあの人に辿り着く方が容易に思える。いや。現状では、辿り着くのはほぼ不可能な状態ではあるのだが。
「……今度でいいか」
「今度?」
「いや、こっちの話」
あまり積極的に動きたくはない。対人感情の面というより、主に身体的な億劫さに負けている。
暑いんだよな。とにかく。まだ七月も半ばだと言うのに。この時期でも既にここまで暑いとなると、この先は更に暑くなるに違いない。弧見さんじゃなくとも、部屋から出たくなくなる。
あの人は妙な方法で俺の居場所を探り当てていたようだけれど、真っ当な方法で探って来ているのなら、父親の方はそういう手段に頼っている訳ではないのだろう。だとしたら、多少は後回しにしてもいい厄介事の筈だ。どうだろうか。そう思っていたいだけかもしれない。
「早く死ぬといいね」
隣のベランダから笑い混じりの呟きが聞こえた気がしたが、俺は明確な意思をもって、聞こえなかったふりをした。




