『顔』
「友達から聞いた話なんだけどね」
中学生の頃の話だ。
友達のHくんには、少し変わった悩みがあった。印象に残った顔が、必ず夢に出てきてしまうのだそうだ。
友達だって、怒られたりした日には母親や部活の顧問が夢に出てくることはある。夢は記憶を整理するためのものだと言うし、嫌な思い出はそれだけ強く残るのだろう。
ただ、聞いたところによると、Hくんの場合は、『顔』の出方が少々変わっていた。
大抵は教室や自宅にいる夢を見る。そこでふと、何かしらの隙間に目をやると、誰かの顔があるのだそうだ。その人が出てくるのではなく、顔だけが浮いているらしい。
一番嫌だったのは、指名手配犯のポスターの顔が出てきた時だそうだ。自室の扉の隙間から、殺人を犯したと知っている人間の顔が覗いているのは素直に不気味である。
目が覚めてからも、Hくんはしばらく扉を開けられなかったそうだ。
Hくんは元々記憶力が良いタイプだった。中でも特に、視覚的な情報は強く記憶に残ってしまうのだろう。暗記が得意だと言っていたが、その話を聞いてからはあまり羨ましいとは思えなくなった。
ある時、Hくんから相談を受けた。いつもの夢の話だと思ったが、よく聞いてみると少し事情が違った。
「見たことのない男の人が出てくる」のだそうだ。
会ったことも見た覚えもない男の顔が、隙間から此方を覗いているらしい。Hくんが覚えているからこそ夢に出てくる筈なので、少し妙だと思ったそうだ。
友達はそれを聞いた時、とある都市伝説を思い出した。夢の中に出てくる男、として知られる顔の話だ。
謎の男が出てくる夢を見続けている患者を診察した精神科医が描いたもので、その絵を知った大勢の人が『自分もこの男を夢で見た』と言い始めたのだ。のちにマーケティングの一種だと判明していたが、テレビでも取り上げられるくらいには有名な話だったので、Hくんも何かでそれを見たのかもしれない。
そう思って確かめてみたが、Hくんは首を振った。確かに白黒のようではあったが、出てくる男の顔は日本人だったそうだ。
印象に残っていない顔は出てこないから、記憶力の良いHくんが思い出せないのはおかしな話だった。
すれ違っただけの通行人だったとしても、夢に出てくるのなら記憶に残る何かは起きていて、自分なら思い出せる筈だとHくんは言った。
思い出せないことで更に印象が強まっているのか、もう一週間もその男が夢に出てくるらしい。
Hくんは似顔絵を描こうとしたが顔の造形を伝えられる程の絵心はなく、男の顔を伝えられないことをもどかしく思っているようだった。
それから数日が経ち、何度か夢の愚痴を聞いた頃。
Hくんの近所にあるアパートで、一人暮らしの男性が突然死していたと判明した。風呂に入っている時に意識を失ったのか、浴室で倒れていたらしい。
部屋の電気がつけっぱなしであることを不審に思った近所の住人が通報して判明したそうだ。死因は心臓発作だったという。
気の毒そうに語る母親の話を聞いた時、Hくんは夢で見ていた男の顔が、その近所の男性であることを思い出した。
「無意識に部屋の様子がおかしいと思ってて、すれ違った時に見た顔が夢に出てきたんだと思う」
Hくんはそのように語った。
近所に住んでいるのだから、Hくんとその男性が顔を合わせたこともあるだろう。
そのアパートは通学路として通る道にあり、Hくんは毎日その側を通っていた。明かりがついていることを無意識に妙だと思って、潜在意識に上った男性の顔が夢に出ていたのかもしれない。
そこまで聞いて、友達はいくつかの違和感を抱いた。
男性の顔を覚えているのはまだ分かる。だが、近所ですれ違っただけで、その部屋に住んでいる人間だと分かるものだろうか。
アパートでの突然死の話を聞き、それが誰かを知った後に見覚えのある男の顔が夢に出るのなら分かるような気もするが、この場合は順序が逆だ。
更に言えば、似顔絵にも少し妙なところがあった。
隙間から見える顔として描かれた男の額には、髪の毛とは違った線が書かれていた気がしたのだ。写実的なものではないから曖昧だったが、友達からすると、それは傷を示しているように見えた。
Hくんは、夢で見たままを似顔絵として描いた筈である。
顔を合わせた際の印象が夢に出ていたのであれば、Hくんなら『傷のある男性』としてすぐに思い出せていたのではないか。
Hくんは男性の顔に傷を描いたが、それに言及することはなかった。夢で見た光景では、それが傷だとも思っていなかったのかもしれない。
浴室で倒れた際、頭を何処かにぶつけて怪我をした、というのはあり得る気がした。Hくんが見た男性の顔は、怪我をしてからのものなのではないだろうか。
似顔絵に描かれた男の顔は、真っ直ぐに此方を見ていた。何かを訴えるかのように。
「いやあ、人間の記憶力ってすごいよな」
Hくんが納得したように語るので、友達は抱いた違和感を口にすることはなかった。
幽霊の顔は、見えていなくても記憶に残ってしまうのかもしれない。そんな予測は、胸にしまっておくことにした。
ただ、Hくんはそれきり、夢で見た顔の話をしなくなったそうだ。
「――――怖かった?」
「……あー、うん。怖かったよ」
相鎚を打ってから、かなり上の空な返事になってしまったな、と気づいた。
完全に、考え事をしていたためである。別に聞き流すようなつもりは一切無く、聞いてもいたのだが、そうとは聞こえない返事になっただろう。
どうしたものだろうか。その話に出てくるThisMan、この間動画で一緒に見たやつだろ、とでも言ってやれば良いだろうか。急いで付け足したら逆に白々しくなってしまうかもしれない、などと思いながら、遠方に通る線路を逃避のように眺める。
沈黙に耐え切れず、意を決して隣を見やれば、仕切り板の向こうからは、すっかり見慣れた管状の口が此方を覗いていた。
穴が開いたような造りの口が、まるで首でも傾げるように緩く曲がっている。
「元気ないね。風邪?」
「……いや」
体調の心配をされてしまった。
上の空であることを咎められるよりも気まずさが生じる。
嘘でも頷いてしまおうかと思ったが、更なる気まずさに襲われる予感がしたので、素直に否定しておいた。
「花粉症?」
「今のところはなってないな」
出来ればこの先もなりたくはないが、対策したところで防げるものでもないそうだ。花粉症に苦しむ矢向さんの様子が浮かび、少し眉が寄る。あれは本当に辛そうだった。
ふうん、と呟いた隣人は、此方の様子を窺うように口の奥から目玉を覗かせると、その視線をやや上方へと向けた。
「来た?」
「…………何がだ?」
「違うのか」
何がだ。
説明してくれ、と思ってから、思わなかったことにした。
隣人の視線は、はっきりと上に向いていた。七階の上は八階である。当たり前の話だ。更に上階であるかもしれないが、隣人が見ていたのが八階だろうと九階だろうと、なんなら十階だろうと、意味するところは何も変わらない。平等に危ない。
隣の部屋から餅をプレゼントしに来られるのだから、上の部屋からだって、何かがやってくることはあるだろう。全くあってほしくないが、此方が願ったところでどうにもならないに違いない。
窓の鍵をかけるのを忘れないようにしよう。静かに心に誓った。
ついでに、ベランダの端にいる彼も部屋の中に入ってもらった方がいいのかもしれない。そう思って膝を抱える彼を見やった俺は、そこで今日の約束を思い出して、そっと溜息を吐いた。
この後、神藤さんと顔を合わせることになっている。
弧見さんが一時的に七〇二号室に住む話をまとめるためだ。
一週間前。連絡を入れた俺から話を聞いた神藤さんは、伊乃平さんに確認を取った上での判断として、弧見さんの提案を悪いものではないと考えたようだった。
この『悪いものではない』という反応は、マンションにとって、という話ではなく、俺個人にとっての話である。
神藤さんは初めの面接時から、俺――というより選択肢のあるだろう若者――には、もっと別の仕事に就いてほしいのだと話していた。これは今も変わらずで、他の人が見つかって俺がこの仕事を離れる切っ掛けになるのなら、希望者を受け入れるのは良いことだと思っているようだった。
言っていることは弧見さんとほとんど変わらないのだが、神藤さんが言うと違って聞こえるのは何故だろうか。これが人徳というやつなのかもしれない。
ちなみに、俺の時と同じく『いいんじゃねえの』で済ませた伊乃平さんとは違い、大家さんからは随分と渋られたそうだ。せっかく平和に(?)なったところでわざわざ人を入れ替えて、問題でも起こったらと思うと気が気じゃないんだろう。
ただ、弧見さんは既にマンションまで後をつけてきてしまっている。断ったところで、余計な問題が起こる恐れがあった。
一度希望を聞いて、自ら退去を願ってもらった方が穏便じゃないか、となって、結局は了承してくれたようだった。
『誤解はしないでほしいんだけど、高良くんの都合も聞かずに退去してもらうなんてことはないからね。仮に、その人がとても向いているとなっても、その先についてはまたきちんと話をしよう』
弧見さんを受け入れるつもりだと言った上で、神藤さんは通話の終わりにそのように付け足した。神藤さんは、面接時の取り乱した俺を知っている。他に行く当てなどないと喚いたのも見ている訳で、弧見さんの提案を受け入れることで再び精神が不安定になってしまわないかを気遣ってくれているようだった。
その節は本当に、随分とお見苦しいところをお見せしてしまった。落ち着いてから思い返すと、本当にクソみたいな駄々で雇ってもらったとしか言えない。
俺も実際のところは、弧見さんとそう変わらないのではないだろうか。
薄らと湧いてきた自己嫌悪に思わず肩を落としたところで、隣から声がかかった。
「タカヒロには興味がないから大丈夫だよ」
「………………えーと」
先ほど向けた視線の説明だと言うことは、なんとなく理解した。普段と違う様子の俺を見て、なんらかの気遣いをしてくれたことも察した。
ただ。それは一体、何がどう大丈夫なんだ?とは聞きたくなった。
そもそも、こいつは俺が何について心配していると思っているのだろう。きちんと安心させるつもりらしい優しさを伴っているところが逆に不気味だった。
そして、俺は大丈夫だと言うなら、大丈夫ではない存在がいることにならないか。だとしたら、それは一体誰を指すのだろう。もしや、既に弧見さんが住むことになるのを察しているんだろうか。
教えてもいないことを知られているのは不気味だ。頭の中を覗かれているようで、あまり気分がいいものでもない。
ただ、隣人が此方の心を覗いている――というのは予想としては少し違うような気がしている。こいつは俺が高架下での一件を尋ねるまで、澄江由奈と遭遇したことを知らなかった。
話すよりも先に知っていたのは母親の名前ぐらいだ。あとは、ハヤトの祖母か。あの人もハヤトの祖母さんも妙な団体に頼っていたようだし、あれは単に、そうした繋がりから伝わったのかもしれない。
「それって、俺以外だと大丈夫じゃないってことか?」
「うーん? みんな大丈夫になるから、大丈夫じゃないことはないよ。でもタカヒロには興味がないから、もっと大丈夫」
聞いたところで結局よく分からなかった。いつものことである。
ただ、今回は、『いつも』ではなくなる場合が存在している。
「……もしかしたら少しの間、俺以外の人が此処に住むかもしれないんだ。その人も大丈夫なのか?」
「誰? コズミ?」
「いや、違う人だな」
「なあんだ。また来るって言ったのに」
近頃は、知らない名前がよく出てくる。イマイさんに関してもそうだが、隣人はこの部屋に住んでいた人間の名前を全て覚えているらしい。
こんな存在にいつまでも名前を覚えられている――というのはひどく恐ろしいことのように思えたが、隣人にとっては、それこそが友好の証なのだろう。
残念ながら、どれだけ友好を示そうと『友達』は全員此処を離れてしまった訳だけれども。それは致し方あるまい。
「……此処に住みたいって言ってる人が居て、少しの間、同居人として登録して住んでもらうのが良さそうだって話になってさ」
「ふうん? 友達が二人になるんだ、面白いね」
少しの緊張を伴って口にした俺の説明に、隣人は興味を引かれた様子で身を乗り出した。どうやら、言葉の通り、かなり面白いと思っているらしい。
隣人には友達がいない。だからこそ、俺に友達をやめられるのは心底困ると思っている。
けれども、これは正確に言うなら、『隣に住んでいる存在』が友人でなくなるのを惜しんでいるのだ。
隣人はマンションを去った相手についても、変わらず親しく思っている。だが、この部屋に住んでいない存在は、こいつにとっては『友達』ではなくなる。奇妙な理屈だが、そうとしか説明できなかった。
伊乃平さんに『友達がいない』のと同じようなものかもしれない。俺は未だに、彼の顔を全くと言っていいほど思い出せないでいる。
入居の手続きを済ませた時点で、隣人にとってはそれが友人となる。だから、弧見さんもきっと隣人にとって『友人』になるだろう。仲良くやれるかどうかは、弧見さん次第だろうが。
……そもそも、あの人には友達がいるんだろうか。人間相手でもあまり上手くはやれていないのに、人間ではない相手と上手くやれる確率はどのくらいだろう。
「俺の知り合いなんだ」
「友達?」
「絶対に違う」
そこだけは否定しておかないとならなかった。これまでも違うし、これからも違う。仮に弧見さんが同世代で同級生であったとしても、絶対にそうはならなかっただろう。
「その、ちょっと変な人だけど、悪い人じゃないから、仲良くしてやってくれ」
「変な人?」
隣人はなんだかとてもおかしな冗談でも聞いたように笑った。確かに、隣人以上に変な人はいないのだから、この紹介は妙に聞こえるだろう。
ツボにでも入ったのか、隣のベランダからは、小さな笑い声がしばらく続いていた。




