『アナウンス』
「友達から聞いた話なんだけどね」
高校生の時の話だ。
電車のアナウンスを録音して集めるのが趣味の、Hくんという友人がいた。
彼は鉄道車両にも興味があるらしく、高校では写真部に所属していた。部活のためにお小遣いを前借りして、新しいカメラも購入したのだそうだ。
そんなHくんだが、写真部の展覧会のために車両の写真を撮りにいった際、同じく鉄道趣味でやってきていたらしき男性に強く詰られてしまったのだという。
自分には心当たりがないが、恐らく何かマナー違反をしてしまったのではないか、とHくんは気落ちした様子で零していた。
男性は凄まじい剣幕で怒鳴り散らし、Hくんに対して『顔を覚えたからな』と叫んで去っていったそうだ。
自分より遥かに年上の男性に怒鳴られるというのは、気の弱いHくんにとってはひどく恐ろしいことだった。
だが、好きでやっている趣味を、言いがかりのようなトラブルでやめてしまうのはなんだか悔しい。
Hくんは男性と出会した区間を避けるようにして、写真やアナウンスを集める趣味を再開した。
そんな中で、少し気になることが起きているのだと言う。
ある区間で録音をすると、アナウンスの後に叫び声が混じるのだそうだ。
Hくんは少し青ざめた顔で、友達にその録音を聞かせてくれた。
確かに、駅名と乗車時の必要事項を告げるアナウンスの他に、ノイズのような叫び声が混じっているように聞こえた。
一緒に聞いて欲しい、と言われて何度か聞く内に、友達はHくんが何をそこまで気にしているのか理解したそうだ。
叫んでいる声は、Hくんの声によく似ていた。
尋常ではない様子で響く知り合いの叫び声、というのは聞いていて気分の良いものではない。
Hくんにとってはそれが自分のものなのだから尚更だろう。
「変なもん聞かせてごめんな。なんかさ、なんて言えばいいのか分からないんだけど……」
Hくんは説明に困った様子で、録音をもう一度再生した。
何の変哲もないアナウンスが響いて、列車が走り出す。そして、Hくんによく似た声質の叫び声が続く。
「たとえば、俺が線路に落ちて動けないけど誰にも気づかれなくて、電車にゆっくり轢かれたら、こんな感じになるのかなって」
友達は返答に困った。
率直に言って、友達としても同じような印象を受けたからである。
言葉を続けられないでいる友達の前で、Hくんは更に小さな声で呟いた。
「ホームで待ってると、背中を押されるみたいになる時もあって。でも、振り返っても誰もいないんだよね」
だからもう、やめようと思ってる。
力ない声での宣言だったが、Hくんの言葉にはある種の決意があった。
Hくんがこんな話をしたのは、大切な趣味を諦める区切りが欲しかったからなのだろう。
彼はその後、折角買ったカメラもすっかり使わなくなってしまって、写真部もやめてしまった。
残念なことだとは思う。
けれども、耳に残るHくんの叫び声を思うと、やはりそれが正しい判断であったように感じるのだそうだ。
「――怖かった?」
「……ああ、怖かったな」
顔を覚えたからな、という宣言から察するに、その男性がHくんに何か害となる呪いをかけた、という話なのだろう。
呪いにまつわる話は、大抵の場合で人の悪意が関わってくる。
癪に障った程度の人間を呪ってやろうと実行するその執念自体が恐ろしいとも言えたし、何より、自分が好きなものを他人を害する道具に使うという事実がどうにも気味が悪かった。
もしかしたらその男性は本当に鉄道が好きな訳ではなくて、単に目をつけやすい相手を探していただけではないのだろうか。それはそれで不気味な趣味でしかないが、どうせならその方がまだマシな気がする、というのが素直な感想だった。
少なくとも、真摯に鉄道を愛している人たちと同じ括りにするには、あまりにも失礼な存在だろう。
「もっと離れた場所で続けるんでも駄目だったのかね」
「駄目じゃないよ。でも、もう嫌になっちゃったんだって」
せっかくの趣味を諦めなくてはならなくなったHくんがなんだか不憫で呟くと、隣人からはあっさりとした声が返ってきた。
嫌になってしまったのなら仕方がない。Hくんはそういう決断をした――ということになっているのだろう。
「………………」
マンションのベランダからも遠方に見える路線を眺めながら、静かに思考を一つずらす。
今のは、Hくんに輪郭を持たせようとする物言いだったな、と思ったので。
隣人の話す怪談には、『友達』の他に幾人かの登場人物が現れる。怪談を語るならば、隣人にとってもその方が都合が良いのだろう。
俺が聞く限り、毎回の仮名は適当だ。単に人物が多いのでアルファベット順で並べているだけの時もあれば、『頭文字を取った』かのように飛んだ英字が選ばれることもある。
それらに特に意味はない。仮にあったとしても、少なくとも、俺はわざわざ意味を拾い上げることはしない。
先月辺りに、個人名を使って妙なリアリティを出してくる、といったパターンも聞いた覚えがあるのだが、あれはあれで、これまでとは違ったルールで語られた気がするので、一旦は省いておこう。
とりあえず、何をどうしようと、隣人の語る怪談において守るべきルールはひとつだけである。
信じないこと。それだけだ。
「まあ、趣味なんて楽しめないのに続けたって辛いだけだもんな」
「タカヒロはないの? 趣味」
独り言じみた声音で世間話に切り替えた俺に、隣人はあっさりと言葉を繋いだ。
怪談としては区切りがついた判定になっているようで、Hくんの話を続けるつもりはないらしい。
「趣味って呼べる程のもんは……ないな」
「ふうん」
一通りは脳内を攫ってみたが、やっぱり特には見当たらなかった。
そんなものを見つける余裕はなかった、と言えたのは、半年以上は前の話だ。
コンビニバイトをしているとはいえ、この部屋で怪談を聞くだけの仕事である。探そうと思えば新しい趣味を見つける時間はいくらでもあった。
それでも、此処に引っ越してきてからも趣味と呼べるようなものは見つけられていない。
強いて言うならY××Tubeで動物の動画を見ること……かもしれないが、それを趣味にカウントしていいのかは、俺には今ひとつ判断がつかなかった。別に、動物の種類や生態に詳しい訳でもないし。
何か見つけた方がいいのかもな、なんて思っていると、隣のベランダから伸びる黒く爛れた管のひとつが、何やら乗り気な様子で首をもたげるようにして曲がるのが見えた。
「おすすめあるよ」
「おすすめ?」
「怪談」
「………………」
「面白いよ」
「………………」
そうか。
こいつは怪談を面白いと思って話しているのか。
そりゃまあそうか。そうだろうな。
面白くもなかったら、毎週のように話したりしないだろうからな。
人命を害してくるような趣味はもういっそ悪趣味と呼んだ方がいい気がしたが、俺はわざわざ口にすることはなかった。
そもそも『怪談』自体は、語り手がこいつでさえなければ、何も支障のない立派な趣味だと言える。
そういえば、夏に怪談を語る約束をしたが、まだ探し始めてすらいない。
話題に上げたのはある種の催促なのかとも思ったが、隣人は特に強く勧めるでもなく、気にした様子もなくグミを摘まんでいた。
食べ終わるのを待ってから、空になった袋を受け取る。
今回はリクエストはなかったので適当に新発売らしきものを買ってみたが、味への言及がなかったのでお気に召さなかったようだ。
かといって同じものばかりだと飽きるだろうし、と売り場に並ぶグミを思い浮かべつつ――ふと、俺はやんわりと隣人の視界を遮るように、ベランダの端に座る少年に被さる位置に下がった。
コンビニから連れてきた少年……は、未だに俺の部屋のベランダに居る。
単純に、伊乃平さんとあれからも一切連絡がつかないためのである。神藤さんが言っていた通り、一度連絡がつかなくなるとしばらくは音信不通になってしまうようだ。
向こうの都合ではおかまいなしに連絡してくるんだけどね、と零す神藤さんの声音には確かな苦労が滲んでいた。
少年の姿をした彼は、未だにベランダの片隅に蹲っているだけで、自ら動くことはない。返答をすることも、身動きをすることもほとんどなく、一度食べ物を持ってきてみたが、隣人のように興味を示す様子もなかった。
息をしている訳でもないので、精巧に作られた人間の彫刻だと言われれば信じてしまいそうな雰囲気がある。
置物とするにはかなり最悪だが、室内に置いておくのは更に最悪なので、とりあえずベランダに居てもらっている。位置としては、隣人側とは真逆の七〇三号室寄りの端っこだ。
隣人が彼をどう思っているのかは分からない。あれから一度も言及がないからだ。
だが、ふと気を抜くと、管の奥から覗く目玉が、時折じっと彼を見つめていることがある。
何を言うでもなく、じっと無機質な視線を向けてくるのを感じ取るたび、いっそ何か言ってくれた方が楽かもしれない、とすら思う。
どう転んでも厄介なことになるに決まっているので、俺の方から口にすることはないが。
早く伊乃平さんと連絡がつかないものだろうか。
そんなことを思いながら、さりげなく(出来ているかは知らない)隣人と少年の間に立っている内に、出勤の時間が迫ってきてしまった。
今日のシフトは矢向さんと一緒である。花粉症持ちの矢向さんは他の薬との兼ね合いで花粉症の薬を飲むことが出来ず、この時期は勤務態度にも支障が出てしまうのだそうだ。
当日急に休んだ挙げ句に矢向さんと店長が組むことになったりすると、割と面倒な空気になってしまう。店長からは欠勤した俺に対してではなく、矢向さんに対する文句が出てきてしまう辺りが更に面倒な点であるとも言える。
矢向さんは、無愛想でちょっと仕事は遅いが、真面目だし嫌な人ではない。
ただ、誰にでも相性と言うものはあって、店長と矢向さんはバイト先の人間関係の中でも特に相性が悪い二人だった。
つい、時間を気にしてスマホに目をやってしまう。
俺の心中を知ってか知らずか、明るくなった画面に映る時間表示を見た隣人は、いつものように「いってらっしゃい」と挨拶を残して、隣の部屋へと引っ込んでいった。
どうにも、残された挨拶の言葉尻には笑いが滲んでいた気がするが、そこは俺の聞き違いだとでも思うことにする。
さて。
出勤に際して準備を整えた俺は、普段使っているリュックの他に、うさぎのぬいぐるみを持参して部屋を出た。
よくあるデフォルメされたものではなく、リアル調の作りをした、寝そべっているような格好のうさぎだ。
七〇五号室の前へとそっと歩み寄り、扉の前にぬいぐるみを置く。
言うまでもなく、澄江由奈への詫びの品である。これまでの付き合いから察するに、彼女が一番好きな動物はうさぎなので、詫びとするのならこれが一番良いだろう、と判断した。
先日は俺の不手際で、とんだ害虫騒ぎを起こしてしまったからな。まさかあんなことになるとは、微塵も思っていなかった。
もし次に幽霊やら怪異やらを連れてくることがあれば――あるか?――、その時には対策を考えなければならないだろう。そんな機会は二度と無いことを強く祈る。
ついでに、投げつけられていた諸々の品も共に置いておく。
全てが溶けてなくなってしまったらしい澄江由奈にとっては、形の残っているものはとても大切な品だろう、と思ったので。
バイトを終えて七階へと戻ると、並べておいた雑貨とぬいぐるみは綺麗に消えていた。
扉が開いている様子もなければ、郵便受けに手紙が入っている訳でもなかったので詫びになったかは定かではなかったが、少なくとも受け取ってはくれたようだ。
五日後。
七〇五号室の前で四肢が上手く使えずひっくり返ってじたばたしているぬいぐるみを横目に、俺はかつてない程の早足で出勤した。




