雲の魔術と罠
キリヤは空を旋回しながら、雲上に寝転がっている人影を見下ろした。
あれが件の魔術師だろう。
細部まではっきりとは見えないが、月明かりに照らされた寝姿は無防備そのものだ。ただその周辺には、青白い光の網がしっかりと張り巡らしてあった。
侵入者探知用の結界網。
その形は、彼女を中心とした半径2メートルほどの球状。精密さよりも持続性を重視したモノらしく、網目のサイズは粗い。だからといって、とても人が通れるサイズではなかったが。
(セオリー通りなら、自動迎撃術式が組んであるんだろうな。試してみるか)
キリヤは背中から一丁の魔導銃を取り出す。
魔術と同様に、魔道具の使用でもその場にマナの痕跡は残る。しかし、そこから追跡魔術で分かるのはあくまで魔石の位置だけであり、使用者自体を追跡される恐れはなかった。暗殺者にとっては便利な手段の一つである。
(まぁ、魔石を使い捨てる必要がある金食い虫だがな。使い時を見極める必要があるが……今はその時だ)
魔導銃を構え、トリガーを引く。
すると銃口の前に魔術陣が展開され、中央に小さな氷の粒ができ始めた。これがこの銃の撃ち出す弾になるのだ。
程よいところでトリガーを離せば、それで氷の礫は完成だ。キリヤは魔術師の結界を掠めるように照準を合わせる。
(……魔術師は万能。油断すれば、狩られるのはこちらの方だ。完全に逃げ切るまでは気を抜くな)
呼吸を止める。
トリガーを引く。
キリヤの手元から発射された氷弾は、数瞬のうちに結界網へと到達する。すると、着弾地点にバチリと紫電が走り、小さな氷は眩く光って跡形もなく消えた。
魔術師がピクリとも動かないのは、遮音でもしているのか。それとも、キリヤを誘っているのだろうか。
(……どちらでもいいが、紫電の演出は派手だな。襲撃者の心を折るには有効だが、あれではマナ消費が大きすぎる)
キリヤは魔導銃の側部に付けられたダイヤルを回す。トリガーを引くと、先ほどよりも大きな魔術陣が展開され、氷の礫はその数を増やしていった。
氷弾魔導銃。
氷弾の数や大きさを自由に変えられるこの銃は、キリヤが恩人から受け継いだ古き良き魔道具であり、何度も窮地を救ってくれた相棒でもあった。
宙を舞いながら、氷弾の雨を降らせることしばらく。
3個目の魔石が空になったあたりで、魔術師の結界に変化があった。纏っているマナ明かりが当初より薄くなってきており、結界網にもところどころ綻びが見られるようになったのだ。
(……あと少しだ)
設置型の魔術は基本的に、起動時に込めたマナを消費し終えれば消える。その際、魔術師が目を覚まさないとは限らなかった。
キリヤは魔導銃の魔石を交換し、氷弾を撃ちながら急降下を始める。
(――結界の消失を確認。奪取に移る)
魔導銃を腰のホルダーに固定する。
魔術師まで残り数メートル。
と、その時であった。
ターゲットの魔術師は突然ムクリと起き上がり、キリヤの方を見上げたのだ。やはり襲われるのが分かった上での誘いだったのだろう。しかも――
(見誤ったか……。とんだ無駄足だったな)
月明かりに照らされた顔は、狙っていた魔術師のものではない。そこにいたのは、探偵皇女ランネイ・ビアンケリアだった。
風に揺らめくネグリジェからは、魔術戦闘用だろう銀色の紐パンツと、以前は身に着けていなかったガーターベルトが見え隠れしている。
彼女は満面の笑みを浮かべていた。
そして、周囲の雲が触手のようにウネウネと蠢き始めた。あれはおそらく〈水鞭の魔手〉を改変した魔術だろう。捕まれば容易には逃げられそうにない。雲の多いこの場所では厄介この上ないモノだ。
対するキリヤは、バックパックから切り札を取り出す。
(皇女のパンツは以前にも盗った。この場に回収するべきパンツはない。あとはあの魔手から逃げ切るだけだが……)
雲の魔手が束になって伸びてくる。
キリヤは魔導銃でそれらを撃ち落としつつ、黒い翼をはためかせて上空へ舞い戻る。このまま背中を見せて逃走しても、あの素早い魔手から逃げ切れる可能性は低いだろう。それならば――
(キリヤ流・奪パン術。拾ノ型――〈飛鳥〉ッ!)
宙で一回転し、急加速。キリヤが選んだのは、魔手を振り切っての正面突破だ。
一瞬の攻防。皇女が振り下ろした手刀を、彼は手にした「切り札」で受け止める。すると「切り札」に穴が空き、そこから特殊なガスが噴出する。
キリヤが持っていたのは、「雲を固めるスプレー」であった。シローネが持っていたものを今日のために譲り受け、切り札として隠し持っていたのだ。
ランネイは一瞬だけ動きを止める。
その隙に、キリヤは彼女の股下をくぐり抜け、まだ雲の固まっていない場所から下に抜けた。
その場に残されたランネイは、難しい顔をして雲上に立ったまま、丸い月を見上げた。
「〈雲鞭の魔手〉を固められた。足下の雲も広範囲に固まっているから、奴を追うこともできない。あのスプレーを逆手に取るとは……やはり、素人の手際ではないな」
そう呟いてから、耳に掛けられた通信用の魔道具を起動する。
「こちらランネイ。エトカ、聞こえるか」
『こちらエトカ。はい、通信良好でございます』
「怪盗パンコレは私のところに現れた。繰り返す。怪盗パンコレが現れたのは、このランネイ・ビアンケリアの待機場所だ」
ランネイの言葉に、通信先からは慌ただしい物音が聞こえてくる。事前の打ち合わせ通り、ここからが怪盗パンコレ捕縛の肝だ。
『……おやおや、ランネイ様。そんな風に報告を繰り返すほど嬉しかったのですか? 愛しのパンツ泥棒に再会できたのが』
「馬鹿、ふざけている場合か。他はどうだ?」
『えぇ。魔術師アズサ、騎士ウォルターとも雲上で待機中。そちらに怪盗パンコレが現れる様子はありません』
その報告に、ランネイはしばし目を瞑る。
帝国美女十選のメンバーを疑っていた彼女は、まだパンツを盗まれていない魔術師アズサを囮にして、一つの罠を張ったのだ。
スプレーを配り歩きながら、神官ニャウシカには魔術師アズサの待機場所を、商会令嬢ソルティには騎士ウォルターの待機場所をそれぞれ教えておいた。そして、自分自身の待機場所を教えた相手は――
「裏切り者は歌姫シローネだ」
『分かっております。今ユニコーン騎士団が彼女を捕縛に向かいました』
「承知した。後を頼む」
そう言って通信を切ると、彼女はため息をついて上空に視線を向けた。
「あぁ……月が綺麗だな」
いつかの透き通った歌声が、耳の中に微かに響いたような気がした。
風が通り抜け、ネグリジェの裾が揺れる。
そこに銀色の紐パンツが存在していないことに、彼女はまだ気づいていない。ガーターベルトのみが残された彼女の丸い尻は、幻想的な月明かりに照らされて、白くぼぅっと光っていた。





