九〇二号室③
これまでにも、此方に直接害を成すタイプの存在は居た。郵便受けの髪の毛もそうだし、六階の害虫もそうである。
だが、あいつらは関わり方を間違えた結果として害があるものであって、こんな風に突然、無理に部屋に入り込んでくるようなものではない。
弧見さんはやはり恐怖心が麻痺しているのか、何処か呆けたように玄関先を眺めるばかりだった。そして、玄関先を塞ぐように壁を覆い始めている肉の塊も、点在する無数の目玉を弧見さんから外さないままでいる。
俺の存在は文字通り眼中にはないあたり、確実に条件がある筈だ。その条件が分かったとして、果たしてこいつを追い返すことが出来るかは微妙だが。
やっぱり、最初から伊乃平さんを呼んでおいた方が良かったんじゃないだろうか。
浮かぶ冷や汗を拭うことも出来ないまま、現実逃避のように肉の塊を見上げていた俺の耳に、変わらず呑気な声が届いた。
「コミが良いなら良いけど、どうする?」
「え?」
「戻れないけど。ひとつにはなれるよ」
「……ひとつに?」
「そう」
何の話だろうか。俺にはピンと来ないのだが、何か、よくないことを話しているのは分かった。よくないことを、まるでとても良いことのように語っている口調だった。
止めなければならない気がする。隣人が、一度は入らせない方が良い、と判断したものが室内に居るのだから。それが弧見さんにとっては良いものだとしてもだ。そもそも、今の弧見さんに何かを判断させること自体が間違いじゃないだろうか。
振り返り、弧見さんの顔色を確かめる。彼は身体こそ肉塊へと向いていたが、その瞳は、思考の行き着く先を探すように、部屋の各所を視線でなぞっていた。
そんな弧見さんの態度をどう思ったのか、此方を覗き込む隣人は軽い調子で付け足した。
「あ。でも、余計なのも入るよ」
「余計なもの、ですか」
「分別が大雑把だから。家族はひとまとめだよ」
「兄と父も?」
空っぽのカップを見下ろして、弧見さんは吐き捨てるように尋ねた。
「うん」
「じゃあ、結構です。最悪です」
心底嫌そうに呟いた弧見さんの声を聞きながら、俺は彼の意識が普段通りに戻りつつあることを察した。どういう問答かは分からないが、どうやら、弧見さんにとっては余程、正気に戻る程に嫌なことだったらしい。
「そっかあ」
最悪かあ、と何処か楽しげに呟いた隣人は、込み上げる笑いを噛み潰すかのように一度舌を引っ込めてから、あっさりとした声音で言った。
「じゃあ、代わりがないと駄目だな」
その言葉の意味を尋ねるよりも早く、黒く爛れた指が、蹲っていた少年の首へと伸びた。細い首を指で包み、躊躇いなく力を入れる。驚いた彼が顔を上げたところで、六本指の内の数本が、顎の骨に指の先をかける。
そして。
此方が止める間もなく、黒い爪先は青白い彼の肌を裂いて、その皮膚を顔から引き剥がした。
「えっ」
俺と弧見さん、両方の口から出た短い驚きの声が、ややズレて重なる。だが、動かせたのは精々が喉くらいのもので、俺も弧見さんも、不格好に固まったまま、黒い指先にぶらさがるそれを眺めていることしか出来なかった。
剥がされた皮膚の下には、反射的に予想したような肉の色は見えなかった。言葉にもならない、虚のような奇妙な歪みだけが広がっている。
隣人は、よろめきながら立ち上がる少年の前で剥がした顔を振ると、どうでもいい不用品を放るようにして、それを前方の肉塊へと投げた。
途端、餌を放られた獣のように、部屋を覆っていた肉塊が少年へと飛びかかる。
視界に飛び込んできた光景を理解する為に、俺は五秒の時間を要した。そして、その五秒は、肉塊が少年を飲み込むにはあまりに十分すぎる時間だった。
少年を飲み込んだ肉塊は、一瞬、その勢いのままにベランダ側へと抜けていきそうな素振りを見せた。
しかして、その進行方向では隣人が、声をかけてきた時と変わらず首をもたげるようにして此方を眺めている。肉塊は窓の手前で動きを止めると、滑らかな動きで身を翻した。
そこからの動きは早かった。飲み込んだ筈の少年の体積など何処かに消してしまったかのように、肉の塊は再び、ほんの僅かな隙間を通って、扉の向こうへと抜けていった。
合間に挟まっていた異物が取り除かれた扉が、重みのままに閉じる。
微かに響いた金属音の後に残ったのは、じっとりとした沈黙だけだった。
「………………」
窓際を振り返った固まった弧見さんと、不格好に腰を上げた状態で止まった俺と、ベランダでつまらなそうに指を弄っている隣人。この場に残っているのはそれだけだ。
「た、高良くん? あの、彼は何処に……」
「……いや、俺にも、何がなんだか、」
何処、と聞かれても、俺にもちっとも分からない。全てが分かる奴がいるとしたら、たった今、興味もなさそうに隣のベランダへと引っ込もうとしているあいつだけである。
先程まで少年が座っていた場所と、閉じたばかりの玄関扉を何度も振り返り、ようやく彼が飲み込まれた事実を受け入れたらしい弧見さんは、立ち上がろうとして、狼狽のためによろめきながらローテーブルに手をついた。
簡素な作りのテーブルが揺れて、中身のないカップが床へと落ちる。
「えっと。あの、なんで、いなくなったんですか?」
「いや、だから、分からないです。俺にも」
「代わりってなんですか」
「分からないですってば」
「じゃあ、だったら、分かるようにしてください。彼はあんな風に扱われていいような人では、いや、彼自身はそう思っているかもしれませんけど、でも、駄目です。駄目だからなんとかしてください」
その物言い自体は、普段の弧見さんと同じだった。此方に全てを丸投げするような言葉の羅列だ。だが、焦ったように口にする弧見さんの声には、確かに少年への心配が濃く混じっていた。
どうやら、彼と友達になったというのは本当らしい。心から心配しているが、弧見さんは、自身には問題解決能力はないという自覚でいるのだろう。
「そりゃあ、俺だってなんとかしたいですけど……」
なんとか、と言われても。俺にだって本当に訳が分かっていないのだ。だから、此処はもうあいつに聞くしかないのだろう。仕方がない。
用事は済んだとばかりに部屋へと引っ込もうとしている隣人を追って、俺は隣のベランダに呼びかけるために身を乗り出した。
「なあ、ちょっと待った」
「うん?」
「あの子――あの人、どうなったんだ」
「代わりになった」
「……それは、弧見さんの?」
「うん」
全然分からん。説明になっていない、が、いつものことである。
「他に方法なかったのかよ」
「あるよ」
「……あるなら、そっちでいいだろ」
「でも、タカヒロも友達だから」
「………………」
なるほど。あれに対する対処と言うのは結局のところ、『代わり』を用意するしかないようである。つまりこいつは、あの場で『代わり』にしていいのは、『友達』ではない少年しかしなかった、と言いたい訳だ。
「あの人、弧見さんの友達……だったんだよ。なんとか取り戻せないのか?」
「なんで?」
「……友達が変な肉に飲み込まれたら嫌だし、辛いからだよ」
「ふうん」
隣人は分かっているのかいないのか、なんとも微妙な反応を返すと、ちらりと上階を見やった。その仕草には覚えがある。部屋を出る少し前に、俺はこいつに『来た?』と聞かれた。隣人はあの時から既に、上階から何かが来ると分かっていたということになる。
ただ、あれは弧見さんの入居よりも前の話だ。違和感がある。わざわざ『代わり』をくれてやったのだから、あの肉塊が弧見さんを狙っていたのは確かな筈だ。
「うーん、ユナも嬉しくなくなったらしいから、そうかもね」
「……何の話だ?」
どうして此処で澄江由奈の名前が出るのだろうか。はぐらかされているのかもしれない、と思いながら、戻りたそうに引っ込もうとしている隣人を引き止める言葉を探す。
何が切っ掛けかは分からないが肉の塊がやってきて、弧見さんを狙っていて、そして少年を代わりにしたことであれは去っていった。隣人にとっては、もうそれですっかり解決しているから、これ以上手間をかける必要はない事象なのだ。
隣人にとって、彼は友達ではない。入居者ではないからだ。だから、どうでもいい。どうなってもいい。その理屈は、隣人にとっては至極正しいものに違いない。
「本当に、他に方法とかないのか?」
だが、友情を築いたらしい弧見さんにとってはもちろん、俺にとっても、彼の存在は放っておけるものではなかった。
俺が彼について知っていることなど殆ど無い。名前も、どういう人生を過ごしていたかも、どうしてあんなことになってしまったのかも知らない。知っているのは彼は死んだ息子の皮を被っていて、妻は万引きを捏造して謝罪を繰り返させていたことだけだ。
ただ、歪に捩じ曲がってしまったのだろう家族の絆の上でも、彼は母の日にはカーネーションを用意することを望んだ。そうされるべき存在だと思ったから、愛を示す手段を望んだのではないだろうか。
そんな想いを抱えたままで、訳も分からない内に代わりにされるなんてことがあっていいとは思えなかった。
「ない」
「…………」
「だから、あげればいいよ」
「……何を?」
「なるべく元気に動く命」
元気に動く命ってなんだ。元気じゃない命は駄目ってことかよ。
どうも、響きからして、人だけを示しているようには聞こえなかった。一瞬、脳内を元気に飛び回る害虫が駆けていったが、俺はすぐにそれを頭から追い出した。
平たいままの布団を見やり、とりあえず捲ってみる。何も居ない。別に、あいつを差し出そうって話ではない。スマホを無くしたと思った時に、ありもしない場所をとりあえず捲ってみる時のアレだ。
室内には何も代わりになるようなものはなかった。
元気に動いている命と呼んでも差し支えない存在は二つ、俺と弧見さんの二つがある訳だが、少なくとも俺はそのどちらも差し出す気はない。今回のこれは、「おかあさん」が「いらない」ので「あげる」のとは違うのだ。
元気な命ってなんだ。
考えても分からなかったので、俺は堪えきれずにやや苛立ちが混じってしまった声で問いかけた。
「元気な命ってなんだよ」
「だから、うごいてるやつ。ユナがもってる」
それが分からないんだろ、と口を挟みかけたところで、興味の薄い声で告げられた言葉に、ひとつの記憶が引き出された。
とても元気に動いているやつになら、心当たりがなくもない。
「動いていればそれでいいんだな?」
「間違えて持ってったから。いいと思うよ」
「……分かった」
何を間違えたというのだろうか。こいつがくれてやったのだから、間違いも何もないとは思うが。俺はわざわざ口にすることはなかった。余計なことを言っても仕方がないし、何より時間がなさそうだった。
「た、高良くん。何処に?」
「ちょっと、ご近所さんのところに」
「は」
急いでるんで、と告げて、へたり込んだままの弧見さんの隣を抜けて玄関を出る。
目的はもちろん、七〇五号室だ。
度々開いているところを見かける扉だが、今日は閉まっていた。
あんな訳の分からない肉の塊が来たのだから、戸締まりはきちんとしておくべきだろう。防犯意識が高い。くだらない思考で焦燥を誤魔化しながら、インターフォンを押した。
七〇五号室のインターフォンはカメラがついている。生前の澄江家が後付けしたのかもしれない。娘がいるのなら、心配して当然であるし。
無機質な呼び出し音。間延びした音が幾度か響いたが、返事はなかった。けれども、機械越しに通じているのはなんとなく分かった。
俺は足元を――足元のうさぎを指差しながら、気が急くままに、全ての説明をすっ飛ばして尋ねた。
「あのさ、これ。もらっていいかな」
壁に寄りかかるぬいぐるみを指で示す。この角度だと、そもそも見えていないかもしれない。
拾い上げようと手を伸ばしたところで、伏せた格好のうさぎは、壊れた玩具みたいに四肢をばたつかせながら、死にかけの虫のような動きで此方へと這い寄り始めた。
恐らくだが、了承の意だと思われる。違ったら後で謝ろう。許されるかは分からないが。
足元まで寄ってきたうさぎの前に屈み、元気に動きまくっている命を掴む。
これは誰の命なのだろうか。そもそも何の命なのだろうか。分からないが、差し出しても支障がなさそうな命は、この場ではこれしかいない。
七〇二号室の扉から、階段まで、巨大な蛞蝓でも這っていったかのような跡が残っていた。間違いなく、上に向かっている。
このマンションは十階建てだ。此処からは上には三つも階がある訳で、各階に五部屋ずつと考えると結構な労力が必要になる。
あいつはもう引っ込んでしまっただろうか。もう一度部屋に戻ろうとしたところで、後ろから声がかかった。
「九〇二号室だそうです」
「はい?」
振り返ると、弧見さんが立っていた。片足にだけサンダルを履いている。もう片方のサンダルは、何故か右手に握りしめていた。
どうやら、弧見さんもかなり急いで出てきたらしい。
「彼が教えてくれました。さっきの、あれは九〇二号室の人……人?だそうです」
「九階ですか……」
弧見さんの言葉を聞いて、一呼吸置いてから、エレベーターの呼び出しボタンを押す。
此処に住み始めてから、上階行きのボタンを押すのは初めてのことだった。出来れば、もう二度と無いと嬉しい。
到着したエレベーターの扉が開く。隣に立ったままの弧見さんを見やると、彼は三回ほど目を逸らした後、俺の後に続いて乗り込んできた。
どうやら、弧見さんにとっては彼は本当に友人であるらしい。友情を感じた相手を見捨てないだけの覚悟は、弧見さんも持ち合わせているようだった。
八階を通る。
通っている。
が、やたらと長い。
「高良くん。それ、なんですか」
「何、と言われると困りますが……うさぎです」
「うさぎ。なるほど」
「……多分」
「多分。なるほど」
これは何も分かっていない時の『なるほど』だった。俺はこのなるほどを一日に三十回聞いたことがある。今となってはもはや微笑ましくすら感じる思い出だった。嘘だ。別に思い出したところで浮かぶのは謎の疲労ばかりである。こんな状況だろうと、何一つ気晴らしになるような要素はない。
ところで。移動時間が、おかしなくらいに長い。
階数表示のパネルには、いつまでも8の文字が光っている。
異様な空気が漂っていたが、俺達はガラス越しに降り注ぐ日差しにはどちらも触れることなく、ただ九階への到着を待った。
「……ところで、弧見さん。さっきのやつはなんだったんですか」
「さっきの、とは」
「あいつと話してたでしょう。ひとつになるのが、どうだとか、こうだとか」
「ああ」
あまりにも長い移動の間を埋める為の問いだったが、純粋に気になっていたことでもあった。
おかしなくらい続く上昇から気をそらす話題が欲しかったのは、弧見さんも同じだったらしい。俺達は二人揃って、ガラス窓越しに手を振ってくる少女を無視して、沈黙を生まないためだけの会話を続けた。
「僕にもなんとなくしか分かりませんが、母と僕を……いえ、家族関係にある人間を一つにしてくれるのだと思いますよ。僕が母の胎に戻りたいという話をした途端に来ましたし、兄も父もひとつになってしまうそうですから、予想するならそんなところだと思います」
「……さっきの、産まれてきたくなかった、って話ですか」
「ええ」
弧見さんは一度、少しの間だけ言葉を切った。
「さっき、彼が間違えて持っていったと言ったでしょう」
「そういや、そんなこと言ってましたね」
「あながち間違いでもないと思います。間違えたことにしてくれた、というのが正しいのかもしれません」
「どういう意味ですか」
「だって、僕よりも既に、彼のほうが余程家族として一つじゃないですか?」
「…………まあ、そうとも言えますかね」
『夫に死んだ子どもの皮を被せている』、と隣人は言った。あの肉塊が家族を一つにするものだとしたら、既にあの少年はそういう存在に片足を突っ込んでいる筈だ。そういえば、隣人は弧見さんが住み始める前に、既に上階から何か来るのかを気にしていた。
実際に肉塊が来た時にもなんだか意外そうな様子だったから、もしかするとずっと、狙われるなら少年だと思っていたのかもしれない。
「彼、此処には居ないほうが良いですよね。言葉一つで入り込んでくるような存在みたいですから、ちょっと傾けば同じようなことになってしまうかも」
「まあ、安全とは言えないと思います」
六度目に見えた少女が窓を叩いている。
手のひらが裂けて、窓が黒く濡れた。
「僕が彼を連れて帰りたいって言ったら、高良くんは止めますか?」
「えっ」
「それとも、神藤さんとかいう人が止めますか?」
「いや、ど、どうですかね……彼、実体がある、みたいなので、弧見さんが困るんじゃ……」
思わず、信じられないものを見る目を向けてしまった俺に、弧見さんは特に気にした様子もなく続けた。
「既に常に困り果てているので今更です。僕が困っていない時期なんてありません」
「…………ご家族に説明する時とか、大変じゃないですか」
「そうですね。でも、僕の面倒を見るのが母の責任ですから」
ようやく辿り着いた九階で、扉が開く。
「何十年と子供でいることを強いておいて、今更他者の価値観に迎合して正そうだなんて、あまりにふざけた話だと思いませんか」
それが答えを求めての言葉ではないことは、弧見さんの横顔を見れば分かった。
***
九階には住人は居ない筈だが、五階とは違って廊下の蛍光灯は入れられているようだった。辺りはすっかり暗くなってしまっているが、少なくとも明かりには困らないだろう。
今回は行き先がはっきりしているので、俺は最初に九〇二号室の位置を確かめた。
階の作りは七階と変わらない。エレベーター側から一号室で、奥が五号室だ。
エレベーターを降りて、なんとなく後ろを確かめる。閉じた扉の窓はすっきりと綺麗なままだった。手形は一つもない。あるはずのものがない、というのも中々に不気味ではあったが、一先ず考えるのはやめにしておいた。
人命(人命?)がかかっているのだから迷っている暇はない。九〇二号室の前へと進んだ俺は、躊躇うことなくインターフォンを鳴らした。躊躇いはなかったが、当然恐怖はあった。もはや、片手の中でじたばたしているうさぎにすら癒やしを感じる程である。
だが。
押した――はいいものの、少しも反応はない。
全くの無音だった。
懲りずに何度か押してみるも、同じである。普通の住宅だったら悪戯扱いをされる程に鳴らしてみても反応がない、となったところで、俺ははたと気づいて隣に立つ弧見さんを見た。目が合う。
「…………ぼ、僕が押した方がいいですか?」
「かもしれません」
九〇二号室の住人は、家族と離れたくないものに目をつける――らしい。
弧見さんは産まれてきたくはない、と願った。子供であることを通り越して、子供になる前に戻ることを望んだ。
その動機は、母と共にあるためだ。彼はこの世で抱く苦しみを除くためにも、母と一体になりたい、とすら願っている。
俺はこの点に関して、明確に、忌避感がある。間違いなく嫌だと思っている。
産まれてこなければ、と思ったことは一度や二度じゃない。だが、それはあくまでも、死を願うよりも安らかに、終わらせるよりも始まらなければよかったと思っているだけだ。
あの人と同化するだなんて、とてもじゃないが、とんでもない。
表面上の言葉としては似通っていたとしても、決して相容れることはないだろう。だから、この扉は俺のためには開かないに違いない。
予想通り、弧見さんがインターフォンを鳴らしてすぐに、応答があった。
潰した肉を捏ねるような粘質な水音を、応答と呼んでいいかは若干迷う所だったが。
隣に立つ弧見さんは、唇を噛んだまま真顔で固まっていた。胸元の辺りで震える手を捏ねている。客の対応を任されて、どうすればいいか分からず黙っている時と同じ顔だった。
職場の時なら俺が隣で囁くなり、代わりに全てを引き受けるなり出来た。だが、恐らく俺とは少しも合わないだろう性質の存在を前に、余計なことを言って切られたりしたらどうしようもない。
俺に出来るのは、落ち着きなく擦り合わされる弧見さんの手に、此方もまた落ち着きのないうさぎを握らせることくらいだった。
「…………す、すみません、代わりのものをおも、お持ち、おもちしました。これをもらってください、あのこは返してください」
声の殆どがひっくり返っていた。下手すると少し涙も出ているかもしれない。だが、少なくとも、俺が前職場で見た時の、責任を逃れようという意識は見えなかった。
水音が不満げに鳴っている。
俺にはなんと言っているのかは分からないが、弧見さんは一度目をつけられたために通じるものがあるのか、更に言葉を重ねた。
「こ、こちらでは足りませんか」
水音が鳴っている。
「他に、何が、必要ですか」
水音が鳴っている。
「では、それを渡します」
それは果たして判断として正しいのだろうか、と不安を抱くと同時に、勢いよく扉が開いた。現れた肉の塊が、弧見さんを頭から飲み込む。驚き過ぎて声も出ないまま、俺は胸元までを肉で覆われた弧見さんの身体を急いで抱えた。
大丈夫だろうか。明らかに、何か、何らかの取引をしたと思しき文言だったが。本当に大丈夫だろうか。
「弧見さん、大丈夫ですか」
身体ごと持っていかれそうになる弧見さんを支えること、三十秒。肉の塊は、あっさりとその身体を扉の奥へと引いていった。弧見さんの手元からはうさぎが消え、彼の髪はすっかり短くなっていた。完全に、千切り取られている。
そうして、扉が閉じる直前、追い出されるようにして少年が転がり出てきた。剥がれた顔の皮は持っていかれてしまったのか、顔があるべき部分には無数の目玉が埋め込まれていた。
かなり不気味な様相だが、彼の姿を確認した弧見さんは、気にした様子もなく、安心したように息を吐いた。
無事が確認できたのなら、こんな恐ろしい階はさっさと去るに限る。俺は弧見さんと共に少年の身体を支えながら、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
やっぱり八階が長い。
あと眩しい。絶対にこの階では降りたくない。
「高良くん」
「はい」
「ありがとうございます」
「…………いや、大したことはしてないんで。むしろ俺との会話が切っ掛けだったというか」
まさか、弧見さんにお礼を言われる日が来るとは思わなかった。
「仕事を譲ってくれたじゃないですか。そのお礼です。おかげで友達が出来ました」
「……それについても別に、俺が何かした訳でもないですよ」
入居の際に『友達』が出来るのは確定の条件だし、それと仲良く出来るかは弧見さん次第だった。その上で、他にも友達が出来たというのなら、それは単に弧見さんがこれまでの生活よりも関係値を築く努力をしたに過ぎない。
「此処はいい職場ですね」
弧見さんはしみじみとした声で呟いてから、少し疲れの滲む声で付け足した。
「でも、危ないから僕は辞めます。文山さんの方がマシです」
「……いやあ、それは嘘ですよ」
「やり過ごせば終わりますから」
それが物凄く大変でみんな辞めていったのだが、と思ったが、弧見さんの中では色々と納得が行ったらしいところを引っ掻き回しても面倒なので、俺は肯定とも否定ともつかない返事を返しておいた。
***
さて。
そういう訳で、弧見さんは無事に退去の手続きを済ませた。
ついでに一時的な同居人だった少年も部屋を出ることになったのは予想外だったが、弧見さんが言う通り、食料の一種だと思って見てくる隣人がいる部屋にいるよりは、存在を受け入れてくれる居場所を得られた方がいいだろう。
弧見さんと少年の生活は、少なくとも大きな支障はないらしい。
退去から一月後にファミレスで顔を合わせた弧見さんは、なんだか妙に晴れやかな顔で告げた。
「彼の奥さんについて、一度きちんと調べてみることにしたんです。話も出来ないまま永遠にお別れするかもしれないとなったら、怖くなったみたいで」
「そうなんですか。一応、店長は顔とか見てると思うんで、何か力になれることがあれば言ってください」
「ついでに、君のお父さんについてもちょっと調べてみました」
「はい?」
「これね。住所です」
「は、え、はい? はっ?」
訳も分からず素っ頓狂な声を返した俺に、弧見さんは何を考えているのかもあまり分からない、気力の欠片もないどうでもよさそうな顔で紙片を押し付けてきた。
彼はもしかすると、本当に探偵に向いているのかもしれない。そんな思いが思わず口から出ていたが、弧見さんは心底疎ましそうに「僕に向いていることなんて何もありませんよ」とうんざりと言うだけだった。
適性というのは、どうも本人には上手く判断がつかない場合がある。彼にとってはこれがそうなのではないだろうか。俺としてはかなり真剣にそう思ったのだが、これ以上何を言ったところで、上手く伝わる気はしなかった。
ところで。俺はこれを貰ってどうすればいいのだろうか。
別に、父親に対する興味はなかった。俺の人生には初めから存在しないものだったから、そもそも気にしたこともない。
父親がいればもう少しまともな人生になったのか、考えてみたことがあったが、想定としては、居た方が悪いことになる予感があった。
「あの、弧見さん。別に俺は父について知りたいとは思ってなくて……」
「向こうが探ってるんですから、こっちも知ってた方がいざという時、安心では?」
「まあ、それはそうかもしれませんが……今更関わりたくない、というか……」
「はあ。いいですか、高良くん。君は分かっていないようだから説明してあげます」
折りたたまれた紙を開くつもりもなく見下ろして困惑のままに眉を寄せる俺に、弧見さんはなんとも力強い声音で続けた。
「親というのはね、子供の面倒を見る義務があるんです。放って置いちゃならないんです。自分で作ったんだから、どんな事故で出来ようが愛せなかろうが何が起ころうが、生きていけるように面倒を見るものなんですよ。それが責任というものです。
勝手に作っておいて、思い通りに育たなかったから捨てようだなんてとんでもない。知らぬまま済まそうだなんてのも、もちろんとんでもないことです」
「は、はあ……そうですかね……?」
「そうです。ですから、これは君が主張するべき権利です。あるいは君の両親の義務だとも言えます」
そんなことを言われても、既に成人している人間に対する義務なんてほとんどないような気もするが。戸惑いが顔に出てしまっていたのか、弧見さんは再度念を押すように言った。
「どんな理由だろうとこの世に生み出したのだから、親が最後まで面倒を見るべきなんです。君はまだ、そうされるべき子供です。もちろん僕もです」
弧見さんがあんまりにも真っ直ぐな目で言うものだから、思わず頷いてしまっていた。彼の言葉は、出会った頃からひとつも変わっていない。だが、そこに込められているものは以前のような逃避というよりは、ある種の覚悟のように思えた。
マンションで過ごした経験によって、何かが吹っ切れたのかもしれない。友達も出来たことだし。
俺が納得(のような態度)を見せたことに満足したのか、弧見さんは軽い食事を済ませると、すんなりと帰り支度を整えた。
そうして、別れ際。
「ところで、僕は何を食べていたんでしょうか」
「……思い出せないんですか?」
「全く」
「……じゃあ、思い出さない方がいいんじゃないですか」
「何を食べていたと思いますか?」
「……さあ……?」
「高良くん」
「…………餅……とかじゃないですか」
最後に残された真顔での問いには、妙な圧があった。かなりの圧だった。故に、俺は気圧されるままに、確証はないながらも予想の一つを口にした。
あいつが俺の前に用意したものの中で、食物と呼べるものはそれだけである。いや、もしかするとあいつは人間を食料と認識しているので、ナギミヤと呼ばれていた男の首かもしれないが、それだけは無いと思いたいので、選択肢からは積極的に排除しておいた。
餅である。間違いなく。そういうことにしておく。
「餅、ですか」
「……はい。そうだと思います」
「餅」
顎に手を当て考え込んだ弧見さんは、あまり納得はいかない顔をしていたが、最後には無理に納得するように頷いて去っていった。
手元に残った紙を見下ろす。
住所の下には、『凪宮愁一』と書かれていた。




