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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
江戸編

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36/216

『残雪酔夢』・4




 まってる ここにいるよ




 ◆




「おとっつぁん……」

「酒だ! とっとと酒持ってこいやぁ!」


 その日の目覚めはお世辞にも良いとは言えなかった。

 隣の親娘喧嘩は近頃では恒例となっており、今朝も早くから随分と騒がしい。

 壁の薄い貧乏長屋、言い争う声はよく聞こえる。

 昨夜はただでさえ狭い部屋が更に狭まり、非常に寝苦しかった。

 その上けたたましい怒号に叩き起こされて、清々しい目覚めになる筈もなく、甚夜は不快そうに眉を顰めていた。


「くぁ……」


 部屋が狭くなった原因、雑魚寝していた秋津染吾郎も声に反応して起き上がった。ぐっと背筋を伸ばしながら、大きく欠伸をしている。

 染吾郎が江戸に着いたのは昨日のことらしく、宿も取っていなかったようで、殆ど無理矢理甚夜の部屋に泊まり込んだ。

 特に親しい訳でもない相手、それも鬼だと知りながら平然と眠れる辺り、随分と肝の据わった男ではある。


「おはようさん、と。腹減ったんやけど、朝飯なんかない?」


 起き抜けの第一声がこれだ。図太いのか単に馬鹿なのか、今一判別が難しい。

 それは兎も角、こうやって無防備な姿を晒すところを見るに、寝首をかくような真似はしない、その程度には信用されているようだ。


「ない」

「あらま。ほな、どっかで済ませよか。君も行くやろ?」


 しかし張り付いた笑みの下の真意までは読み取れない。

 やりにくい相手だと甚夜は溜息を零した。







 昨夜の雪は朝まで降り続けたようで、江戸の町は雪化粧に色を失くしていた。

 雲の切れ目から零れた光が時折雪に反射して眩しく映る。踏み締めればさくりと小気味の良い音が鳴った。

 雪に喜ぶような童心は最早残ってはいないが、これも冬の風情と思えば悪くはなかった。


 飯を食う所など近場の茶屋か喜兵衛くらいしか思いつかない。

 巳三つ刻、結局喜兵衛へと足を運べば、おふうのたおやかな笑顔の代わりにけたたましい怒声が出迎えた。


「糞あまが、なんか文句でもあるってぇのか!?」

「そ、そんな」


 暖簾を潜ればこめかみに血管を浮かべ、赤ら顔で凄む男が二人。今にもおふうへ掴みかかろうとする瞬間だった。

 長らく罵詈雑言を浴びせられていたのだろう。彼女は怯えに瞳を潤ませ、ただ狼狽えている。

 せめて客に被害が及ばぬよう計らってか、厨房には店主と奈津の姿があった。

 と言っても愛娘に危害を加えようとする輩など見過ごせるはずもなく、店主は今にも飛び出そうとしている。それどころか怒りに包丁を持ち出そうとしているのが見えた。

 そいつは流石にまずい。甚夜は店内へと歩みを進め、店主が厨房から出てくるよりも早く、普段よりも大きく声を張った。


「随分と騒がしいな」


 騒ぎなぞどこ吹く風、平然と渦中に足を踏み入れる。

 見知った顔は驚きから、見知らぬ者は憎悪を込めて、店内の視線が甚夜に集まった。

 

「じ、甚夜君」


 動揺したまま震えた声で甚夜の名を呼ぶ。

 鬼とはいえ女性。自分よりも大きな男に詰め寄られれば、不安も恐怖も感じるのだろう。一瞬緩んだ表情に彼女の安堵が見て取れる。


「んだてめぇは?」


 近付いてきた男、吐き出された酒臭い息に眉を顰める。

 匂いが不快だったのではない。またも酒が関わってきたことに、言い様のない不快感を覚えた。

 あからさまな憎悪。その原因となる酒を彼等は知っている。


「酒乱か、それとも」

「うーん、どっちも有り得るやろうけど。昼間っからこんなんってのも変やしなぁ。僕は君が言わなかった方を押しとくわ」


 男は無視して後ろに控えている染吾郎へと声を掛ける。

 彼も同じくこの男達が“ゆきのなごり”を呑んでいると思ったようで、張り付いた笑みは消え、鬼を討つ者としての顔が覗いていた。


「何を訳わかんねぇこと言ってやがんだ餓鬼が!」

「いや、多分やけどそいつ君よりおっさんやで」


 憤怒の形相で睨み付ける男と、茶化すようなことを真面目に言う染吾郎。こんな状況だというのに、どうにも緊張感が無い。

 次第に甚夜も面倒くさくなり、男が再び口を開く前に、右腕を鞭のようにしならせた。


「あがっ!?」


 寸分違わず顎を打ち抜く。

 顎は急所だ。頭部を揺さぶられ、くるんと白目を向き男は崩れ落ちる。

 

「面倒だ。失せるか伏すかここで選べ」


 凄むこともなく、まるで今日の天気を話すような軽さだった。

 舐められている。そう感じた男が逃げる筈もなく、憎悪は更に膨れ上がる。


「この野! ろ…お……ぅ」


 だが遅い。

 瞬時に間合いを潰し、首の後ろに手刀を落す。

 恐らく男はその動きを見ることさえ出来ていなかったのだろう。あらぬ方向を向いたまま地に伏した。


「手加減ないなぁ」

「十分にしているが」

「ま、そりゃそうやろうけど」


 死ななかったのだ、十分すぎる。

 悪びれない態度の甚夜に、やれやれと染吾郎は肩を竦めた。

 男達が倒れ、おふうがほうと息を吐いた。気が抜けたようで、普段の凛とした立ち姿はなく、今にも倒れてしまいそうなくらい弱々しく見える。

 何か言葉の一つもかけてやろうと思い、しかし甚夜の目が冷たく細められた。 


「て、めぇ、殺してやらぁ……」


 顎を打ち抜いたのだ、しばらくは立てぬと踏んでいた。

 手刀は完全に意識を刈り取った。動ける筈などなかった。

 確かに手加減はしたが、それでも並の人間が耐えられるようなものではない。

 だというのに、緩慢な動作ではあるが、男達は呪詛を紡ぎながらゆっくりと体を起こしてくる。

 在り得ない。だが現実男達は立ち上がり、憎悪を撒き散らしている。




 * * *




 甚夜は怯えるように体を震わせていた。

 在り得ぬ現実に恐怖し、一歩二歩と後ずさる。

 そして次の瞬間には、愛刀である夜来を投げ捨て逃げ出した。途中で転びながら、這いずるように前へ進み、負け犬のように無様に走る。


「待ちやがれ糞がああああああ!」


 発狂したかのような叫びをあげ、男達は甚夜の後を追う。怯えながら後ろを見て、追いつかれぬよう再度走り出す。

 突然の事態に頭が付いて行かず、残された者達はただその様を眺めているしかなかった。




 * * *




「……染吾郎、お前何をした」


 謎の絶叫と共に喜兵衛から去って行った男達、まだ少し揺れる暖簾を眺めながら甚夜が問うた。


「ん、なにって?」

「惚けるな」

「あはは、そない凄まんでもちゃんと教えたるって。ほれ、見てみい」


 そう言って甚夜にだけ見えるよう開いた彼の右手には、内側に蒔絵が描かれた一対のはまぐりの貝殻。貝覆いで使われる合貝あわせがいがあった。

 店主等には聞かせたくないのだろう、小声で言葉を続ける。


「清(中国)ではなぁ、蜃……つまりハマグリは春や夏に海ん中から息を吐いて現実には存在せん楼台を作り出すって言われとる。蜃気楼の語源やね。ほんならハマグリの付喪神は、当然それに沿ったもんになると思わん?」


 器物百年を経て、化かして精霊を経てより、人の心を誑かす。

 古きに宿る魂を操り、力を引き出すことこそ、付喪神使いたる秋津染吾郎の生業。

 これはその一端。付喪神となった器物は、説話に語られる通りの能力を発現する。

 つまり合貝の付喪神は、蜃気楼を造り出すことが出来る。

 彼の言葉を信じるのならば、恐らく男達は造られた蜃気楼を追って店の外へと出て行ったのだろう。

 

「意外と応用が利いてな。見せたい相手にだけ見せることも出来る。君も前ん時騙されたやろ?」


 そういえば以前やり合った時、染吾郎を打ち据えた筈なのに刀がすり抜けてしまった。

 あれも蜃気楼だとすれば、成程、確かに応用の利く厄介な力だ。


「しかしあの様子。いったいどんな蜃気楼を見せた?」

「いやあ、それは聞かん方がええんちゃう? そんなことよりお腹減ったし、はよなんか食べよ」


 説明はせず、ただにたにたと笑う染吾郎は一人で勝手に席へ付いてしまう。

 本当に図太い男だと感心する。確かに聞いても意味のないことだ。元より大して興味もなかったので、それ以上は追及せず同じ卓についた。


「あの、甚夜君。ありがとうございました、おかげで助かりました」

「ん、ああ」

 

 追っ払ったのは染吾郎だが、あの蜃気楼が男たち以外に見えていなかったのならば、それに気付ける訳もない。

 感謝される謂れもなく、だから返答は曖昧になってしまった。


「秋津さんも」

「いやあ、僕は大したことしてへんからね」

「実際見てただけよね」

「相変わらずやなぁ、お嬢ちゃんは」


 厨房から出てきた奈津の言葉に苦笑する。

 それでも自分がやったことを話す気はないらしい。業を隠しているのか、甚夜を立ててのことかは分からないが。


「まあええけど。おふうちゃん、天ぷら蕎麦一つ貰える?」

「はい。甚夜君はかけ蕎麦でいいですか?」

「ああ」


 兎も角これでようやく飯にありつける。

 今日は朝から随分と疲れる日だった。




 ◆




「で、今も必死になって働いてるわよ。自業自得と言えばそうなんだけどね」


 あれから善二がどうなったのかを聞けば、奈津は面白おかしく事の顛末を話してくれた。

 番頭を解かれるようなことにはならなかったが、やはり重蔵には睨まれたらしく、信頼を取り返そうと今朝から真面目に働いているそうだ。


「体の調子は?」

「ちょっと痛むけど、動く分には問題ないって言ってる」

「では言動の方はどうだ?」

「そっちも全然普通。やっぱりあれは酒に酔っての暴言だったみたい」


 安堵からか、実に柔らかく奈津は笑う。

 しかしそれらを聞かされた甚夜の心境は、穏やかとは言い難かった。

 善二は初め呑めなかったが、いつの間にか普通に呑んでいた。極上の酒だと言って好んで呑む者もいる。

 店での人気や先程の男達を見るに、“ゆきのなごり”は結構な速度で江戸の町へ浸透しているようだ。

 今はまだいい。しかし憎しみを煽る酒が蔓延し切った時、一体どうなるのか。

 脳裏を過った想像はひどく血生臭いもので、それが在り得てしまうと思えるからこそ吐き気を覚えた。


「心配かけちゃったわね。でも、もう大丈夫だから」

「そうか。ならばよかった」


 顔には出さない。態々不安にさせることもないのだろう。

 努めて普段と変わらぬよう振る舞い一口茶を啜る。そこで話は終わり、悩み事がなくなったからだろう、幾分気楽な調子で奈津は席を立つ。


「じゃあ私はそろそろ。善二の様子も見ておきたいし、お父様のご機嫌取りにお土産も買っておかなきゃね」


 内容は「善二のこと、怒らないで」といったところか。

 身銭を払ってでも取り成そうとする辺り、彼女も存外苦労性である。

 

「土産?」

「うん、好きなお酒でも」

「止めておけ」


 酒、という単語に反応し、甚夜は間髪入れず否定する。

 普段ならばもう少し落ち着いた反応が出来た。しかし現状ではそうもいかない。

 自然態度は固いものとなり、彼が纏う雰囲気の剣呑さに奈津は面食らっていた。


「な、なによ」

「ゆきのなごり、毎晩呑んでいるのだろう。あれは得体が知れん。重蔵殿には他の酒を呑むよう伝えてくれ」


 あの酒はどう考えても真っ当ではない。

 正体が分からない以上、常飲するのは危険だ。

 たかが酒だろう。思いながらも有無を言わせぬ気迫に押され、こくこくと奈津は頷く。

 それに少しは安堵できたのか、甚夜はふっと力を抜いた。


「言伝、くれぐれも頼む。気を付けて帰れ。最近は物騒だ」

「……あんたって、ほんとお父様みたいなこと言うわね。でも、大丈夫。ありがとね」


 帰り道を心配する彼は、既に普段の空気を取り戻している。

 それが嬉しかったのか、緊張した表情を和らげ、奈津の方もくすくすと無邪気な笑顔で返す。

 機嫌のよさが足取りに現れており、店を出る姿も軽やかだ。


「まだまだ雀のままかぁ」

「はい、蛤には遠そうです」


 その様子を見ていた染吾郎が、苦笑交じりにぽつりと呟く。

 答えるおふうもまた楽しそうだ。二人のやり取りの意味が分からず眉を顰めれば、おふうは余計に笑った。


「雀はいつか蛤になるそうですよ」


 だから何だというのだ。

 そう思って視線を送るもおふうは笑うばかり。それ以上のことは教えて貰えず、結局意味が分からないまま溜息を吐くしかなった。




 ◆




「おや、浪人。今日は連れがいるのかい」


 黄昏が夜に変わる頃、柳橋へ訪れれば、雪の夜に浮かび上がるような風情を醸し出す女が一人。

 ぼろぼろの傘をさした夜鷹は、白い息を吐きながら、それでもゆるりと妖艶な仕種で甚夜達を迎えた。


「気にするな。成り行きの帯同だ」

「確かに仲間やお友達て訳やないけど、なんや扱い悪いなぁ」


 夜鷹は明らかな作り笑いを浮かべる染吾郎に一度視線を向け、然程興味はなかったのか再び甚夜へと向き直る。


「なんでもいいさ。頼まれごと、調べといたよ」


 空気がぴんと張りつめたのは、寒さのせいばかりでもなかった。


「でもあの酒がどこで作られたのか、どういう道筋で江戸へ入って来たのかははっきりとしなくてね。ただ仕入れてる店だけは分かったよ。蔵前に在る酒屋なんだけど、どうやらそこから江戸の酒屋へ卸してるみたいなんだ」

「流石に早いな」

「言われた仕事はやるさ。で、その酒屋なんだけど、覚えてるかい? 前に蔵に住み着いた鬼を討ってほしいって依頼してきたところだよ」


 ぴくりと眉が動く。

 以前、菊夫という幼い鬼を斬った。ひどく嫌な気分になったためだろう、よく覚えている。

 あの時酒屋の店主は良い酒が入ったと言っていた。それは案外“ゆきのなごり”のことだったのかもしれない。


「何処で作られたのか聞いた客もいたんだけど、店主は“ゆきのなごり”は泉から湧き出る神酒、私が手に入れられたのはそれこそ神仏の導きというものでしょう、なんて答えたらしいよ。どこまで本気か分からないけどね」

「菊水泉を見つけた孝行息子のつもりなんかね。なんや、随分痛い奴やなぁ」



 昔、ある男は貧乏ではあったが年老いた父親の為に骨を粉にして働き、少しでも長生きをしてもらおうと願っていた。

 父親は大層な酒好きで、しかし米を買うお金にさえ苦労する男には、酒など滅多に変えない高級品だった。


 ある日男はいつものように薪を取りに奥山へと踏み入り、その途中足を滑らせ、谷底まで落ちていってしまう。

 幸いなことに怪我は軽く、頭も打っていない。目覚めた時に喉が渇いていたこと以外は問題なさそうだ。


 水が飲みたいなぁ、男がそう思っていると何処かから水音が聞こえてくる。

 どうやら近くに川があるらしい。これ幸いと近寄ってみれば、其処には見上げるばかりの滝が飛沫を上げて流れ落ちる美しい光景が広がっていた。

 有難いと近場の泉に湧き出た水をすくい上げ、咽喉に流し込めば驚きに目を見開く。

 なんと泉から湧き出ていたのは水ではなく、これまで嗅いだこともないくらいに香しい酒だった。


 早速父親の為に酒を持ちかえれば、あまりの旨さに何処で手に入れたかを聞いてきた。

 男が山であった不思議の話をすると、父親は言った。


『それは、親孝行をしてくれるお前に、神さまがごほうびにくださったんじゃろう」


 この話は間もなく、奈良の都の天皇の耳に伝わることとなる。

 天皇はこれにいたく感心すると、男に褒美を取らせ、そればかりか年号を「養老」と改め、そして滝は以後「養老の滝」と呼ばれるようになったという。


 菊水泉とはこの説話に登場する酒の湧き出た泉であり、天皇自身が「老いを養う若返りの水」と称えたらしい。

 大和流魂記にも登場する有名な話ではあるが、それを知って先程の発言をしたならば確かに酒屋の店主は相当面の皮が厚い男だ。


「ま、痛いってのは否定しないさ。酒屋の親父は昨日今日と仕入れがてらの行楽みたいだね、行き先が山の奥かは知らないけど。明日の夕方には帰ってくるって話だ。気になるなら行ってみたらどうだい?」

「助かった。そうさせて貰おう」


 懐から銭の入った袋を取り出し、夜鷹へと渡す。

 中身を確認せず彼女が受け取ったのは、それなりに信頼してくれているということだろう。


「ああ、そうだもう一つ。その酒屋、水城屋って言うだけどね。そこに、時折なんだけど金髪の美しい女が出入りしているって話だよ。もしかしたら“ゆきのなごり”は異国で作られた酒なのかもね」

「違う」


 否定の言葉は早かった。

 それを意外に思ったのか、夜鷹は珍しく驚いたような顔をしていた。

 驚いたのは甚夜も同じだ。意識してではなく、殆ど反射で出てきた答えだった。何故そう思ったのかは彼自身にもよく分からなかった。


「いや、なんとなく、だが」

「なんだい、それ? はっきりしないねぇ」

 

 まったくだ。

 しかしあの懐かしい風味をした素朴な酒が、異国で作られたとは思えなかった。

 そうだ、だから違うと答えた。それ以上の意味などある筈もない。

 自身にそう言い聞かせても、どこか言い訳のように感じられた。




 ◆




 そうして夜が明ける。

 貧乏長屋にはやはり昨夜も染吾郎が泊まり込み、狭い部屋で男二人という非常に寝苦しい夜を過ごした。

 硬くなった体を解すように肩を回す。既に起きていた染吾郎は、挨拶代わりに軽く手を上げてみせた。


「今日は、水城屋やったけ? 行くんやろ」

「ああ。しばらくは時間を潰すが」

「ほんならまた喜兵衛いこか? お嬢ちゃんからかいたいし」


 本気なのか冗談なのか、この男は読みにくい。

 死体を弔ってやりたいと考える辺り、真っ当な感性の持ち主ではあるのだが、甚夜にとって染吾郎はやはりやりにくい相手だ。


「おとっつぁんっ、いい加減に」

「うるせぇっていってんだろうが!」


 思考を邪魔するように、またも隣の親娘の喧嘩が始まった。

 朝の怒号もいつもの調子で、けたたましい父親の声が長屋中に響いている。


「おーおー、朝からようやるわ」


 所詮は対岸の火事、呑気な調子で染吾郎は感想を述べた。甚夜も毎度のことなので気にせず出かける準備を整える。

 普段と変わらない朝の筈だった。

 しかし今日ばかりは勝手が違った。


「おぅ、ぷ。うがぁああああっぁぁぁあ!」

「おとっつぁんっ、おとっつぁん!?」


 嘔吐でもしているのか、娘の慌てた声が響いている。

 ただ吐いているだけにしては随分な慌てようだ。暴れ回っているのか、がしゃんがしゃんと何かが壊れる音。長屋自体が軋むような、大層な喧噪である。


「あぅ!? や、止めておとっつぁん! い、いや!」


 今朝の空気はいやに切羽詰まっている。

 染吾郎も違和感を覚えたらしく、流石に気楽な態度は為りを潜めていた。


「なんや、様子おかしない?」

 

 確かにただの喧嘩にしては荒々しすぎる。

 甚夜もまた目を細め、隣の様子に聞き耳を立てている。

 物が壊れる音は止まった。喧嘩も終わり、しかし今度は苦悶の唸り声を上げる父親と心配する娘に変わった。かと思えば嫌がるような娘の言葉。

 酒乱で暴力を振るいだしたか? 浮かんだ想像は一瞬で斬り捨てられる。


「いぐぅあがぉ……おおおおおぉぉぉぉぉぉ』


 声は重く響くような、人では出せぬ咆哮へと変わっていた。


「甚夜っ!」


 言われるまでもない。夜来を掴み長屋の外へ駈け出す。

 ちらりちらりと降る朝の雪。構っている暇はない。隣へ直行、障子を空けるのも面倒だ。蹴破ってそのまま部屋へ飛び込む。

 ぐちゃっ、という軽い音が響いたのは、それとほぼ同時だった。


『おっ、おお、おぉぉぉぉぉ……』


 聳え立つ異形。

 鬼の足元には首のない娘の死骸が転がされている。

 鬼の掌は赤く染まり、液体がしたたり落ちていく。

 そして、今までいた筈の父親の姿はない。

 それを繋げて考えられぬほど愚鈍にはなれなかった。


「鬼へと堕ちたか……!」


 夜来を抜き去り脇構え。対峙する鬼を睨み付ける。

 硬直は一瞬。弾かれたように鬼は突進する。目には昏い憎悪。生まれたての癖に機敏だ。左足を進めると同時に踏ん張り、それを軸に体を回す。突進を躱せば、鬼は止まらず向かいの長屋へとぶち当たった。


「ひ、ひっぃいいぃ!?」

「何だこの化け物!?」


 派手な騒音に人が集まってきた。

 まずいな、そう思ったが杞憂に終わる。鬼は周りの人間には目もくれず、甚夜にのみ殺気を向けてくる。

 どうやら手当たり次第人を襲うような真似はしないようだ。理由は分からないが、自分だけを狙ってくるならば好都合。握りを直し、静かに腰を落す。

 体勢を立て直した鬼は拳を握りしめ、駈け出すとともに甚夜の頭部を打ち抜こうと剛腕を繰り出す。生まれたばかりにしては身体能力が高く、攻撃にも迷いがない。

 だがそれだけ。梃子摺るような相手ではない。

 踏み込むことで上体を低くし、鬼の拳を掻い潜る。左足を引き付け踏ん張り、腰の回転を肩に腕に切っ先にまで乗せ、全霊の横薙ぎ。

 鬼の体は綺麗に両断され、断末魔さえ上げることなく息絶えた。


「おー、流石」


 一部始終を眺めていた染吾郎が、ぱちぱちと拍手を送る。

 勿論喜びなど感じないし、そもそも染吾郎自身笑ってはいなかった。


「秋津染吾郎」

「分かってる」


 酒乱の父親が、鬼へと堕ちた。

 また、酒だ。

 酒を呑んでいた。憎しみを煽る酒。人は負の感情を持って鬼へ堕ちる。

 呑んでいたであろう酒瓶は壊れていて、それがなんだったのかを知る術はない。 

 知る必要などないような気もする。否、本当は既に知っていたのかもしれなかった。 

 善二がそうならなかったことを考えれば即効性のものではないのだろう。

 それでも脳裏を過る嫌な、おそらくは正解に近いであろう想像が心臓を締め付ける。

 

「酒屋の親父に聞くことが増えたな」


 零れた言葉は白い。

 雪は更に強くなった。





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