番外編・タックの大冒険
ある初夏の朝。時計塔の窓から、まぶしい光が差し込んでいた。
長針のタックはじっとしていられず、うずうずしていた。
「なぁ、ティック」
「なに?」
「外に出てみたい! 町をもっと近くで見たいんだ!」
短針のティックはあきれ顔をした。
「また急に……。ぼくらは塔の中で時を刻むのが役目だよ」
「わかってる。でも、ずっと同じ景色だけじゃ退屈だろ?」
タックの目はきらきらしている。
ベルが鐘の影からひょこっと顔を出した。
「気持ちはわかるわ。でも、本当に行けるの?」
タックは胸を張った。
「試してみなきゃわからない!」
そう言うと、彼はくるんと回転して窓から飛び出した。
◇
風に押されて、タックはふわりと町の広場に降り立った。
初めて間近に見る人々の暮らしに、目を丸くする。
パン屋からは焼きたての香り。
子どもたちは鬼ごっこで走り回り。
市場では野菜や果物が色とりどりに並んでいる。
「すごい! 塔の上から見るのとぜんぜん違う!」
タックは胸をどきどきさせた。
けれど歩き出してすぐ、困ったことに気づいた。
小さな体では人に見つかると大騒ぎになる。
だから、人影を避けながらこっそり移動しなくてはならなかった。
◇
そのとき、小さな声がした。
「ねえ、君……雲のかけら?」
振り向くと、広場の隅に座っていた子どもが、タックを見つめていた。
まだ小さなの男の子で、手に風車を持っている。
「え、見えてるの?」
「うん。だってキラキラしてるもの」
タックは慌てたが、子どもはにっこり笑った。
「ぼく、ユウっていうの。ねえ、一緒に遊ぼう」
その言葉にタックの心は跳ね上がった。
塔の仲間以外と触れ合うのは、これが初めてだったからだ。
◇
二人は広場の片隅で遊んだ。
ユウが描いた地面の線の上を、タックは針のように歩いてみせた。
「すごい! 本当に時計みたい!」
「当たり前だろ。オレは長針だからな!」
得意げに言うタックに、ユウは笑い声を上げた。
風が吹くと、ユウの風車がくるくる回った。
「見て! 走らなくても風がきてる」
タックは風を感じて、ふと寂しさを覚えた。
塔の上のクロウや、ティックやベルの顔が浮かんだからだ。
◇
夕暮れになり、鐘の時刻が近づいてきた。
タックは胸がそわそわした。
「やばい……オレがいないと、針が合わない!」
ユウが不思議そうに首をかしげた。
「帰っちゃうの?」
「ごめんな。オレ、塔に戻らなきゃいけないんだ」
ユウはしょんぼりしたが、すぐに笑顔を作った。
「また会える?」
タックは少し考えてから、胸を張った。
「空を見上げれば、いつでもオレはいる。だから、またな!」
そう言うと、風に乗って一気に塔へ舞い戻った。
◇
鐘を鳴らす直前、タックはぎりぎりで針の位置に戻った。「まったく、心配させないでよ」
ティックが安堵のため息をついた。
「ごめん! でも、ちゃんと帰ってきただろ!」
タックは照れ笑いをした。
ベルが鐘を打ち、夕暮れの町に音が響いた。
広場ではユウが顔を上げ、鐘の音を聞きながら小さく手を振っていた。
その夜、タックは心の中でつぶやいた。
『今日のことは秘密。でも……町の子どもに出会えたことは、きっと忘れない』
塔の中で、ティックとベルは少し呆れながらも笑っていた。
クロウは塔の上から静かに見下ろし、風に乗せてひとことだけ言った。
『……大冒険だったな』




