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  アリスは震えていた。

  洗脳をしたのがルチアだということは理解しているし、あのまま彼らを洗脳されたまま放置するのは有り得なかった。

  ルチアに洗脳されたまま悪事を重ね続けるよりも、たとえ狂ってしまったとしても洗脳から解かれるべきだと頭では理解していた。

 ──でも、あの人たちはあんな簡単に狂ってしまった。調停者と私の意思だけであんな簡単に。

  自分がやったことに後悔はないはずなのに、震えが止まらない。

  元はルチアの洗脳下に置かれたからだと頭は理解していても感情がついてこなかった。

 ──怖い……。

  あんなにも簡単に人の人生を左右してしまったという事実そのものが怖かった。

  覚悟はしていたつもりだった。幼い頃から正妃教育を受けていたし、それなりにこなしていたと自負している。

  この肩にのしかかる未来の王妃としての責任も、自分次第で多くの者の未来が左右されることも覚悟していた。

 ──殿下は、これよりももっと重圧を抱えていらっしゃるということ……。

  他人の人生を丸ごと背負っているような錯覚。

  それを疑似体験した気がした。


  顔から血の気が引いていく感覚。足の指の先も手の指の先も冷たくなっていくのを感じながら、ただそこに呆然としていれば、肩をそっと抱き寄せられる。アーネストの男物の香水の香りに酷く安心させられる。いつもは落ち着かないだけだったというのに。

「アリス、落ち着いて」

  穏やかな声には労りの色が見え隠れしている。

「怖いものを見せたね」

  違う。全てを見ておきたいと言い出したのは自分だ。アーネストに見せられた訳ではなくて、自分から見たいと望んだ。

  騎士たちもすぐ近くにいるルチアを拘束する傍ら、心配そうにアリスを見つめていた。

「怖くはないのです」

「無理しないで。我慢しなくて良いよ。怖いことは何もおかしくない」

  本当に怖くはなかった。今も叫び続ける狂人たちを目にしても、彼らそのものは怖くない。

 ──怖いのは、人の人生を左右するかもしれない自分の手や、意思。

 ──この光景を、自分が行動した結果を見ることが出来て良かったと思う。

  アリスは一瞬目を閉じてから、再び顔を上げて淑女の礼をした。


「皆様方、ご心配おかけしました。私のことはお構いなく」


  笑顔が引き攣ることはなかったと思う。長年の教育の賜物で、こんな時ですら、仮面を容易に被ることが出来て、それを自由自在に使いこなせるようになっていた。


「アリス様、女性なのにすごい……。凛としている……」

「さすが、殿下のお隣に立たれるお方。肝が座っていらっしゃる」


  血の気も引いたはずなのに、彼らには少し動揺したようにしか見えなかったのだ。

  アーネストだけは今だに心配の目で見ているが。

  これは彼の観察眼あってのものなのかもしれない。

  牢の金属に体を打ち付ける音と、爪で引っ掻くような耳障りな音が響く中、一行は地上へと戻ることにした。

  思わず後ろを振り向けば、「殺す」と連呼していた男が虚ろな目でこちらを見つめていた。


  廊下に戻り、古びた絨毯の上に転がされたルチアは身体中を縛られていたが、ようやく猿ぐつわを外された。

「っぷはっ! ……何をするんですか!アーネスト様ァ! 酷いですぅ……」

  先程の光景を見たばかりだというのに、甘ったれた声からは何の感慨も見当たらない。

「は?」

  アーネストの声に含まれる棘に気付かないまま、ルチアは床の上で体をくねらせ、ジタバタとのたうち回っている。

「先程の光景を見て、何も感じないのか?」

「なんでですか?」

  きょとんとした無垢な瞳でアーネストを見つめるルチアには罪悪感なんて存在していなかった。

「何も、思わないのか?」

  唖然呆然としたアーネストの表情にルチアは首を傾げた。



「私は彼らに何も言ってないですよ? 皆の気持ちの結果、酷いことになりましたけど、皆は私を助けようとしてくれたんです」


  良い話風に終わらせようとしている?

  アリスの懸念通りなのか分からないが、ルチアは珍しく可愛らしく微笑んだ。



「だから、許してあげて? 私のことを心配してくれただけなの……」

「彼らは狂ってしまったのに……それを言うのか、君は」

  アーネストの声は固かった。

  アーネストの目には、ルチアを責める色があったというのに、当のルチアは爆弾を投下した。


「聖女のためなら、死んでしまったとしても報われると思います」


  その台詞を当の本人であるルチアが言っているのだ。



  アリスはぞっとした。人を人とも思わないような発言。彼らにも人生があることを失念し、まるで人間を物のように扱うルチアに。

  そして、自分のために死ねることは光栄なことだと本気で彼女は思っているのだ。

  そして、悪気も何もなく、罪悪感など欠片もないのだろう。あんな光景を見た後でも随分とあっけらかんとしている。


「貴女は悪魔だわ……」


  思わず本音を零してしまい、慌てて口を押さえるがもう遅い。


「アリス様の方が悪魔です! 私の居場所を奪おうとしたのも結局は貴女ですよね? 皆がおかしくなったのも貴女のせい! 貴女が邪魔しなければ、皆私の下で幸せだったのに!」


  何を言われているのか理解できない。

  何もかも滅茶苦茶にしたのはルチアだったはずだ。

  その幸せは誰にとっての幸せなのか?

  真実を知り、苦しむよりは、偽りの幸せの中に浸かっていた方が良いとでも?

 


「全てを奪って台無しにして、人の心を貶めて堕ちていったのは貴女でしょうに」


  7色に光る粒子が空中で弾け、ぱちんと霧散した。まるでシャボン玉が割れるように。

「マティアス……?」

  周りが驚愕する中、空中に現れたフードを被った妖しい男は、とんっと軽い音を立てながら地面に着地した。

  見覚えのある彼を目にした途端に安堵したのはアリスだけだ。


「君、何故ここに」

  アーネストは目を見開いている。

  慣れているアリスとは違い、この場は突然現れたマティアスに困惑しきっているようだ。

  ただ者ではないことは理解したらしく、声を荒らげる者は皆無だった。



「聖女の身柄を引取りに神殿側が動き始めています。もしそちらで罪を裁くならば早めに動いた方がよろしいかと」


  神殿側に元聖女を連れて行かれるのは、こちら側としては都合が悪い。

  聖なる間。精霊を祀っているというその場所に入れるのは神官だけだという。押し入ることも可能だが、それをしてしまえば、伝統を踏みにじることになり、それはそれで面倒なことになる。

  神殿側が聖女をどうするつもりなのか、まだ良く分からないからこそ、備えなければ。

  神殿は、元聖女の罪を裁くのか、隠蔽するのか。

  彼らの懐に入ってしまったら、こちらは口も挟めない。

 ──まだ分からないけれど、神殿は聖女を擁護するのかしら?

  まだ神殿側の真意を知れていないからこそ、元聖女の身柄を神殿に渡すことは避けたい。


「嫌よ! あんたは誰!」

  元聖女の金切り声がむなしく響いた。


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