提案
四月七日。
俺は弧見さんから『父親』とやらの話を聞くために、彼の家の最寄り駅へ向かった。
弧見さんは実家で両親と住んでいるので、つまりは社長の実家の最寄りでもある。職場の近くと比べても居心地の悪さはあまり変わりなかったが、とりあえず、駅の側にあるファミレスに入って弧見さんを待った。
「高良くん」
「ああ、お久しぶりです。元気でした?」
「元気な訳ないですよね。あんなところで」
くたびれたスーツ姿の弧見さんは、高い背を縮めるようにして身を屈めて歩いてきた。
まとめるように度々注意をされていた長髪にも変化はない。むしろ、更に伸びたことで第一印象は悪化しているかもしれなかった。
格好と同じく勤務態度も変わらないのであれば、当然、居心地は悪いままだろう。弧見さんには自らを改めるなんて発想はないので、彼の不満は溜まる一方に違いない。
「二週間くらい前ですかね。君のお父さんの知り合いだと名乗る人が突然やってきて、高良さんがいないか聞いてきたんです。文山さんが仕事の邪魔だってすぐに追い返しましたけど」
「それ、本当に俺を探してたんでしょうか」
「高良くんみたいな名前の人いないですから、人違いだとは思わないです」
「……まあ、そうでしょうね」
苦笑した俺を気にかけることもなく、弧見さんはタブレットで好きに注文を始めた。元上司である文山が言ったのならともかく、弧見さんが口にしたのなら、この言葉には深い意味は無い。
「その、俺の父親については何か言ってました?」
「さあ? 向こうは何にも事情は言わなかったですよ。ああ、そうだ。『珠璃奈』ってのは、高良くんのお母さんですか? なんか、一緒に住んでるのかとか、だとしたら住所を知らないかとか言ってましたね」
「…………そうなんですね」
届いた料理を頬張る弧見さんは、それ以上は知らないようだった。
また来たら教えてあげます、と言ってくれたが、その時には文面だけで連絡を受けようと思った。
「それにしても、急に辞めるから困りましたよ。うちの会社は退職の三ヶ月前には言わないと駄目なんですから、ちゃんとしてください」
「あー……その、色々ありまして」
「高良くんは、今は何をしてるんですか? 転職成功しました?」
誤魔化し笑いを浮かべる俺に、弧見さんはさして興味もなさそうに口にした。
「一応、今は別の仕事をしています」
「へえ! いいなあ、どんな仕事を? お給料は? いいところなんでしょうね」
「いやあ、まあ、どうなんですかね」
「だって高良くん、前より顔色がいいですから」
弧見さんは、わざわざ他人の顔色など気にかける人ではない。そんな彼からしても変わって見えたのなら、俺の変化は相当なものなのだろう。
実際、職場環境については圧倒的に今の方が良い。そもそもが、最も大きな問題については片が付いてしまった。もしかしたら別の問題が浮上しているかもしれないが、それだって、あの人ほどには酷いことにはならないだろう。
いつの間にか頼んでいたお酒を片手に、弧見さんは大きな溜息を吐く。
「僕はもううんざりです。誰にも迷惑かけずに過ごしているんだから放っておいてくれればいいのに、今更働けだなんて、信じられない」
それは、共に働いている時からも度々聞いた愚痴だった。
弧見さんは内定が決まらないまま大学を卒業し、そこから兄の会社に入るまで就職することはなかった。母親はそれでいいと言ったのだし、家は金に困っていないのだからわざわざ働く必要なんてない、というのが弧見さんの変わらぬ主張である。
「兄嫁さえ居なきゃこんなことにはならなかったのに」
これに関しても、お決まりの愚痴だ。ある時期から母親が弧見さんに働くようにとせっつき始め、急に何を言い出すんだと問い質したところ、兄の嫁からの強い要望だったのだそうだ。
俺からすると、多分、弧見さんのお母さんも言いづらかっただけでずっと働いてほしいとは考えていたんじゃないかと思うのだが、弧見さんは両親が兄嫁の説得に負けたのだと信じているようだった。
「最近は酷い言いがかりまで始めたんですよ。僕が高校生の姪っ子を妙な目で見てるんじゃないかって。そんな発想が浮かぶこと自体が気味が悪い! 人を犯罪者みたいに!」
「……心配性なのかもしれませんね」
「実家を出て行けと言うんです。母さんに会いに来た時に僕がいると気味が悪いからって。僕は働いているだけでこれ以上ないほどに努力してるのに、なんて無礼な女だ」
曖昧な相鎚を打つ。肯定するにも据わりが悪いし、否定した場合の弧見さんの反応が怖い。こんなに人目がある中で泣き出されるのは、流石に。
大袈裟に肩で息をした弧見さんは、心底うんざりした様子で吐き出した。
「親にはね、死ぬまで子供を養う義務があるんですよ。子供は別に、好きで生まれてきた訳でもないんだから。親は義務を果たすべきなんです」
「そ、」
れはどうだろうか、と、俺には続けられなかった。
弧見さんが、あまりにも確信に満ちた澄んだ目をしていたためである。責任の転嫁や放棄ではなく、弧見さんは心の底から、そう信じているようだった。
結果として、言葉に詰まった俺の喉からは妙に引きつった音が零れる。
弧見さんはお酒を飲んでいることもあってか、いつになく力強い声で続けた。彼はあまり、酒に強い方ではない。
「産みたいと望んで産んだんですから、親が最後まで面倒を見るべきなんです。子供は常に庇護を受けるべきです! 社会を生き抜く力を持たない弱い存在なんだから、そもそも僕は大人と呼べない。守られるべき子供を酷い環境に置いているなんて、これは虐待です!」
俺は黙って水を飲んだ。それくらいしかやれることがなかったためである。
兄嫁さん――社長の奥さんの気持ちが分かるような気もした。弧見さんは決して悪い人ではない。ただ、真っ当な人間だとも言いづらい。年頃の娘さんが居るのであれば、奥さんの心配や不安は最もだった。
「高良くんがいなくなってから、誰も僕を守ってくれないんですよ。兄さんは僕を疎ましく思っているんです、僕の方が母さんに可愛がられているから。これもきっと復讐のつもりなんだ」
「辛いなら、転職するのはどうですか」
提案したのは、単に愚痴の切れ目を探してのことだった。
一応、弧見さんが働くにしても、もっと彼に向いている業種があるのではと思ったのも確かだ。俺だって得意ではなかった仕事だけれど、弧見さんにとっては不得手を通り越して壊滅的だった。
仮に兄の会社でなかったなら、弧見さんのお母さんだって息子にこんな職は進めなかっただろう。
ただ、弧見さんは成果を上げなくとも十分な給与を支払われている。入った時点で既に俺よりも給料は高かったし、勤務時間にも都合をつけてもらっている。それは紛れもなく弧見さんへの配慮だろう。
社長から冷遇されているとはいうが、下手に干渉されるよりは放置されている方が弧見さんにとっても過ごしやすいのではないだろうか。兄弟関係を聞くに、あまり相性が良いとは言えないようだし。
弧見さんが受けている『被害』というのは、受けて当然の指摘である。これは間違いがない。だが、弧見さんはこうした指摘を自身への加害だと思うタイプなので、下手なことは言えなかった。
「その、弧見さんは頭が良いんですし、在宅なんかで出来る仕事なんかを探すのもいいんじゃないですか」
「無理です。高良くんくらいに若かったら話は違ったんでしょうけど」
年齢の話を持ち出されると言葉に詰まる。年齢は不可逆で、過ぎ去った時間を取り戻すことは出来ない。
俺でも多くの後悔があるのだから、倍近く生きている弧見さんにとっては過ぎた時間というのは抱えきれない程の重みがあるのだろう。現在における努力を放棄したいくらいには。
そもそも、俺自身、別の仕事を探すことに消極的なので、弧見さんにとやかく言う権利はないように思えた。
「高良くんは何処で仕事を見つけたんですか? 転職サイト?」
「いえ。直接、……募集が張り出されているのを見かけて」
バス停の側にあった寂れた看板と張り紙についてどう説明すればいいか迷い、辿々しい物言いになった。今はあの張り紙は撤去されているそうだ。
もしも俺が退去する日が来るのならまた募集がかけられるのかもしれない。次に住むのはどんな人なのだろう。
業務内容についても聞かれ、住み込みでマンションの管理をしている、とぼかして伝えると、弧見さんは強い興味を持ったようだった。住む場所が確保できる上に、どう考えても今の職場よりは良い環境なのだから、当然の反応だろう。
誤魔化せばよかったかもしれない、と思ったのは、次の言葉を聞いてすぐだった。
「いいなあ。僕にも紹介してくださいよ、その仕事」
「……定員が一人なので」
『七〇一号室の隣に住む』という仕事については、それで正しい筈である。各階の作りについては知らないが、七〇二号室は単身者用の作りをしており、二人で住むには手狭すぎる。入居者は一人の想定だろう。
『七階に住む』仕事があれば弧見さんの枠もあるのかもしれないが、これについては俺が遠慮したかったので、他に空き部屋があることは言うつもりはなかった。
隣に弧見さんが住むのは、下手したら化け物が住んでいるよりも嫌かもしれない。比べる害の内容が違いすぎるが。
「じゃあ、僕と替わってくださいよ」
「え?」
弧見さんは名案を思いついた、とでもいいたげな顔で続けた。
「僕をその職場に紹介してください。高良くんは若いんだし、僕と違って今からでも色んな仕事をいくらでも探せますよね。そうだ、先生なんかいいんじゃないですか。きっと向いてますよ」
愛想笑いを浮かべてはみたものの、見事に引きつっている自覚はあった。そして、弧見さんは俺の表情など微塵も気に留めていないだろうとも思った。
弧見さんは俺に断られるだなんて想像もしていない。共に働いた一年間ずっとそうだったのだから、譲ってもらって当然だと思っている。
いや。仮にその経験がなかったとしても、弧見さんは譲られて当然だと考えただろう。自分は年上であるし、誰よりも苦労をしているし、気を配られるべき存在だと信じているからだ。
極めて悲しい話だが、こういう人間は、頼みを聞いてくれそうな存在を見つけるのが上手い。頭が痛くなってきた。
「いや、でも、そんなに安全とは言えない仕事なんです。これまでに何人も辞めていますし、大怪我をした人だっています」
「そんなのうちも同じでしょ。先月も二人辞めて、また求人出しましたよ。病院通いなんて何人もだし、言わないだけで死んだ人だっているでしょう、どうせ」
返す言葉がなかった。いや、きっと見つけようと思えばあったのだが、わざわざ探そうとする労力そのものが既に俺にはしんどかった。
全くもって、弧見さんの言う通りである。上司の文山は、飲み会では自分が追い込んで精神科に通わせた人数を武勇伝のように語る。きっと、失踪同然で辞めた俺もそこに加わっていることだろう。
「僕が死んだら責任取れるんですか。そうなったら高良くんは人殺しですよ」
「………………」
すごい理屈だった。もっとすごいのは、弧見さんは間違いなくこれを正しい理屈だと思っているところだった。彼は確か俺よりも余程偏差値の高い大学に通っていた筈なのだが、どういう訳かこういう理屈を平気で口にする。
ところで。もし此処で弧見さんにあの仕事を紹介したとして、そのせいで彼が死んだとしたら、屁理屈ではなく殺人に当たらないだろうか。
「……分かりました、一度話をしてみます」
完全に、この場を収めるためだけの嘘だった。弧見さんが、泣き出す前の見慣れた顔をしていたためである。
『父親』の一件についても結局大した情報はなかったし、同じ職場に勤めているならともかく、これ以上配慮をする必要もなかった。
当たり障りないやりとりを交わして解散し、帰宅後。弧見さんから一件のメッセージが入った。
グ▇▇ハイツを下から見上げた写真だった。
「………………」
人形こそいないが、自宅の写真は送られてきた訳だ。
ちょっとした怪談である。
弧見さんは尾行が上手い。一年の付き合いを経ての新たな発見である。探偵でも始めてみたら案外向いているかもしれない。あるいは、是非ともその情熱を今の職に向けてほしい。
思った通りの、いや、思った以上の疲労感を味わう羽目になった。
もはや、隣のあいつと話している方が余程平和なのではないだろうか――などと思ってしまうから、非常によくない。
三十分後。散々悩んだのち、『話はしました』という言い訳のためだけに、俺は神藤さんへメッセージを送った。




