第75話 少年魔王と抗議の使者
カグヤの過激な発言は別として、事は慎重に進めなければならない。エルムンドは、ついに来るべき時が来たとばかりに気を引き締める。学園都市エッダは自由な気風で有名な都市だが、エレンタード王国の一都市であることに違いはない。
その都市の一角にあるこの学院も当然、国家の庇護を受けた場所だ。となれば、クレセント王国は学院に抗議をすると言うより、エレンタード王国に抗議をしに来たと考えるべきだ。
対応を誤れば、国家間の紛争にも発展しかねない重要課題であり、本来なら王都に伺いを立てるべきなのだが、なぜかアルフレッドは気乗りしない様子だ。どうやら王都で何かあったらしいのだが、彼は頑なに口を閉ざしてその詳細を語ろうとはしなかった。
「……まあ、実際のところ、なぜかクレセント側も王都ではなくこちらに使者を送ると言っているわけですし、その意味では国際問題にしたくないという意図は、相手にもあるんじゃないですかね」
「……つまり、それだけこの学院に在る『戦力』を重要視していると言うことでしょうな」
エリックの言葉に、深刻な顔で頷きを返すエルムンド。実際、馬鹿げているとしか言いようのない話だが、この学院には現在、それこそ『世界征服』が実現可能なのではないかと思えるだけの戦力が揃っている。
五英雄が二人(アリアノートもいずれは合流する予定であるため、三人になる)もいるうえ、クレセント王国を実質的に独力で攻略してのけた魔王ネザク、さらにはその魔王に匹敵する力を持った英雄少女エリザの存在もある。
クレセント王国が警戒するのも当然の話だろう。
「まあ、とはいえカグヤの言うように、力尽くで捻じ伏せるってわけにはいかないでしょうね。戦争は何も、武力だけでやるものじゃない」
「ええ、まったくです。出る杭は打たれるではありませんが、今の状況は非常に危険です。その上、クレセント王国を敵にまわしたとなれば……」
「まあ、周辺諸国はここぞとばかりに、エレンタードに圧力をかけてくるでしょうな」
二人の苦労人は、まるで十年来の同僚のように息の合った会話を続けている。
「問題は、これからやってくる使者の要求事項です」
「ええ。恐らくは『魔王』の身柄の引き渡し。それに尽きるでしょう。予測がつくだけに気が重いですな」
特に、そんな要求事項がカグヤの耳に入った時の反応が恐ろしい。彼らとしても、ネザクの身柄をクレセントに引き渡すことが得策とは考えていない。そもそも、そんなことは不可能だ。だが、だからこそ、ことを慎重に運び、のらりくらりと相手の要求をはぐらかし、自分たちに有利な条件を相手から引き出すように努めなければならない。
「……前途、多難ですなあ」
「ええ、まったくです」
彼らにはもう一つ、予想がついてしまうことがあった。どんな予防線も根回しも、気配りも心遣いも、用心も警戒も、非常識な彼らの上司は、そのことごとくを無にするだろう。そうなる可能性は極めて高い。だが、それでもなお、何の対策もとらないわけにはいかない。
二人はそろって頭を抱え、この難題にどうやって立ち向かうべきか相談を続けた。だが、今回に限って言えば、それが良いことか悪いことかは別として、彼らの予想は外れることになるのだった。
──その日は、クレセント王国からの使者が学院に到着する予定だった。
そのため、応接の間にもなる学院長室には、教師陣を初めとする学院関係者が何人も居並び、緊張した面持ちで事の成り行きを見守っていた。
この日に至るまでの間、エルムンドとエリックは様々な議論を交わした結果、一つの結論に達していた。すなわち──これから始まるすべての交渉に、当事者である『魔王』本人を同席させること。
考えてみれば難しい話ではない。もともと魔王ネザクは、ほぼ独力でクレセント王国を陥落させたのだ。その彼自身を前にして、その身柄を引き渡せなどと学院側に要求できるはずはない。ほとんど喧嘩を吹っ掛けるに等しいやり方ではあったが、正面から力尽くで相手の要求を突っぱねるよりは有効な戦術だと言えた。
ついでに言えば、魔王は学院に入学したとはいえ、それはあくまで当人の意志であり、学院側に彼をどうこうする自由などないことを如実に示すことも狙いである。情けないことにそれらはすべて事実であり、事実であるがゆえに効果的だ。
そう思っての策略だったのだが……
「……いったい、何をやってるんです?」
学院長室に訪れた沈黙。それを打ち破るように、アルフレッドが静かに声をかける。それはもう、たっぷりと数十秒は続いた沈黙。だが、彼女はごく当然と言わんばかりの顔をしている。
「決まっています。自分の息子を抱きしめているのです」
「そ、そうですか……」
そして、再び沈黙。続くことさらに数十秒。今度は別の形で沈黙は破られる。
「む、むぐぐ! ミ、ミリアナさん……く、苦しいよ……」
ミリアナの豊かな胸に顔を埋めた体勢で、少年は彼女の肩をぱしぱしと叩く。
「あら、ごめんなさい。大丈夫?」
ミリアナは慌てて彼から身体を離し、心配そうにその顔を覗き込む。
「う、うん。でも、びっくりしたな。まさかミリアナさんがクレセントの使者だったなんて……」
「……お母さん」
ミリアナは、ぼそりとつぶやく。身体を離したとはいっても、その手はいまだにがっしりと少年の肩を掴んだままだ。
「う……」
「『お母さん』でしょう?」
ミリアナは母性を感じさせる笑みを浮かべ、優しげに少年に声をかける。だが、その迫力たるや尋常なものではない。特別講師として来校した時の温和な彼女しか知らない学院関係者たちは、驚愕に目を丸くしたまま固まっている。
「お、おかあ、さん」
「はい、よくできました。……ネザク、元気だった? ご飯はちゃんと食べていたかしら? 寝るときはお腹を冷やさないようにしてる? ああ、そうそう、この国は湿気が多いから、お部屋の換気はしっかりしなくちゃ駄目よ」
ネザクの頭を撫でながら、早口にまくしたてるミリアナだった。
「……あれ? ミリアナさんって、こんな人だったっけ?」
「……ま、まあ、彼女には昔からこういうところはあったとは思うけどね」
「本当ですか? アズラルさん」
意外そうな顔で自分を見るアルフレッドに、アズラルは意味ありげな苦笑を返す。そもそも十年前の邪竜戦争において、五英雄で一番難儀した月影の巫女の『説得』を行うに当たり、最も功を奏した武器はアズラルの弁舌やアルフレッドの熱意などではない。少なくとも最後の一押しになったのは、間違いなくミリアナの『母性本能』が少年時代のアルフレッドに発揮されてしまったことだっただろう。
「そ、それはともかく……ミリアナさん。クレセント王国からの使者は、あなたということでいいんですよね?」
「はい。……なぜか、いつになくここに来るのも久しぶりな気がしますね」
アルフレッドに答えるミリアナの様子は、普段と変わりないものに戻っていた。そのあまりの変わり身の早さに驚きはしたが、それでも緊張の面持ちでアルフレッドは問いかけを続ける。
「このたびは、正式に抗議をしたいとの先触れがありました。その内容をお聞かせいただけますか?」
するとミリアナは、ネザクの肩を掴んでいた手を離し、ゆっくりと身体を起こす。
「ええ、言わせてもらいます。……母親に無断で息子を学校に入学させるなんて、どういう了見ですか?」
「……ぐは」
思わず転びかけるアルフレッド。まさかこの場面で、ミリアナがこんな冗談を言うとは夢にも思わなかった。彼は、少しばかり非難するような目で彼女を見る。だが、ミリアナは表情一つ変えない。
「冗談ではありませんよ。この子は『わたしの息子』です。養子縁組なら済ませました。……ですからこの子は、今でもなお、正式なクレセント王国の国民です」
胸を張って断言するミリアナ。
「……なるほど、そう来たか。厄介だな」
エリックは内心で歯噛みする。クレセント王国の方こそ『力尽く』ではない手段を用いてきたというわけだが、こうなると却ってネザクを同席させたことがマイナスに働いてしまう。押されてのこととはいえ、彼はミリアナのことを『お母さん』と呼んでしまったのだ。
「だから彼を連れ戻す。そういうことですか?」
「むが!」
奇妙な声がエルムンドの口から漏れる。いくらなんでもアルフレッドの今の発言は単刀直入過ぎる。そんな訊き方をしてしまえば、相手にそれを言い出す口実を与えてしまうに等しいのだ。だが、ここでは、そんなエルムンドの心配も杞憂に終わる。
「いいえ。正式に母親として、この子を入学させてあげるための手続きに参りました」
「え?」
目を丸くするアルフレッドに、今度こそミリアナは茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべる。
「国の面子を保ちつつ、この子に学院で生活してもらうためには、これしか思いつきませんでした」
「……なるほど。でも、そこまでするなんて、随分と彼に肩入れしてらっしゃるんですね」
「ええ、もちろん。母親が息子に肩入れしなくてどうするのですか?」
「……そこは演技じゃないんですね」
これにはさすがのアルフレッドも、苦笑せざるを得なかった。
「僕のためにそこまでしてくれるなんて……ありがとう。お母さん」
感極まった顔で言うネザク。だが、ミリアナはなおも悪戯っぽい顔でネザクに笑いかける。
「いいのよ。それに……もうひとつ。いい知らせがあるわ」
「え?」
きょとんとした顔のネザクを横目に、再びアルフレッドに向き直るミリアナ。
「クレセント王国の使者として、あなたに三つほど要請させていただきます。ひとつ、わたしの息子、ネザクの入学。ふたつ、わたしの娘たちの入学。みっつ、彼らの在学中の身の安全の保障。以上です。よろしいですか?」
「え? 娘たち?」
「ええ。さあ、入ってきなさい。二人とも」
「はい。お母様」
綺麗に揃った二人の少女の声とともに、学院長室の扉が開く。現れたのは、鏡写しとしか思えない、双子の姉妹。
「イ、イリナさんとキリナさん?」
ネザクが驚愕に声を震わせている。
「あ! ネザク! これからは同じ学び舎の下で、犬のように付き従うからよろしくね」
「あ! ネザク! これからは同じ学び舎の下で、わたしが何でも面倒を見てあげるぞ」
相変わらずな双子の少女。ネザクの顔が徐々に青褪めていく。
「う、うわあああ……。ミ、ミリアナさん? なんで? どうして二人がここに?」
「『お母さん』でしょう? 二人は、表向きは魔王ネザクのお目付け役よ」
「……君もなかなかやるね。あくまで魔王は、クレセント側に所属するものであると内外にアピールするわけか。『母は強し』ってところかな?」
壁に寄り掛かった姿勢のまま、アズラルは感心したように言葉を挟む。
「アズラルもお久しぶりですね。クレセントで子猫の姿だった時以来かしら?」
「うん。ところでさっきの『表向きは』っていうのは、どういう意味だい?」
「純粋にこの学校で娘たちを学ばせたいのです。英雄の資質を身に着ければ、本人たちが望むクレセントの改革にも大いに役に立つでしょうから」
それもまた、ミリアナの親心と言うものだった。
「うふふ、ネザクとまた一緒にいられるなんて嬉しいわね」
「うんうん。これで名実ともに、ネザクはわたしたちの弟なわけだし、言うことは無いな」
などと喜ぶ二人の姿を見る限り、『純粋に』とばかりは言えないのかもしれないが。
それはさておき、アルフレッドとしても外交問題がそれで片付くなら言うことは無い。学院側は彼女の要請を全面的に受け入れることとなった。
「わかりました。それでは改めて、入学の手続きはさせていただきますよ」
「ええ、それじゃあ、よろしくお願いするわ。それから、わたしもしばらくは、ここに滞在させてもらいます。息子や娘の生活環境もしっかり確認させてもらわないといけませんからね」
母親らしい言葉を口にして笑うミリアナ。そこに横からアズラルが声をかけた。
「そりゃあ、よかった。実は僕のハニーもようやく、国内のゴタゴタを片付けてこちらに戻ってきてくれるそうだからね。彼女に会うのは久しぶりだろう? 積もる話もあるんじゃないのかい?」
「……まったく。そういう性格の悪いところは直した方がいいと、前から言っているでしょう?」
アリアノートは、あまりミリアナのことを快く思っていない。はっきりとした言葉で何かを言われたことがあるわけではないが、そのことはミリアナも薄々は理解していた。当然、夫であるアズラルが知らないはずはないだろう。とはいえ、ミリアナにもどうして自分がアリアノートに嫌われているのかまでは理解できていなかった。
「あはは。ごめんごめん。でも、僕にとっては、君に嫉妬の視線を向けるハニーの横顔が可愛くて仕方がないんだ。できれば会ってあげて欲しいな」
「嫉妬?」
ミリアナは首をかしげる。彼女ほどの傑物が自分に嫉妬する理由など、まるで思いつかない。
この翌日、アリアノートの帰還と共に、ミリアナにとって長年の疑問だったその『理由』は明らかとなるのだが、彼女はそこで、世の中には知らない方がいいこともあるのだということを身に染みて思い知るのだった。
次回「第76話 吸血の姫と霊賢王の毒(上)」




