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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
明治編

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92/216

『あなたとあるく』・3(了)




 なつかしさにこころうかれて、けれどちかづいたみちのおわりに、しらずけしきはにじんで。




 ◆ 




“逆さの小路”はあまりにも恐ろし過ぎる怪談。

 聞いた者は恐怖のあまり身震いが止まらず、三日と経たずに死んでしまう。

 この怪異に見舞われた初めの者は発狂し命を落とし、それを見ていた者達も恐ろしさのあまり人に乞われても語らぬまま寿命を迎えこの世を去った。

 そうして逆さの小路を知るものはみな死んでしまい、今に伝わるのは逆さの小路という名称と、それが無類の恐ろしい話であった、ということだけである。


「なんなら、場所をお教えしましょう」


 しかし目の前の老翁、太助はそれを知るという。

 彼は逆さの小路までの道順を細かく教えてくれた。

 本来ならば調べる必要性はない。とは言え、ちょうど知り合いが調査しているところだ。

 普段は刺々しい態度を取ることも多いが、世話になっているのは事実だし、それなりに感謝もしている。ここらで多少でも借りを返しておくのも悪くない。そう思い、太助との会話を続ける。


「太助さん、あんたは逆さの小路を知っとるんやな?」

「一応は。私がそれを耳にしたのは五十年近く前ですが」

「なのに、逆さの小路はない?」

「ええ、存在しません」


 矛盾する事柄を平然と言ってのける。

 元々考えるのは得意ではなく、こういった怪異の経験も乏しい平吉では、やはり考えても意味は分からない。


「で、場所を教えてくれる? 俺にはあんたの言っとることが理解できん。行きずりの俺にそないなこと話してくれる理由も含めてな」


 一応のこと平吉には調べる理由がある。しかし太助には詳細を教えてやる義理などない筈だ。

 だというのに、積極的に彼は情報を与えようとしている。正直に言って一番分からないのは太助の真意だ。


「理由ですか。それが私の役目だからでしょう。……納得できなければ恨み言とでもしましょうか」


 返ってきた理由もまた、平吉には理解できないものだった。


「はあ?」

「逆さの小路を蘇らせた、巫女様に対する。貴方に話したのはただの八つ当たりだと思っていただければ……それでは、私はこれで」


 まったく意味の分からない言葉を残し、止める間もなく太助は去っていく。

 場に残された二人はどう反応すればいいのか分からず立ち尽くすしかなかった。

 ほんまに、意味分からん。

 ぼやきつつ東菊の方を見れば、何故か目を伏せて項垂れている。


「どないした?」

「ん、別に」


 返ってきたのは優しげな笑み。

 平吉にはその内心を読み取ることは出来ない。先程疲れたとは言っていたし、そのせいだろうと思った。


「なら、ええけど。ところで逆さの小路を甦らせたのって、ほんま?」

「む、そんなわけないでしょ。そもそもそんな話聞いたの初めてだし」

「そか。そやったら、あの爺様は何が言いたかったんやろ」


 少しばかり考え、そういうのは性に合わないと中断する。

 どうせ考えた所で分からない。頭を使うのは苦手だし、折角情報を貰ったのだ、足を手を動かし直に見る方がよほど早い。

 

「おっし、悪い東菊。ちっと離れるから、ここらで休んどってくれんか」


 ぱんっと両手で自身の頬を叩き、気合を入れ直す。

 やはりぐだぐだ考えるよりも行動する方が性に合っている。一度調べようと決めたら迷いはさっぱりと無くなっていた。


「どうしたの急に?」

「そない大したことないんやけど、知り合いが逆さの小路に調べとってな。まー、ここらで貸の一つでもつくっとこかなーと」

「そっか、その人のお手伝いがしたいってこと?」

「お前人の話なんも聞いとらんやろ?」


 そのくせ良い所をついてくるから性質たちが悪い。

 平吉の考えは彼女の言う通りであり、しかしそれを素直に認めるのも癪で、顔を顰めてみせる。

 もっとも内心など容易に見透かされており、まるで幼子を見るような生温い目で見られてしまった。


「またまた照れちゃって。というか、私も一緒に行くよ? 私のせいって言われたらやっぱり気になるし」

「いや、一応護衛やし危ないとこに近付いてほしくはないんやけどなぁ」

「大丈夫大丈夫。何かあっても宇津木さんがいるしね。それに護衛なら離れる方が駄目じゃない?」


 言われてみればそれもそうだ。

 そもそも東菊は誰かに狙われているという訳でもない。手早く終わらせて帰ってこれば問題ないだろう。


「それもそやな。ほな、ぱっぱと行ってこか」

「うん。早く終わらせて甘いものでも食べに行こう」

「まだ食うんかい……」


 呆れたように平吉は肩を落し、朗らかに笑う東菊と共にその場を去る。

 助けに教えられた場所は此処からそう遠くない。四条通、寺社仏閣が立ち並ぶ区域からわずかに外れたうらぶれた小路だ。

 気を引き締め、腕にある念珠を確認し、二人は逆さの小路へと向うことにした。






 ◆






 ぱちん、と。

 みなわのひびははじけてきえた。









 景色が変わる。

 不意に訪れた目覚め。甘やかな幻想は消え去り、気付けばうらぶれた小路に一人佇む。

 夢の名残も、彼女の笑みも見えぬ。

 当たり前の感覚が何故か寂しくて、甚夜は小さく息を吐いた。


『旦那様…旦那様……お気を確かに』


 女の声は直ぐ近くから、携えた太刀から聞こえてくる。

 腰には夜来と夜刀守兼臣。左手をぐっと握り締める。自分のものではない自分の腕。確かに“ある”。異形の腕も、喰らってきた<力>も己が内に感じられた。


「……聞こえている、そう心配するな」


 少し遅れた呟きに、驚きと喜びの混じり合った声で兼臣が応える。


『旦那様っ、気付かれたのですか』

「ああ。私はどれくらい意識を失っていた」

『冬の四半刻程も経ってはおりません』

「そうか……」


 まだ少し濁る意識を無理矢理引き上げる。

 静かに、鋭く前を見据えれば、二間先に黒い影。

 ゆらゆらと揺れる。改めて見ればそいつには見覚えがあった。 


『来ます』


 兼臣の短い言葉に呼応し、影は再び襲い掛かる。

 しかし今度は遅い。距離があれば十分に対応できる。夜刀守兼臣を鞘から抜き去ると同時に<飛刃>。

 距離を詰めることも出来ず影は上下に別れ、更に一歩を踏み込み上段に構えた夜来を唐竹に振り下す。十字に切り裂かれた影は断末魔もなく霧散していく。

 手応えはない。煙か霞を斬ったかのようだ。それもその筈、元々あの影はそういうもの。奇妙に思うようなことでもない

 影を討ち払い、構え直し、辺りを警戒する。

 二手目は来ない。それを確認してから息を吐き、刀を鞘に戻した。


『お見事……ですが、あの影はなんだったのでしょうか?』


 先程の影を思い返し、兼臣が疑問を漏らす。

 影が消えたせいか、うらぶれた印象の合った小路の雰囲気は変わった。風が吹けば葉擦れが鳴り、木漏れ日が目に届く。僅かながら空気は軽くなったような気がした。

 

「あれは鬼になりきれなかった未練だ」


 影の正体は既に知っている。

 殆ど間を置かず甚夜はその問いに答えた。


「随分と昔、見たことがある。肉を持つには拙いが、人を惑わす負の想い。定型を持たず如何様にも姿を変える、報われなかった心だ」


 昔、直次や夜鷹も襲われたことがあった。

 いや、襲われるという表現はおかしい。あれは肉を持たないが故に肉を傷付けることはない。出来ることと言えばせいぜいが鏡のように未練を映し出す程度。

 ただし、未練を映し出すことしか出来ないが故に、あれの見せる幻は掛け値のない真実だ。だから先程の情景は、正しく甚夜自身の未練に過ぎなかったのだ。


「もっとも、以前見たものは姿を変えるだけ。“憑り殺す”ような真似はしなかったがな」


 依頼主は、逆さの小路に入った友人が死んだと言っていた。

 原因はあの影に相違ない。未練を映し出す影。おそらく白雪の手を取っていたならば、目覚めることなく死に至ったのだろう。


『つまり、それが“逆さの小路”の正体、ですか』

「いいや、違う」


 兼臣の言をすぐさま否定する。

 影は後悔や未練を映し出し死に至らしめる、極めて“真っ当な怪異”だ。選択さえ間違えなければ生き残ることも出来る。

 ならばあれを見た所で“聞いただけで死ぬ”怪談の原因になる筈がない。

 つまり影と噂になった逆さの小路にはそもそも繋がりなどないのだ。

 だとすれば。


「本当は、逆さの小路なぞなかったのかもしれん」

『え?』


 ふと浮かんだ仮定があった。しかしそれを確信へと変えるには些か情報が足りない。

 思い出したのは先程少しばかり言葉を交わした老翁。確か、太助と言ったか。

 僅かに目を伏せ、甚夜は逆さの小路に背を向ける。


「少し調べたいことがある。付き合ってもらうぞ」

『勿論です、旦那様』


 踏み出す一歩、少しだけ躊躇いがあった。

 その理由を知りながら敢えて見ないふりをする。

 未練や後悔はいつだって付き纏う。今までも、これからも、何も失わず歩いていくことはおそらくできない。

 しかしそれでいい。失くして、何かを手に入れて、そうやって歩いてきた道のりは決して悪いものではなかった。

 捨て切れぬ未練が見せた幻影が、そう思わせてくれた。

 だから踏み出した後の足取りが揺らぐことはなかった。




 ◆




 辿り着いた小路。神社と生い茂った林が重なり合い、光があまり届かぬ為薄暗い。

 しかし不気味かというとそうでもなく、寧ろ葉擦れと木漏れ日が心地よい実に景観豊かな場所だった。


「うらぶれた小路っていうからどんなところかと思ったら、結構きれいだね」

「そやな。しっかし、鬼の気配も血の匂いもない。はずれ引いたみたいやな」


 太助の言葉はやはり分からないままだが、此処には怪異の原因と成り得るようなものはない。

 つまり逆さの小路などという怪異は存在しなかったのだろう、おそらくは初めから。

 その一点だけは、確かに太助の言う通りだった。


「あほらし。東菊、悪いな付き合わせてもて」

「ううん、大丈夫だよ。それに私も一安心って感じだから」

「ああ……」


 そう言えば「お前のせいで逆さの小路が蘇った」などと言われていたこと思い出す。

 だが実際には逆さの小路などなかった。ならば太助の言葉を気にする必要もない。東菊が漏らした笑みには、心からの安堵があった。


「それならええけど。とりあえず詳しいことは明日にでもあの爺さんに聞くとして。ほな、そろそろ本題の方へいこか」

「うん。探し人探しだね」

「その通りなんやけどもうちょっとこう言い方が……」


 探し人が分からないから間違ってはいないのだが、どうにも気の抜ける響きである。

 はあ、と溜息を吐く平吉と笑う東菊。知り合って間もないが、既に立ち位置というものが決定してしまったようだ。


「気にしない気にしない。さ、行こ?」


 だけどそれも悪くない。

 そう思えてしまった時点で負けなのだろうと、平吉もまた口元を釣り上げ軽く笑ってみせた。




 ◆




「おや、貴方は」


 翌日、甚夜は再び四条通を訪れた。

 朝も早く、音のない道を歩く。向かう先は逆さの小路ではなく、とある神社だ。

 聞けば太助という男は毎朝この神社へ参拝に行くらしい。実際訪ねてみれば彼の姿があった。

 

「どうも」

「確か、葛野さん、でしたか」


 木々に囲われた小さな神社、その境内に太助は一人佇んでいた。

 疲れたような表情。彼の持つ空気は世捨て人のように感じられる。こちらに気付いても改めることはなく、どこか投げやりな態度のままだった。


「突然の訪問、申し訳ありません。太助殿に話を伺いたいのですが」

「話ですか」

「逆さの小路について、です」


 ぴくりと僅かに頬の筋肉が強張った。

 この老翁は全てを知っている。最初に何も聞かなかったのは、それを真実と判断する材料に乏しかった為だ。

 しかし今回は違う。粗方の予想はついており、彼に話を聞くのは答え合わせのようなものである。


「あれから多少調べましたが、人を死に至らしめる怪異などそこにはなかった。しかし噂に語られる内容では、聞くだけで命を落とすという。その矛盾の答えを、貴方は知っているのではないでしょうか。誰も知らぬ、逆さの小路の真実を」

「何故、そう思うのですか」

「誰も知らなかったからです。昨日、この辺りで聞き込みもしてみました。皆口々に言います。“逆さの小路という名前は知っている。だが、その内容は知らない”と。だが貴方だけが“ない”と言った。存在の有無を語るには、詳細を知らねばできないでしょう」


 境内は風の音がはっきり聞こえる程に静まり返っていた。

 早朝、他に参拝客もいない。二人の間には沈黙だけが鎮座する。

 太助が真実を知っていたとしても甚夜に教える義理はなく、このまま沈黙を維持されればもはや逆さの小路の真実を知ることは出来ない。


「無理を言っているのは分かっています。ですが、どうか教えて貰えないでしょうか」


 どれだけ時間が経ったのか、未だに黙ったまま。

 もう無理か。諦めが脳裏を過る頃、ようやく太助は重い口を開いた。


「昔、天保の頃でしたか。貴方の歳では知らぬでしょうが、それはひどい飢饉がありましてな」


 語られた内容は見当外れに思える。

 しかしその眼は真剣で、彼が誤魔化そうとしている訳ではないと知れる。


「陸奥国や出羽国を中心として始まった大飢饉ですね」

「ほう、お若いのによくご存じで」


 驚いた様子だったが、別段不思議なことでもない。そもそも甚夜はその頃から生きている。実際に体験しているのだから、知っていて当然だ。


「まあ、食べるものない。疫病も流行る。京でも、それはもう多くの人が息絶えましたよ」


 過去の惨状を語る老翁は無表情で、無感動だ。

 全く動揺なくすらすらと話す。


「あんまりにも人が死ぬと、言葉は悪いですがその処理……弔うのも手間がかかりましてな。初めの内は一つ一つ丁寧にしていたのですが、数が多くなれば身寄りのない者の躯は次第に後回しになりました。そうすると、今度は置き場所に困る。だから人目のつかぬ小路へと一時的に放り込んでいたのです」


 おどろおどろしい内容だが、やはり老翁は抑揚なく、感慨など欠片もない口調。

 思い出したくもないのか、それとも、他に理由があるのか。不快皺の刻まれた顔は、いつしか悲しそうに伏せられた。


「いくつもいくつも骸を積み上げ……すると、どうでしょう。ある日のこと、骸が、死肉がいやに荒らされている。野犬でも来たかと思いましたが、その様子もない。そういったことが何度も続くと流石に気味が悪くなりましてな。数人で調べました」


 薄暗い影。

 虚ろに、何を見るでもなく、眼は開かれている。


「理由は直ぐに分かりましたよ。……骸を喰う者がおったのです」


 絞り出した一言に力を奪われたのか。

 肩を落して俯く。十年は年老いた。そんな風に感じられた。


「それは、鬼でしょうか?」

「……いいえ。物を喰わぬと体だけでなく心も痩せ細るものなのですなぁ。骸を喰っていたのは人でした。子供、大人を問わず、あまりにも腹が減り過ぎて、骸であっても食えればいいと、死肉にたかっておった」


 それを責めることは出来ない。

 甚夜もまた飢饉の恐ろしさは知っている。食うものもなく野垂れ死ぬ子供や僅かな食料を奪い合う大人。食べられないというのは、想像以上に人の心を追い詰める。飢餓が極限に達すればそれくらいはやると納得してしまった。


「止められませんでした。儂も腹が減っていた。……だから、止められません。次第にそこは“逆さの小路”などと呼ばれるようになりました」


 諦観を感じさせるその様相。

 同じ穴の貉ならば止められる筈もなく。彼は懺悔するようにただただ言葉を続ける。


「呼び方に意味などなかったんです。怪談らしい、“それっぽい名前”なら何でもよかった。あまりにも恐ろしい話があるから近寄ってはならない。そこで見たことを語れば呪われる。そういう噂が流れれば、誰も近付かなくなりますから」


 老翁は逆さの小路など存在しないと言う。当たり前だ、元々それはただの作話だったのだ。

 人を遠ざけるにはなるべく恐ろしい方が好ましく、話が明確だとそれを確かめようという者が出てくる。

 結果作られたのは、聞くだけで死ぬという不明瞭な怪談。骸を安心して食べるように流布された怪奇譚だ。

 だから“逆さ”の小路。

 本当に恐ろしいのは怪異ではなく人の業。目を覆うほどの醜悪さを隠す、形だけの怖い話。


「ですが、それは四十年以上前の話の筈。今になって何故噂が流れたのでしょうか」

「忘れたからでしょう」


 今までの疲れた表情から一転、太助は悔しそうに唇を噛む。


「人は楽になりたがるもの、与えられる癒しに縋ったとて責めるのは酷だ。罪の重さから逃げて、人を喰った記憶も忘れ、ただ“逆さの小路”という言葉だけが残った」

「忘れた? しかし」

「そういうことが出来る者もいるのです。記憶を消し、作り変える。確かに辛い記憶を忘れられれば確かに幸せでしょうな」


 それを弱さと責めることは出来ない。

 辛い記憶を忘れたくて、都合のいいように置き換えて。

 多くの者が人を喰った過去などなかったことにして。

 歳月は流れ、いつしかそちらの方が真実になってしまった。 

 だから誰に聞いても逆さの小路の内容は分からなかった。

“知らない”のではなく“忘れた”から。


「何をしたかも忘れ、過去を都合よく作り変えて。それでも、逆さの小路という名前は忘れていなかったのでしょうな。誰か一人が口にすれば、知っていると騒ぎ立てる。しかし名前は知っているのに内容が分からない。そんな“怪異らしい”要素があればなおさら怪談としての価値は上がる。そうして噂は蔓延し……ついには、存在しなかった筈の逆さの小路が生まれました」


 それも一瞬、全てを諦めたような笑みで太助は呟く。


「現世とは奇怪なものですなぁ。刻まれた罪過が消え去り、存在しなかった筈の怪異がまことになる。何が本当で何が嘘か、時折分からなくなります」


 甚夜はようやく逆さの小路にいたあの影の正体を理解した。

 あれは鬼になり切れなかった負の感情。行き場を失くしてしまった後悔の念だ。

 誰もが忘れ、見ることもなくなり、それでも尚残り続けるかつて犯した拭いきれぬ罪過。

 一つでは何の力も持たぬ後悔が積み重なり、妄念は濁り、いつしか淀む影となった。

 そこにあるのは忘れ去られた想い。郷愁を呼び覚ます幻覚は、つまりそういうこと。

 忘れ去られた記憶だからこそ、過去を映し出す鏡となって、見て見ぬふりをしてきた願いを突き付ける。

 そこから抜け出せなかった者は死に至る。

 踏み込んだ者に変えようのない未練を見せて取り込む小路。

 始まりは違ったかもしれない。

 しかし“逆さの小路”は、此処に真実となったのだ。 


「すみません。長々と語ってしまいましたな」

「いえ、ありがとうございます。ようやく、納得がいきました」

「それはなにより。……では、そろそろ行かせていただきます」


 もう話すことはないと甚夜の横を通り過ぎ、鳥居へと向かう。

 振り返れば年老いた小男の頼りない足取り。小さな背中がやけに寂しそうで、思わず声を掛ける。


「太助殿」

「……まだ何か」

「最後に一つだけ聞かせて貰いたいのです。誰もが逆さの小路を忘れたというのなら、何故貴方は忘れようとしなかったのですか? その方が楽になれたでしょうに」


 そんなことか、と鼻で笑い太助は答える。


「忘れてはいけないからでしょう」


 初めての、力強い言葉だった。 


「どれだけ歳月が流れても、新しい時代が訪れたとしても。忘れてはいけないものはあると思います。……同じように、捨てられないものも」


 背中越しではその表情を見ることは出来ない。

 同じく、彼が如何なる道程を歩んできたかも。

 しかし太助の背中は、年老いて曲がり見るからに頼りなく、寂しそうで。

 だというのに何故かひどく重々しく感じられた。


「問われれば、いつなりとも逆さの小路の真実を語りましょう。今も覚えています。喉を通る肉の感触を。それを忘れずにいることが、私に出来る唯一償いですから」


 それだけ残し、今度こそ太助は神社を去った。

 人を喰った記憶はいつまでも彼を苛む。しかし太助はそれを忘れていくことを良しとしなかった。

 そうと決めたから。

 そこから外れるような真似は出来なかった。


「人の身でありながら……あれもまた、一個の鬼か」


 遠くなる後ろ姿に思う。

 おそらくは人を喰ったその時から、太助は人でありながら鬼だった。

 これからも人を喰った鬼として生きていく。それが、彼の選んだ道なのだろう。










 こうして逆さの小路は真実となった。

 影を討ち払いはしたが、怪異を解き明かした訳ではない。影は行き場を失くした想いの塊。その全てを消し去るなど甚夜には、他の誰にも不可能だ

 だから逆さの小路もまた消えることはない。

 過去の陰惨な記憶を隠し、しかし逆さの小路という名だけは、これからも語り継がれていく。

 或いは、それこそが太助の願いだったのかもしれない。


「お?」


 しばらくすると、入れ替わるように見知った顔が神社へ訪れた。

 左腕に三つの念珠を填めた青年。宇津木平吉である。


「宇津木」

「あんたか。なあ、ここに爺さんおらんかった? 毎日来とるって話聞いたんやけど」

「太助殿のことならもう行ったが」

「へ?」


 その返答が意外だったのか、平吉は呆けたようにぽかんと口を開く。

 話を聞いてみると、どうやら彼も逆さの小路について調べていてくれたらしく、太助ならば何か知っていると思い此処へ来たということだった。


「なんや、そしたらあんたも知っとったんか? 逆さの小路なんて存在せんて」

「ああ」

「そしたら、もう?」

「一応は解決でいいのだろう」

 

 これから先どうなるかは分からないが、少なくとも今は。

 飲み込んだ言葉。語る気はなかった。あまり気持ちのいい話ではないし、逆さの小路の真実を語るのは太助の役目。それを奪うのも気が引けた。


「そか。こっちはまだまだかかりそうやな」

「癒しの巫女の依頼は厄介か?」

「あー、まあな。誰かも分からん相手を探せ。正直、どうすればええのかも分からん。……ま、俺なりにやってみるわ」


 難航はしているようだが諦める気もないらしい。

 鬼嫌いを公言する平吉がそこまでする。出会ってから数日、随分と彼女のことが気に入っているようだ。


「お前がそこまで鬼に肩入れするとはな」

「あんたがそれ言うか?」


 自分だって鬼だろうに。目でそう訴えている。

 それもそうだと肩を竦めれば、仕方がないとでも言うように平吉は小さく息を吐いた。


「今更鬼やからどうこうなんて言う気ないわ。あんたが教えてくれたことやろ」


 不敵な笑みを浮かべる。平吉はそういう顔が出来る男に成長した。

 その一端を担えたのかと思えば、どうにもくすぐったくなり落とすように甚夜は笑った。


「そうか。ならば一度店に連れて来るといい」

「いやや。野茉莉さんに誤解されたらかなわん」


 間髪入れず否定する。

 彼が娘に懸想しているのは知っていたが、あまりの速度に思わず溜息が零れる。


「……そういうことを、本人の前で言えればいいのだがな」

「言えるかっ!?」

「親の前で言うのも大概だと思うが……まあいい。私は行くが、お前は」

「東菊んとこ」


 本当に入れ込んでいるらしい。

 軽く口元を釣り上げ、短い挨拶を残し、平吉の横を通り過ぎる。境内には涼やかな空気が流れ、ざあと木々を鳴らした。

 そのまま鳥居の方へ向かい、思い立って首だけで振り返る。


「ああ、二股をかけるような真似はするなよ。肉塊になりたいのなら別だが」

「洒落にならんこと言うな!?」


 甚夜の腕力で殴られたら本気で肉塊になる。

 嫌な想像をしてしまったらしい。慌てる平吉の叫び声が何故か心地好く、甚夜は少しだけ穏やかな気持ちで神社を後にした。


「ったく、あいつは。そやけど婿として認められとる? いやいや……」


 残された平吉はぶつぶつと独り言を呟いている。

 まあ逆さの小路の件が片付いた以上、此処にいる意味もない。

 両手で挟み込むように自身の頬を叩き、気を取り直して前を見据える。


「おっしゃ。気合入った」


 そうして平吉もまた歩き始めた。

 逆さの小路と癒しの巫女。二つの事件は根幹を同じくしながら、甚夜も平吉もそのことに気付かないまま流れていった。








 ◆








 ───今も覚えている、あなたと過ごした日々のこと。








「父様、お帰りなさい」


 鬼そばへ戻った甚夜を迎えたのは、満面の笑みの野茉莉だった。


「ただいま。留守中何もなかったか」

「もう、いつまでも過保護なんだから。もう同い年なのに」

「それでも心配するのが親というものだ」


 笑いながら冗談を言って、窘めるように頭を撫でて、いつも通りの親娘の触れ合い目尻が下がる。


「でもあと数年もしたら私が甘やかすからね」

「ああ、楽しみにしていよう」


 軽く流して、二人は店の準備を始める。

 もうすぐ昼時、今日も忙しくなりそうだ。






 ───透明な朝、騒がしい昼、夕凪の空。

    沈む陽、見上げれば、星に変わり。






「宇津木さん、いらっしゃい」


 廃寺で平吉を迎えたのは、やる気のない様子で手をひらひらとさせる東菊だった。


「もう演技する気さらさらないんやな?」

「だってめんどくさいし」


 最初に抱いた印象は完全に砕け散った。しかしこちらの方が親しみ易いとも思う。

 呆れたような物言いはしているが、平吉は彼女のことが嫌いではなかった。


「ええけど。ほな、いこか。……そやけど、実際どうすればいいんやろなぁ」


 名も顔も知らぬ相手を探す。方法など分からない。初手から手詰まりのような気がする。

 しかし東菊は気楽な様子である


「大丈夫だって“その人”に会えればちゃんと分かる。だって私は」

「その為に生まれた?」

「うん。だから絶対大丈夫なの」


 そう言って笑う東菊。 

 平吉も返すように笑う。

 細められた、悪意のない緋の瞳。その笑顔の柔らかさに、根拠のない大丈夫も何故だか信じられるような気がした。






 ────いつものように、手を繋いで、二人家路を辿る。  

    暖かさがくすぐったくて、子供みたいだねと、私は笑う。






 昼時を迎え、相変わらず鬼そばは盛況である。

 目まぐるしく客は入れ替わり、止まることなく次々と蕎麦を作っていく。


「きつね一丁」

「お、悪いなあ」


 染吾郎は丼を受け取り、朗らかな笑みを返した。

 これもまたいつも通りの光景だ。蕎麦を啜りながら話す内容はやはり可愛い弟子のことである。


「平吉、うまいことやっとる?」

「腕は上がってきているし、依頼もそれなりにこなしているようだ。今はちと手こずっているらしいがな」

「そか」


 師匠として弟子が自分で受けた依頼に口を出すような真似はしたくない。

 しかし心配なのは変わらない。こういった会話を交わすのは今回が初めてではなかった。


「もう少し信用してやれ……と、言いたい所だが」 

「君も似たようなもんやろ?」

「違いない」


 心配するなと言っても心配してしまうのが親であり師匠だ。

 儘ならぬと互いに視線を交え、小さく笑う。


「成長しとるて分かっとるのになぁ。師匠ってのは厄介やね。なあ、おとうちゃん?」

「からかうな」


 そして染吾郎は視線を僅かに逸らし、少しだけ寂しそうに呟いた。


「そやけど、もう一年二年もすれば。ほんまに僕の手は必要なくなるんやろなぁ……」


 それは甚夜もまた思っていたことだった。

 もう、あの娘は父の手など必要としていないのだろう。






 ───懐かしさに心浮かれて、けれど近付いた道の終わりに、知らず景色は滲んで。






「うん、満足」


 三橋屋でしこたま野茉莉あんぱんを買い、東菊は言葉通り満足そうだった。

 巫女服から着物に着替え、髪は後ろで一つに纏め、薄く化粧もした。そこまですれば癒しの巫女と気付く者もおらず、足を止めることなく街を歩くことが出来た。


「で、外出て一番に菓子屋って。探し人はどないした」


 自分へのお土産を抱えて離さない東菊を半目で見る平吉。

 しかしそんな視線はなんのその、彼女の笑顔が崩れることはない。


「いいでしょ。こんなこと今迄出来なかったんだから。これからは真面目に探そ?」

「真面目に探してないんはお前やけどな」

「なんか、辛辣になったよね」

「理由が分からんとは言わんよな?」


 言葉を交わしながら鬼そばを通り過ぎる。

 少し顔を出そうかとも思ったが、やはり女連れで野茉莉の前に行くのは気が引けた。


「探し人ってどんなん奴なんやろな?」

「それは、分からないけど。なんとなく、頭に浮かぶ景色はあるんだ」


 先程までの空気は消え失せ、物憂げな眼で遠くを眺める。

 映している景色は平吉には分からない。此処ではない何処かを彼女は見ている。そんな気がした。


「多分、その人は私にとって……ううん、ごめん。変なこと言っちゃったね?」


 口にした言葉を濁し、なんでもないと誤魔化して、東菊は笑った。

 笑っているのに、泣いているように見えた。


「……いや」


 うまい慰めなんて思いつかなくて、短く一言返すのが精一杯だった。

 結局二人は鬼そばへは立ち寄らず、三条を後にする。



 例えばの話ではあるが。

 もしもこの時、何かの拍子に東菊が鬼そばへ立ち寄っていたなら、もう少し違う未来があったかもしれない。

 しかしそれは結果論に過ぎず。

 いつかのように、すれ違い。






「じゃ、いこっか?」


 いつかのような、笑みを浮かべて。






 玉響の日々、名残を惜しむように───私は、あなたとあるく。






 鬼人幻燈抄 明治編『あなたとあるく』了










 ***








「でもお母様、結局何がしたかったのですか?」


 何処かくたびれた屋敷の一室。

 畳敷きの部屋でしな垂れ、気怠げに虚空を眺める母へ向日葵は問うた。


「東菊のしていることは町の人の記憶を消して、癒しを与えているだけ。お母様の目的にはあまり関係ないように思えますけど」


 全ての滅びを願う退廃的な母の在り方からはかけ離れた娘の存在。あれが母の如何なる部分を切り取って創り上げられたのか、向日葵にはよく分からなかった。

 しばしの空白。鎮座する沈黙。打ち破るように、揺れる涼やかな声が響いた。


『……東菊には、奪った頭蓋骨を取り込ませた。だから容姿も、性質も。あの売女と何も変わらない。記憶を失った状態ならば、意味のない滅私奉公に興じるなど初めから分かっていた』

「記憶を失った、ですか?」

『あれは私の娘であることも、その目的も覚えていない。……ただし、“探し人”に出会えたなら思い出す。己が何をするべきか』


 虚空を眺める瞳は、悪意に研ぎ澄まされて。

 けれど隠し切れない愛しさに異様な輝きを孕む。


『私はただ、見たいだけ。東菊が本懐を遂げた時、あの人が何を選ぶのか』


 ゆらり、夜に溶ける。

 静かに紡がれた言葉は空気に紛れ、程無くして見えなくなった。





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