特別編⑧ 『きっとあの人は……』
夕暮れが少し早くなってきた気がする。
エルマイラムの夏は長いが、それでも確実に時間は過ぎゆき、これから実りの秋へ、そして寒い冬へと切り替わっていくのだろう。
黒髪を肩のあたりで切りそろえた、少しタレ目の少女――リリィは、そんなことを思いながら、お師匠様であるエリンシアと言う名前の白髪の老婆と一緒に、両手いっぱいの荷物を抱えて帰路に就いていた。
「もぉ~、お師匠様。流石に買いすぎたんじゃあありませんか?」
バランスを崩したらこぼれ落ちてしまうほどの荷物を抱えたリリィが、エリンシアにジト目で文句を口にする。正直、年頃の娘にこんな労働を強要するのは酷いと思う。
「なにを言っているんだい。小麦がこんなに安かったのに買わない手はないよ」
「それならせめて配達してもらえばよかったじゃあないですか」
「冗談じゃあないよ。配達賃だって馬鹿にならないじゃあないか」
「むぅ、それくらいのお金をケチらなくてもいいじゃあないですか」
リリィの言葉に、エリンシアはこれ見よがしにため息をつく。
「なんだいなんだい、お師匠様が老体に鞭打って節約に努めているっていうのに、この不肖の弟子は」
「私だって、お金の大切さは身にしみて分かっています! ですが、この量は流石に多すぎますよ!」
リリィも、エリンシアに師事するまでは苦学してきたのだ。お金の大切さとありがたみはよく分かっている。だから、金銭的に不自由をしないようになり、両親に楽をさせてあげたい。そういう気持ちも、自身の夢である魔法使いになるという願望に込められているのだ。
「ほらっ、つべこべ言わずに頑張りな。重労働のあとの夕食は美味しいはずだよ」
「それって、私が作るんですよね?」
「当たり前だよ。どこの世界に、お師匠様に雑事をやらせようとする弟子がい……」
エリンシアの言葉が途切れた。それは、彼女がバランスを崩して前につんのめってしまったからだった。
リリィもすぐにその事に気がついたが、自身も両手が塞がっているので助けに入ることができない。このままではお師匠様が怪我をしてしまうと、リリィが目を瞑ったその時だった。
「危ないなぁ、エリンシアさん」
どこか気障ったらしいような口調の男の声が聞こえたのは。
リリィが目を開けると、そこには淡い茶色の髪の若い男がエリンシアを抱きかかえていた。
さらに落下するはずだった小麦が入った袋は、何故か宙に浮かんでいる。それが魔法によるものだと理解するのに、リリィは少しの時間が必要だった。
「お師匠様! 怪我はないですか!」
慌てて声を掛けるリリィに、エリンシアは「大丈夫だよ」と軽く言い、男の腕から離れて嘆息する。
「まったく、年は取りたくないねぇ。この程度のことで躓くなんてさ。その上、こんな小僧っ子に助けられるなんて」
「そう言わないでよ。エリンシアさん。レディが困っていたら、手を差し伸べるのが紳士のあり方なんだからさ」
「こらっ、リット坊。あんたが紳士を語るんじゃあないよ。これまで何人もの女を誑かしてきたんだろうが」
エリンシアはそう言うと、両手で支える格好をして宙に浮いている小麦袋を見てから、リットに目で促す。
「酷いなぁ。俺は神に誓って、強引に誘ったことなんてないぜ。向こうから誘ってくるんだから仕方なくなんだよ。ほらっ、レディに恥をかかせるのは紳士として駄目だろう?」
「こらっ! そんな嘘八百をを言っている暇があるんなら、早く荷物をよこしな」
エリンシアの催促に、リットはニヤリと微笑むと、不意に小麦の袋を消した。そう、消したのだ。まるでそのようなものなど存在しなかったかのように。更に加えて、リリィが抱えていた分までも。
「悪いね。今日もまたどこぞの正義の味方が格好いいことをしたのを目の当たりにしたんで、俺も真似したい気分なのさ。というわけで、家に荷物は全て運んでおいたよ。それじゃあ、気をつけて」
リットはそう言って、驚くリリィの横を通り過ぎる。その際に、彼女に悪戯っぽい笑みを向けてきた。
不覚にも、リリィは少しドキッとしてしまった。
イルリアから、絶対にリットという男には気を許すなと言われていたことを思い出したにも関わらず。
「はん。余計なお世話だよ、まったく。それと、うちの可愛い弟子に色目を向けるんじゃあないよ! 手を出したらただじゃあ置かないからね!」
「おお、怖い怖い」
振り返ってそう言ったものの、リットは気にした様子もなく、「じゃあねぇ、エリンシアさんとお弟子ちゃん」と背を向けたままひらひらと片手を振って去っていく。
「あっ、お師匠様! あの人、小麦の入った袋を返してくれていませんよ!」
リットのよく分からないキャラクターに驚いていたため、リリィは彼が完全にいなくなってしまってからようやくそのことに気がつく。
「ああ、それなら大丈夫だよ。リット坊やが言っていただろう。家に荷物は全て運んでおいたって」
「えっ! 呪文の詠唱もなく、本当にそんな魔法を使ったんですか、あの人!」
魔法はよほど熟練したもの以外は、呪文を唱えるのが一般的だ。それなのに、あの軽薄そうな男の人はそれもなしに物体を移動させたというのだろうか? 物体を移動させる<転移>の魔法は難度がものすごく高いはずなのに……。
「まぁ、こんなところで立ち話もなんだ。帰るよ、リリィ」
「わっ、待ってくださいよ! お師匠様!」
信じられないでいる自分を置いてエリンシアが先に歩いて行ってしまうので、リリィは慌ててそれを追いかけるのだった。
◇
トントントントンという音が一定のリズムで響き渡る。
リリィが食材をきざんでいる音だ。
いろいろと訊きたいことはあるが、今は夕食を作るのが先決だ。
自分にそう言い聞かせて、リリィは今日の夕食、夏野菜一杯のミートソースパスタを作り上げていく。
「ほう。いい匂いじゃあないか。定期的に料理指導を受けているのは伊達じゃあないようだね」
普段は絶対に台所に来ないはずのエリンシアがやって来て、そんな感想を口にする。
「それはそうですよ。こう見えてもバルネアさんのお料理教室には欠かさず通っているんですから。あっ、つまみ食いはダメですからね!」
「あのねぇ。あんたはお師匠様を何だと思っているんだい、まったく」
エリンシアがそう文句を言うが、それから彼女は何をするでもなく、台所に立ち尽くす。
リリィもそんなお師匠様に声をかけず、再び野菜を切るのを再開する。
そんな時間が少し流れて、やがてエリンシアが口を開いた。
「やる気を無くしてはいないかい?」
それは、優しい声だった。
「……まさか。私は絶対に魔法使いに成るんです。他の人がどうだとか関係ありませんから」
精一杯の強がりを口にし、リリィはパスタを茹で始める。
リリィたちが帰宅すると、家の居間のテーブルの上に小麦の袋が置かれていた。それを見て、魔法を学んでまだまだ日が浅いリリィでも、リットがどれだけ規格外なのか分かってしまったのだ。
「そうかい……」
エリンシアはそう言うと、ポンと優しくリリィの頭に手を置き、何も言わずに台所から出ていった。
やがて料理ができあがり、夕食が始まる。
普段はリリィがお師匠であるエリンシアに積極的に話しかけるのだが、今日は無言だった。そのためか、エリンシアもしばらく何も言葉を発しない。
「……お師匠様。どうですか、このパスタソースは?」
「ああ。美味しいよ。あんたも腕を上げたね」
褒めてくれたことは嬉しいし、我ながら今日の料理はよくできたとリリィは思う。けれど、あまり美味しいとは思えない。
そして、またしばらくの沈黙が訪れる。
「……『衰退を忘れた魔女』……」
「……えっ? お師匠様?」
エリンシアが突然訳のわからないことを言い出したので、リリィは怪訝な表情を彼女に向ける。
「全盛期の私の通り名だよ。いいかい、この二つ名は秘密だよ。もしもバレたら、良くてこの街を追放される。悪ければ、私もあんたも火炙りだからね」
「…………はい」
エリンシアの言葉の重さから、リリィはそれが真実であることを理解した。
「私はね、魔法の才能が今の時代の魔法使いと呼ばれる人間たちの何倍もあったんだ。それこそ、ドラゴンが大空を駆け回っていた頃の魔法使いたちにも引けを取らないと言われるほどにね……」
食事の手を止めて、エリンシアは語り続ける。
「魔法はその必要性が下がったこともあり、衰退の一途を辿っていたんだよ。けれど、私という魔法使いの登場で、再び魔法は隆盛期を迎えるのではないかと期待された。そして、私はそんな自分を特別な存在だと自惚れていたんだ」
「お師匠様……」
リリィの声かけに、エリンシアは口の端を上げる。けれど、何故かリリィにはその表情が酷く悲しく見えた。
「いろんなことをしたね。人体実験には手を出さなかったけれど……。自分の肩にこれからの魔法の歴史がかかっている、なんて思い上がってね。でも、そのせいで私は全てを失った。家族も、恋人も、気のおけない友達も……。そして、平穏な生活もね」
エリンシアは静かに己の掌をみて、静かにそれを握る。
「命を狙われたことも数え切れないくらいある。この長く続く平和な時代に、魔法という力は危険だと判断されてね」
「……そんな……」
リリィはまったく知らなかった。お師匠様であるエリンシアがそんな過去を秘めていたとは。
「リリィ。あんたがあのリット坊やの力を見て、自分ではあの領域には達せないと判断してしまったのだろう? そして、その判断は正しい。決してあんたではあそこまでの魔法使いにはなれない」
「…………」
エリンシアの言葉は、これから先に無限に広がっていると思っていた可能性を閉じるものだった。
「けれど、私はその方がいいと思っているんだよ。強すぎる力を持っているということは、良いことばかりではないからね」
「お師匠様……」
リリィの目から、何故か涙がこぼれ落ちた。
それは、未来を狭められた悲しみ? 悔しさ? それとも、師匠であるエリンシアの優しさが嬉しかったから?
リリィ自身もその涙の理由が分からない。
「私は、なるべく魔法を使わないようにしている。今日小麦を買って運んだときだってそうさ。魔法で<転移>させれば簡単に荷物は運べる。でも、敢えてそれをしない。そうしないと、また昔の私になってしまう。ようやくこの年になって手に入れた平和を再び手放すことになってしまうからね。
そして、リリィ。私はあんたにも、過去の私のような苦しみを味わって欲しくはないんだよ」
エリンシアは静かに席を立ち、涙をこぼし続けるリリィを背中から抱きしめた。
「お師匠様……。私、私……」
「大丈夫。あんたはこの私のただ一人の弟子なんだ。この時代の魔法使いの中では一角の魔法使いに育てて見せる。それで良しとしておくれ。それ以上を求めれば自分を苦しめることになるから……」
エリンシアの体も小刻みに震えていた。自分が泣くことで精一杯で、リリィはその顔は見えなかったが、きっとお師匠様も泣いているであろうことを理解した。
「力というものは、ありすぎても、なさすぎても辛いんだよ。あのリット坊がそうさ。私は、この時代では最高の魔法使いだと思っていた。けれど、あの坊やに出会って、それが間違いだと気がついた。もしも全盛期の私でもあの坊やには及ばないと分かってしまったからね」
「そんな! お師匠様よりも、あのいい加減そうな人の方が……」
「ああ。もし私とあの坊やが戦ったら、間違いなく私が負ける。傷を少しでもつけられたら万々歳と言ったところだろうさ」
ようやく涙が止まったリリィが師匠の顔を見上げると、彼女は悲しい目で口元を綻ばせていた。
それが、自分以上の化け物がいることで、まだ自身が人間の側で居られることの安堵と、年若い男のこれからの人生を憂う、憐憫にリリィには見えた。
リリィは師匠のぬくもりを感じながら、自身が恵まれていることに気づく。
この人に師事できたことは、この上ない僥倖だったのだと思わされたのだ。
「お師匠様……。リットさんはどうして師匠とは間逆なことをしているんでしょうね? このままでは、あの人は……」
「さぁね。ただ、リット坊は自らの力をわざと周りに見せつけているとしか思えないんだよ。その上で、己を存在を嘲笑っているように見えるんだよ、私には。
まぁ、あの坊やにそんな事を言ったら、私程度の魔法使いに心配される云われはないと言いそうだけどね」
エリンシアはそう言うと、リットとあまり関わらないようにしなさいとリリィに注意を促す。
「……強すぎる力……」
リリィはそう呟き、少しだけ考える。もしも、自分がリットの立場ならと。
けれど、想像が付かなかった。あまりにも未知の領域過ぎて。
微塵も理解できずに、怖いとさえ思ってしまった。
リリィは分からない。そして、おそらく魔法を使えない人はより分からないだろう。
……だから、忘れることにした。
それは、自分というものを守るための防衛手段のようなもの。
もしも彼のことを理解できる人がいるとしたら、それは彼と同じ力を持つ人だけだろう。
でも、この世界がいくら広いと言っても、そんな人が実在するのか?
リリィはもう一度涙をこぼす。
きっとあの人は、リットは、誰よりも孤独なのだと思えてしまったから……。




