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そこは民家の奥まった裏道だった。表通りはザワザワと人の声が聞こえるが、ここは裏道だけあって薄暗く、周りを見渡しても家の裏口しか見えない通り。
洗濯物が物干し竿に干してあったり、クズ入れ籠が無造作に置かれている。
そんな場所にアリスは調停者によって導かれた。
ふわりと体が浮いたと思ったら、こつんと小さな音を立てながら着地した。
ふわりと舞うスカート。傍らには音も立てずに地面に着地する黒猫。
「にゃん」
「え?」
アリスの足の上に前足を片方乗せて首を傾げる可愛らしい仕草に内心撃ち抜かれつつ、その瞬間聞こえてきた話し声。
「ルチア様。お召し換えを調達して参ります」
「よろしくね。ユリウス」
「私は食料を」
アリスは目を見開いた。
すぐ目の前に、あれだけ話題になっていた当の本人たちが会話をしているではないか。
相手の表情が分かる程の距離だというのに、向こう側の視線はこちらを通り過ぎていく。
──私が見えていない?
一言二言何か言葉を交わした後、ユリウスとその周りに居た取り巻きや、神官の姿をした者たちは一旦解散した。
ルチアは手持ち無沙汰そうだった。
──どういうことなの?
いや、見れば一目瞭然だ。彼女に心酔していたユリウスや神殿の者たちがルチアを逃がそうとしている。
術が解けても彼女の味方はまだいるということなのか。
──あれだけ好き勝手していたというのに、まだ彼女を慕うの?
理解が出来ない。それこそ、執着していると言っても過言ではない。
今、彼女の周りには誰も居ない。アリスは連絡用にマティアスが渡してくれた魔法の封筒と便箋に軽く伝達事項を書き、足元にあった小石を封筒に入れた。
この土地のこの場所にあった小石を入れることにより、今アリスが居る場所を──どこから手紙が送られたのかを伝える魔法だった。
──戻る気はなさそうね。
これから逃避行でもするような物言いだった。
どうしてこちらの姿が見えないのか分からなかったけれど、彼女に1歩近付こうと足を踏み出そうとして。
「にゃっ……?」
いきなり動いたことに驚いたのか、アリスの足の上に乗せていた黒猫の前足がぱっと離された。
「あっ……」
「はあ!?」
アリスが思わず漏らした声と同時に、ルチアとバッチリと目が合った。
「嘘! 今、どこから!? なんで? ここに居るの!?」
丁寧な言葉は完全に外れ、ヒステリックに叫ぶルチア。完全にこちらの姿は見えてしまっているようだ。
──もしかして、調停者は姿を見えなくしてくれていたの?
アリスが動いてしまったせいで、黒猫の前足が離れた。
──触れている間、見えなくしてくれていたのね……。
迂闊だった。不必要に動こうとしたばっかりに。
「ルチア様……」
「私を捕まえに来たんですか?」
まずい。これは、非常にまずい。ユリウスたちが帰ってきたら、多勢に無勢。
逃げた方が良いのかもしれない。
──だけど。このまま逃げたら掴めなくなってしまう。
追うつもりはないと知ってもらえば警戒を解けたりしないだろうか。
──もしくは。
少しでも時間を稼いでこの場に留めていれば、誰か来るかもしれない。
一か八かの対話だ。
余裕そうな態度を崩さずにアリスは艶やかに微笑んで見せた。その笑みに隙はないように見える……はずだ。
「私はもう、役目を果たしましたの。だから、貴女を捕まえる気はないのです。少なくとも私はルチア様がどこへ行こうとも構いません」
「え? 見逃してくれるんですか?」
ルチアは呆気に取られていると同時にそこに見えるのは微かな期待。
──本当におめでたいこと。
これから告げる残酷な真実に彼女は何て反応するのだろうか。
「申し上げました通り、私は後のことに興味はないのです」
にこやかに告げるそれは彼女にとって都合の良い真実。
喜色満面の笑みをルチアは浮かべている。そこには「この女馬鹿じゃないの」と言いたげな、嘲笑いも見て取れた。
少しでもこちらに対して警戒心を解いてくれたらと思う。
──少しでも時間稼ぎを。
「ルチア様。私に仰りたいことはございますか?私に答えられることなら、何でも答えます。……たとえば、そう。私の正体とか」
気になって仕方ないはずだろう。
「私は聞きたいことがあるんです」
案の定、ルチアは何かを知りたいようだった。こちらを睨む彼女は敵意を迸らせていた。
「何でしょう?」
アリスがどうやってここに来たのかとか、そういった質問や、この黒猫の正体を質問してくるのだろうと予想をしていた。
だけれども、ルチアの言葉に目を丸くしそうになった。あまりにも予想外の質問だったおかげで。
「どうやって、アーネスト殿下を虜にしたんですか?」
「……」
笑顔のままアリスは固まった。
まさかそんな質問をされると思っていなかった。
もっと他に何かあるはずだろうに。
「答えてください。だって私に靡かない訳がないんだから」
「何故そう思うのです? 幼い頃からの絆……という理由では駄目ですか?」
それを口にした途端、ルチアは激昂した。
「ふざけないで! だって、私のことは皆好きになるはずよ! 皆好きになるんだもの。絆なんて関係ないくらい! 私が聖女なんだから!」
洗脳しているのだから、それはそうだろうと思う。あくまでも彼女は自分が聖女だから好かれるというスタンスを崩さない。
洗脳がなくなった瞬間、多くの者が離れていった事実も認めようとはしなかった。
ルチアは独り言みたいにブツブツと呟いた。
「おかしいわ……。だって、私は聖女だから皆が私を求めるの……。なのに、どうして殿下は私を好きにならなかったの? アリス様が何かをしていたからに決まってる……」
「私は殿下に何もしていませんわ」
「嘘! 私に振り向いてくれないなんておかしい! 私は聖女なんですから!」
先程から聞いていれば、聖女だから好かれるとばかり繰り返している。
それにしても情緒不安定すぎる。
「だって、おかしいです!! 私が聖女で! 私を好きになるに決まっているのに! アリス様に弱みを握られているとばかり思っていたのに! 欲を解放させてあげても、殿下は貴女しか求めなかった! これっておかしいでしょ? アリス様が何かをしたとしか思えない! この卑怯者!」
ルチアには言われたくない。
──って、欲を解放って?
「殿下に何をなさったの?」
声に怒りが滲みそうになる。洗脳以外にも何かをしていたなんて!
憤怒を抑えながらあくまでも冷静に問い返す。
「欲に忠実になるように精霊たちにしてもらっただけです! これで素直に私のことを求めると思ったのに、殿下は貴女ばっかり! 私が聖女なのに!」
「……」
ふと思い当たることがあった。
突然襲い掛かって貪るようなキスをされた記憶が蘇る。アリスが嫌がっても、どんなに拒もうとしても、男性の力でもって無理矢理求められた記憶。
初めてされた口付けは、甘いものではなく恐怖すら感じた。息が上手く出来なくて、苦しかった。何度も施された深いキスは執拗で、淫靡で。
当時は気付かなかったけれど、今振り返ってみれば彼らしくないと思ったし、何の脈絡もなかった。彼があそこまで怒り出すのも普通では有り得ない。少なくとも彼は取り繕うはず。
──その後も、あんなことがあって……。
アーネストに押し倒されて、無理矢理、体を奪われそうになった。
彼の瞳には熱が宿っていて、あのまま続けていれば、純潔を失っていたかもしれない。
恋をしていることが辛くなった1つの要因でもあった。
そういえば。気付いた頃には、アーネストにあった強引さは、なりを潜めていた。
少しずつ効力がなくなっていったのかもしれない。もしくは、何かが切っ掛けとなり正気に戻ったか。
「……貴女のせいだったのね」
ぽつりと呟くアリスは色々な意味で納得した。
アーネストは精神を弄られていた時も、アリスに一途だった。欲を増幅されても、アリスだけを求めていた。
──それによく考えれば。
アリスよりもルチアの言っていることを信じたあの時も、アーネストは根本的にはアリスの味方だった。
聖女に逆らってしまったアリスを案じて言ってくれた言葉がアレだったのだ。
『アリスがしたのは悪いことだけど、まだ取り返せるんだから。僕も応援しているから、ね』
洗脳はされていてアリスの無実を全く信じてはいなかったけれど、聖女に逆らったアリスのことを心配し、あんなことを言ったのだろう。
洗脳され、欲を制御出来ない状態にされても、アーネストはアリスを好きで居てくれた。
その事実に思い当たり、嬉しくて、哀しくて、申し訳なくて、胸がいっぱいになって──。
ぎゅうっと胸元で握られる手。
──今、私はどんな顔をしているの?
取り繕うのを一瞬だけ忘れそうになった。
足元で黒猫が前足でぺしぺしと叩いてくれたおかげで、すぐに持ち直したけれども。
喚き続けるルチアの言葉は半分くらい聞き流していた。
大体は「私が聖女なのに」で占められていたけれど。
ふいにルチアがニヤリと笑う。それはとても粘着質な類で。
「アリス様が居なければ、私がお姫様になれるの……?」
不穏すぎた。




