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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
明治編

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『夏宵蜃気楼』・2




 凛とした佇まいを見せる青緑の竹林が、風に揺られて“ざあぁ”と鳴く。

 嵯峨野さがのは桜や紅葉の時期は人通りも多くなり喧噪に包まれるが、少し時期を外せば清澄な風情漂う京の町を味わえる。

 まだ朝も早い。陽はようやっと昇り始めたばかりで、嵯峨野の竹林に足を踏み入れる者もいない。

 しかし今朝は人影一つ。

 薄明るい空の下、静けさが染み渡る竹藪の中で甚夜は佇む。

 右手には夜来、左手には夜刀守兼臣。

 二刀を手に構え、腰を落し周囲に意識を飛ばす。

 ざわめくような葉擦れの音に紛れ、獣の呻きが聞こえた。

 竹林の影から姿を現したのは、鮮やかな黄と黒の、縞模様の毛衣の獣。


「虎と竹林か。随分と趣のあることだ」


 竹林の中に潜む虎はしばしば水墨画などで見られる題材だ。

 確かに趣はあるかもしれないが、現状を顧みれば抱く感想としては間違いかもしれない。虎は明らかにこちらを見ており、今にも飛び掛かろうと地に爪を立てていた。

 

 ひゅう、と風が裂けた。

 

 鞭を思わせるしなやかな筋肉が躍動し、巨大な四足獣はその大きさに見合わぬ速度で疾走する。

 爪も牙も生来のものだが、鍛えた刃に匹敵する凶器。突き立てれば人など数瞬もせぬうちに肉塊と化す。

 甚夜は鬼、膂力を競っても押し負けはしない。<剛力>を使えば肉塊になるのはあちら、しかし敢えて剣で相対することを選んだ。

 二刀を持って受けに回り、突進をいなしながら左に踏み込み、そのまま後方へと流す。

 手が少し痺れた。上手く捌けたかと思ったが、まだ無駄がある。更に意識を研ぎ澄まし、次の手に備える。


 ひゅるり、一羽燕が飛んだ。

 

 滑空する燕は空中で翻り、一直線に甚夜へと向かう。

 風を切る甲高い音、視認も難しい速度で襲い来る燕。最高速に達したそれは既に刃、首を掻っ切ろうと飛来する。

 構えを保ったまま僅かに軸をずらし、最小限の動作で燕を躱す。

 だが息を吐く暇もない。

 次いで現れたのは三匹の黒い犬。雄叫びを上げて駈け出し、追い込み、獣の群れが牙を剥く。


 脅威と呼ぶには程遠い。

 踏み込むと同時に夜来を振るい、まずは一匹しとめる。

 動きは止めない。右足は軸、左足は半円を描くように後ろへ。流れのまま横薙ぎの一刀に繋げる。

 夜来で二匹目を斬り捨てるも態勢が僅かに崩れた。

 好機とばかりに再び燕が舞う。斬った筈の犬の体も復元され、今一度地を駆ける。

 燕は兎も角犬の方はある程度の再生能力を有している。真面に相手をするだけ無駄、甚夜は刀を握ったまま左腕を突き出す。


「<地縛>」


 短い言葉により生み出されたのは四本の鎖。

<地縛>は鎖を造り操る<力>。一本一本細やかな操作が可能だ。

 じゃらじゃらと音を立てながら鎖は空を這う。まるで蛇のように襲い来る犬どもを絡め取った。

 次は燕、その後方から虎も地を蹴った。

二体同時。先程は刀を振るった後、僅かに体が流れた。大振り過ぎたのだ。だから今度は動きを修正する。

 摺足で位置を調節し、刃となった燕を見据える。

 速い、だが捉えられない程ではない。半歩左足を前に、肘を起点にあくまで小さくあくまで丁寧に夜刀守兼臣を振るう。

 すぅ、と軽い手応え。燕を斬り捨て、体を捌きながら、滑らせるように右足で踏み込み、突進する虎の側面に回り込む。

 踏ん張ると同時に体を回し二刀連撃、上から下へ叩き付ける。

 手応えはあった。断末魔のうなり声を上げ、致命傷を受けた虎は地に伏す。

 巨躯からは白い蒸気が立ち昇り、同じく燕も犬も溶けて消え、後には何も残らない。

 それを確認して、ようやく甚夜はふうと一息を吐いた。


「よっ、お見事」


 竹林にぱちぱちと響く乾いた音。

 そちらへ向き直れば柏手をしながら、どこかのんびりと染吾郎が姿を現す。


「僕の虎の子が一発かぁ……ま、張子の虎やけどね」


 燕、犬神、張子の虎。全て染吾郎の付喪神。

 鍛錬自体は普段から行っているが、今朝は染吾郎に付き合ってもらったのだ。

 夜刀守兼臣を手に入れ、<地縛>を喰った。しかしながら二刀を扱う技術は身に着けておらず、鎖での戦い方もまた然り。

 その為使いこなせるよう二刀での鍛錬を繰り返していたのだが、ようやく形になったので、確認がてら染吾郎に相手をしてもらった。

 結果は中の下、といったところか。まだまだ拙いが、使えないというほどでもない。これならば実戦でもそれなりにはやれるだろう。


「悪いな、付き合わせた」

「気にせんでええて。で、満足できた?」

「……正直に言えば、多少不満が残る」

「んん? 僕、なんやまずかった?」


 首を横に振って否定の意を示す。

 二刀の扱いはそこそこ、しかし引っ掛かるところもあった。

 自身の左手を眺めながら、甚夜は目を細める。引っ掛かりを覚えたのはたった今使った<力>、<地縛>に関してだ。


「……地縛は六本、元々は七本の鎖を操ったと聞いた。しかし私では四本が限界、行動や<力>を縛ることも出来そうにない」

「つまり、<力>が劣化しとる?」

「ああ。こんなことは初めてだ」


 例えば、甚夜は<不抜>を土浦のようには使えない。

<不抜>は壊れない体を構築する<力>。その代償として使用中は体を動かすことが出来ない。

 言い換えれば体を動かしていない状態でなければ発動自体が不可能だ。

 故に甚夜では土浦ほど早く壊れない体を構築できない。

 力量こそ互角であったが、攻撃が当たる刹那を見切る目や、挙動の途中で体を静止状態へと持っていく身体操作技術が土浦に及ばないからだ。


 だが<地縛>に関しては違う。

 もともとは「七本の鎖を操り、鎖一本につき何か一つを制限する<力>」だった。

 だというのに今は「四本の鎖を操る<力>」になってしまっている。扱う側の技術の問題ではなく、<力>自体が弱まっているのだ。

 疑問に眉を顰めていると、染吾郎は軽い調子で言った。


「いや、別に不思議やないんちゃう? 地縛はもともとマガツメの一部。ほんなら<力>もマガツメの切れっぱしみたいなもんなんやろ」


 であれば“大本”を喰わない限り<力>は十全に使えない。

 そこまで言葉にしなかったのは、マガツメが甚夜の妹だと知ったから。

 口にすれば妹を喰えと言ったも同然、だから言えなかった。


「……成程。ならば考えても仕方ないか」

「そやね」


 その心遣いに報いる為にも礼は言わず、取り敢えずは納得したというていで刀を鞘に収める。

 肺に溜まった熱を吐き出し、息を整える。むせ返るほどに濃い緑の匂い。夏の気配がそこかしこに感じられる朝の空気をゆっくりと吸い込めば、少しだけ気分は楽になった。


「染吾郎、助かった」

「ええて、こんくらい。偶には僕も気合入れとかな、いざって時戦えんようなるし。……ところで気になったんやけど。君、刀一本の方が強ない?」

「ん、ああ……」


 痛いところを突かれてしまった

 慣れてきたとはいえ所詮は付け焼刃、習熟の度合いは一刀が勝る。

 実戦で扱えたとしてもあくまでそれなり。まだまだ拙いと自覚しており、もっともな指摘だと甚夜は言葉を濁す。

 

『何を言うのですか』


 代わりに反論したのは、鞘に収められた夜刀守兼臣だった。

 戦国時代の刀匠、兼臣の鍛え上げた<御影>の妖刀は人格を宿し饒舌に喋る。その上甚夜の妻を自称するという非常に奇怪な刀である。

 夫の足手纏いのように言われるのが癪だったのか、声は不満げな色を帯びていた。


『旦那様の努力をそのように軽んじるなど、秋津様は本当に失礼ですね』

「そやけど、正直ぎこちないとこあったし。今迄通りの方がええと思うけどなぁ」


 兼臣からすれば気分は悪いだろうが、染吾郎の言は然程間違ってもいない

 数十年の間、夜来一振りでの所作を磨き、鍛錬も人選も呆れるほどに繰り返してきた。

 対して二刀での鍛錬など僅か一年足らず。今迄培ってきた技を超えられる筈もない。甚夜自身それは認めていた。


「だろうな。私もそう思う」

「まぁ、君なら言われんでも分かっとるわな。ほんでも二刀に拘れへんとあかんか?」

「ああ。私は南雲和紗の魂を喰らい、兼臣は新たな使い手にと望んでくれた。ならば筋は通さねばなるまい」

 

 つまりこれは単なる感傷に過ぎない。

 南雲和紗という女性については何も知らないが、彼女の刀であろうとした兼臣の心には触れた。

 何も守れず、明治という時代に取り残されながら、しかし兼臣は最後まで我を張り通した。

 そういう女に“貴方を主に”とまで言わせた。ならばその想いを軽んじ放り出すような真似はしたくなかった。


「ほんでも、そのせいで君は弱くなっとる。不利を抱える理由にはちっと足らんのとちゃう?」


 尚も重ねる諫言は友人を案じてのこと。

 惚れた女を殺され、憎悪に追い立てられ、刀を振るう意味さえ分からないままに生きてきた。幾度も酒を酌み交わし、甚夜の過去は多少聞き及んでいる。

 マガツメとの因縁も重々承知の上。これからも彼の苦難は続く。であれば、兼臣には悪いが、余計な重荷は極力遠ざけてやりたいと思う。

 

「それでも曲げられないものもあるさ」


 しかし返ってきた答えは頑固な友人らしい、なんとも融通の利かないものだ。

 半ば予想はできていたが、思わず染吾郎は溜息を吐く。呆れよりも納得が先に来てしまうのは、甚夜の決意のほどを汲み取れたからだろう。


「刀と共に在った半生だ。ならばこそ刀として生きた同胞の心を無下にすることは出来なかった。私は、こいつに意味を与えられる男でありたいと思う。……主を喰った以上、尚更な」


 強くなりたかった。それを全てと信じた頃もあった。

 目的に専心し、あらゆるものを斬り捨てられる。迷いなく刀を振るえる己で在りたいと願っていた。

 けれど重ねた歳月に、背負い込んだ余分に少しずつ刃は濁る。

 今ではかつてのように力だけを求めることなどできはしない。

 それでも胸を焦がす憎しみは消えず、散々しがみ付いてきた生き方を曲げられる筈もなく。

 だから多分、昔と今、比べたところでそれほど大きく変わった訳ではない。

 ただ大切にしたいと思えるものが増えただけだ。


 間違えた生き方。

 その途中で拾ってきた大切なものが、正しく大切なものであると証明する為に。

 

 二刀に拘り兼臣を振るうと決めたのは、ただそれだけのこと。

 古きものが駆逐されていく明治という時代だからこそ、刀に生きた古臭い男として、刀で在ろうとした兼臣に意味を与えてやれる己でありたい。

 合理性の欠片もない、意味のない感傷だ。しかしそういう道を選べるようになった自分は、そんなに嫌いではなかった。  


『流石旦那様です』

「まだ言うか」


 兼臣の声は実に満ち足りたものだった。

 傍から見れば下らない意地、それを捨て切れない無様な男。しかし廃刀令が施行され、時代に取り残された刀には、甚夜の在り方が尊く思える。

 自分を使ってくれることよりも、刀に拘る古い男がいてくれることに彼女は例えようもない喜びを感じた。

 

「まぁ君が頑固なのは知っとるけど。筋通して命落としたら笑い話にもならんよ?」

「だから、こうやって死なぬよう鍛錬をしている」


 何の気負いもない返答に、染吾郎は呆れてしまう。

 兼臣を持たなければそれでいいだけの話だ。だというのに要らぬ苦労を背負い込んで、それを当然とでも言わんばかりの態度。元々合理的に動ける男ではないと知ってはいたが、ここまでとは。


「なんや、君って心底めんどくさい性格しとるなぁ」

「どうやらそうらしい。まったく、難儀なことだ」

「いやいや、他人事過ぎるやろ」


 まあ彼らしいと言えばそれまでか。

 元より問答程度で自分を曲げる男ではない。例え不合理でも選んだならば、身命を賭して貫く。それがこの友人にとっては当然の在り方だったというだけの話だ。

 そう考えれば刀で在ろうと拘り続けた兼臣とは、夫婦どうこうは冗談にしても、相性はよかったのかもしれない。


「ま、君が納得しとるんならええけど。きっと、兼臣の収まり所はそこやったんやろ」

 

 夜刀守兼臣を眺めながら、染吾郎は穏やかに目を細める。

 物には収まり所というものがある。

 想いが最後には願った場所へ還るように、器物もまた自らを大切にしてくれる持ち主の元へ訪れる。

 だからきっとこの融通の利かない男と頑固な刀が出会ったのは、偶然ではなかったのだろう。


「収まり所?」


 言葉の意味が分からないのか、甚夜は僅かに眉を顰める。

 兼臣も短く不思議そうに聞き返し、両者の疑問の声は見事に重なった

 その息の揃いようが妙におかしくて、やはり相性がいいのだなと染吾郎は破顔する。


「物やって、持ち主くらい自分で選ぶって話や」


 そうして彼は偶然が紡いだ暖かな出会いに、心底楽しそうにからからと笑い声を上げた。




 ◆




 朝の鍛錬を終えて、染吾郎と別れ鬼そばへと戻る。

 少し遅くなってしまった。そろそろ仕込みを始めないといけない。

 着替えてからいつものように店の準備をしている途中でふと気付く。今朝は野茉莉の顔をまだ見ていない。

 普段ならこの時間には起きているのだが、どうやら今日はまだ寝ているらしい。

 気になって店の奥、住居部分に向かう。野茉莉の部屋の襖を開けようとして、ぴたりと手が止まった。

 起こそうと思ったが、確認もせず部屋に入るのと嫌がられるかもしれない。そう思うと手が動かず、とりあえず襖は開けずに声だけを掛ける。


「野茉莉、起きているか」


 返事はない。繰り返したがやはり何の反応もなかった。

 流石に不安を覚え、少し躊躇いはしつつも襖を開け部屋に入る。

 もしかしたら倒れているのではとも思ったが違ったようだ。野茉莉は安らかに寝息を立てている。ただ単に眠っていただけらしい。


「野茉莉、朝だ」


 近付いて声を掛けると、ようやく反応があった。少し身動ぎをして薄らと瞼を持ち上げる。


「父様……?」


 寝ぼけているのか、野茉莉はとろんとした目で甚夜を見上げている。

 幼い頃から寝起きはよかった。こういう顔を見るのは初めてかもしれない。


「大丈夫か。体調でも」

「ううん、だいじょうぶ。すぐ、おきるから」


 まだ眠たいのか、何処か甘えたような声。まるで昔に戻ったようだ。

 少しだけ感慨に耽り、しかし目を覚ましたならいつまでも此処に居る必要もないと部屋を出る。

 なんとなく野茉莉の様子に違和感を覚えながらも、甚夜は朝の準備に戻った。






「ねえ、父様」


 食卓ではかちゃりと食器の音だけが聞こえる。昔はもう少し騒がしかったが、近頃は静かなものだ。

 卓袱台を挟んで迎え合わせに座り、親娘二人言葉少なに朝食をとっていると、今朝は珍しいことに野茉莉の方から口を開いた。


「どうした」


 しかし話し掛けたはいいが何かを言いあぐね、気まずそうに視線をさ迷わせている。

 言いかけて、躊躇い。それを何度か繰り返した後、ようやく腹が決まったのか、野茉莉は甚夜の目をまっすぐに見据えた。


「あの、ね。昔、父様ってお蕎麦屋さんによく通ってたよね?」

「あぁ……」


 今でもよく覚えている。

 蕎麦屋『喜兵衛』。あの店で過ごした時間は甚夜にとってかけがえのないものだった。

 間違えた道行きの途中で出会えた得難き暖かさ。

 憎しみの為に刀を振るい、ただ力だけを求めた。その生き方を僅かながらに変えられたのは、間違いなく喜兵衛で過ごした日々のおかげだ。


「忘れる筈もない」

「それなら……いつも店に来てた人のことも、覚えてる?」

「勿論だ。と言っても私を除けば直次くらいだったが。それがどうした?」


 問いは随分と突飛に思える。

 喜兵衛に通っていた頃、野茉莉はまだまだ幼かった。

 あまり記憶に残っていないものとばかり思っていたが、話題にするくらいには覚えていたのだろうか。

 それにしたって、何故いきなり喜兵衛の話をし出したのか。逆に聞き返すと、困ったように野茉莉は俯いてしまった。

 しばらくの間沈黙は続き、しかしもう一度顔を上げると、野茉莉はおずおずと遠慮がちに問い掛ける。


「あの、ね。他に、いなかった?」

「ん?」

「だから、いつもの人。店主のおじさんと、おふうさんと。後直次おじさんと。……後、女の人」


 喜兵衛にいる女。

 初めに浮かんだのはやはりおふうの顔。凛とした立ち姿、そしてたおやかな笑みだった。

 それ以外となると。

 考えて、どこか生意気そうな娘の笑顔を思い出し、甚夜は少しだけ目を細めた。


「……ああ、いたよ」


 確かにいた。

 野茉莉とは面識がない為先程は省いたが、直次以外にも喜兵衛に出入りしていた常連はいた。

 何かの間違いがあったのなら、妹になっていたかもしれない娘だ。

 なのに、この手で彼女の大切なものを奪ってしまった。

 懐かしさを感じながらも僅かに眉を顰める。噛み締めた後悔は、少しばかり苦みが強すぎた。

 

「しかし、何故知っている。会ったことはないと思うが」


 娘の前で無様を晒す訳にもいくまい。努めて平静な顔を作ってみせる。

 こういうのも歳の功なのだろうか。表情に動揺はなく、声も全く震えなかった。


「えっ!? あの、えーと、秋津さん! 秋津さんが、教えてくれたの!」

「そうか……口の軽い男だ」


 呆れたように溜息を吐いて見せれば、野茉莉はあきらかにほっとしていた。

 染吾郎が教えたというのは間違いなく嘘。しかし追及することはしなかった。

 今の質問にどういう意味があったのかは分からない。ただ野茉莉の表情は真剣で、決して興味本位ではなかったから、問い詰めるような真似はしたくなかった。

 ただ気にかかることもある。

 染吾郎が話したのではないとすれば、一体誰が。

 あの頃を知っている人間は多くない。店主と直次は既に死んでいる。おふう……でもないだろう。

 何者かも目的も分からない。だが、もしも野茉莉に近付きよからぬことを企む輩がいるのならば、相応の対処をせねばなるまい。

 

「野茉莉、あまり危ないことはするなよ」

「う、ん。分かってる」


 それきり会話は途絶えた。

 少し注意しなければいけないかもしれない。味噌汁を啜りながら、甚夜は微かに表情を引き締めた。




 ◆




 いつも通りの一日が過ぎ、夜がまた訪れる。

 寝床に戻った野茉莉は布団の上で寝転がりながら溜息を吐いた。

 

『秋津さんが、教えてくれたの』


 嘘を吐いた。

 当たり前のように父を騙してしまった自分が情けなく思える。

 いつからこんな風になってしまったんだろう。素直にものを言えなくなって、嘘までついて。子供の頃はこんな風じゃなかった。もっと、違ったような気がする。

 なのに、今は上手く喋ることが出来ない。


「……もう寝よ」


 何だか妙に疲れて、野茉莉は布団に潜り込んだ。

 目を瞑ればすぐに眠気が襲ってきて。

 深く、深く眠りについた。






 * * *






 夢を見ている。

 はらり雪の降る中、蕎麦屋喜兵衛で父と並び蕎麦を食べる。

 店主、おふう、直次。懐かしい顔に紛れて、知らない女の人が一人。

 

「最近はどうです、善二さん」


 もう一人、知らない男の人もいた。

 店主が声を掛けられた彼は善二というらしい。けれど女性の方の名前は分からないままだ。


「あーまあ、ぼちぼちやってます。やっぱり番頭になるとやることが多くて」

「そりゃそうよ。お父様を別にしたら、あんたがうちで一番偉いんだから。えらくなったらなった分の責任があるに決まってるじゃない」

「分かってますって御嬢さん」


 善二は名も知らぬ女のことを“御嬢さん”と呼ぶ。

 けれど他の呼び方はやはり雑音に掻き消されてしまい、結局彼女の名を知ることは出来なかった。

 彼女達は一体誰なのだろう。

 忘れているのではなく、本当に知らない。蕎麦屋の店の中はあの頃と同じで、だからこそ彼女達の存在には酷く違和感があった。


「どうした、■■」


 父が野茉莉を呼んだ。その筈なのに、名前はまた雑音に掻き消された。

 夢の話だ。気にするようなことではない。そう思うのに、夢でありながら頭がはっきりとしているせいで、余計なことまで考えてしまう。


「■■ちゃん」


 思考に没頭しようとした時、遮るように“御嬢さん”が声を掛けてきた。

 自分と同じ歳か、少し上くらいだろうか。口調や気の強そうな態度とは裏腹に立ち振る舞いは綺麗だ。御嬢さんという呼ばれ方からすると良家の子女なのかもしれない。


「は、はいっ」


 思わず声が上ずってしまった。

 野茉莉の様子を見ていた甚夜が表情も変えずに言う。


「そんなに緊張する相手でもないだろう」

「あんた、何気に失礼ね」


 不満そうに見えて“御嬢さん”は楽しげだった。

 和やかな空気に揺蕩いながら、野茉莉は夢を眺めている。

 昨日の夢の続き。ここまで明確に続く夢なんて、まともじゃない。そう思ったが、嫌なものは感じなかった。

 外は雪が降っているのに寧ろ暖かくさえある。だからよく分からないが、もう少し見ているのも悪くないと思えた。


「馳走になった」


 先に蕎麦を食べ終えた父がじゃらりと銭を机の上に置く。

 立ち上がり、腰に携えた刀の位置を直した。


「今日も、ですか?」


 それを目敏く見付けたのはおふうだ。

 僅かな動作から察した。これから甚夜は鬼を討ちに行く。昔も今も変わることのない、彼の生き方だった。


「ああ」

「本当に、甚夜君は変わりませんね」

「悪いな、性分だ」

「もう……」


 おふうの出す、呆れたような、それでも優しいと感じられる声。

 触れ合える距離が二人の親しさを示している。父はいつも通りの無表情で、けれど寛いでいるようにも見えた。 


「あまり無茶したら駄目ですよ」

「ああ」

「ちゃんと、帰ってきてくださいね」

「分かっている。そう心配するな」


 ちくりと胸の奥が痛んだ。

 昔から何となく感じていた。でも、今こうやって見返してみて、はっきりと分かってしまった。

 二人の間には、他の人には入り込めない何かがある。

 言葉を掛け合っているように見えて、本当は、何も言わないでも分かり合えるような。

 そういう一瞬が、そういう何かが、二人にはある。

 それを寂しいと思ってしまった。


「あ……」


 多分“御嬢さん”も一緒なのだろう。

 父とおふうの遣り取りを眺める彼女は、小さく、本当に小さくかすれるような吐息を漏らした。


「声、かけないんですか?」


 気付けばそう問うていた。

“御嬢さん”の横顔は親に置いて行かれた子供のような頼りなさで。

 彼女も同じような寂しさを感じているのだと知れた。


「私が傷つけてしまった人だから。あんまり、ね」


 目を伏せて、静かに笑う。

 名前も知らない女性。なのに、当たり前のように会話が出来るのは、同じ痛みを覚えたから。

 寂しいと思う気持ちも、二の足を踏んでしまうところも。多分、二人はよく似ていた。


「彼に酷いことを言ったの」

「なら、謝ればいいのに」

「……うん、そうできれば、よかったのにね」


 最初は生意気そうに見えたが、“御嬢さん”は意外にも穏やかだ。

 浮かべる笑みはとても柔らかく。でもどこか諦めが混じっているようにも見える。


「本当は、謝りたかったの。でも会いに行けなかった……自分が傷つけたくせに、傷付いた彼と会うのが怖かった」

「怖かった?」

「うん。これでも昔はそれなりに仲が良かったのよ。だからきっと、謝ったら許してくれたと思う」


 それを彼女は知っていて。

 なのに素直に謝れなかった。ゆっくりとした語り口に、遠くを眺めるような熱のない視線に思い知らされる。

 胸が締め付けられたのは、“御嬢さん”の嘆きが今の自分に重なったせいだ。


「でも彼の目は変わってしまうわ。以前のようには、私のことを見てくれない。会いに行って、謝ったら。もう二度と元には戻れないような気がして……それが怖くて。想像するだけで足がすくんで、結局謝りに行けなかったの。情けないわよね」


 素直に謝ることが出来ないのは野茉莉も同じ。

 本当は、言いたいことは沢山ある筈なのに。

 いつだって、何も言えなくて。 

 ああ、本当に情けない。

 どうして、あの頃のまま。父が大好きだった幼い子供のままでいられなかったのか。


「いってらっしゃい、甚夜君」

「ああ。行ってくる」


 穏やかな二人の遣り取りが突き刺さる。

 白い雪が外の景色を染め上げる中、柔らかく暖かい空気が此処には在って。

 だから野茉莉は、この夢を悲しいと思った。



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