第93話 少年魔王と学院の放課後
ルーヴェル英雄養成学院の授業は、学外任務でもない限り、夕方を待たずに終わる。この都市に元々居住する一部の生徒たちを除き、大部分の生徒たちは学院の寮で生活をしているが、それでも授業終了と同時に帰宅してしまおうとするものは少ない。
遊びたい盛りの少年少女にとって、放課後は貴重な時間である。学院では申請さえすれば、共通の趣味を持った者たちが集まるサークルを設立できることもあり、多くの生徒たちはそうした活動に従事していた。
だが、現在の学院においては、申請を経ていない非公式のサークルこそが最大勢力を誇っている。学院全体のおよそ六割という圧倒的な規模を誇るそのサークルの名は、『ネザクファンクラブ』。
構成員の中心メンバーはもちろん、女性である。
彼女たちには、ひとつの『鉄の掟』があった。それは、『抜け駆け禁止』というものだ。具体的に言えば、『ネザクくんは皆の共有財産であり、独り占めをしてはならない』というものである。
だが、ここでいう『独り占め』とは、恋愛関係におけるものを指す言葉ではない。むしろ、『ネザクの恋愛事情』なるものが明るみに出れば、彼女たちはよだれを流さんばかりに狂喜乱舞するだろう。ゆえに、ここでの『独り占め』とは、特定の集団が彼を囲い、彼を独占的に『愛でる』行為を指していた。
そのため、校内最大勢力を誇るファンクラブを敵にまわしてまで、彼を迎え入れようと言う強者などいるはずもなく、ネザク少年は、放課後のサークル活動には参加していなかった。
──それはともかく、ファンクラブはネザクと恋愛関係になろうとする者を排除することはない。それだけは事実である。
「えーっと、今日はどうしたの?」
ネザクは相手のただならぬ様子に、戸惑い気味に問いかける。
「今日……だけじゃないわ」
「え?」
意味が分からず、目を丸くするネザク。
放課後のこの時間、学院の教室には、自分と彼女以外には誰も残っていない。呼び出しを受けてきてみれば、彼女はネザクを熱のこもった目で見つめ、何かを言いたそうに口を開きかけては、また閉ざすといったことを繰り返している。
「……あのね?」
躊躇いがちに言いながら、潤んだ瞳を向けてくる彼女。今までそんな目で見つめられたことなどなかったネザクは、わけもわからず困惑する。
人気のない教室の窓からは、夕日が射し込んできている。オレンジ色の陽光は、頬を染めた彼女の顔に淡い陰影を浮き上がらせていた。やがて、彼女は意を決したようにひとつ頷く。対するネザクは、ごくりと唾を飲んで、彼女の次の言葉を待つ。
静けさに包まれた室内には、緊張の面持ちで口を開く彼女の息遣いの音。仮にこの光景を覗き見る者がいたとすれば、これから始まる『告白の場面』に、同じく生唾を飲み込んだのではないだろうか。
──などということは、全くなかった。
「……最近」
「え?」
「最近、ネザクがお姉ちゃんと遊んでくれなくて、寂しいわあああ!」
感極まったように大声を上げたのは、黒衣黒髪の美女。驚いて身を引こうとする少年を逃すまいとばかりに、がばっと両手を広げて彼に抱きつく。
「うわわ! ちょ、ちょっと、どうしたのさ?」
正直、意味が分からない。大体、自分に用があるなら普通に声をかけてくれれば良さそうなものなのに、人を介して手紙で呼び出しなどをかけた挙句、この有り様なのだ。
何か重大な用件でもあるのかと緊張していたネザクは、拍子抜けしたように息をつく。
「あ! 何よ、その態度!」
身体を離し、怒った顔でネザクを見下ろしてくるカグヤ。
「まさかそんな用件だとは思わなくってさ……」
「大事な用件よ。どうも最近、おかしいと思ったの。変だと思ってたのよ!」
カグヤは何故か、憤慨したように言葉を続ける。
「おかしいって何が?」
「お肌に張りが無くなってきた気がするの。潤いが不足している気がするし、やることなすこと、なんか張りあいがないの」
「そ、そうなんだ……」
意味の分からないことをまくしたてられ、生返事をしつつ頬を掻くネザク。ネザクには経験上、こうなった時のカグヤには、まともに取り合わない方がいいとわかっている。というか、できればこのまま逃げ帰ってしまいたいほどだった。だが、カグヤの勢いは止まらない。
「気付いたの。わかったの。……そう、今のわたしには、『ネザク成分』が足りないのよ!」
「ネザク成分!? 何だかわからないけど、人を栄養分みたいに言わないでよ!」
やってしまった。我慢できなかった。つい、ツッコミを入れてしまった。カグヤは、むふふと不気味な笑みを浮かべ、ネザクの肩をがっしりと掴む。
「最近、いつもエリザとかリリアさんとばっかり一緒にいるじゃない。お姉ちゃんを忘れるなんて酷いわ!」
「……あれ? 僕の記憶が間違いじゃなければ、エレナたちを見送った時も同じ話になって……あの時は随分いいことを言ってくれてたような気が……」
自分の望みはネザクが皆と仲良くなることだから、自分のことなど気にするな。そんな彼女の言葉を彼自身、感動とともに心に刻んだはずだった。
「ああ、あれ?」
思い出したようにカグヤ。
「あれはね……えっと……うん──強がっちゃった! てへっ!」
「僕の感動を返せ!」
「まあ、いいじゃない。それより、どうなの? エリザたちとは遊んでも、お姉ちゃんとは遊べないとか言うつもり?」
「い、いや、あれはどっちかって言うと、エリザとリゼルのコンビが心配だから……」
学院史上、最悪のコンビ。彼女らを放置しておけば、いつかこの学院が跡形もなく消えてしまう日が来る。そんな切実な危機感は、ここ最近において、ネザクが彼女たちとともに行動する時間を自然と増やしていたのだった。
「そう言えば、今日はどうしたの?」
「うん。今日はここに来る前にルカさんにお願いしてきたから。……あの人も悪ノリさえしなければ、リゼルの抑えにはなってくれるはずだしね」
それでも心許ないと言いたげなネザク。
「……そ、そう。大変ね、あなたも。……それじゃあ、なおさらよ。わたしがあなたの息抜きを手伝ってあげる! 今日は精一杯、羽を伸ばしましょう!」
カグヤは同情の素振りを見せつつ、直後には声を弾ませてネザクの手を取る。
「大丈夫かな、僕。カグヤと一緒で、ほんとに羽なんて伸ばせるのかな?」
どこまでも懐疑的なネザクだった。
──学院の廊下を今にもスキップしそうな軽い足取りで歩くカグヤ。
ネザクが拒否したのにもかかわらず、彼女はしっかりとネザクの手を握っている。十三歳にもなって姉と手を繋いで歩くのは恥ずかしいのだろう。ネザクは誰かに目撃されるのではないかと気が気でないようで、きょろきょろと周囲を見渡している。
「あれ? カグヤとネザクか。どうしたんだい、今日は?」
声を掛けられて振り向けば、アルフレッドがにこやかな笑みで近づいてくるのが目に映る。
「あ! こ、こんにちは。アルフレッド先生」
ネザクは慌ててカグヤと繋いでいた手を離し、礼儀正しく頭を下げる。一方、カグヤは軽くそっぽを向く。
「……ふん。別に何でもいいでしょ?」
「ははは。最近じゃ、そうして二人仲良く歩いている姿も珍しい気がしたからね。何か特別なことでもあったのかと思ったんだけど」
アルフレッドも既に彼女の素っ気ない対応には慣れてしまったらしい。大して気にした様子もなく、言葉を返してきた。
「たまには姉弟水入らずで過ごそうと思っているだけよ。『水入らず』でね」
言外について来るなと言い捨て、ネザクを促して歩きはじめるカグヤ。
「うん、それじゃ楽しんでくるといいよ。保護者同伴なら寮の門限も大丈夫だろうけど、念のため僕が連絡を入れておこう。じゃあ、またね」
なおも朗らかな調子で気の利いたことまで言うアルフレッドに、カグヤは少しうんざりしたような顔をしたものの、結局は頭上でひらひらと手を振りながら歩き去った。
「ねえ、カグヤ。前から訊きたいことがあったんだけど……」
廊下を歩きつつ、ネザクはカグヤに問いかける。
「お姉ちゃんよ」
「あ、うん。お姉ちゃん。どうして、アルフレッド先生と仲良くしないの?」
「え?」
カグヤは、きょとんとした顔でネザクを見下ろす。
「いや、だって、幼馴染なんでしょ?」
「ただの腐れ縁よ。昔からの知り合いだろうと、嫌いな相手と仲良くしなきゃいけない理由なんてないでしょ」
「それはそうだけど……でも、なんで? 性格的に合わない部分はあるかもしれないけど、それを差し引いてもアルフレッド先生って凄くいい人だよ?」
「……ネザク。その話、どうしても続ける気?」
嫌そうな顔で言うカグヤ。だが、ネザクはここで引くことはしなかった。まっすぐに彼女の顔を見上げたまま、言葉を続ける。
「うん。聞かせてほしいな。昔、お姉ちゃんと先生に何があったのか」
「……もう! そういう目で見るの、反則よ。わかったわ。本当は街にでも繰り出したいところだけど、外は少し寒いみたいだし。……そうねえ、夕食がてら、『星霊亭』にでも行って話しましょうか?」
「うん」
二人が学院敷地内でも人気の飲食店『星霊亭』に行くと、そこには先客が待っていた。
「あれ? エリザだ」
店に入るなり、奥の席にいた真っ赤な髪の少女を見つけ、声をかけるネザク。するとエリザは、嬉しそうに手を振って二人を手招きした。
「ネザク! と、それからカグヤ先生も! 二人ともここで夕食?」
「ええ、そうよ。たまには姉弟水入らずでって思ったのだけど……」
「あ、なんだ。そっか。じゃあ、呼んじゃって悪かったかな?」
「いえ、いいわよ。せっかく同じ店なのに、別の席に座るのも居心地悪いもの」
席に近づいていくと、それまで柱の陰になっていたこちら側の席に、白金の髪の少女の姿が見えた。
「あら、カグヤ先生、ネザクくん。こんばんは」
「リリアさんもいたんだね」
にこやかに会釈してくるリリアに声を掛けながら、席の傍まで行き、そこで立ち止まるネザク。すると、その後ろからカグヤが急かすように彼の背中を押した。
「ほら、早く座りなさいな。……それともエリザとリリアさん、どっちの隣がいいか、迷ってたわけ?」
「ち、ち、違うよ!」
ネザクは顔を赤くしながら否定すると、そのまま奥の席、つまりエリザの隣へと腰かけた。そしてそのまま、話題を変えるように問いかけた。
「そ、そう言えば、リゼルはどうしたの?」
「うん。なんだかルカさんと二人でよくわからない話で盛り上がっちゃってたから、置いて来た」
「よくわからない話?」
「うん。……うーん、リリア、なんだっけ?」
「ええ。……確か、『たとえツッコミ』がどうだとか……」
リリアも言葉の意味が理解できないのか、怪訝な顔をしている。
「ああ、なるほどね……」
納得したように頷くネザク。
「そう言えば、あなたたち。この店には出禁になっているんじゃなかったかしら?」
カグヤは教職員の間で噂になっていた話を思い出しながら訊く。
「うん。最近ようやく、お店からお許しが出たんだ。あたしが『大食い無料チャレンジ』に挑戦しないことが条件なんだけどね」
「何を言ってますの。それ以前に、あなたが泣きながら土下座なんてするからですわ。店の主人、はっきり言ってドン引きでしたわよ?」
「やだなー! あれはちょっと勢い余っちゃっただけじゃん。さすがに本気で泣いたりはしてないよ」
あっけらかんと笑うエリザに、リリアは呆れたような目を向けている。
「あはは……」
飲食店の出禁解除を果たすため、土下座を決める英雄少女。そんな薄ら寒い光景を想像し、ネザクは乾いた笑いを返すしかなかった。
それから、四人は改めて料理を注文すると、雑談に興じはじめる。話題になったのは、先ほどネザクが歩いて来る途中にも尋ねていた、カグヤとアルフレッドのことについてだ。
「あ、それ、あたしも聞きたい! アルフレッド先生が、どうしてあんなにカグヤ先生にぞっこんなんだか、昔の話に理由があるかもしれないもんね」
相変わらず他人の恋愛ごとにだけは、興味津々のエリザだった。
「あなたねえ……まあ、いいわ。長くなってもなんだから、細かい部分は端折るわよ」
そう前置きをして、カグヤは過去を語り始める。
──アルフレッドとカグヤは、エレンタード王国辺境の村で育った。
育ったとは言っても、カグヤの方は村の生まれではない。彼女の両親は移住者であり、二人の出会いは彼が五歳、彼女が三歳の時のことだった。
当時から面倒見の良い少年だったアルフレッドは、近所に引っ越してきた愛らしい黒髪の少女のことを自分の妹のように可愛がっていた。少女も同じく少年を兄のように慕っていたのだが、そんな二人の立場は、何年か後には逆転することになる。
利発で聡明な黒髪の少女は、十歳を迎える頃には、村の中でも一目置かれる存在になっていた。大人顔負けの頭の良さに加え、何故か彼女は、人の心の機微を読むのに長けており、人々に的確なアドバイスを行うことができた。後から思えば、これも黒魔術の才能によるものだったのだろう。
いずれにしても、その頃のカグヤは、騎士になりたいという夢を抱いていたアルフレッドのために、彼に読み書きを教え、訓練での負傷を治療してやったり、兵士の登用所にまで付き添ってやったりと、実に甲斐甲斐しく世話を焼くようになっていた。
まるで夫婦のように連れ添う二人の姿に、村の大人たちから「式はいつだい?」と言ったからかいの言葉がかけられることも日常茶飯事だった。
ところがある日、悲劇は唐突に訪れる。きっかけは、人の心を見透かす少女の噂を『黒の教団』が聞きつけてしまったことだ。星界中から黒魔術の素養を持つ子供を略取していたその組織は、類まれなる才を持つカグヤを狙った。
村は教団が仕掛けた黒魔術により混乱に陥り、その隙に乗じた『教団』幹部らは、カグヤの身柄を拘束して連れ去ろうとした。
村の中でただ一人、そのことに気付いたのはアルフレッドだった。彼は当時、十四歳にして近隣の騎士団の詰所に見習いと称して出入りを許される身となっており、類まれなる剣術と白霊術の才能を持つ、将来有望な魔法騎士の卵だった。
しかし、あくまでそれは将来の話だ。当時の彼にはそれほどまでの力は無く、『教団』の行使する黒魔術の前に、為す術もなく敗北してしまう。
「……その後、わたしは『教団』内でネザクに会って、リゼルに会って……今に至るってところね」
「……ふうん。でも、今の話だと、アルフレッド先生が嫌われる理由がわからなかったんだけど……」
ネザクが疑問の声をあげると、カグヤは食事に手を付けながら、大きく息をつく。
「……わたしはあの時、もうやめてって、言ったのよ。勝ち目のない相手に立ち向かったところで殺されるだけなのに。……アイツ、絶対にわたしを助けたいって、そのためなら死んでもいいって……あの馬鹿は」
「カ、カグヤ先生?」
ぶつぶつとつぶやくカグヤの顔を、隣からリリアが心配そうにのぞき込む。
「……あの村があんな風になったのは、全部わたしのせいよ。なのに……疫病神でしかないわたしのためにアイツが死ぬとか……わけがわからない。目の前で血まみれになって倒れるアイツの姿を見て、わたしがどれだけ辛かったか……きっとアイツはわかっていないのよ」
カグヤは、自己犠牲の精神が嫌いだと言う。それは、『犠牲になられる側』の気持ちを誰より知っているからなのだろう。
ネザクは彼女のつぶやきを聞いて、そう思った。
「……なるほどね」
しかし、エリザは、彼とは違う感想を抱いていたのだった。
次回「第94話 辺境の王女と銀狼族の王子」




