『徒花』・1
『はぁ…はぁ……』
体が重い。
息が荒れる。
鉛の足を、それでも必死に動かす。
『しっかり、してください。もうすぐ、本隊に』
耳元にかかる途切れ途切れの吐息。
呼びかけても返ってくる声は弱々しい。
『あぁ、見たかったなぁ。新しい、時代を』
『なにを! あと少しで、我らが望んだ未来に手が届く。こんなところで死んでは……!』
歩けなくなった同胞を背負い、長い道のりを歩いた。
共に命を懸けたのだ。見捨てるなど考えられない。なにかを繋ぎ止めるように励まし続け、ただ只管に前へと進む。
『そうだ、なあ……』
男は嬉しそうに笑い、私も同じように笑い。
『もうちょっとで、俺達の、おれ、た、ちの……』
それが最後。
背負われたまま、男は二度と動くことはなかった。
戊辰戦争。
薩長を中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟。二つの政府が争った、幕末から明治初期に起こったこの戦争は、新政府軍の勝利によって決着を迎えた。
この勝利を持って表立って敵対する勢力は消滅し、これ以降、明治新政府は名実ともに日本の政治的主導者の地位を確立することになる。
その戦いの裏には、当然ながら名もなき武士達の奮戦があった。
しかし命をかけて戦った筈の彼等には、来るべき新時代において、居場所が与えられることはなかった
江戸が武士の世ならば、終焉は等しく武士の終わりでもあったのだ。
◆
明治九年(1876年)・三月。
その日、葛野甚夜は愛娘と並び、三条通を歩いていた。
十三になった娘は、少しは落ち着いたものの父を慕っており、店の備品を買いに行く際は好んでついてくる。今日もいつものように甚夜と買い物へ出かけたのだが、途中、肝心の父が足を止めてしまった。
「父様?」
愛娘────野茉莉は、大きな目と丸みを帯びた輪郭の、まだまだ幼さを感じさせるが可愛らしい少女に成長していた。
薄桃色の着物と、それに合わせたような桜色のリボンで肩にかかる黒髪を纏めている。
立ち止まった甚夜を野茉莉は心配そうに上目遣いで見つめていた。
「ん、ああ」
「どうかした? なんか、辛そうだよ?」
「なんでも、ない。気にするな」
曖昧な言葉を返しながらも強張った表情は隠せず、視線は手にした新聞へ固定されたまま。
道端では「号外ー! 号外ー!」とけたたましい叫び声をあげ、男が新聞を配って回っている。それを受け取った甚夜は、紙面を見て、書かれた文字に思考を止められた。
記されていたのは、彼にとって致命傷とでもいうべき内容だった。
「廃刀令、か……」
江戸幕府が確立した封建体制を排した明治新政府は、自身が正しいことを証明する為に江戸時代に創り上げられた常識を、江戸の名残を感じさせるものを次々と禁止していった。
江戸を東京と改め、廃藩置県によりかつての制度をつぶし、士族を設定することで武士を有名無実へと追い遣った。
そして明治六年二月七日。
明治政府は「復讐ヲ嚴禁ス」、俗に言う「敵討禁止令」を発布した。
江戸の頃、仇討は当たり前だった。係累を殺されて泣き寝入りするような輩は武士としては認められず、復讐を為せぬ男なぞ笑いの種でしかなかった。
しかし敵討禁止令により復讐は単なる犯罪として扱われるようになる。
更に明治九年。
大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止──即ち、「廃刀令」が発布される。
廃刀令は大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁じるもので、これにより明治政府に属する特権階級以外は刀を取り上げられた。
武士の世、その完全なる終焉であった。
「時代は、変わるものだな」
知らず、左手が夜来に触れる。
彼の呟きは、おそらくは多くの武士が感じた嘆きだろう。
刀も憎しみも、等しく価値のない明治。
甚夜は幕末の動乱を経て訪れた新時代に、言い様のない息苦しさを覚えた。
鬼人幻燈抄 明治編『徒花』
ひゅう、と風が吹く。
否、風に非ず。
脱力からの抜刀、涼風の如き一閃に、風が鳴ったように思えただけ。鈍色の刀身は夕暮れの庭で橙色に煌めいている。
一心不乱に刀を振るい続ける、薄い紫色の小袖を着流しに纏った年若い女。
渡世人のような恰好、長い黒髪は髷を結わず縛りもしていない。動く度に髪や着物の端がはためいて、彼女の鍛錬はまるで舞のように見えた。
所作が流麗な舞踏ならば、刀が空気を裂く音は舞いを彩る雅楽である。
斬る、払う、突く。基本的な武術の動き、それすらも突き詰めればここまでの美を持つものなのか。
彼女が手にしている物は人を殺すための道具だと知っている。この舞の真の姿は、命を奪う業だと十分理解している。だというのに、彼女の舞は死の匂いなど微かにも感じさせず、ただ純粋に美しいと思える。
次第に舞は速度を上げ、苛烈になる。
そして最後に裂帛の斬撃を放ち、舞姫はそこで動きをぴたりと止めた。
「見事」
短い、それ故に素直な賞賛だった。
夕暮れ時、甚夜は『鬼そば』の裏手にある庭で鍛錬を続けている兼臣をじっと眺めていた。
その剣は実に素直で、見ていて気持ちのいいものがある。基本の剣術でありながら舞にまで昇華された動きからは、彼女の弛まぬ練磨が見て取れた。
「……葛野様」
甚夜の存在にようやっと気づき、兼臣は意外そうな顔で声を上げた。
剣の腕ならば甚夜の方が上。だからそうも褒められるとは思ってもいなかった。
「良い太刀筋だった。生半な鍛錬で身に付くものではあるまい」
「いいえ。このような技、これからは何の意味も持たぬでしょうから……」
真っ直ぐな賛辞を受け、しかし泣き笑うように兼臣が言う。
おそらく彼女もまた廃刀令の話を耳にしたのだろう。刀の冴えに反して纏う空気は随分と暗かった。
甚夜は縁側に腰を下ろした。兼臣は気にせずもう二度三度刀を振るい、今度はぴたりと止めて刀身を眺める。それはまるで、刀が自身の手にあると確かめているようだった。
「葛野様もお聞きになったようで」
「ああ、一応は」
「正直に言えば、いつかは来ると想像しておりました。ですが、現実となればやはり困惑するものですね」
傾いた装いの女には似合わぬ弱々しい笑みだ。刀を納めることが出来ず、寂しげにそれを見る兼臣は、まるで気弱な娘子のようにさえ映る。
気持ちが分かる、とは言わない。しかし突き付けられた廃刀令に困惑しているのは甚夜も同じ。自然左手が夜来に伸びた。慣れ親しんだ手触りが其処には在る。
「兼臣……お前は刀を捨てられるか」
「まさか。“これ”は私そのもの。どうして捨てるなど出来ましょう」
気概を感じさせない細い声、だというのに彼女はきっぱりと言い切る。
装飾のない言葉は甚夜の内心を代弁していた。
「ああ。そうだ、な」
初めて握ったのは、まだ幼い頃。幼馴染の父が与えてれくれた木刀だった。
強くなりたかった。
強くなれば多くのものを守れると思い、がむしゃらに木刀を振るった。
手にするのが本物の刀になってからもそれは変わらない。
他が為に、守るべきものを守る為に刀を振ってきた。
数えきれない歳月が過ぎ、守れたものがあり、守れなかったものがあった。
歳を取れば背負うものは増える。背負う余分が増えた分、振るう刀も鈍くなる。
それでも手放すなど考えられなかった。
刀を持ったからといって、全てを守れる訳ではない。
分かった今でも捨てることは出来なかった。
手にしたものは武器であり、振るい続けるうちに大事なものを守る盾となった。
ただの道具はいつしか友となり、歳月を経て半身に、ついには己自身と化した。
刀はいつも傍に在った。
それを、新しい時代は捨てろと迫る。
「葛野様。私達は、駆逐される為に今まで在ったのでしょうか」
答えられる訳がなかった。そんなもの、甚夜にも分からない。
けれど一つだけ分かることがある。
「さて、な。ただ……我らは、やはり死に場所を間違えたのだろう」
死すべき時に死せぬは無様。
このような未来を嫌悪したからこそ、畠山泰秀は武士のまま死ぬことを選んだのだろう。
本当に正しかったのは彼なのかもしれない。
夕暮れに溶ける空を眺めながら、甚夜は最後まで武士であった男の笑みを思い出していた。
◆
「大将、聞いたかい。廃刀令の話」
昼時、鬼そばに訪れた二人組の客が甚夜にそう話しかけた。
京に移り住んでから随分と経ち、気軽に話しかけてくれる客も増えた。普段は甚夜も穏やかに応対しているが、この日ばかりは態度が硬くなった。
「ええ、まあ」
「いや、ほんま、新しい時代ってなええもんやなあ。刀を持って威張り散らしていたお上とは違うわ」
「そう、ですか」
曖昧に返すことしか出来なかった。
箸を止めて意気揚々と語る彼らは、多分純粋に廃刀令を喜んでいる。そこに悪気や含みが無いのも分かっている。
しかし上手く言葉が出てこないのは、携えた鉄の重さに慣れきってしまったからだろう。
「昔は刀をもっとるからて偉そうな奴らがよーさんおった。そんな浪人崩れが居なくなるだけでも新政府さまさまやな」
「そうそう! 刀を持っとるだけで戦う気概もない奴らがこの国を駄目にしたんや! とっとと馬鹿な武士どもから刀を奪ったらよかったろうに」
「違いない違いない! どうせ武士なんていない方がいい人種や。昔より今の方が暮らしやすいんが証拠やろ」
高らかに笑い上げる。その度に心がざわめく。
自然と大きくなる笑い声に、刀と共に生きてきたこれまでを愚弄されたような気がした。
知らず手に力が籠る。そして二人組の客を睨み付けようとして、
「あぢい!?」
それよりも早く、秋津染吾郎は男達の頭の上にきつね蕎麦をぶちまけていた。
「あら、すまんな。いや、僕も歳とってなぁ。最近自分が何しとるか分からん時があるんや。いやーもうボケてもたかな?」
熱い汁をかけられて慌てふためく男達になど見向きもせず、白々しくも悩んでいるような素振りを見せている。
彼の顔にはあからさまな作り笑い。腕を組んで悩み込む様は、誰がどう見ても演技だった。
「何のつもりやぁ!?」
「こんな真似、ただで済む思うなや!」
いきなり狼藉を働きながら、とぼけた態度を崩さない。
神経を逆なでされた男達は、舐めた爺を真っ赤な顔で怒鳴りつける。そこでようやく染吾郎は小馬鹿にするような振る舞いを止めた。
「ただで済む思うな……? はぁ? それどう考えても僕の科白やろ」
代わりに温度が一度か二度下がった。無論錯覚だが、そう思わせる程に染吾郎は冷静、見据える視線はひどく冷徹だ。
四十を超えた老人とは思えぬ鋭すぎる気配に晒され、男達は全身を強張らせている。他の客も緊張の面持ちで事の成り行きを見守っていた。
「この店で舐めた口利きおって。去ねや、屑が。次は蕎麦で済むと思うなや」
吐き捨てた言葉に男達は気圧され、じりと後退する。
付喪神使いとして多くの鬼を相手取ってきた染吾郎の睨みはもはや凶器に近い。静かだが苛烈な怒りを浴びせられた男達は怖気づき、これ以上喧嘩を売るような真似は出来なかった。
「ちっ、いくで」
「おお、こんな店二度と来るか!」
三流の捨て科白を残して男達は乱暴に店を出て行く。
金も払わなかった男達の後ろ姿に染吾郎は舌打ちをして、すぐにいつもの作り笑いを浮かべた。
「いやあ、騒がせてもたね。皆さまはどうぞどうぞゆっくり蕎麦を食べてってな」
役者を思わせる大きな身振り手振りで、残された客へ頭を下げる。
おどけたような調子の染吾郎に、少しだけざわめきは落ち着いた。店内の空気が和らいだのを確認した後、一仕事終えたと彼は厨房近くの席へ腰を下ろす。
「染吾郎、すまん」
「いやいや、こっちこそ君んとこの客にひどいことしてもたね」
「そうでもない。……正直、爽快だった」
「お、結構言うなぁ」
店長という立場から客へ何も言えなかった甚夜の代わりに、彼はああまで怒ってくれた。
謝罪もからからと笑って受け流し、恩に着せることはない。染吾郎の気遣いに感謝し、甚夜もまた小さく笑みを落とす。
「ところで、甚夜」
一転、染吾郎が真剣な表情に変わった。
両手を顔の前で組み、微動だにしない。十秒ほど沈黙が続いた後、彼は重苦しん雰囲気のままゆっくりと口を開く。
「………僕のお昼、どないすればええと思う?」
ちらりと横目でみれば、染吾郎のきつね蕎麦は床に飛び散っていた。
◆
少しばかり騒動はあったが無事に仕事を終えた甚夜は、野茉莉と二人夕食を取り終え居間でくつろいでいた。
「父様ぁ」
食後に茶を啜って休んでいるのはいつものことだが、今日ばかりは勝手が違った。
というのも、何故かは分からないが、野茉莉が背中合わせにもたれ掛かってくる。着物越しに感じる体温が心地よく、しかしさっきから動こうとせずちょっかいをかけてくる娘に違和感を覚えたのも事実だ。
「なあ」
「なぁに?」
野茉莉は今年で十三、少しずつ父に甘えることも減ってきていた。
だというのに今日は引っ付いて離れようとしない。嬉しいと思わない訳ではないが、釈然としないものを感じていた。
「今日はどうした」
「ん、ちょっと、久しぶりに甘えてみようかなって」
言いながら背中から覆いかぶさるように甚夜を抱きすくめる。
まるで親が子供にするような仕草だった。耳元に息がかかる距離まで唇を寄せて、柔らかく、優しい声で野茉莉は言う。
「元気出してね、父様」
ぎゅっ、と腕にも力が籠り、強く抱きしめられた。
「……野茉莉?」
「刀を差してない父様なんて想像できないけど、これからそうなっちゃうでしょ? でも、元気出してね」
一瞬、息が詰まったような気がした。
そうか、この娘は甘えていたのではない。父の気持ちを慮り、甘えるふりをして慰めようとしてくれたのだ。
「……甘えていたのは私の方か」
「へへ、だって私は父様の母様になるんだから。それでね、いっぱい甘やかしてあげるの」
それはいつかも聞いた言葉だ。
母のいなかった甚夜の為に、母になると言った娘。大きくなって、おかしなことだと気付こうものなのに、野茉莉は決して撤回はしなかった。
多分、歳月を重ねればいずれ甚夜の年齢を追い越してしまうと知っているからだ。
甚夜は鬼、寿命は千年以上あり、年老いることもない。
野茉莉は人、後十年もすれば彼女の外見は父の年齢を超えてしまう。
だから野茉莉は母になると公言憚らない。例え甚夜よりも年上になってしまっても、家族であり続けると彼女は言い続けてくれているのだ。
「まだ言っているのか」
「当たり前だよ、私の将来の夢だもん。私は父様に守ってもらってきたから、早く大きくなって、今度は父様を守るんだ」
何を言っているのか。
甚夜は微かに苦笑する。
本当は、私の方こそ守られてきた。野茉莉がいてくれたから今が在るというのに。
「そうだ、明日も一緒に散歩にいこ? 刀を差さなくてもいいなら手が空くでしょ。一緒に手を繋いで歩けるね!」
無邪気に笑う娘。
得難い幸福が此処にはあって、それを尊いと心から思える。
甚夜は胸に灯る暖かさを、少しでも伝えられるように微笑んだ。
私は本当に幸せだと、改めて実感した。
────だけど、言い知れぬ何かが心の奥に暗い影を落とす。
代わりに怒ってくれる友がいる
時代が変わろうとも、傍にあろうとしてくれる娘がいる。
その優しさを暖かいと感じ、だというのに、鈍い鉄の手触りが遠くなることを寂しいと思ってしまう自分がいる。
それが酷く無様に感じられた。




