第29話 少年魔王とふたたびの戦争(上)
リールベルタ王国の支配者、魔王ネザク・アストライアは『魔王軍』を率いて東へと進軍を開始した。従える兵力は二千あまり。大国クレセント王国を征服しようと試みるには、あまりにも寡兵と言える。
だが、そもそもの話──
「軍勢って言っても、ほとんどネザクの召喚した鬼たちなんだよな」
鎧兜に身を包み、魔馬にまたがったエリックはつぶやく。
「そんなことないって。シュリの『月獣兵団』もいるじゃん」
彼の隣で同じく魔馬にまたがるシュリは、不満そうに漏らした。
「兵団って言ってもなあ。結局集まったのは、百匹足らずだろ?」
「でも、オンテルギウスが八匹もいれば騎士団の八個小隊は相手にできるよ」
「戦術級の『魔』一体に倒されそうだけどな」
「むー! それはシュリが奥の手を使ってないからだもん!」
エリックが浮かない顔をしているのは、結局のところ、クレセント王国が誇る月召術師団への対抗手段がいまだに見えてこないからだった。
第十一階位から第二十階位の、いわゆる戦術級の『魔』を召喚できるのは、月影一族で構成される月召術師団約300人のうち、数十人と言ったところだろう。災害級ともなれば月影の巫女ミリアナ・ファルハウトをはじめ、ほんの数名と言ったところだ。
だが、それだけで十分なのだ。その名の通り、戦術級一体で戦場の様相は大きく変わる。ましてや災害級などが出現すれば、五英雄かそれに準ずる武将でもいない限り、敗北は必至だった。
「やあねえ、まだ心配してるの?」
呆れたような呑気な声は、エリックの斜め後方、戦場に向かうにはそぐわない一台の馬車の中から聞こえてきた。うんざりしながら振り返れば、窓から顔をのぞかせる黒髪の魔女。
「あんたがどうやってクレセントに勝つつもりなのか、全く説明しないのが悪いんだろうが」
「だから言ったじゃない。ネザクに任せておけば大丈夫って。心配性もほどほどにしないと、禿げるわよ?」
「禿げるか!」
故郷にいるはずの自分の父親の頭を思い出し、ぶんぶんと首を振るエリック。目に浮かんだのは、草一本生えていない不毛の大地だった。
「あははは! はげはげ!」
カグヤと同じ馬車の中から、楽しげな声が聞こえてくる。それを耳にしたエリックは、諦めたように息をついた。
「まさか王女様を同行させるとはな……何考えてんだか」
「それも言ったでしょう? 人質よ」
カグヤの言うとおり、馬車の中にいる王女エレナは、リールベルタ王国国王ダライア二世に対する人質だった。だが、エリックの見る限り、そんなものはどう考えても建前だ。エレナを連れていくと言った時の国王は確かに抵抗したが、それ以外はそれなりに協力的だ。そもそもネザクたちは全員が国を離れるうえ、特段、あの国に支配の実効性を残すつもりもないのだから。
「……まあ、むしろあの国から王女を連れ去ったというインパクトを残すのが目的か」
どんなに強烈な印象を国の人間たちに与えても、時が経てばいずれはその印象も薄れてしまう。だからカグヤは、『常に人質を取られている』という状況を創り出したのだ。エリックには、そんな彼女の狙いもわからないではなかったが、それでも──馬車の中の惨状を見る限り、彼女は楽しんでやっているとしか思えなかった。
馬車の中では、例のごとくエレナ王女に振り回されるネザク少年がいる。
「うわわ! エレナ! ほら、落ち着いてよ! 窓から身を乗り出したりしたら危ないって!」
「エレナもお馬さんに乗ーりーたーいー!」
バタバタと暴れる金髪の少女を、どうにか押さえつけるネザク。実際のところ、この馬車は特注品であり、かなりの広さがある。ネザクとカグヤ、二人のメイドに王女が一人の計五人が乗っても、十分な余裕があるほどだ。
「で、でも、その歳で乗馬なんて危ないよ?」
「……ネザクお兄ちゃん」
ふいに暴れるのをやめ、上目づかいにネザクを見上げるエレナ(3歳)。
「え? な、なに?」
ネザクは何となく嫌な予感を覚えながら、王女の視線を受け止める。
「あらら、始まったみたいね」
「うふふ、エレナちゃんも可愛いです」
ルカとリラは、恒例となった魔王と王女のやり取りを微笑ましそうに見つめる。
「エレナのお馬さんになって?」
「ええー!?」
こうなっては、後の展開は決まったようなものだった。何をどうあがいても、結局ネザクはこの王女様の要求を断ることはできない。
世界を支配する(予定)の魔王様にまたがってご満悦の王女様は、今日も今日とて『お兄ちゃん』を実効支配下に置いていた。
と、そんな和やかなやり取りが続く馬車の中に、落ち着いた声音が響く。
「敵、確認」
その声は、馬車の上から聞こえてきた。どうやって声を届かせているのか、まるですぐ傍で話されたかのような声に、エレナがびっくりして頭上を見上げている。
「あらあら、ようやくお出ましね。これだけの軍勢で練り歩いているんだから、もっと早く来てくれても良かったのに」
カグヤは窓枠に肘をかけ、顔を乗り出して前方に目を向ける。
「さっきから何度か見回りの兵士連中が逃げ惑うのは見えてたけどな」
「ふーん。まあ、いいわ。ところでリゼル。敵の中に月召術師は、いそうかしら?」
カグヤは馬車の屋根に向かって問いかける。
「見分けがつかない」
端的な返事を返した声の主は、馬車の屋根、その前方部分に腰を掛けて座っていた。エリックにしてみれば、あんなに短いスカートで高い位置に腰を掛けるのは勘弁してほしいところだったが、馬車の御者役を含む周囲の騎士たちは、彼女のことをだらしない目で見上げている。
「あの魔女、リゼルをわざとあそこに座らせたな……」
それはさておき──
「うーん、えっとね。そうそう、白い髪をした辛気臭そうな連中がいれば、それよ」
カグヤの言葉は、クレセント王国の支配階級、月影一族に対するものとしては随分な言い様だった。
「それなら、いないようだ」
リゼルは大して目を凝らした素振りも見せず、返答した。だが、遠眼鏡を使っているエリックですら、未だに敵影は確認できないのだ。どんな視力なのだと思ったが、彼女に常識を期待しても無駄だろう。
「じゃあ、ネザクの出番は後でいいかな。お馬さんごっこで忙しいみたいだしね」
「…………」
思わずため息をつきそうになるエリック。大国を相手に戦争を仕掛けるという大事を前にしているはずなのに、彼女の言葉を聞いていると、まるで物見遊山にでも出かけているような錯覚にさえ陥ってしまう。
「なら、どうするつもりだ? ネザクの鬼たちで勝てるかどうかは、敵兵の数次第だぞ?」
ネザクは『ルナティックドレイン』の供給源が増したせいか、以前にも増して大量の『魔』を使役できるようになっている。いくら『階位なし』の低級だからといって、単独で二千体もの『魔』を従えるのは、もはや人間業ではない。
とはいえ、今回召喚されている鬼たちの個々の戦闘能力は、以前の小鬼たちより若干高い程度のものだ。相手が雑魚なら2倍の兵士にでも勝てるだろうが、クレセント王国の兵士はたとえ雑兵であっても雑魚ではあり得なかった。
「わたしがいくわ」
「え? カグヤが?」
「ええ、そろそろわたしの凄さをエリックに教えておいてあげないと、心労のあまり、ますます禿げてきちゃいそうだものね」
「すでに禿げ始めてるみたいな言い方をするな!」
エリックが怒鳴る。カグヤはケラケラ笑いながら、ネザクに鬼たちの進軍を止めるよう合図し、馬車の動きも御者役の騎士に指示して止めさせる。
「さて、それじゃここで待ちましょうか」
カグヤは悠然と馬車から降りる。これから敵の軍勢と一戦交えようとする気負いなど微塵もなく、いつも通りに妖艶で、それでいて無邪気な笑みを浮かべている。と、そこへ、乗っていた魔馬から飛び降り、するすると近づく影が一つ。
「カグヤ姉さま。シュリの月獣兵団の出番はないの? シュリが本気を出せば、もっとずっと強くできるよ?」
シュリとしては自分の活躍の場が無ければ、給料も上げてもらえないのだ。自己アピールのつもりでカグヤに尋ねたのだが、カグヤはにっこり笑ってこう言った。
「いいえ。シュリはもう大活躍よ。今回はこれ以上、なにもしなくていいわ」
「え?」
「だってあなたの月獣兵団のおかげで、魔王軍がすっごく『それっぽく』見えているんだもの。お手柄だわ。これはお給金も上げてあげなくっちゃね!」
「そ、そうなんだ? ふーん、なんだか知らないけど、ラッキーにゃん!」
楽してお金が手に入るなら言うことはない。シュリには、名誉も自尊心もどうでもいい。少なくとも今この時点の彼女には、それらは価値のないものだった。だから、「あなたは何もしなくてもいい」という、ともすれば言われた人間の価値を否定するような発言にも、いちいち傷つくことはない。カグヤには、それもわかっているのだろう。
「……ったく、どんだけ人心掌握術に長けてんだよ、あの魔女は」
エリックは内心で呆れたように呟いた。続いて、魔王軍の威容をあらためて確認する。
確かにネザクの召喚した鬼たちは、いかつい体つきをしているものの、極端な異形というわけではない。そこにシュリの月獣たちが混ざることで、まさに『魔物の軍勢』という雰囲気が出ていることは確かだった。
特に四つ目の魔獣、オンテルギウスの迫力は半端ではない。
「……そろそろ見えてきたみたいだな」
エリックの遠眼鏡にも、ようやく敵影が確認できた。恐らくは、四千人ほどの軍勢だろう。エリックは、余裕の表情で進み出るカグヤに声をかける。
「こっちの倍はいるぞ」
「ええ、大丈夫。わたしの敵じゃあ、ないわ」
自信に満ちた声。エリックも彼女が相当の力を持つ術師であることは知っている。さらには実際に、黒魔術という術の恐ろしさを、彼は先立っての反乱領主軍との戦いの中で思い知っていた。
いや、あれは戦いなどではない。まさに一方的な虐殺だった。それを為したのは、依然として白い脚をむき出しにしたまま、馬車の屋根に腰かけている美貌の魔人だった。
彼女はカグヤから「適当に相手をしてあげて」との指示を受け、反乱軍の前に立ち塞がった。そして、まさに文字どおり『適当』に相手をした。ただ一言、「発動、《虐殺の黒月》」とつぶやいたのだ。結果、出現した恐ろしく巨大な黒の月は、今にも押し寄せようとしていた敵の軍勢数千のうち、ほぼ半数を飲み込んだのだった。
その時のことを思い出し、エリックは背筋を寒くする。リゼルアドラは確かに凄まじい戦力ではあるが、常に暴走気味の彼女に頼るのは、危険な気もする。
「あの時はめんどくさくなってリゼルに丸投げしたら、もったいないことになっちゃったもんね。今度はわたしがちゃんとしなくちゃ」
徐々に近づいてくる軍勢を見つめ、くすりと笑うカグヤ。まるで過去のちょっとした失敗を思い出し笑いしているかのようだが、彼女のその『可愛い失敗』のために命を落とした人間の数を思えば、うすら寒ささえ感じる笑みだ。
「今度はネザクのために『頭数』を残しておいてあげたいし、一人も死なせず勝っちゃおうかな?」
そんな、耳を疑うようなことまで言ってのける。
「まずはいつものとおり、降伏勧告ね」
「うう、カグヤ。またやるの?」
恨みがましげな声でネザク。
「やーね。当然でしょ? わたしだって毎回毎回面倒だけど、あなたのためと思ってやってるんだから」
言いながら、カグヤは術を発動させる。空に浮かぶ闇の口。それを見た者の心に、言葉を届ける黒魔術。
「うふふ! これ、やみつきになっちゃいそう!」
「それ、絶対楽しんでるよね!?」
おどろおどろしい魔王の名乗りと降伏勧告は、当然と言うべきか一笑に付され、敵軍はなおも進軍を続けている。見たこともない魔法に恐れを抱かなかったわけではないだろうが、それでも流石は鍛え抜かれた大国の兵士だ。怯むことなく向かってくる。
「とはいえ、わずかでも『恐れ』を抱いた以上、わたしには逆らえないわよ?」
徐々に詰まる彼我の距離を気にすることもなく、カグヤはゆっくりと術式を構築する。
「さてと、発動……《増殖する恐怖の影》」
黒魔術の中でも極めて強力な超高位魔法。効果としては、対象が抱いた恐怖を増幅し、怖じ気づかせて退けるだけの魔法だ。だが、これはエリザたちが『欲望の迷宮』地下三十階で遭遇したトラップ発動型の同種のものと比べ、何もかもが桁違いだった。
カグヤたちにはあずかり知らぬことだが、今回の相手はクレセント王国でも屈指の勇猛さを誇る『三日月兵団』と呼ばれる守備部隊だった。彼らは月召術こそ使えないが、月影一族、ひいては王国のため、命を投げ出して戦うことのできる戦闘集団だ。
しかし、その彼らが──
「う、うわあああ!」
「ひ、ひいいい!」
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!」
「いやだああああ!」
泣き叫び、涙と鼻水で顔を濡らして逃げ惑う。恐らく中には失禁している者もいるだろう。泡を吹いて気絶してしまうものすらいた。効果の激烈さにおいても『欲望の迷宮』のものとは比較にならないようだが、やはり特筆すべきは効果範囲だ。
『三日月兵団』西方面軍総勢四千名。そのことごとくが恐慌状態に陥り、ただの一人も戦うことなく散り散りに逃げ去っていく。
「……な、なんだよ、これ」
もはや開いた口が塞がらないエリック。いくらなんでもこんなもの、規格外にも程がある。こんな魔法が戦場で使われたら、ただそれだけで勝敗が決してしまうではないか。
「……シュリ、カグヤ姉さまに一生ついていこうかな」
今のところはお金にしか目が無いはずのシュリでさえ、そんな呟きを漏らすほど、カグヤの魔法は圧倒的だった。
「ふふ、ほら、言ったでしょ? わたしって、すごいんだから」
腰に手を当てながら胸を張って笑うカグヤを見て、エリックは彼女と出会って以降、もう何度目になるかわからない諦めの気持ちを抱くのだった。
次回「第30話 少年魔王とふたたびの戦争(下)」




