『鍵』
「友達から聞いた話なんだけどね」
社会人となって数年が経った頃の話だ。
友達が住むマンションの扉はツーロックで、ドアノブの上下に離れて鍵がついていた。
その部屋の鍵は、交換の都合で上下が別のものになっていた。つまり、上の鍵を開けてから再度鍵を持ち替え、下の鍵を開ける必要がある。
住み始めてからすぐに、友達は妙な現象が起こると気付いたそうだ。
上の鍵を開けた後に下の鍵を開いたところで、どういう訳か、開けたばかりの上の鍵が閉まってしまうのだ。
鍵の閉まる音を聞いた時は何かの聞き間違いかと思ったが、実際にドアを引いても開かない。
仕方がないので再度上の鍵を開いてみたところ、今度はすんなりと開く。
簡易な作りの鍵が扉を閉めた衝撃でしまってしまう、というのはよくある話だ。
だが、玄関の施錠用の鍵が、ほんの一瞬で何かの間違いが起きて閉まる――なんてことは、ほとんどない筈である。
おかしな現象を前に訝しんだ友達だったが、日々の仕事が忙しく、業者に頼むのは面倒だという思いが勝ってしまった。わざわざ交換や修理を待つより、上の鍵を二回開いた方が早い。
何度か繰り返される内に慣れてしまい、友達は上の鍵を二回開く生活をしばらく続けた。
そんな異常が何度か続いたあと、管理会社から連絡があった。
『鍵の不調が起きて困っている』と連絡を受けたらしいが、友達にはそんな連絡をした心当たりがなかった。面倒で後回しにしていたのだから当然である。
管理会社の話を聞いたところによると、どうも、そもそも友達の名前での連絡ではなかったそうだ。
申請にない同居人が住んでいるか、との確認も同時にされたが、これも友達には心当たりがなかった。
相談内容は、閉めたはずの鍵が勝手に開いてしまって困っている、どうにかならないか、というものだった。
ちょうど、友達が遭遇している現象とは逆の相談だ。
訳が分からないながらも、友達は友達で、「開けた筈の鍵が閉まって困っている」という話をした。
管理会社は必要ならば鍵交換の手配をすると言ってくれたが、やはり面倒だったので頼まなかった。
せいぜい、鍵が勝手に閉まり直すだけのことなのだ。そんなことで交換費用を払うのは馬鹿らしい話である。
二週間ほどして、管理会社から再度連絡があった。
『勝手に鍵が開いてしまって困っている。どうにかしてほしい。交換してもらったのに意味がない』という泣き声混じりの相談が、やはり友達ではない名前で入ったのだという。
どうにも、よく分からない状況だった。管理会社も事態を把握しきれていないらしく、不明瞭な物言いで再度、同居人がいないかだけの確認をされた。
居ないものは居ないので、そうとしか答えようがない。そもそも言わせてもらうのなら、友達は鍵の交換を依頼した覚えがなかった。
一体何処の部屋の話をしているのだろう。考えたところで答えが出ることはなく、友達は仕方なく、無駄な出費だとは思いつつも、上の鍵を交換してもらうことにした。
結果として、あまり効果はなかったそうだ。誰とも知らぬ入居者から管理会社に連絡が入ったのと同じように、『交換してもらった』としても『意味がない』状態だった。
しばらく悩んでから、友達は上の鍵を使うのをやめたそうだ。
交換しても意味がない上に、一度目の施錠は必ず開錠される。その上で、何故か管理会社からは何処かクレームじみた連絡が入るのだ。使用するメリットの方が少なかった。
何より友達が不気味に思っていたのは、管理会社に入る連絡だった。
鍵が開くようになって困っている、という相談は、回を増すごとに切羽詰まったものになっていたらしい。
本当にお一人なんですよね、という確認もしつこくなり、友達もうんざりしていたそうだ。
相談者は友達が済む部屋の住人を名乗るのだから当然の確認ではあるのだが、全くの無関係である以上、面倒だとしか思えなかった。
ある時、酔って帰った日に、間違えて上の鍵を回してしまったそうだ。
仕方なく、再度鍵を回したが、やはりすぐに施錠されてしまった。
奇妙な話だと思う。もし仮に、この部屋に見えない入居者がいるのだとしても、どんな時間帯だろうとすぐに施錠されるなんてあり得るだろうか。
もしかしたら、鍵を開けた瞬間だけ、時間も場所も違う何処かに繋がっているのかもしれない。鍵を閉め直す誰かがいる部屋に。
友達は酔った頭で色々な推測を立てつつも、すぐに飽きて思考を放棄し、扉を開いた。
すると、ドアガードがかかっていたそうだ。鍵ならばともかく、内側に人もいないのにドアガードがかかるなんておかしい。
不審な思いを抱えたまま隙間を覗いた友人は、そこで、凄まじい形相でスタンガンを構える女性と目が合った。
一瞬、部屋を間違えたのだと思ったそうだ。だが、確かに鍵を回した記憶がある。酔いの残る頭だが、これは確かだった。
友達は、すぐに扉を閉めた。女性の顔は完全に不審者を見る目をしていて、会話などままならないことは容易に予測できたからだ。
閉めた扉の奥では、何の物音もしなかった。
いっそ不気味な程に静かで、再び施錠されることすらなかった。
友達は、その日は扉を開け直す勇気が湧かず、部屋には戻らなかったという。
翌日、意を決して開いた扉は、きちんと友達の部屋に繋がっていたそうだ。
夢か何かでも見たのかもしれない。
おかしなクレームを入れる実在するかも怪しい住人と、得体の知れない挙動をする鍵のせいで、知らぬ間にストレスが溜まっていたというのもありうる。
そんな風に納得してみようとしたものの、友達はその出来事のすぐ後に、退去の手続きを取ったそうだ。
扉の隙間から見た女性の凄まじい形相が、記憶から消えなかったのだという。
女性そのものが恐ろしかった、というのとは少し違った。
理屈は分からないが、この玄関扉の鍵は友達の部屋と女性の部屋、両方を繋いでしまっているのだろう。
友達が深く考えずにしていた『施錠』のために、『開錠』されていた女性があそこまで追い詰められていた──という事実が、どうにも耐え難かったそうだ。
友達はそれ以来、ツーロックの物件はなんとなく避けているらしい。




