手紙からこぼれるのは小さな花の香り
それは、かつて歩んだはずの人生では、届いたことがない一通の手紙だ。
そんなことを知りもしないで、くすんだ赤い髪の男性は、その手紙を持って部屋に引きこもった。
戦況はそれほど悪くない。
内通者の存在があることが分かっていながら、まだ尻尾をつかめていない事実以外は。
「――――まあ、だまされたふりをしておいて、裏をかくというのが現実的か」
すでに、ドランクの砦から望む高い山は、その頂にうっすらと雪化粧をしている。
過酷な雪山を越えてくるのだとすれば、確実にこちらに来てから兵糧や装備を提供する人間が必要だ。
そんな色気のないことを考えた直後、同一人物とは思えないほどの慎重さで、ベリアスは手紙の封を開いた。
ほのかに香る、甘く安心できるような香り。
手紙を封から出した瞬間、パラパラとポプリにされた小さな赤い花がこぼれ落ちた。
香りの元は、この花だったらしい。
ベリアスは、黙ってしゃがみ込むと、その花を指先でそっと拾った。
カサカサとした感触。それに対して、美しい赤色は残されていて、丁寧に作り上げられたことが見て取れる。
「――――ルナシェが作ったのか……」
手紙の中に綴られていたのは、ルナシェの穏やかな毎日。
ポプリを作ったので、お裾分けだと綴られる。
手紙と一緒に届けられたのは、ルナシェが刺繍したマントだった。
もちろん、プロには及ばない。刺繍が得意な令嬢にも及ばない、明らかに素人の作品。
けれど、一針ずつ丁寧に施されたことが見て取れる。
「覚えていたのか……」
使うこともできず、お守り代わりに身につけていた、ハンカチ。
そのハンカチには、ルナシェが施した赤い花の刺繍。
手紙に同封されていた花と恐らく同じものだろう。
ふと、口元を緩めたベリアスの表情は、たぶんこれからも、ルナシェに関することでしか見ることができないに違いない。
しかし、手紙はまだ続く。
その表情が、徐々に凍り付いていくのを、もし同室の人間がいたならば、目撃したに違いない。
歴戦の勇者であるはずのベリアス・シェンディアをここまで動揺させられる人間も、ルナシェしかいないに違いない。
「――――社交界で、義母に会った……だと? さらに、魔術師が、魔法紙を使ってコンタクトを図ってきた……だと?」
さらに、長い手紙には、孤児院を訪れて、ベリアスの婚約者としての慈善事業と、多額の寄付をしたことや、ガストとともにドレスブランドを立ち上げたことまで記されている。
「深窓の令嬢として過ごしてきた日々も、強い信念によるものだったということなのか?」
活動的で好奇心旺盛で、こうと決めたことはやり抜いてしまう。おそらく、それがルナシェの本質だ。
完璧な淑女として過ごしていたのも、それが貴族令嬢としての矜持で、ひいては辺境伯領のためだと思っていたからなのだ。
ベリアスは、ただのか弱い令嬢には、一度たりとも心引かれたことはない。
ルナシェのまっすぐで強い意志を感じる瞳に惚れたのだ。
「あまり無茶をするなと、約束したはずだがな……?」
こんな場所からでは、助けることも、手伝うことも、できはしない。
――――社交界は、戦場だ。
これでは、戦場にいるのがどちらかわからないほどだ。
ため息をついたベリアスは、手紙を書き始める。
しかし、通信文や仕事のやりとりくらいでしか、ベリアスは手紙を書いたことがない。
予想以上に苦戦して、何度も書き直した手紙が完成する頃には、すでに夜も更けていた。
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