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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
江戸編

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『花宵簪』・2

 例えばの話である。


 もしもあの雨の夜、家に戻っていたのなら。

 家族という形を失わずに済んだのなら。

 それでも変わらず父が、天涯孤独となった娘を引き取っていたのなら。

 

 在り得ない話だ。

 過去に手を伸ばしたところで為せることなど何もない。

 けれど、もしも何かの間違いがあったとしたら。

 心底惚れた女と出会わない代わりに、もう一人妹が出来ていたのではないか。

 そんなことを、心の片隅で思っていた。


「やっとです……」


 らしくもなく動揺してしまったのは、きっとそのせいだろう。


「な、つ」


 胸元にしな垂れかかる少女の熱。しかし心が冷えていく。見たくないものを、見せつけられている。

 もしかしたら妹になっていたかもしれない少女。

 甚夜が重蔵との縁を彼女に語らなかったのは、父を見捨てた甚太よりも、彼女の方があの人の家族に相応しいと思えたから。

 あの人の娘は奈津、それでいい。

 それが奈津の、そして父の為だろうと。

 だから何も語るまいと決めていた。

 なのに。


「お兄様……ようやく貴方の元に帰ってこれました」


 奈津が自分のことを兄と呼ぶ。

 僅かながらに出来たと思えた親孝行が、その実何の意味もなかったのだと言われたような気がした。

 冷え切った心が動くことはない。

 所詮この身は鬼。それが人並みに親を想うなぞ、間違いだったのかもしれない。

 そう思ってしまった。




 ◆




 無理矢理に奈津を引きはがそうとするも必死の抵抗を受け、結局は甚夜の腕にすがりついたまま離れることはなかった。


「いったい、何があった」


 仕方なくそのまま話を進めるも、女と引っ付いたまま真面目な話というのは非常に違和感がある。

 蕎麦屋の親娘はなんとも居心地が悪そうで、甚夜もいつも以上の仏頂面だ。


「それが、昨日買ったかんざしを付けたら、急にお奈津さんがぼうっとしてしまって」

「意識が無いみたいだったから俺らも慌ててたんですが、旦那が入って来た途端こうな訳で。正直なところこっちも訳が分からないんですよ」


 奈津の髪には見慣れない、ほととぎすの意匠が施された簪があった。

 簡素だが品のある造り。装飾の類に見識がある訳ではないが、至って普通の簪に見える。


「奈津、済まないがその簪を見せてくれ」

「はい、お兄様」


 一応といったつもりで頼んでみれば、意外にも簡単に渡してくれた。

 普通に考えて原因はこの簪しか考えられない。しかし体から離れても奈津の様子は変わることなく、熱に浮かされたような潤んだ瞳を甚夜に向けている。

 

「そいつ、壊したらいいんじゃないですかい?」

「いや」


 それで奈津が戻ればいい。だが戻らなかった場合、取り返しのつかないことになる。

 怪しいのは間違いないが、詳しいことが分かるまで下手なことはできない。


「お兄様、そろそろ」


 そう言って遠慮がちに手を差し出す。

 なんにせよ、今は情報が足りない。憮然としたまま返せば、奈津はもう一度簪を髪に差し、ゆったりと微笑み再び甚夜の腕に抱き着いた。


「……いったいなんなんでしょうね、これ」


 店主の言も仕方ないだろう。奈津はどう見ても正気ではない。

 まるで恋人のような甘やかさで兄と呼び、甚夜に寄り添う。別段害はないが、普段の態度と違い過ぎて困惑するしかなかった。


「案外、お奈津ちゃん旦那といちゃつきたいだけだったり」

「お父さん」

「んな怖い顔するなよ。冗談だ冗談」


 空気を読まない父の発言をおふうが諌める。

 数少ない同性の友人を心配してか、少し語調が強い。


「甚夜君、どう思います?」

「そう、だな」


 簪が原因であることは間違いない。間違いないが、今の奈津はどういう状況にあるのだろうか。

 体を乗っ取られているのか、或いは何らかの影響を受けて性格が変わっているのか。

 ただ、どちらにしても自分を兄と呼ぶ理由が分からない。

 もしも彼女が重蔵と甚夜の関係を知ったならば、成程、お兄様という呼び名も強ち的外れではない。

 とはいえ、それを知るのは甚夜のみ。

 例え当時のことを知る者がいたとしても、未だ十八のままの外見を保つ甚夜が重蔵の息子であると導き出せはしないだろう。


 ───兄ちゃん。


 何かが憑りついているのかもしれない。憎い。そう考えて、浮かんだ一つの可能性を斬って捨てる。

 それはない。憎い。あの娘が今更親しげに兄と呼ぶ、そんなことがあってはならない。


「あの簪は何処で買った」


 結局行き着くのは簪。

 まずはあれが何なのかを知らねば話にならない。


「昨日、ほおずき市で。秋津さんと言って、京から来られた方が露店を開いていたんです」

「秋津って、時折出前を頼んでた?」


 店主も名前は知っていたらしく、意外そうな顔をしている。

 顔見知りなら話は早い。どうせ考えても分からないのだ。思索を巡らせるよりも、その秋津某から奈津に何をしたのか吐かせればいい。


「おふう、案内を頼む」

「は、はい」


 甚夜は席を立つが、ぐいと腕を引っ張られる。

 鍛えた体、その程度で体勢を崩すことはない。すぅ、と視線を落とせば、奈津は腕にしがみ付いたまま。

 遅れて彼女も立ちあがり、ゆるり、彼女は優美に微笑む。


「私も、行きます。お兄様と離れたくありませんから」


 拒否できなかったのは何故か。考えても分からなかった。




 ◆




「昨日はこの辺りにいたんですけど」


 人混みでごった返す浅草寺の境内、その一角ではほおずきの鉢植えが売りに出されており、見渡せばそこかしこで赤い果実が揺れていた。

 秋津染吾郎とやらが昨日いたという場所は既に片付けられている。どうやら一足遅かったらしい。


「他に心当たりは?」

「いえ、それが……。以前は泊まっている旅篭まで出前をしていたんですが、今は何処にいるのか分からなくて」


 聞いた話によれば秋津某は京から来たということだ。

 初めの内は宿に泊まっていたそうだが、そもそも宿は長く泊まれるような場所ではない。 

 庶民が利用する宿には旅籠はたご木賃宿きちんやどの二種がある。

 前者は三食が準備された宿で、後者は旅籠のよりもはるかに安い値で泊まれる分、食事の用意のない素泊まりの宿だった。

 どちらに泊まるかは旅人の自由だが、同じ宿に連泊することは原則として認められていなかった。

 宿はあくまでも一時しのぎの宿泊施設でしかなく、夜が明けるには目的地に向かって出発するのが一般的だったからである。

 宿を出てからの経緯はおふうでも分からない。早速手詰まりになってしまった。


「手がかりはなし、か」

「はい、済みません……」

「気にしなくていい。易々と見つかるとも思っていない」


 とはいえ、出来れば早く捕まえたい。奈津は相変わらず腕を組んで甚夜に寄り添っており、傍目からは兄妹よりも恋仲だろう。

 境内は人で溢れている。中には恋人達もいて、甘く体を寄せ合い練り歩いていた。時折向けられる周りの視線に、自分もそういう風に視られているということが分かる。分かるから、どうにも居た堪れなくなる。


「奈津、少し離れないか?」

「嫌です」

「歩きにくいだろう」

「そんなことはありません」


 やんわりと伝えてみるも即刻拒否される。

 微笑みは変わらぬも彼女の態度は頑な、にべもなく切って捨てられる。

 説得は無理、力尽くで引き剥がすというのも気が引ける。居心地は悪いが、このまま動かなければならないようだ。


「ようやくお兄様に会えたのですから、少しでも傍にいたいと思うのは当然でしょう?」


 純粋な目。見上げる奈津の表情は柔らかく、顔の造りは変わっていないのに別人としか思えない。

 それでも、奈津に兄と呼ばれるのは少しだけ辛い。

 過ぎ去った日々に責め立てられるような心地だった。

 

「え、ええと。済みません。秋津さんのこと、少し周りに聞いてきますね」


 居た堪れないのは甚夜だけではなかったらしい。おふうはそそくさと逃げるように離れていく。

 少し待て、と呼びとめる暇さえなく、二人きりになってしまった。

 それを好機と思ったのか、腕を組むだけでは飽き足らず、体を寄せ胸元にしな垂れかかる。

 人の多い境内でそんなことをすれば当然視線が集まる。

 甚夜は溜息を吐き、多少無理矢理に境内の奥、社殿の影になり人の少ない場所へ奈津を連れて行った。


「お兄様?」


 何故連れてこられたのか分かっていないようで、奈津はきょとんと不思議そうにしている。

 困惑する彼女を余所に、甚夜は重々しく声を絞り出す。


「済まない、私にはお前が何を言っているのか分からない」

「え……?」

「何故慕うのかも、兄と呼ぶ理由も。何一つ分からないんだ」


 もしかしたら妹になっていたかもしれない。

 けれど今の彼女が兄と呼ぶ理由など本当に分からないし、呼ばれるたびに心が軋む。

 口にしたのは原因の究明ではなく、逃げたいが為の情けない言葉だ。


「鳥が花に寄り添うのに、なんの理由がいりましょう。私はただお兄様の傍に在りたいと願っただけです」


 だというのに、奈津は穏やかにそれを受けて、とろりと表情を緩ませる。

 熱に浮かされた女。夢を見るような、陶酔した瞳。放っておけばそのまま溶けてしまいそうだ。


「長い時を経て、それが叶った。あぁ……私は幸せです」


 微笑む彼女は本当に幸せそうで。

 だからこれ以上、問い詰めることは出来なかった。




 ◆




 おふうと再び合流し、秋津染吾郎の足取りを掴めるかもしれないと旅篭を訪ね、宿の者や辺りの店にも聞きこんではみた。

 結果はやはりと言うべきか、何の情報も得られない。

 尻尾どころか影さえ見つけられるままに日が暮れて、仕方なく三人は喜兵衛と戻った。


「で、どういうことだ」


 不機嫌さを隠しもしない言葉は、戻ってからしばらく経った後、いつまでも帰ってこない奈津を心配し喜兵衛へと訪れた善二のものである。


「いきなりだな」

「前置きなんていらないだろ。御嬢さんに何があった。話しかけても俺のことは忘れてるし、対応は丁寧、振る舞いにも気品がある。まるで別人だ。というか、そもそもなんでそんなことになってんだ」


 奈津は帰ってきてからも甚夜にべったりと引っ付いている。

 いつもとあまりにも違う奈津の様子を見たせいだろう、普段の善二からは想像もつかない程剣呑な空気だ。

 

「止めてください、お兄様を責めるような真似は……」


 けれど甚夜の胸元にしな垂れ掛かる奈津の声はしっとりと濡れていて、その艶っぽさに善二は茫然とする。

 男の腕の中でとろけたような表情を浮かべる見知った女。驚愕と困惑が同時に襲い掛かり、先程の怒りなど何処かに飛んで行ってしまう

 奈津と一番交流があるのは彼だ。あまりの変化に狼狽するのは致し方ないことだ。


「しっかしまあ、御嬢さんはあれか、なんか呪われてんのか?」


 硬直してしまった善二に現状を粗方話し終えると、返ってきたのは大きな溜息。

 またも怪異に巻き込まれた、奈津のあまりの運の悪さに思う所があったらしく、腕を組んで難しい顔をしている。


「で、どうするんだよ、これ?」


 取り敢えず命の危険はない為か、幾分か気を落ち着け、取り敢えず怒りはおさめてくれたらしい。

 そうすれば今度は戸惑いが優る。善二は困ったような、疲れたような、なんとも微妙な表情だった。


「簪を売ったのは秋津染吾郎というらしい。取り敢えずはそいつを探す」

「は? おいおい、秋津染吾郎?」

 

 取り敢えずの方針を伝えれば、訝しげな視線を向けられる。

 疑いというよりは、こちらの言が理解できないといった様相だ。その眼の理由が分からず甚夜もまた微かに眉を顰めた。


「どうした」

「いや、どうしたって……秋津染吾郎ってとっくに死んでるんだが」

「死んでいる?」

「おお。秋津染吾郎ってのは何十年も前にいた職人だよ。櫛だの簪だの、後は三所物なんかもか。結構有名な金工で、うちの店にも染吾郎の品は時々入るんだ」


 須賀屋は小物などを扱う店、其処の手代の言だ。

 秋津染吾郎という職人が既に死んでいるというのは確かだろう。

 だとすれば件の男は何者なのか。


「あ、そういえば。お奈津さんはこの簪は染吾郎のものだと言ってました」

「おいおい。もしかして今度は死んだ染吾郎が鬼になって出てきた、ってんじゃないだろうな」


 在り得ない話ではない。そう思ったが、「いんや、それはないでしょう」とすぐさま店主がきっぱり言い切る。

 軽く、何気なく零れた。しかし絶対の確信を含んだ言葉だった。


「んん? なんで親父さんにそんなことわかるんだ?」

「俺も秋津さんのことは見てますからね。ありゃ、鬼じゃない。普通の人です、間違いなく」

「店主がそう言うのならば確かだろう」

「って、甚夜まで。会ってもないんだろ? えらく簡単に納得するじゃないか」


 善二は今一つ納得し切れていないようだが、店主の見立てならば一定以上の信頼が置ける。

 なにせ甚夜の正体を容易く見抜いた彼だ。鬼でないと判断したなら、まず間違いないだろう。


「つまり秋津某は名を騙っているだけか」

「なんで態々、って感じはするけどなぁ。それに結局何処にいるのかは分からないんだろ?」

 

 確かに手掛かりは殆どないと言っていい。探すといってもどうすればいいか。

 思索に耽り、そういえば浅草には様々な情報に通じた女がいることを思い出す。

 どうせ打てる手など殆どないのだ。ならば頼ってみるのも悪くない。


「お兄様?」


 立ち上がろうと体を動かした瞬間、奈津の腕に込められた力が強くなった。

彼が離れていかぬよう、立たせまいと必死にしがみついてくる。


「済まないが、少し離れてくれな」

「嫌です」


 甚夜の言葉を不満げな声が遮る。

 視線を下に向ければ、奈津は少し膨れ面。寂しげに目を伏せる様は、それこそ妹のように見えて、少しだけ胸に痛い。


「ようやく貴方を見つけることが出来たのですから、離れるなんて嫌です」


 ようやく? それはどういうことだろう。

 甚夜には奈津が何を言っているのかが分からなかった。

 確かに彼女は、何かの間違いがあったのなら、妹になっていたのかもしれない。 

 奈津は重蔵の娘。ならば『甚太』にとっては真実妹なのだろう。しかし『甚夜』として生きた以上この娘を妹とは認められない。

 家を出て、流れ着いた場所はいつの間にか大切な故郷となった。

 出会った男を父と思えるようになった。

 ただ美しいと思える女に会った。

 最後は上手くいかなかった。しかし葛野の地で過ごした時間はかけがえのないもので、だからこそ奈津を妹だと認めたくなかった。

 そんなことをすれば、今まで必死になってしがみ付いてきた生き方が、無駄になってしまうように思えた。


「なあ、ここはやっぱり“御嬢さんが欲しいんなら俺を倒してからにしろ!”くらいは言った方がいいのか?」

「はあ。言ってもいいですが、旦那に勝てるんで?」

「無理だな。一瞬で斬られる自信がある」

「でしょうね」


 内心の葛藤とは裏腹に、周りからは恋人同士の逢瀬にでも見えるらしい。 

 気の抜けた会話が聞こえてくる。暗く沈んだ心地を無理矢理に引き上げ、甚夜は奈津に向き直る。


「奈津」

「はい?」

「私は出かけねばならん。留守を頼めるか」

「え……それなら私も」


 ぽんぽんと優しく、頭を二、三度叩く。

 顔は納得していなかったが、奈津はそれでも腕の力を緩めてくれた。


「お兄様」

「すぐに帰る。そう心配するな」


 遠い昔がふと過る。

 すぐに帰る。鬼切役を受けて外に出る時、いつもそう言っていたような気がする。

 膨れ面で、寂しげに。けれど我儘も言わず妹は素直に待っていてくれた。

 思い出し、どす黒い憎悪が胸に渦巻く。

 嫌になる。鬼となったこの身は、あの娘をどうしようもなく憎んでいるのだと今更ながらに思い知らされた。

 本当は、兄と呼ばれるのが嫌な理由も、そこに在ったのかもしれない。


「だから、待っていてくれ」


 しかし顔には出さない。

 遠い夜から歳月を重ね、表面を取り繕う術だけは上手くなり、それを辛いと思うこともなくなった。

 歳をとったのか、人を捨てたからか。果たしてどちらなのかは、彼には分からなかった。


「……はい」

「いい子だ」


 無表情にそう言えば、奈津はゆったりと笑い、そっと手を放す。

 腕に残った暖かさを振り切るように、彼女に背を向けた。

 朴念仁そうに見えるが、なんだかんだ甚夜は奈津を言い包めてしまった。その手際に、善二は奇妙なものを見たような気になって、眉間に皺寄せていた。


「……なあ甚夜。なんか、えらい手慣れてないか?」

「気のせいだろう。善二、悪いが後は任せたぞ」

「は? て、ちょ!? お前任せるってそれ面倒事押し付けたいだけ」


 何事かを言っていたが、最後まで聞くことなく店を出る。

 少しだけ後ろ髪を引かれたのは、何故だったのだろう。 




 ◆




 夜も深くなり、甚夜は浅草に向かっていた。

 あの辺りは夜鷹の河岸だ。或いは彼女ならば何か情報を持っているかもしれない。藁にも縋るような気持ちで月夜を歩く。


「兄、か」


 溜息交じりに呟く。

 奈津の相手を善二に押し付け店を出た。

 何故兄と呼ぶのかは分からないまま。しかしそれでいいと思った。

 所詮は余分だ。

 明確な目的があり、至る手段がある。

 強くなりたい。それだけが甚夜の全てだった。ならば他のものなぞ余分に過ぎぬ。拘る方が間違いだろう。

 何より生き方は曲げられない。

 甚夜として生きた。今更甚太には戻れない。彼女に兄と呼ばれても、応えることなど出来る筈がなかった。

 くだらない感傷だ、と無理矢理に切って捨てる。

 考えてもどうにもならないことだ。無駄な思索は止めて、今は夜鷹の元へ向かおう。甚夜は僅かながら歩く速度を上げ、


「ええ、月夜やね」


 道の途中、静まり返った大通り。不意に男が声を掛けてきた。

 立ち止まる。体が一瞬強張った。何時の間に現れたのか、狩衣を纏った男が二間ほど先にいた。

 考え事をしていたとはいえ、この距離まで気付かぬとは。我ながら呆けていた。


「こんな夜は月を肴に一杯やりたなるなぁ」

「何か、御用でも?」


 男の態度に不審なものを感じ、視線を鋭く変える。

 にこにことした笑い顔を張り付けたままで男は答える。


「へ? 用があるんはあんたの方やろ?」

 

 返ってきたのは意外な言葉。

 自分から声を掛けて来ておいて、その言はおかしいだろう。

 警戒を強め、相手の目を見る。作り笑いの下、微かな敵意。自然と手は夜来に伸びた。


「僕んこと探してたて聞いたけど」


 ああ、おかしくはなかった。

 甚夜は確かに探していた。それが彼の耳にも入ったのだろう。

 だから同じように男も探していた。自分のことをこそこそと嗅ぎ回る、得体の知れぬ輩を。


「六尺近い大男が僕を探してるて、何の用かと思たら、成程」


 朗らかに笑うが、目は鋭さを増した。

 男から放たれる、緩やかな敵意に鯉口を切る。


「鬼が僕を探す理由なんて、まぁ一つしかないなぁ」


 初見でこちらの正体は看破され、更に空気が張り詰めた。

 鬼と対峙しても怯えた様子もない。その堂々とした態度に、夜鷹の言葉が思い出される。



 ───最近鬼を退治する男がいるって噂があるんだ。あんたのことじゃないよ。なんでも、式神を操る陰陽師って話さ。


 男の装束は神職のそれに近い。陰陽師に見えなくもないだろう。


「一応、聞いておこう。名は何という」


 腰を落し、いつでも動けるよう周囲に意識を飛ばす。

 対して男は何気なく腕を振るう。

 瞬間、黒い靄が男の下に現れ、それは次第に凝り固まり三匹の犬となった。

 式神を使う。どうやら、あの黒い犬は男が使役しているらしい。


「僕? 僕は秋津」


 そうして男は高らかに宣言した。

 

「三代目秋津染吾郎や」


 だから理解する。

 この男は、鬼を討つ者だ。




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