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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
幕末編

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終章『いつかどこかの街角で/雀一羽』




 会津畠山家中屋敷。

 花の散った白木蓮が並ぶ庭に面した自室で、一人の男が正座している。

 何をするでもなく目を瞑りただ座る。その姿は何かを待っているようにも見えた。

 がさり。

 畳を誰かが踏んだ。自分以外誰もいない筈の座敷に響いた音。その違和に瞼を開く。


「おお、これは甚夜殿」


 其処には、不躾にも挨拶一つ無く屋敷に入り込んだ甚夜の姿があった。


「貴方がここにいる……つまり、土浦が討たれた、ということですか」


 急に現れた甚夜に表情も変えず語りかける。

 泰秀にとっては忍び込んだことも予想外の行動ではなかったのかもしれない。

 そう思えるほどに彼の対応は平静だった。


「ああ」

「そうですか……最早倒幕の流れは止められない。土浦を失った今、私に打てる手はない。終わり、ですな」


 他人事のように泰秀は言う。

 以前熱弁を振るった男とは別人のようだ。


「そうだな、だから」


 甚夜は無遠慮に近付き、夜来を抜刀する。

 一挙手一投足の間合いに泰秀を収め、上段に構える。


「お前の願いを叶えに来た」


 無表情に、そう告げた。






 鬼人幻燈抄 幕末編終章『いつかどこかの街角で/雀一羽』






「私の願い、ですか」


 抜刀した甚夜を前にしながらも動揺はない。

 演技じみた所作で俯き考え込み、噛み締めるように呟いた。


「ああ。私は土浦を討ち、喰らった。ならばあの男の責任を果たすのが筋だろう」

「では、貴方が代わりに仕えてくださると?」


 ここに至ってもとぼけたようなことを泰秀は言う。

 向けられる値踏みするような視線を受け流し、甚夜はゆっくりと首を横に振る。


「違う。私は、お前の願いを叶えに来たのだ」

「ふむ。ならば私の願いとは」

「最初からおかしいと思ってはいた。随分前、妖刀を追っていた私達にお前は杉野の行方を教えた。岡田貴一と戦うよう仕向けた。今回、態々私の目の前で直次を殺せと土浦に命を下した。お前の行動は私を挑発するようだった。何故そんな真似をしたのか」


 杉野の件は兎も角、もしも直次を目の前で殺されていたとしたら甚夜は間違いなく報復に出た。それが想像できない程泰秀は愚鈍ではない。

 もし佐幕攘夷を為したいのならば、こちらに接触するべきではなかった。

 正直な所直次が襲われなければ土浦を討つことも、泰秀が京へと送ろうとした下位の鬼を斬り伏せることもなかった。

 最初に言った通りも甚夜は攘夷になど興味はない。無為に人へ仇為すような真似をしなければ、そもそも関わり合いになる気すらなかったのだ。


 更に言えば、京へ送ろうとした鬼どもを討てたこと自体がおかしい。

 もっと早く行動をしていれば、例えば直次を襲うと同時に京へ鬼を送っていれば、甚夜は間に合わなかった。

 彼の遣り様ははっきり言って下策ばかり。何かを行う度に自身を窮地へと追い込んでいる。此処まで行くと最早わざとやっているようにしか思えない。


 だが今回土浦を“喰った”ことで、多少なりとも畠山泰秀という人物を理解できた。

 だから、奇妙な行動の理由に思い至った。

 

「考えて、前提を間違えていたのと気付いた。お前の目的は夷敵を討ち払い、幕府をもう一度立て直すことだと思っていた。だが違ったんだな」


 邪魔が入ることなど最初から気にしていなかった。

 何故ならば、本当は。


「本当はお前自身が、誰よりも攘夷など叶わないと思っていた」


 だから邪魔をされてもよかった。

 いや、それではまだ足りない。彼の行動は敢えて邪魔が入るように誘導していた節さえある。もし其処に何の裏もなかったとすれば。

 畠山泰秀の目的。

 彼の願いとは。


「真の願いは、目的の“達成”ではなく“頓挫”。邪魔されることをこそお前は願っていた」


 証拠のない推測、しかし絶対の確信があった。

 座敷は静まり返っている。二人は押し黙り、ただ視線を交差させる。しばらく沈黙が続き、不意に目を伏せた泰秀は、重々しく溜息を漏らした。


「隠し事は、無駄のようですね」


 疲れたような、諦めたような、力の籠らない語り口。

 もう一度目を開き、両の掌を眺めている。手の中には何もない。それとも彼には何かが見えているのだろうか。


「その通りです。本当は、分かっていたんですよ」


 全てを認め、泰秀は自嘲じみた笑みを落とす。

 

「もはや時代の流れは止められない。どれだけ抗おうとも、外来の文化がこの国に入り込むことも。幕府が滅び、武士の世が終焉を迎えることも。決して、止められない。……本当は、全て分かっていた」


 泰秀は慧眼だった。

 慧眼であるが故に早くから時代の流れが見えてしまっていたのだろう。 

 武士が歴史に淘汰されて往くという、避けようのない未来が。

 以前、<遠見>という<力>を持つ鬼がいた。彼女は避けようのない未来を見せつけられ、それを回避するために狂気とも思える行動に出た。

 この男もまた同種の絶望を抱いていたのかもしれない。


「多くの武士は時代の流れに身を任せた。剣を捨て、新時代の権を得る為に刀を振るう。それが間違いでないことも分かっていた。時代は変わる。ならば新しい時代を受け入れ、己もまた変わっていく方が正しいのだと。そんなこと、最初から分かっていた。けれど私にはそれが出来なかった。今まで貫いてきた生き方を曲げることが、どうしようもなく醜く思えた。だから私は」


 攘夷を掲げ、佐幕に身を窶した。

 けれど同時に時代の流れを変えられないことも、その慧眼故に見通せてしまった。

 鬼の力を使っても武士の世の崩落は止められない。

 それでも武士以外の生き方など選べない。

 ならばせめて。


「私は殺されたかった。最後まで、幕府の為に在った一個の武士として」


 最後まで、武士として在りたかった。

 三浦直次の願いが最後まで武士として生きることなら。

 畠山泰秀の願いは最後には武士として死ぬこと。

 最早武士の世が続かぬと誰よりも理解できるからこそ。

 新時代を生きるのではなく、武士の世に最後まで拘った男として死にたかった。


「攘夷に身を窶したのもその為。そうしていればいつか、誰かが殺しに来てくれると思った。……くくっ、貴方は確かに、私の願いを叶えに来てくれた」


 ただ彼は武士でいたかっただけ。

 生き方は変わらない。変わったのは時代だ。

 なのに、曲げられなかった生き方は幕末の動乱に在って、何よりも歪に曲がって見えた。

 甚夜は僅かながらに顔を顰めた。きっと傍目には自分も同じように映るのだろう、そう思ってしまった。


「お互い、難儀なことだ」

「いや、まったく。ですが己が在り方を貫くというのはそういうことでしょう」

「違いない」


 いつかも交わした言葉だった。本当に、この男は何一つ変わっていない。

 だから此処で幕を下ろしてやらなくては。

 自身の目的の為に、杉野や土浦を利用した。決して嫌いではないが、根本的なところで甚夜と畠山泰秀とは相容れない。

 それでも彼が拘った生き方くらいは認めよう。

 同じく、間違った生き方に拘り続けた、同胞として。


「私を斬りますか」

「ああ。お前の願い、叶えよう」


 柄を握る手に力が籠った。

 殺す者、殺される者。

 立ち位置は明確。しかし流れる空気は和やかでさえある。

 深く息を吸う。夜の冷たい空気が肺に満ちる。

 ぴたりと止める。迷いはなかった。

 そして、


「さらばだ、畠山泰秀。お前は此処で武士の世を守り切れず、しかし武士のまま死んでいけ」


 一歩踏み込み、上段に構えた夜来を振り下す。

 鬼を相手取る時と変わらぬ全霊の一刀。手加減はしない、せめてもの礼儀だ。

 その剣戟は正座したままの泰秀の胸元を裂き、致命傷を与えた。

 薄暗い座敷に鉄臭い血の香が漂う。

 だが倒れない。座位を維持したまま、残された命を振り絞るように彼は言う。


「予言しましょう」


 にたりと嗤う。

 悪辣な、悪意に満ちた。そういう表情だった。


「これから訪れる新時代は、武士も刀も必要としない。諸外国が齎した技術により日の本は発展し、代わりに大切な何かを失っていく」


 がふ、と血を吐く。

 致死に至る傷を受け、尚も悠然と語り続ける。


「刀を振るう鬼よ。この先に貴方の居場所はない。鬼も刀も、時代に打ち捨てられて往く存在だ」


 そこで糸が切れたように泰秀は前のめりになった。

 こうべを垂れる形になり、それでも彼の嘲笑は止まらない。


「急流の如く過ぎ行く時代の中、貴方がどうやって生きていくのか。冥府にて、ゆっくりと、観覧させ、ていただ、きま、しょう」


 不吉な予言を残し、畠山泰秀は息絶える。

 日の本の、そして己の行く末を聞かされた甚夜には不安も恐怖もない。ただ複雑な心境ではあった。


「不器用な男だ」


 無表情に零したのは、感情の色のない呟き。

 最後の予言は泰秀が予測する日の本の行方ではあるのだろう。

 しかし敢えて彼がその言葉を残した意味を理解した。理解してしまった。

 それは多分、いや、間違いなく甚夜の為だ。

 武士のまま死ぬという願いを叶えてくれた彼に報いる為、畠山泰秀は最後の最後に呪言を残すという、分かりやすい悪役を演じてみせた。

 お前には何の咎もないと。

 斬ったのは正しかったのだと、言い訳を与える為に。

 彼は、そういう死に方を選んだ。


「恩義に報いるのも武士故に、か」


 相容れない男だった。

 しかし武士としての在り方を、最後まで守りぬいた事だけは認めないといけないだろう。

 だから畠山泰秀の死を悼んではならない。

 泰秀が悪役を演じ死んでいったのは甚夜の為。

 ならば彼の死を悼むことは、その生き方を、事切れる瞬間まで貫いたであろう彼の誇りを奪うことに他ならない。



 ───この男は最後まで武士だった。



 それで充分。

 くだらない感傷で、彼の最後を台無しにするような真似はしてはならない。


「……では、な。お前の名は忘れん」


 零れた言葉に感慨はない。

 そんなもの、あっていい筈がない。

 最後に一度だけ泰秀の死骸に目を向け、甚夜は座敷を後にした。




 慶応三年某日、会津藩士・畠山泰秀が暗殺される。

 既に家督を息子に譲った身、会津藩に然したる混乱はなかったが、陰ながら幕府に援助をしていた彼の死は佐幕攘夷派に大きな衝撃を与えた。

 下手人は長州か薩摩かと物議を醸しだしたが結局最後まで分からず、彼の死は歴史に埋もれることとなる。


 史書に鬼の姿が描かれることはなかった。






 ◆






 夜が明けた。

 眠っていれば朝は直ぐに訪れるというのに、誰かを待っている夜は長い。それだけ長い時間が過ぎて。なのに何時まで経っても待ち人は訪れなかった。

 

「とうさま、おそいな」


 足をぶらぶらさせながら、野茉莉は椅子の上で暇を持て余している。

 昨夜は寝てしまったが、早起きをして父の帰りを待っている。


「本当、ですね」


 おふうもその隣で店の暖簾を眺めている。

 昨日は一睡も出来なかった。強がっていたが、いつもそうだ。誰かの帰りを待つ時はいつも眠れない。

 目が覚めて、それでもその人が返ってこないのが怖くて。いつだって眠れない夜を過ごした。


 大丈夫。

 そんなことを思うには、失くしたものは多すぎて。

 未だ目に焼き付いている、炎を纏った亡者のように、彼も帰ってきてはくれないかもしれないと思ってしまう。

 でも結局自分に出来るのは待つだけ。

 いつだって彼女は、誰かを待っている。

 

「起きていたのか」


 不意に暖簾が揺れて、店内に鉄のような声が響いた。

 抑揚の小さい、ぶっきらぼうな。今ではもう慣れてしまった、誰かの声だった。


「悪い、待たせたようだ」


 表情も変えずにそう言う甚夜は、本当にいつも通りで。

 ちゃんと帰ってきてくれたのだと心の底から安堵する。


「違いますよ」


 だけどそれを知られるのは恥ずかしくて、いつものように年上ぶった態度で彼と接する。


「帰ってきた時の挨拶は、違うでしょう?」


 気付いたらしく、小さな苦笑を見せた。

 彼はいつの間にかよく笑うようになった。鬼であったとしても、変わっていけるのだと。彼の在り方はそれを教えてくれたような気がする。

 でも、ただいまと言えるほどは素直になれなくて。そんな彼のまごつく様子がおかしくて、お互い小さく笑い合う。

 くすぐったくて、暖かい。不思議な感覚だった。


「とうさま」

「野茉莉、いい子にしていたか?」

「ん」


 足元まで近づいて無邪気な笑顔で迎える野茉莉。

 頭を撫でられて心地良さそうに目を細める。その様を微笑ましく見つめながら、本当はあまり聞きたくないが、おふうは甚夜に問うた。


「これから、どうするんですか?」


 昨日も同じことを聞いた。

 帰って来たということは、あの鬼を討てたのだろう。

 それなら、次はきっと。


「江戸を離れようと思う。いつまでも此処に留まる訳にはいくまい」


 正体を晒してしまった。

 だから、そう言うと思っていた。


「そう、ですか……」


 予想通りの答えだった。

 そして彼が一度決めたなら、例え誰が何を言っても覆さない。

 その様を明確に想像できるくらいの時間を共にした。だから分かる。彼は自分が何を言っても、江戸を離れる。

 けれど言わずにはいられなかった。


「……例えば、ですよ。例えば、お父さんが言っていたみたいに、このまま蕎麦屋を営むというのは選択肢にないでしょうか」


 甚夜は普段の彼からは珍しく、虚を突かれたような顔をしていた。

 まさかおふうがそんなことを言い出すとは思っていなかったのだろう。


「屋号は、そうですね。『鬼そば』……なんてどうでしょう。鬼の夫婦が営む蕎麦屋。面白いと思いませんか?」


 何の裏もなく、ただ自然に零れた言葉。

 それは、遠回しな告白だったのかも知れなかった。

 恋愛感情があったのかどうかは分からない。けれど一緒にいたいと思う気持ちに嘘はなかった。

 返答を待つおふうから視線を外し、甚夜は厨房を見詰めながらぽつりと呟く。


「悪くは、ないかもしれんな」

「でしょう? なら」


 二人で蕎麦屋を切り盛りして、幼い娘が成長していくのを見守る。野茉莉は人だ。自分達よりも早く逝ってしまう。

 けれど互いは鬼。

 それから続く長い長い年月を一緒に越えていくことが出来る。

 きっと、それは。ただ一人刀を振るい、妹を止める為に力を求め続ける生き方よりも、遥かに幸せな日々なのだろう。

 本当に、そう思う。

 

「済まないが」


 だけど、それを選ぶことは出来ない。


「やっぱり、出来ませんか?」

「今更、生き方は曲げられない。そこまで器用には為れんさ。お前だってそれを承知で言ったのだろう」

「それは、そうですけど。……本当にあなたは頑固ですね」

「全く、我ながら儘ならぬな」


 鈴音を止める。

 生かすのか、殺すのか。

 それは分からないが、あの娘を止める為だけに生きてきた。それが間違いだと気付いたとしても生き方は曲げられない。

 結局、甚夜は自身の想いよりも自身の生き方を優先してしまう。

 これからもその在り様は変わらないのだろう。

 しかし不思議と苦痛とは思わなかった。


「なあ、おふう。私の生き方は間違っていたかもしれない。……けれど、そんなに悲観はしていないんだ」


 憎しみは今もこの胸を焦がす。

 その憎悪さえ、己の弱さを払拭する手段でしかなかった。

 彼は始まりを間違えていた。

 けれどその途中で拾ってきたものは、決して間違いではなかった。

 同じように、あの娘を慈しんだ日々は決して嘘ではない。

 妹を許したいと願ったのは、それだけは間違いではない筈だ。


「あの娘を許せるのか、まだ答えは出せない。だが間違えたままでも救えるものがあるとお前が教えてくれた。だからもう少し迷ってみようと思う」


 憎悪を拭い去り、許せる日が来るのかは分からないけれど。 

 あの娘が人の滅びを願うならば、己は斬り捨てるのだろうと、小さな不安を胸に抱えながら。

 しかし諦めたくはなかった。

 我ながら優柔不断な決意だと甚夜は自嘲する。

 それでも、血に塗れたこの手でも救えるものがあるのなら、もう少しだけ足掻いてみるのも悪くはない。


「なら、鈴音ちゃんを」

「憎しみは消せない。だが今なら、少しだけ優しくなれる。そんな気がするんだ」


 この町で沢山の優しさに触れたから。

 思わず口元が緩む。その表情は朴訥な、いつか他が為に刀を振るうと語った少年の笑みに似ていた。


「逆に聞こう。一緒に行くか?」


 言いながら右手を差し出す。

 聞いたのは、間違いなく彼の本心。だが多分彼女は手を取らない。何故かそう思った。


「……すみません」


 おふうは少しだけ悲しげに目を伏せた。

 一緒にいたい、その気持ちに嘘はない。なのに手を取れなかった。心変わりした訳じゃない。だけど着いて行きたいとは言えなかった


「駄目ですね、私は。甚夜君を見て思ったんです。貴方は変わったけど、私は何にも変わってないなって。お父さんに手を引かれて外へ出て、それからずっとあの人に守られてきました。あの人に、寄り掛かって生きてきた……寄り掛かる場所が幸福の庭からお父さんに変わっただけだったんです」


 瞳は遠く、いつか失くした幸福の庭を眺めている。

 その横顔には寂寞が映し出されていた。


「もしここで貴方の手を取ってしまったら、私は貴方に寄り掛かってしまう。それじゃあきっと私は何も変わらない。幸福の庭に逃げ込んだあの頃のままなんです。甚夜君は変われたのに、私だけが変わらないなんて悔しいじゃないですか。だから、すみません。先に誘ったのは私ですけど、貴方の手は取れません」


 一度俯き、何かを逡巡するように黙りこくる。

 顔を上げた時には、晴れやかな、涼やかな、春風のような微笑みがあった。


「まずは一人で立てるようになろうと思います。そうじゃないと、貴方の隣にいても寂しいだけだから」


 締め括ったその一言に、甚夜は呆れ交じりの溜息を吐いた。

 散々自分を頑固者と言ったくせに、彼女だって相当だ。


「お互い、不器用だな」

「本当ですね」


 お互いに、一緒にいたいとは思っている。

 ただ譲れないものがあっただけ。

 明確になった別れ。なのに何故か嬉しい。笑顔で別々の道を選べたことが、いつかの自分よりも少しは成長できた証のように感じられて、それが嬉しかった。

 そうだ、と思い出したように甚夜が声を上げる。


「お前の誘いを断っておいて悪いが、一つ頼みがある。済まないが野茉莉を」


 預かってくれないか、と言おうとした。

 しかし袴にしがみ付き、泣きそうな目で睨み付ける愛娘の姿に甚夜は何も言えなくなった。

 己はこれからも鬼を討ち生きる。だからできれば野茉莉には平穏な生き方をしてほしいと思ったのだが。


「いや。とうさまといっしょにいる」

「だそうですよ?」

 

 小さな体で精一杯、離されないように力を籠める。

 頑固者が此処にも一人。おふうのからかう様な口調に苦笑いを零すしかできない。


「分かった。一緒に行こう」

「ん」


 満足げに頷く。

 その仕種が可愛らしくて、目尻が下がる。思い通りにはならなかったのに、傍にいられることを喜ぶ自分がいる。成程、これは親馬鹿と言われても仕方がない。流石の彼にも自覚できた。


「では、そろそろ」


 名残は尽きないが、これ以上いても離れ難くなるだけ。

 そろそろ行こうと野茉莉を抱き上げる。

 おふうも別れを予感したのだろう、少し目を潤ませていた。


「また、逢えますか?」


 けれど、後ろ髪を引くような真似はちょっとはしたない。

 縋るような色は見せず、ただ軽く、何気なく問いかける。


「さて、な。だが互いに長命だ。生きていれば何処かですれ違うこともあるだろう」

「そこは嘘でも逢えるって言うところだと思いますけど」

「鬼は嘘を吐かないものだ」


 彼の生真面目な返しに、彼女は膨れた顔。噛み合わないやり取りが何故か面白く、お互い小さな笑みを落とす。

 交えた別れに悲痛はなくて、それだけで胸が熱くなる。


「ではな、おふう」

「はい。いつか、また」


 そうして二人は、短い言葉ではっきりと別れた。

 どんなに隠しても寂しさはある。けれど不思議と後悔はなかった。

 甚夜は少しだけ目を瞑り、ここで過ごした日々を思い返す。

 私は、沢山のものを貰った。

 だから寂しくても後悔はない。

 もう一度目を開き、暖簾を潜り、店を出る。

 離れていく距離。でも心は傍にあると感じられる。

 無論それは錯覚だ。しかし今はその暖かな勘違いに身を委ねていたかった。

 



 町並みが流れていく。

 まだそれほど噂になっていないのか、彼を見て鬼だと騒ぎ立てる者は少ない。

 心も空も、旅立ちに相応しい清々しさ。表情は僅かに緩んでいる。


「とうさま、うれしい?」


 店から離れしばらく経って野茉莉が言った。

 堪えきれず笑いが漏れていたらしい。抱き上げた娘に指摘され、気恥ずかしくもあったが、誤魔化すことはしなかった。


「ああ、多分嬉しいんだろう。また、逢えるといいな」


 心からそう思う。

 おふうはまた逢えるかと問うた。

 甚夜はまた逢いたいと思った。


 ならば幾つもの歳月を越え、流れゆく季節の中。

 いつかどこかの街角で、また巡り合うこともあるだろう。


 その時には、一緒に雪柳でも眺めようか。

 暖かな夢想を浮かべたまま歩いていく。

 江戸はいつものように賑わいを見せていた。随分長く過ごしたような、あっという間だったような。奇妙な感覚を胸に、慣れ親しんだ場所を後にする。

 ふと立ち止まり、振り返れば映る景色。

 人混みの中に、懐かしい誰かの姿を見つけたような気がして小さく呟く。


「……さよなら」


 最後の未練を振り切るように、人混みに背を向ける。

 別れを寂しいと思う。同時に、心地好い暖かさを感じていた。

 二十七年前。

 憎しみと夜来だけを供に訪れた江戸の町。

 まさかこんなに穏やかな気持ちで離れられるとは思っていなかった。

 

 けれどまだ道の途中。

 何時までも立ち止まってはいられない。

 腕の中にいる野茉莉を抱え直し、前を見据える。


「行くか」

「ん」


 また歩き出す。

 行く先も決めず、当て所無く。

 一匹の鬼は江戸から姿を消した。





 それから一か月後、慶応三年十月十四日。

 江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜が政権返上を天皇に上奏し、翌十五日に天皇がこれを勅許した。

 俗に言う大政奉還である。

 その後同年十二月九日、王政復古の大号令をもって江戸幕府・摂関制度の廃止と明治新政府樹立が宣言された。

 

 長く続いた武士の世の終焉。

 そして新時代の幕開けであった。





 鬼人幻燈抄 幕末編 『いつかどこかの街角で』・完











 ……何故か、その声はやけにはっきりと聞こえた。


『とうさま、うれしい?』

『ああ、多分嬉しいんだろう。また、逢えるといいな』


 すれ違う親娘の何気ない会話に耳を傾け、私は立ち止った。

 娘を抱く父親はとても優しい顔で、その分だけ胸が痛くなる。

 でも表情には出ない。

 幼かった頃は生意気だとよく言われたけど、今では淑やかな女で通っている。

 ああ、だけど。こんな時に素直な感情を見せられないのだから、結局私はあまり変わっていないのかもしれない。


 ふと振り返る。見えたのは大きな背中だけ。

 彼の歩みは止まらない。私達は言葉さえ交わさず、ただの擦れ違いとして別れた。

 当たり前のことだ。

 なのに、勝手に傷付いている私がいた。


「どうかしたか?」


 急に立ち止まった私を心配して、隣にいる夫が声を掛けてくれた。

 私が沈んでいるのに気付いたのだろう。ちゃんと気にかけてくれるのが嬉しくて、だけど返す笑顔はぎこちない。


「懐かしい、人に会いました」


 見ました、ではなく、会いました。

 未練たらしい表現に思わず自嘲する。


「懐かしい人?」

 

 この目はまだ遠く離れていく背中を眺めている。

 声を掛けることは出来ない。私が、傷付けてしまった人だ。

 でも、あの人は笑っていた。

 腕に抱いていたのは娘だろう。

 あんな優しい表情見たことが無かった。向けては、貰えなかった。


「ええ。あなたも、知っている人ですよ」


 私の言葉に打ちのめされ、何も言えず目を伏せたあの人。

 今はあんなに幸せそうに笑っている。

 嬉しいと思う反面、少し悔しかった。

 私が居なくても笑えることが。

 傷付いた彼を癒したのが、私でなかったことが。


 本当は、少しだけ夢想をしていた。

 何かの偶然で、二人はまた出会って。

 あの時の言葉を私は謝って。

 彼はいつものように仏頂面で許してくれて。

 そうしてまた、あの楽しかった日々の続きが始まるのだと。

 心の片隅で思っていた。


 なんて、所詮は夢想。

 現実はそう上手くはいかない。


 肩をぶつけることなく擦れ違う二人。名前さえ呼び合うことはない。

 それが今の、私達の距離。


 仕方のないことだ。だけど、少しだけ考えてしまう。

 もしも、もしもあの時優しい言葉をかけてあげられたなら。

 腕に抱かれた小さな女の子に、私の面影があったのだろうか。


 頭に浮かべて、馬鹿みたいだと思ってすぐに消す。

 私から手を放したのだから、それを想像するのは間違っている。


「ごめんなさい。急に立ち止まってしまって。さ、あなた」


 そろそろ行こうと促す。

 きっと私は今泣きそうになっているのだろう。夫はとても心配そうな顔をしている。

 少しだけ眉を顰め、何かを考えるように俯く。何か思いついたのか、にっこりと笑いながら夫はこう言った。


「……なら、そろそろ店に帰りましょうか、奈津御嬢さん」


 その懐かしい呼び方に、私は目を見開いた。


 父が死んでから、私は彼と結婚した。

 彼は言ってくれた。「旦那様には及ばないかもしれないけど、これからは俺が貴方を支えます」と。普段は頼りない彼だけど、その時ばかりは頼もしく見えたことを覚えている。

 その言葉通りに結婚してからの彼は須賀屋を、私を支えてくれた。

 歳月を重ね、子が生まれ、穏やかな幸福の日々を過ごす。

 いつしか私達は、周りが羨むほどの夫婦になっていた。

 

「あなた……?」


 でも彼が使った呼び名は、まだ結婚する前。私達が、毎日のように蕎麦屋へ通い詰めていた頃のものだ。

 意図を読めず、夫の目を見る。彼は、照れたように頬を掻いた。


「いや、なんとなく。なんとなくなんですけど、今はそう呼んだ方がいいような気がしたんです。なんででしょうね?」


 彼自身、どうしてそう言ったのか分かっていないのかもしれない。

 私も何故彼がそんなことを言いだしたのかは分からず、でもきっと、慰めようとしてくれたのだろう。

 そう考えられるくらいには、彼と同じ時間を過ごしてきた。

 だから私は心からの笑顔を夫に向けた。


「じゃあ、行きましょうか善二」


 歳月に流された私は、もう懐かしい場所には帰れない。

 けれど、今だけはあの頃と変わらない私になれたような気がした。


「はい! ははっ、なんかこれ恥ずかしいな」

「そんなの、私もですよ」


 お互いに笑い合って、すっと距離が近くなる。

 横目で去って行った彼を見送る。

 


 ────ふと、彼が振り返った。 



 勿論ただの偶然だ。

 視線が交わったような気がして、少しだけ胸が熱くなる。

 それは名残のようなもの。熱はすぐに引いて、彼はまた背を向け歩き出す。

 

「……さようなら、甚夜」


 遠く離れていく背中に、届かない別れの挨拶。

 返る言葉なんてある筈もなく。

 瞬きの後には、もう見えなくなっていた。

 



 私はまた歩き始める。

 夫と並んで眺める江戸の町。

 忙しない空気に漠然と思う。

 徳川の御世はもう終わりを迎えようとしている。

 きっと、新時代は直ぐそこまで来ているのだろう。

 それは殆どの人にとって、喜ばしいことで。


 けれど、歳月は人の心を置き去りにする。


 江戸の町は新しい時代を迎え、どうなっていくのだろうか。

 今よりももっと栄えるのか、それとも衰退の道を辿るのか。

 それは私には分からない。

 ただ一つだけ言えるのは、幼い私のすごした江戸が、なくなってしまうということ。

 大切なものが沢山あるこの町は、伝わらなかった想いだけを残して、変わってしまう。

 


『福良雀の羽毛に包んだ想いが、いつか素直に合貝の愛を伝えられますように』

 


 私の部屋にある福良雀は、あの頃から何も変わっていない。

 同じように、胸に燻って、恋にすらなれなかった心もまた。

 何一つ変わらないままに時代は流れる。

 ふと見上げた空の青さに、私は目を細める。

 いる筈のない雀の姿が、遠い空に見えたような気がした。




 こうして、彼と私の物語は終わりを迎えることなく幕を下ろした。




 蛤になれなかった雀だけが、江戸には一羽遺されて───






 終章『雀一羽』・完


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