第50話 英雄少女と疑惑の賢者(下)
アルフレッドは、アズラルを残して学院を離れることを躊躇していた。だが、それでも彼は、そんなためらいを振り切るように、残りの五英雄を連れて王都への旅路に向かう。過去はどうあれ、現在の彼まで疑うまいとするその行為は、結局のところ、カグヤの言う『甘さ』でしかないのだろう。
「まあ、僕は、その『甘さ』って奴が嫌いにはなれないんだけどね」
既に体力は回復している。そもそも、アリアノートは彼の身体を万全の状態に維持するべく、日々回復の白霊術をかけ続けてくれていたらしいのだ。とはいえ、一か月間寝たきりだった身体は、関節も軋み、なかなか思い通りに動いてくれない。
「……それに、猫の身体や視点に慣れてしまったせいで、足元がおぼつかないな」
独り言を呟きながら、彼は医務室を後にする。置手紙なら既に作った。手紙と言っても例のごとく、お手製の記録映像つきのメッセージである。後はもう、この学院を後にするだけでいい。
「……ハニーは怒るだろうなあ。今度こそ許してくれないかもしれないぞ」
アズラルは愛する妻のことを想いながら、よろよろと歩く。それでも、一度決意した以上は、その歩みが鈍ることはなかった。かつて犯した己の罪の責任は、きっちりと果たさなくてはいけないのだ。
そんな悲壮な決意のもとに、校舎内を歩くことしばらく。上級生の教室の前を通りかかったところで、見覚えのある顔に出くわした。黒い長髪に鋭い深緑の眼差し。白い顔には一本の刀傷が斜めに走っている。
「やあ、ルーファス君。今日はアルフレッドがいないから、通常授業なのかな?」
「……ええ、そうです。このクラスは次が実技の時間なので、特殊クラスの俺は暇ができてしまったのですが。……アズラル様は、どうしたのですか?」
「え? 僕かい? ほら、しばらく寝たきりだったからさ。リハビリでもしようかと思ってね」
実によどみなく、流暢に口を突いて出る嘘。アズラルはこんな時、自分が天性の嘘つきであることを自覚させられる。
「そうですか」
そう言って歩み去ろうとしたルーファスだったが、ふと、何かを思いついたように足を止めた。
「アズラル様」
「ん? なんだい?」
「できれば歩きながらでもいいので、少しお話をしたいのですが、よろしいですか?」
ルーファスは丁寧な口調ながらも、強い希望を前面に押し出してきている。断れないこともないだろうが、それでは多少の不自然さが残る。黒魔術への耐性を持っている特殊クラスの彼が相手である以上、ここは適当に付き合ってやった方が無難だ。アズラルは、そう判断した。
「もちろん、構わないよ」
アズラルは笑みを浮かべ、快諾の言葉を口にする。だが、彼はわかっていなかった。ルーファス・クラスタという少年が持つ『特性』ともいうべきものを──
「それで、話ってなんだい?」
「は、はい……」
自分から話を持ちかけてきておきながら、ルーファスはアズラルの傍を歩くだけで中々話を振ってこない。こうやって尋ねても生返事を返したまま、沈黙が続く。
〈ええい……困ったな。まさか外に向かって歩き続けるわけにもいかないし……いい加減、用件を終えてくれないかな〉
内心ではそんなことを呟きながらも、彼は表面上、にこやかに笑ってみせる。ここで少しは迷惑そうな顔をして見せれば対応も違ったのかもしれないが、それができないのが、アズラルと言う男だった。一度取り繕った外面を変えるということができないのだ。
「そ、その……ア、アリアノート様のことです」
校舎内をぐるりと廻ったところで、ようやく彼はそう言った。その時には既にアズラルも疲れてしまい、屋外の一角にある休憩用兼食事用スペースのベンチに腰を掛けている状態だった。
「……ハニーがどうかしたのかい?」
そう問えば、ぴくりとルーファスの頬が引きつるのがわかる。
〈……ははあん。なるほど。そう言えば彼は、彼女に命を助けられたことがあるとかで、憧れていたんだっけか。それで何か、僕に言いたいことがあるのかな。そう思えば可愛いものじゃないか〉
ルーファスの態度にアズラルはそんな感想を抱き、張りつめていた気をわずかに緩めた。そのため、直後に発せられたルーファスの言葉に、彼はまったく対応できなかった。
「それです。その『ハニー』というのは、あの方の別名なんでしょうか? 愛称にしては元の名前の原型が全く残っていませんし、あの方に血縁が近い家系にそうした姓があるという話も……って、え? 大丈夫ですか? アズラル様」
アズラルは、ベンチから転げ落ちた状態のまま、唖然とした顔で彼を見上げる。まさか、ここまでどうでもいい用件で、こんなにも時間を取らされていたのだとは思わなかった。今までの自分の苦労はなんだったのだろうかと、頭を抱えたくなる。心がくじけてしまいそうだ。
だが、彼の心が真の意味でへし折られるのは、ここから先のことだった。
「俺は初めてその呼びかけを聞いて以来、様々な文献に当たってみました。エルフ族の歴史、家系、その他もろもろについてです」
何を言っているのだろうか、この少年は。
「あなたしかその名称を使っていないという事実。あの人が人前でその名を呼ばれることを好まないという事実。そこから導き出されるのは……」
──語り出した。彼は持論を展開し始めた。
ほとんどこじつけにも等しいような様々な文献からの引用や解釈を繰り返し、アズラルが彼女を『ハニー』と呼ぶその理由について、熱く、それはもう暑苦しいくらいに真剣に、言葉を差し挟む余地がないくらい饒舌に語り続けた。
「……あ、ああ。いや、だからね?」
自分がどうにか、『ハニー』という言葉がただのスラングであることを説明しようにも、彼はその言葉さえ、意味深に捉え、感心したような目で自分を見ながら、そこから導き出された新たな理論(笑)を展開する。口を差し挟むことがまったくの逆効果となってしまうのに、黙っていてもいつ終わるのかわからない話を延々と聞かされるのだ。
ましてや体調がよくない時にというのでは、これはもはや、拷問と言うしかない。
もともとこの学園都市エッダは、王都からはそう遠くない。アルフレッドたちが王都への往復を終えて戻るには、まだしばらくかかるだろうが、追われる可能性を考えれば、今日の内にでもここを発ちたいというのがアズラルの本音だった。
とはいえ、どんな長話も丸一日続くというわけではない。アズラルにとっては永遠ともいえる時間だったが、実際には一時間と続かなかったはずだ。
「い、いや、まあ。そこまで調べているとは大したものだね。君も」
否定は愚か、突っ込んだ形での肯定すら、今の話を蒸し返されかねないことを悟った彼は、適当な言葉で話を締めくくる。そして、いそいそと立ち上がろうとした、そのときだった。
「あ! 変態! ……じゃなかった。そんなところで何やってるの。アズラルさん」
「こら、名前で呼ぶなんて、変態に失礼ですわよ。エリザ」
「……二人とも失礼よ」
エリザとリリアの掛け合いを、ルヴィナが呆れ顔でたしなめた。
どうやら話し込んでいるうちに、昼休みの時間にさしかかっていたらしい。彼女たち三人は、揃いの弁当を持参している。
「あ、これいいでしょう? ルヴィナ先輩が作ってくれたんだぜ」
嬉しそうに手に下げた包みを掲げて見せるエリザ。
「ほう……ルヴィナは弁当が作れるのか」
「あ! もしかして、馬鹿にしてませんか? わたしだって料理ぐらいします」
意外そうに言うルーファスに、拗ねたような声を出すルヴィナ。
「い、いや、そういうわけでは……」
「せっかくルーファス先輩の分も用意してきたのに、いらないんですね? じゃあ、アズラル様に代わりに食べていただきましょうか」
ルヴィナの言葉に合わせるかのように、三人の少女はベンチの傍に近づいてくる。ここは食事用に使われることもあるため、ベンチはテーブルを囲うように設置されている。少女たちはてきぱきとテーブルの上にクロスを広げ、手にした弁当を並べ始めた。
てっきり彼女たちの口ぶりから言って、アズラルは個々人の弁当が包みに入っているものかと思ったのだが、実際には別々の料理が詰め込まれていたようで、どうやらそれぞれのものを皆で分けて食べるつもりらしい。
目の前で急に始まったそれらの事態に困惑しながらも、アズラルはどうにか立ち上がろうとする。
「ははは。じゃあ、僕は邪魔しちゃ悪いから行くね……って、おっと!」
ぐいと肩を押さえられ、ベンチに強引に着席させられるアズラル。
「何言ってんの? ちょうどここにいるんだから、一緒に食べていきなよ」
──エリザだった。
『ちょうどここにいるんだから』という理屈は、彼が食事を共にする理由にはなっていないはずだ。だというのに、彼女の有無を言わさぬ迫力に、何故かアズラルは抵抗できない。
「まあ、変態とはいえ、クレセントでは大分世話になったことは間違いありませんし、少し食事の恩恵にあずからせてあげることぐらい、よろしくてよ」
真っ先に反対するかと思われたリリアでさえ、そんなことを言う以上、この場の流れは既にできてしまったようなものだった。
「で、でも、僕が食べたら君たちの分がなくなっちゃわないかい?」
どうにかそう言って遠慮しようとしたのだが、ルヴィナが笑いながら首を振る。
「大丈夫です。もともとエリザがたくさん食べるだろうと思って、余分に用意してますから」
「そうそう、あたしはお腹が減ったら後でまた食べるから、大丈夫だよ」
エリザにまでそう言われては、彼に逃げ場はなかった。
それから、しばらく和やかで賑やかな食事会が続くこととなった。
「どう? おいしいかしら?」
食事が始まると同時、ルヴィナが少し不安そうな声で訊いてくる。
「うん! すっごくおいしい!」
一心不乱におかずを口に頬張りながら、器用にも明確な発音で感嘆の言葉を口にするエリザ。
「……びっくりですわ。この卵焼き。どうしたらこんなにふわふわに作れますの?」
「ふふふ。それはね……」
ルヴィナは褒められたことに気を良くしてか、柔らかな笑みを浮かべてリリアに作り方を教えている。
「うーん……こんなことをしている場合じゃないんだが……とはいえ、これはこれでいいものだなあ」
そんなことを呟きながらも、少年少女(主に少女三人)の昼食風景にすっかり癒されてしまったアズラルは、なんとなく食事を切り上げるタイミングを逸していた。
「そう言えば、こうしてアズラル様と食事を一緒にとるのは、猫の姿だったとはいえ、初めてのことじゃなかったですね」
ふと、ルーファスが思い出したかのように言う。
「あ! そうだっけ? でも、今、エドガーがいないんだよね」
エリザの言葉に、ようやくアズラルも気付く。そう言えば、いつも一緒に行動している印象が強い彼らの中で、唯一、エドガーの姿が見えない。
「えっと……彼はどうしたんだい?」
つい、そんな質問をしてしまった。そしてこれが、彼の最大の失敗だった。
「彼は今、バーミリオンの『修羅の演武場』で修業中ですわ。……ふふふ、残念がるでしょうね、彼も。ルヴィナ先輩のお弁当を食べ損ねたと聞いたら」
「そんな、リリアさん。いくらなんでも褒め過ぎよ」
リリアの言葉に、別の意味で照れた発言をするルヴィナ。それはともかく、アズラルには最初、彼女たちが言っていることが理解できなかった。
「修羅の演武場だって?」
「うん。確か……『星心克月』だっけ? イデオンさんがそうやって強くなったって言うんで、エドガーも挑戦してるんだ。なかなか成功してないみたいだけどね」
「……なに? なんだってあの馬鹿は、君らにそんなことを! あれほど迂闊に人には話すなと言ったのに」
「あーあ、ほんとはあたしも行きたかったのになあ……」
残念そうに肩を落とすエリザ。だが、ここでもっとも性質の悪い人間が、最悪の発言をしてくれた。
「そう言えば、アリアノート様が『星心克月』の概念を最初に五英雄に示したのは、アズラル様だと言っていましたが……」
ルーファスの言葉は、最後まで続かない。エリザの声がその語尾に被さってきたからだ。
「え? まじで! じゃあさ、じゃあさ。アズラルさんなら、あたしたちに『星心克月』のことを教えてくれるんじゃないの?」
「……それは名案ですわね。アルフレッド先生は、なかなか教えてくださいませんし……」
「うーん。まあ、専門家に聞いた方が危険は少ないかもしれないわね」
少女たち三人が乗ってきた。これはまずい。最悪の展開だ。一体なぜこうなったのだろうか? いくら考えても答えは出ないが、事態は待ってはくれない。ずずいと身を乗り出され、四人の少年少女から異口同音に迫られる。
「アズラル先生! よろしくお願いします!」
この瞬間、彼の決意は、その心と共にあっさりとへし折られてしまったのだった。
「……まあ、僕にはこの子たちをクレセントで危険な目に合わせてしまった責任がある。あと少し、付き合ってあげてもいいかな」
往生際悪くも胸中でそんな言葉を呟く彼は、『なし崩し的』という言葉の意味を、この時点では理解していなかったようだ。
次回「第51話 少年魔王と死霊の女王(上)」




