なくした時間
古い時計塔の鐘が鳴りわたった翌日のこと。
町では「あの塔の鐘は不思議ねえ」「百年たっても狂わないなんて」と噂が交わされていました。
でも、塔の中では小さな異変が起きていたのです。
◇
「おいティック! ちょっと止まってるぞ!」
朝の光が差し込む歯車の間で、タックが声をあげました。
長針の精である彼は、いつものようにせかせかと動いていたのですが、ふと横を見て驚いたのです。
短針のティックが、眠たそうにあくびをしている。
いや、それどころではなく、彼の針はぴたりと動きを止めていました。
「え? 本当だ……どうしたんだろ」
ベルも心配そうに鐘から顔を出しました。
「わ、わからない……ちょっと休んでただけなのに……」
ティックは困惑していました。
時計塔の仲間にとって、「止まる」ことは大変なことでした。
なぜなら彼らが止まれば、この塔の時も止まってしまうからです。
◇
歯車が少しずつずれていき、カチリ、カチリという音が不安定になります。
タックは慌てて駆け回りました。
「やばいぞ! このままだと町に正しい時が届かない!」
「落ち着いて、タック。わたしが鐘で知らせるわ!」
「いや、ベル! 鐘だけじゃだめだ、時間がずれる!」
塔の中は大騒ぎになりました。
そのとき。
『やれやれ……慌てるな』
低く響いた声は、塔のてっぺんから。
風見鶏のクロウが、じっと下を見下ろしていました。
『ティックが止まったのは、ただの疲れじゃない。なにか大事なものをなくしたんだ』
「なくした……?」
タックが首をかしげます。
『そうだ。時を刻む者がなくしてはいけないのは……心だ』
クロウの言葉に、塔の仲間たちははっとしました。
◇
「心……」
ティックは小さな声でつぶやきました。
「そういえば……昨日からずっと、胸の奥がすかすかしてる気がして……」
眠たそうな彼の瞳が、かすかに揺れました。
「夢を見たんだ。知らない子どもが、『ありがとう』って言ってる夢」
「ありがとう……?」
とタック。
「でも目が覚めたら、その声が消えてしまってて……なんだかすごくさみしくなった」
ベルはティックのそばに寄り添いました。
「もしかして、その声こそが“時を刻む心”なんじゃない?」
タックは首をかしげましたが、クロウは大きくうなずきました。
『そうだ。時は人に寄り添って初めて意味を持つ。人の声、人の願いを忘れたとき、針は止まる』
ティックは目を丸くしました。
「じゃあ、わたしが止まったのは……人の声を見失ったから?」
『そのとおりだ』
◇
「じゃあ探しに行こう!」
タックが勢いよく叫びました。
「探すって……どうやって?」
「町に降りるんだ! なくした声をもう一度見つければいい!」
ベルが驚きました。
「そんなことできるの?」
『できなくはない。ただし、人に見つかればこの塔の秘密がばれてしまう』
クロウは重々しく言いました。
それでもティックは、小さく頷きました。
「行きたい……もう一度、その“ありがとう”を聞きたい」
その決意に、ベルとタックも顔を見合わせました。
「しょうがないな。お前の針が止まったままじゃ、俺たちも困るし」
「そうね。なら、今夜こっそり行きましょう」
こうして、時計塔の仲間たちは、初めて人間の町へ降りることを決めたのです。
◇
その夜。
月が高くのぼり、町が眠りについたころ。
三人は小さな光となって、歯車の隙間から外へ抜け出しました。
ティックは胸を押さえながら、ゆっくりと漂います。
タックはせかせか先を急ぎ、ベルは後ろから歌うように光を添えました。
町の家々の窓からは、寝息のようなあたたかな明かりが漏れています。
その光を見て、ティックの胸は少しずつ温かくなりました。
「……あ。聞こえる」
彼の耳に、小さな寝言のような声が届きました。
『……明日も元気で……ありがとう……』
それは眠っている子どもが、夢の中でつぶやいた声でした。
ティックの針が、かちりと動きました。
止まっていた心臓が、もう一度時を刻みはじめたのです。
◇
塔に戻ったとき、夜明けが近づいていました。
ティックは胸に両手をあて、はっきりと微笑みました。
「ありがとうって言葉、ちゃんと覚えたよ」
「おーし、これで止まる心配はないな!」
とタック。
「よかった……」
とベル。
クロウはてっぺんで、空が白むのを見つめながら言いました。
『忘れるな。時間はただの数字じゃない。人の声や願いがあってこそ、時は流れるんだ』
ごーん……。
夜明けの鐘が鳴り、町に新しい朝が訪れました。
ティックの針は確かに動き、塔の仲間たちはほっと胸をなでおろしました。
こうして時計塔はまた、人々に正しい時を届けることができたのです。




