66
身を縮めようとしても、アーネストから体を離せる訳でもなく、逃げ場はない、この状況。
「……っ」
間近から眺められ、蜂蜜を溶かして混ぜたような甘い眼差しで絡めとられる。
この状況はアリスにとっては何の罰なのかと言わんばかりだ。
もう無理だ、限界だと弱音を吐きそうになった瞬間、荷馬車がガタンと大きく振動して停車した。
「止まれ! ここから先は聖女様のおわす聖域だ。危険物がないか確認させてもらうぞ」
聖域? 神殿でもない場所で、王都だというのに、もう『聖女の都』としての扱いになっていることに驚愕し、同時に呆れと諦念を覚えた。
──世も末ね。
貴族の権力と影響力は無駄に大きく、あの聖女をのさばらせた結果、町1つを掌握させる結果になったのだ。
「荷物といっても商品や商売道具だけだぜ」
荷馬車と言ってもこの馬車には屋根がついているらしい。商品を劣化させないために極力日光が入らないように中は暗い。
「よく見えないな。おい、この大きな樽は何だ!」
自分たちが隠れている樽を指摘されて、心臓が跳ねる。
「中を見せろ」
案の定言われるそれに、アリスはアーネストの服の裾を思わず、細い指先で軽く握った。
覗かれたら終わり。荷馬車の中の樽まで点検するつもりだとは知らなかった。聖女はどれだけ厳重に守られているのか、先が思いやられて若干不安になってしまう。
「それは困る。ここに入っているのは酒で、なるべく空気に触れさせたくないんだよ」
「……酒か」
門番が思案する気配。アリスの心臓は悪い意味でなかなか鳴り止まなかった。
「まあ、良い」
その一言に、ほっと息苦しかった何かから解放される。
「助かるぜ。それじゃあ、先に進んでいいんだな」
「ああ、そしてこれを。許可証だ」
「今の王都はこんなものを発行してるのか?えらく厳重になったな」
「これも聖女を守るためだ」
「はーん」
興味なさそうな抜けた声の後、再び荷馬車がガタンガタンと揺れながら移動し始める。
──良かった。無事に入れそうだわ。
胸を撫で下ろし、アーネストの服の裾を思い切り掴んでいることに気付き、慌てて離した。
「申し訳ございません……。服に皺が……」
「問題ないよ。それよりアリスの方は平気?」
「問題ありませんわ」
それは強がりだったのかもしれないけれど、それを口にすることで気が引き締まった気がするから不思議だ。
そう、何も問題ないのだ。
ガタガタと揺れる荷馬車の揺れに身を任せて、賑やかな通りから閑散とした通りまで移動したのを感じる。
どのくらい時間が経過したか、それは曖昧で把握していなかったが、人の話し声がしない場所まで移動してから、荷馬車はようやく停車した。
「お2人さん、大丈夫か?」
蓋をぱかっと開けられた瞬間、アリスは普段よりも俊敏な動きでぱっと外に脱出した。
「さすがに樽に2人は無理があったか。すまなかったな」
「いえ! そんなことは! ……むしろ、ここまでありがとうございました」
苦笑して申し訳なさそうな男性の言っていることは的が外れていた。
樽の中でも何でも、身を隠して移動できるなら文句は一切ないし、むしろありがたい申し出だったが、アーネストと2人きりで狭い空間に居たということがアリスにとっては問題だった。
こちらがお礼を言うくらいなのに謝罪させてしまったことに、逆に申し訳なくなって俯くアリスの横に軽やかに立ったのは、ある意味元凶とも言える己の婚約者。
「人目のないところまで連れてきてくださって、ありがとうございます」
アリスが余裕なさげなのとは対象に、軽く微笑んで見せるアーネストはいつもと同じアルカイックスマイル。
「着の身着のまま飛び出してきたから手元に何もないんだが、うーん……たまたまポケットに入っていたこれをお礼代わりにどうでしょう」
アーネストがポケットから出したのは、宝石付きの指輪で、王宮を出る前に装飾品として身につけていたものだ。
先祖代々の秘宝とか、家宝とか国宝とかそういった類のものではないが、王太子の使うものなのでそれなりに値打ちがあるものだ。
「売ったらそれなりに換金出来ると思うので、よろしければ」
王太子の言うそれなりは、それなりではないのだが、純粋に喜んだ男性はとりあえずそれを受け取った。
「人目につきたくないようだったから、こんな場所で下ろすことになったが、ここで良かったのか?」
「ええ、ありがとうございます」
アーネストにとっては、どうやらこの場所は都合の良い場所らしい。
去っていく荷馬車を見送った後、彼はこちらに目を向ける。
「地下通路の隠し扉がこの付近にある。鍵が必要のない扉のね」
「それって防犯的な観点では、まずいのでは?」
「ダイヤル式の暗号で解錠が出来るんだよ」
もちろん、それをアーネストは知っている訳で。
「確かこの付近だった。ちょうど良いところまで連れてきてもらって幸運だ」
「地下通路から入って、王宮の地下を伝って侵入するおつもりですか?」
「そうそう。王宮内にも隠し扉があってね、王の間とかにも入れるようになってるんだよ」
まるでからくり屋敷のようだ。そこまで2重3重にも逃走経路を王宮内に作るとは、かつて何があったのかと邪推してしまう。
「ちょっと複雑だから、覚える必要はないからね。たぶん1回で覚えられるものではないだろうし」
その高難易度な迷宮の地図を暗記しているアーネストは何者なのだろうとここで突っ込んではいけない。
──正妃教育だけでも精一杯の私には想像の及ばぬ程の、鍛錬を殿下は幼い頃から積まれたんだわ。それもきっと壮絶な程の。
文武両道だけでなく、こういった地下通路や隠し通路という生存するにあたって必須な知識を。
アリスは知らない事実だが、アーネストは毒の耐性をつけるために幼い頃から度々毒を摂取していたため、アリスが考えたように確かに壮絶な幼少期を送っていた。
「にゃあ」
アリスの影から、ぴょんと飛び出してきたのは、調停者たる黒猫。
人が居なくなったタイミングで、ようやく動けると言わんばかりに大きく伸びをしていた。
しっぽをピンと伸ばし、お尻を上方へと上げて気持ちよさそうに伸びをする姿はまさしく猫だ。
「本当に伝説の調停者なんだろうか」
ぽつりと零したアーネストは悪くないだろう。
それに気を悪くしたのか、一瞬後にはアーネストの足の脛の部分に向かって強烈なパンチを繰り出した猫の姿。
そして悶絶するように蹲り足を抑えるアーネストの姿。
「……じゃあ、行こうか?あ、でも……ちょっとしばらく待って……」
脛の辺りをさすさすと摩っているアーネストに黒猫が呆れたように鳴いた。
「にゃあ……」
ちなみに、アーネストが渡した指輪の換金価格に気絶した商人の男性が居たのだが、それはまた別のお話。




