決意の日
その日、天は味方をしてくれた。
少なくとも、私はそう思った。
早春の空は青く晴れ渡り、白い雲が絵画のように山の向こうに点在している。快晴だ。
領主館ではいくらか早まっても、通常は貴族の起床は昼近い。
だけど私はティナや側仕え達だけには告げておいて、もっと早い時間に起きた。そして、料理人達にも昨夜からお願いをしてあった。
「揚げたてですよ、お嬢様。ビールを加えた ころもで、サックサクにして塩を振ってありますから、誰が食べたって喜ぶはずです。モルトヴィネガーも忘れずに」
料理人のポルテはそう言ってバスケットに入れた大量のフィッシュ&チップスをティナに持たせてくれた。私はモルトヴィネガーの瓶の包みを受け取った。
「朝からありがとう。とっても助かったわ。ミスター・ポルテのフィッシュ&チップスなら、みんながそうなると信じられます」
ふくよかな料理人は、丸い顔を輝かせた。互いに手を振って別れたが、執事のミスター・ラントからの注意もなかった。まだ母様も寝ている時間だからだろう。
玄関扉が開かれると、もう馬車が準備されていた。今日は、荷物があるので馬車にしてみたのだ。
私とティナが馬車へと乗り込み、御者は馬車の扉を閉めようとした。閉める前に、
「では、お嬢様、ラトリッジ伯爵様のマナーハウスでございますね?」
と確認した。
私は息を吸い込んでから、ハッキリと返事をした。
「ええ、場所はそこよ。今はサー・アレックス・インダム
が主人になったの」
御者はただうなずいて扉を閉めて行った。
私は、ティナと顔を合わせた。見つめて、ティナは微笑んでくれた。大きなバスケット籠の山盛りフィッシュ&チップスを抱えながら。
馬車は走り出す。
約束も取り付けていなくて
紹介の手紙もない。
訪問時間も非常識で
そもそも貴族ならまだ寝ている時間だ。
でも、彼は起きているだろうと思った。
晴天の春の午前、彼はもう職人達とまた修繕作業に取り組んでいるはず。
お詫びのお礼にと、今なら……今なら届ける理由がある気がしたんだ。
モルトヴィネガーを持つ私の指は、手袋の中で緊張でなのか冷たくなっていた。
ただ、ほんの少しだけ 望みたい
彼の瞳の色を知りたいだけ————
それだけ だから
◇◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆
マナーハウスに近づいていくと、マースデン家の紋章入りの馬車だったこともあってか、数人の職人達がざわめく声が聞こえた。
やがて誰かが
「大公閣下の馬車がお立ち寄りになられましたよ、サー・インダム!」
と大声で叫ぶのが聞こえた。
咄嗟に私は、もうこのまま御者に帰ってもらうように指示しようかとさえ思った。でも、それでは何をしに来たか分からない。うろたえているとティナが
「お嬢様、開いております」
と、教えてくれた。もう、馬車の扉は開かれている。
ああ、……タラップを降りるしかない。
御者に手を差し出し馬車から降りると、周囲には職人達が囲むようにして、皆ひざまずいていた。
どうして?
この前のように、作業してくれていたらいいのに
動揺を見せずに唇を軽く引き締め、顎を上げる。さながら、女王のように降り立つ。
——だいぶ困惑した女王様だけど。
するとそこに、この前子供達が出てきた裏口からサー・インダムが現れた。やはり、今日も5人の小さな子供も彼の後ろからついてきて、少し離れて少女も出てきた。
サー・インダムは私を見ると子供達に
「みんな行儀良く。静かにしていなさい」
と言って、その場でしゃがみ、ひざまずいてしまった。
つまり、裏口からすぐのところで。
私から離れた、遠いところで。
私は彼を見つめ続けたけれど、彼は頭も下げてしまった……
やがて、大工の棟梁らしい男が、近くから私に声をかけた。
「レディ・マースデン、どうされたのですか?何故こんなところに?」
何故サー・インダムではなく、あなたが聞くのでしょう?
「昨日、サー・インダムが大公別邸にいらして、謝罪のお言葉を私に下さいました。ですが、私のほうが彼に落馬するところを救って頂きましたから、お礼をお持ち致しました」
言葉と一緒にティナの持つバスケット籠に目をやると、ティナはそれを掲げてみせた。
「良い香りだ!フィッシュ&チップスですね!?」
ひざまずいていた数人が立ち上がり、ティナの元にバスケットを取りに手を差し出す。ティナは戸惑ったが、男たちの勢いに負けて、バスケットを渡してしまった。
私は期待を込めてサー・インダムをもう一度見つめた。彼も、こちらを見て事態を把握している。
こちらに来てくれるかと、私は——
……期待したが、彼はひざまずいたまま、ただ深くお辞儀をした。それだけ だった。
私はモルトヴィネガーの瓶を棟梁に、にこやかに渡した。
そうして、感謝を述べてくれる職人達にも、微笑んで手を振る。
御者に差し出しされた手を借り、タラップを上がり、ティナと馬車に入る。扉は閉められても、窓は開いていたので、そこからまた さよならの手を振った。
歓声が上がり、みんなが手を振ってくれている。
だけれど、サー・インダムは、困惑したような顔で、脇の子供と手を繋いでいた。
瞳の色なんか、見えるはずもなかった。
馬車が走り出す——
私は座席に倒れ込むように姿勢を崩した。
向かい側からティナが
「申し訳ありません、お嬢様」
と かぼそい声で言ってくれた。
「いいえ、あなたは何も悪くない」
心からそう思う。ただ、私が馬鹿なだけ…………
◇◇◆◆
マースデン家の馬車を見送る中、アレックスと手を繋いでいたフィンは、彼を見上げて聞いた。
「あのお姫様みたいに綺麗で偉そうな女の人、誰?」
アレックスはその5歳の少年の黒い瞳を見返した。
「馬車の行った先にある、広——い領地の王様のお嬢さんなんだ。本物のお姫様ってことさ」
少年は前を向いて、馬車の行った先に視線を移した。
「ふぅん……」
その丸く黒い瞳は、煌めいていた。
まるで、何か素敵なことを思いついたかのように。




