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まだ調整されていないマティアスの住居は、迷路のように入り組んでいる。
自分がアーネストにした行為に動揺したアリスは、飲み物やスープを運びつつ、見事に迷っていた。
「確か、この辺りだったはず……」
何度か失敗した後、見覚えのある景色と、見覚えのある部屋のドアを見つける。
アーネストはまだ目を覚ましていないだろうとそのままドアをかちゃりと開けると。
「殿下!?」
体を起こし、ベッドの上でぼんやりとしていたアーネストの姿が目に飛び込んできたのだ。
近くの棚に食べ物を置いて彼に駆け寄れば、アーネストの美しい瞳にアリスが映された。
アーネストはアリスの姿を認めると、僅かに頬を染めた後、柔らかく微笑んだ。
「ごめん。心配をかけたね」
「……」
「アリス? ……わっ」
アリスは感極まってしまい、アーネストの腕の中へ飛び込んでいた。普段は全くそのようなことなんてしなかったというのに。
いつでも優先するのは淑女らしさだったアリスはこのような大胆な行動はしなかった。
ただ、今回は礼儀作法全てが吹っ飛んでしまった。
頬を流れるのは暖かな涙。透明な雫が伝っていく感覚に自らが泣いていることに気付いた。
「泣かないで。ごめんね、心配かけたよね」
「もう、少しでもつらいならつらいって言ってください……」
涙が止まらないアリスを、アーネストは躊躇うことなく腕の中へ閉じ込めると、アリスの頬についた雫を自らの唇で拭う。
ちゅ……と僅かな音を立てながら、目元にも柔らかなキスが贈られた。大切なものに触れるように、丁寧に。
──なんだか動けないわ。
目元に触れていた彼の唇が、再び頬へと落とされ、鼻先にも柔らかく口付けられる。僅かなリップ音と共に何度も贈られる小さな口付けに胸が締め付けられる。
「……っ!」
頬に触れていた彼の唇が、アリスの唇のすぐ横に口付ける。
すぐに顔を離したアーネストは、親指でアリスの唇に優しく触れると。
「んっ……!」
触れられた瞬間、電流が全身に流れたような錯覚。
さすがに今、何をされようとしているのか分かってしまう。
息の混じり合う距離までお互いの顔が近付き、アーネストはアリスの唇に自らのそれを重ねようとしたが。
「何をなさるのですか!?」
アリスは唇が重なる寸前に、アーネストの胸を押し返したのだ。
顔が熱くてまともに彼を見ることが出来ないまま、弱々しく声を出した。
「それ以上はだめ……です」
「……え? 今、そういう雰囲気だと思ったんだけど違った?」
「全然違います!」
アーネストは何やら悩ましげに、何がなんだか分からないといったように首を傾げていたが、まだアリスたちはそういう関係ではない。
アリスは想いを伝えるつもりはなかったし、アーネストに想いを悟られていることもないだろう。
──自分でするよりも、される方が恥ずかしいなんて、変だわ……。
アーネストが意識を失っているとはいえ、似たようなことを先程していた癖に。
熱を持っていた頬に自らの手をあてた。
ベッドから1歩下がり、彼から距離を取る。
彼が突然キスをしようとした理由に思い当たることがなくて、アリスは少し混乱してしまった。
「もう何がなんだか分からないですわ……」
「僕も何がなんだか分からない」
苦笑しつつも、アーネストはアリスを先程から穴があく程、じっと見つめている。
「す、スープがありますのよ」
慌てて話題を変えていることはバレバレだっただろう。動揺からかまともな反応が出来ない。
おかしなアリスの挙動も、アーネストはただじっと見つめている。
スープの入った食器を1度置いていた棚の上から持ち上げている時も、水をコップに注いでいる時も、アリスの一挙手一投足を見逃さないと言わんばかりに眺めている。
「……見すぎですわ」
「ごめん、アリスが僕のために一生懸命にしてくれてると思うと、すごく嬉しくてね」
──観察されている?
アーネストの目は何かを確かめようとしているようにも見える。
どちらにしろ、アーネストの瞳に熱が宿っていた。
これでは緊張して動けなくなってしまう。
アリスは身を縮めて、僅かに顔を伏せた。
「見ないで、ください」
「どうして?」
「……どうしてって…」
そんなの見られていたらやりにくいからに決まっている。
スープの入った器を持ったまま、アーネストの元に向かうと、「自分で食べられるよ」と笑って受け取ってくれるアーネスト。
そっと目を逸らしたままでいれば、ついに聞かれてしまった。
「これって、もしかしてアリスが作ってくれたの?」
「お口に合わないようでしたら、残りは私が頂きますわ」
「そっか、嬉しい。ありがとう」
素っ気ない口調で遠回しに肯定しても、彼は嬉しそうな声だった。
素直な言葉に戸惑った。どういたしましてと素直に返せるのが1番なのだけれど、今のアリスはとても不器用だ。
「料理、出来るんだね」
「昔、少しだけ……」
王妃教育が始まる前にやんちゃしていた時代があったのだ。
まだ本格的に教育が行われる前に、屋敷の料理人に無理を言って教えてもらったのだ。
それから手料理を振るう機会はなかったものの、包丁の使い方などの基本的な部分は知っていたおかげで、今回もレシピ本を読みながらなんとか作ることが出来た。
どうやらマティアスは自炊をしているらしく、台所周りに適当に3冊程ひらきっぱなしで置いてあった。
アーネストがアリスの料理に舌つづみを打っている間、緊張して仕方なくてそっとスカートを直したり、棚の上の本を開いてみたりと、じっとしていることが出来ない。
自分の作ったものを誰かに食べてもらうことがこんなにくすぐったいものだなんて知らなかった。
アリスがそわそわと居心地が悪そうにしている姿をアーネストは少し遠くから悠々と食事をしながら眺めていた。
味わうようにゆっくりと咀嚼している様子から、彼の舌に合ったらしいということは分かった。
──殿下は、嫌いなものほど早く食べてしまうのよね……。
表面上では何も変わらないから、これはアリスしか知らないことだろう。
「美味しかった」
「ええ……。その少しでもお口に合ったのなら、良かったですわ」
空になった食器を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、またもやじっと見られているような気配を感じたと思えば、案の定アーネストはこちらを見つめている。
「その……何度も申し上げますが見すぎですわ」
食器を受け取ろうとした刹那。
「きゃっ!」
「捕まえた」
食器はアーネストに隠され、アリスの右手首は彼に掴まれていたのだった。
間近で覗き込まれて、初めて気付く。
──どうしてそんな顔をなさるの?
こちらを見つめる視線は真剣で、真摯で。
アリスは熱を孕んだ瞳とかち合ってしまった。




