『夜桜の下』(了)
嘉永七年(1854年)・春
春先の霧雨、男は腰に携えた刀を抜いた。
冬の名残か、触れる水滴はいやに冷たいが、眉一つ動かさない。
踏み込み、袈裟懸け。一太刀の下に影は斬り捨てられる。
男が斬ったのは人ではなく、見るも醜悪な異形。しかし恐れどころかなんの感慨も見せない。
やはり表情を変えぬまま血払い、冷たく白い蒸気となって消え往く屍を眺め、ゆるりと刀を収めた。
夜な夜な魍魎の闊歩する江戸では、一つの噂が流れていた。
曰く、鬼を斬る夜叉が出る。
それは単なる与太ではなかった。
男の名は甚夜。
噂通り刀一つで鬼を討つ、奇怪な浪人である。
今宵も何処かから怪異の話を聞きつけ、首を突っ込んできたかと思えば容易く葬る。
いつもと何も変わらない景色がそこにはある。
「おや、随分と風流なことじゃないか」
普段と違うのは、鬼を斬り捨てた彼の前に、妙な女が姿を現したことくらいか。
夜の浅草。跋扈する鬼。男は無慈悲に怪異を斬る。
醜悪な異形の凄惨な最期を目にしながら、女は場違いなくらいしっとりと濡れた声で微かに笑う。
「なにがだ」
「霧雨に鬼、月のように翻る刃。風流だとあたしは思うけれど」
ついと視線を向けるが、彼女は怯みもしなかった。
お世辞にも上等とはいえない、ぼろの着物を纏った女。
霧雨の中、肉付きの良くない痩せた体も相まって、彼女の肌はいっそ病的なまでに青白く映る。
歳は、奈津と同じかそれよりも下。十五、六といったところか。
まだ年若い。しかし春を売る女特有の、男を誘うような仕草はなんとも自然で様になっていた。
「夜鷹か」
「ああ。今日は客が少なくてね。河岸を変えてみたんだけど、おかげで面白いものが見れたよ」
夜鷹というのは辻遊女。即ち道端で男に声を掛け、体を売る女の総称だ。
吉原で働く花魁とは違い、生活に困り安い銭で春をひさぐ、最下級の街娼である。
彼女達は夜にのみ現れる。化粧やまともな着物を買う金もない。年老いた娼婦も多く肌も荒れ放題、それを少しでも隠すため、暗がりに紛れるのだ。
目の前の女もまた粗末な着物、化粧っ気もまるでない。
だが歳は随分若く、絶世とは言わないまでも容姿はそれなりにいい。
貧困に喘ぎ生活に疲れた様子はなく、最下級の街娼にありがちな引け目や媚びも感じさせなかった。
「ついでだ。あたしを買っていかないかい?」
「遠慮しておこう。他に用がなければ行かせてもらうが」
妙な女。
甚夜が抱いた印象はそんなところだった。
若く綺麗な夜鷹は確かに珍しいが、然して興味もない。おふう達と出会い多少の変化があったとはいえ、女遊びで夜を越す気分にはなれなかった。
「それは残念。でも噂の夜叉、どんな恐ろしい男かと思えば、迷子のような顔をするんだね」
しかし去っていこうとした矢先、楔を打ち込まれた。
刀を持った浪人、しかも目の前で鬼を斬った。
だというのに、女は甚夜を怖がるどころか、なにやら微笑ましいものでも見るような眼をしている。
気に障ったということはない。自覚があったからだ。
『人よ、何故刀を振るう』
突き付けられた問いの答えは未だ出ない。
迷子と言えば確かにそうなのだろうと納得してしまった。
「……何故、そう思った?」
「そりゃあ仕事柄、男の顔色くらい読めるさ。普段なら口にしないが、あんたはこのくらいで腹を立てることもしないだろう?」
誘うような微かな笑みは、とても奈津と同じ年頃の娘のものではない。
娼婦故に、心の機微には聡い。そう語る女は、成程、正確に甚夜の内面を読み切っている。
青い時分はとうに過ぎ去り、隠し事も幾らか上手くなったつもりでいた。
それがこうも容易く読まれるのだ。無表情を維持したままではあるが、どうにも居心地の悪さを感じてしまう。
その胸中も彼女には伝わったようで、やれやれとばかりに肩を竦めていた。
「悪かったね。別にあんたをからかう為に引き留めた訳じゃないんだ。他の用件が、ちゃんとある」
女は気怠い雰囲気を纏わせたまま、空気を撫でるように、滑らかに指を動かした。
「夜桜の下の怪。最近、娼婦の間で噂になってるんだ」
噂の出どころはとある街娼。
なんでも最近、吉原の帰り、薄暗い通りで男が幾人も死を遂げるとのこと。
吉原は江戸最大の遊郭。毎夜大層な賑わいだが、下級の見世でもかなりの金がかかる。
庶民にはなかなか手が出ず、行ったはいいが何もせず帰る者も多い。
そういう男を狙って、帰り道に誘う夜鷹もいるそうだ。
件の街娼もその一人。
客を求めてさ迷いながら、薄暗い通り、ぽつりと咲く桜の木の下に男の姿を見つける。
これ幸いと近づくも、男の影になって気付かなかったが女もいる。
ぼろきれを纏った女、大方自分と同じ夜鷹だろう。
そう思い離れようとするも、それより早く男が崩れ落ちる。
何事かと思い男を、そして女を見る。
手には血で濡れた包丁。一突きで心臓を刺され死に絶えた男。
ぼろきれを纏う女は、目を背けたくなるほど醜い容貌をしていた。
それからも夜桜の下で男を殺す、醜悪な鬼女の話は聞こえてくる。
故に、“夜桜の下の怪”。
今では夜にその桜へ近づく者は誰もいないという。
「夜鷹は様々な客と寝る。だから寝物語にいろんな話が聞こえてくる。娼婦だけじゃない、吉原に通う男どもも似たような話をしてるんだ。あんたが鬼を討つ夜叉だっていうなら、どうにかしてくれないかい?」
「私は、ただで動くつもりはないぞ」
「そりゃあ道理だ。金ならあたしが払う。少しは手心を加えてくれると嬉しいけどね」
元々妖しげな噂に首を突っ込むのは、<力>を求めてのこと。
だから本当に怪異があるというのなら、金にはそこまで固執していなかった。
態々金の話をしたのは、女がどういうつもりで“夜桜の下の怪”とやらを解決してほしいといったのか探る為。
彼女は殆ど間を置かず、真剣な目で金を払うと言った。その一瞬だけは、表情が硬くなった。
生活に余裕があるでもないだろう、ぼろを纏った夜鷹が、金を払ってでもと語る。
それだけで真剣さは理解でき、同時に訝しみ、勘繰りもしてしまう。
「何故、そこまで?」
「さあ、なんでだろうね……なんて誤魔化して、話を受けてもらえなかったら困るのはあたしか」
疑いの目が向けられるのは分かっていたのだろう。
女は静かに目を伏せて、ゆるりと息を吐く。
「大した理由なんてないんだ。けど引導くらい渡してやりたいじゃないか。同じ女として」
ほんの一瞬、彼女は夜鷹ではなくただの女となった。
溜息交じりに零れたのは、怪異の正体にある程度の見当が付いていなければ言えない科白だ。
「君は、何者だ」
「そう言われてもね」
けれどそれ以上は語るつもりもないらしい。
夜鷹に戻った女は、意識せずに零れた甚夜の呟きを拾い、ゆるりと微笑んでみせる。
「あたしは夜鷹の夜鷹。名前なんて、それで十分だろう?」
霧雨に佇む、青白い女。
風流と言うならば寧ろ彼女の方だろうと、そんなことを思った。
鬼人幻燈抄『夜桜の下』
「どうしたのよ、私の顔になんかついてる?」
翌日、蕎麦屋『喜兵衛』。
昼時に訪れれば奈津がいた。折角だからと同席し、いつものように蕎麦を啜る。
それ自体はよくある状況だが、何故だか甚夜はじっと奈津の顔を眺めている。
食べかすでも付いているのかと思い口を拭くが、どうもそうではないらしい。
不思議そうな奈津を見て、甚夜自身彼女を凝視していたと気付かされたようで、表情は変えず「済まない」と小さく謝った。
「それはいいけど。なんだったの?」
「いや、少しな」
言葉を濁して誤魔化せば、不満げな色がありありと浮かぶ。
奈津は確か十七だったか。少女と呼ぶような歳でもないが、感情が顔に出やすく、黙すればこちらの胸中を覗き込むこともない。この年頃の女というのは、普通はそういうものだろう。
寧ろ、外見と内面がそぐわない点で言えば、おふうに近いのかもしれない。
しかし夜鷹としか名乗らなかった女は、鬼ではなく間違いなく人。なんとも妙な女だと、改めて甚夜は思う。
「いかんぞ、おふう。お前ももうちょっと頑張らにゃ、旦那を掻っ攫われちまう」
「お父さん、本当に何を言っているんですか……」
あちらの親娘は相変わらず。とはいえ、僅かながらに二人の過去を知った今は、それも微笑ましく映る。
会った時から店主が妙に甚夜を買っていたのは、彼が鬼だと看破していたからなのだろう。
娘と同じ鬼で、尚且つ理性的。よくよく考えてみれば婿として最低限の条件は満たしている。
それでも店主が性急すぎるのは否定できない。実際おふうも父親の突飛すぎる発言に呆れた様子だった。
「で、旦那。今度はいったいどんな事件なんで?」
普段とは違う様子にまた厄介ごとを抱えているのだと思った店主は、茶を出しがてら軽い調子でそう問うた。
甚夜は一瞬答えるのを躊躇う。この場にいる者は、皆少なからず鬼とかかわりを持ったことがある。今更怪異に関しての隠し立ては必要ない。
しかし夜鷹は庶民からも唾を吐きかけるような、最下級の街娼だ。特に女には、春を売って金を稼ぐなど浅ましいと嫌悪する者も多い。
それで人を見下すような娘ではないと知ってはいるが、おふうや奈津がいるのに、「夜鷹から依頼を受けた」と話すのはどうにも憚られた。
「なに、また危ないこと?」
「お父さん、お奈津さんも」
話しにくいことなら無理に聞くことではないと、おふうは二人を窘める。
その心遣いが有難く、だが今回の件は“夜桜の下の怪”。花に纏わる怪異であれば、彼女なら何か気付くこともあるかもしれない。
夜桜の下で殺される男達。
醜悪な鬼女。
依頼人は、同じ女として引導を渡してやりたいと言っていた。
結局甚夜は適当にぼかしながら、夜鷹から聞いた話を彼等に語った。
「同じ女として、ですか」
「ああ。おふう、なにか思い当たることはないか?」
「どうでしょう。桜でなく椿なら知ってはいますが」
椿ならば、以前おふうから教えてもらった。
春の陽光を浴びて咲く薄紅や白の五弁の花。古くは万葉集の頃から和歌に詠まれ、椿は多くの歌人に愛された。
また散る時は花そのものがぽとりと落ちる。それを“落椿”と言い、特有の散り様に愛らしさや情緒を覚える反面、「まるで首が落ちるようだ」と不吉の象徴のようにも語られる花である。
「椿がどうした?」
「老いた椿の木には精霊が宿り、あやかしと化して人を誑かすこともあると。古い怪談ですが、古椿の霊は殆どが女。それも大層な美女だそうですよ」
同じように、夜桜の下に死体が転がっているのではなく、夜桜に殺されるのではないかとおふうは言う。
それを受けて、店主も思い付いたことを口にする。
「桜だってんなら、俺は西行桜を思い出しますかね。能楽の一つで、そのもの古桜の精が出てくる話でさぁ。古い木に魂が宿りあやかしになるってのは、昔からの考えだったんでしょうね」
今でこそ蕎麦屋の店主だが、彼は元々武士の出。普段の態度からは想像もつかないが、相応の教養はあるらしい。
桜の精か。甚夜は呟き、俯いて考え込む。
響きは随分と綺麗だが、夜桜の下の怪は醜悪な鬼女。何人もの男が殺されており、若干以上に血生臭い。
ただ、そういう話もあるということくらいは片隅にとどめておくべきかもしれない。
後は、実際にその桜を訪ねてからの話だろう。
◆
立ち並ぶ見返り柳、衣紋坂を過ぎ五十間の曲がった道の向こうに、吉原大門はある。
吉原遊郭の出入り口である木造の門は、ちょうど夢と現実を隔てる境であった。
明暦の大火以後、浅草寺裏の日本堤に移転したが、当時は一帯に田畑くらいしかない閑散とした土地だった。
その後都市開発が進み道は開けてきたものの、新吉原は田舎ではないにしろ、都市部からは遠い町はずれといった印象は拭えない。
そういう立地だから、帰りの道を少し逸れると、人気の少ない通りへとたどり着く。
件の桜は、吉原から離れ眩しさの届かない、開けた通りの傍らに佇んでいた。
老木には薄紅の花。昼間だからか、桜には妖しげな風情はない。
寧ろ老いた桜がぽつりと咲く姿には、そこはかとない寂寥を覚える。なんにせよ怪異と化し人を誑かす花にしては、今一つおどろおどろしさが足りなかった。
「趣のある佇まいですねぇ」
甚夜の隣でおふうは、ほぅと穏やかに息を吐く。
昼間とはいえ妖しげな噂の流れる桜の下へ訪れたのは、先程の話を確かめる為。夜でなければ安全でしょう、と言っておふうも付いてきてくれた。
しかし甚夜は肩透かしを食らったような心地で、僅かに眉を顰める。
おふうも穏やかに花を愛でている。古椿の霊だの桜の精だのと語ってはみたものの、やはり妖しげな雰囲気は感じ取れなかったのだろう。
「鬼女と桜は関係なかった、ということか」
「そうなのかもしれません。ですが、いいものを見られました。遊郭の帰り、ぽつりと咲く古い桜。夜桜心中そのものです」
「夜桜心中?」
「心中物の歌舞伎ですよ」
心中物とは、心中や情死を題材とした人形浄瑠璃やら歌舞伎、歌謡などの総称である。
有名どころはやはり近松門左衛門の人形浄瑠璃だろうか。
報われぬ男女の悲哀。現世で結ばれぬのならば、せめて共に逝きたい。
成就しない恋の美しさは庶民達の心を捉え、江戸では心中物が大流行した。
おふうの言う「夜桜心中」もそのうちの一つである。
遊郭の花魁を見初めた呉服屋の若旦那。
心を通わせた二人は共になろうと誓い合う。
身請けしようと話を進めるが、呉服屋は火事に見舞われ、命からがら助かったものの若旦那は全てを失う。
金がなければ身請けはできない。それでも二人は諦めきれない。
そうこうしているうちに、花魁には新たに身請けをしたいという男が出てきてしまった。
高値で売れるならば遊郭としては相手が誰でも構わない。花魁の心を無視して日取りが決まる。
追い詰められた花魁は男に言う。
あの古い桜の木の下で待っていてください。共に逃げましょう。
そうして身請けの前夜、花魁は遊郭を抜け出し、約束の桜の木へと向かった。
男はそこで待っていてくれた。
手を取り合う二人、しかし遊郭のものが見過ごすはずもなく、彼らは追手に追いつめられる。
もはや逃げることは叶わない。
二人は短刀で互いの首を斬り裂き、重なり合うように死を迎える。
せめて、幽世では共に在りましょう。
短刀は花魁の準備した、嫁入り道具の懐刀だったという。
「成程、確かにそのものだ」
花魁と呉服屋の若旦那。遊郭近くに咲く古桜と約束。
吉原からそう遠くない位置にある、妖しげな噂の流れる桜。
この桜を元に考案した歌舞伎だと言われても納得してしまうくらいの当て嵌まりようだ。
おふうは少しおどけて、歌い上げるような調子で言う。
「鬼女の正体は、実は死にきれなかった花魁だったのです……なんて落ちはどうでしょう?」
「悪くないな」
世辞ではない。甚夜はやけに真剣な顔付きで肯定した。
情念の果てに鬼女へと堕ちる。数多の怪異の中でも定番といえば定番だ。
なにより、報われぬ恋、死にきれず鬼となった。どこかで聞いた話ではないか。
ならば、そんなこともあるだろう。
過ぎ去った過去が脳裏を過る。見ないふりをするように、甚夜は静かに目を伏せた。
◆
吉原は、江戸幕府によって公認された遊廓である
元和3年(1617年)、日本橋葺屋町に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。
江戸は開府当初から、女性の極端に少ない男性の街であった。
参勤交代で大名に従い江戸へ訪れる藩士は、妻子を国元に残している。一旗あげようとやってくる町人も独り身の男が多かった。
それ故に幕府も勤番侍や人足、奉公人の性のはけ口として意図的に遊女街を設けた。
明暦の大火で日本橋が焼けた後も、浅草に場所を移し吉原遊郭は続いていく。
吉原はそもそも女性を前借金で縛る人身売買の場所であり、見た目ほどに美しい世界ではない。
それでも、多くの下級遊女達の境遇は悲惨であったが、吉原の存在は浮世絵や落語、長唄に浄瑠璃など多くの芸能に影響を与え、後の世まで語り継がれていくことになる。
煌びやかな夜の街に、嘘と知りながら男達は美しい夢を見たのだ。
しかし、当然ながら夢にはなれない者もいる。
例えば夜鷹。
吉原ではそれなりの容姿が求められ、年齢も若くなくてはならない。
勿論然程美しくない下級の遊女もいる。とはいえ、それにさえ届かず、三十路に届くような年齢でありながら家族も仕事もない女も巷にはいた。
夜鷹はそういう女の仕事であり、だから最下級の街娼と蔑まれる。
彼女らには「二十四文」の異名があり、一晩の相場は二四文。
二人の男に抱かれて、蕎麦三杯の値段。夜鷹とはその程度の価値しかない女だった。
夢に囚われたのが吉原の遊女ならば、夢から零れ落ちたのが夜鷹といったところか。
その是非は甚夜には分からず、言えることなど何もない。
くだらない感傷は早々に捨て、夜の浅草を歩けば、薄闇に浮かび上がる淡い薄紅の花が見えてきた。
「夜桜の下の怪、か……」
夜半、春の朧月に照らされる通り。
煌びやかな吉原から離れ、ひっそりと咲く老いた桜の下で甚夜は独りごちた。
ここまでは夜の街の眩しさも届かない。
鬼女の噂が流れた今、慎ましやかな淡い花を咲かせる桜に近寄る者は誰もおらず、薄暗い小路は閑散としている。
「ああ、浪人。来てくれたのかい」
こんなところに訪れるのは鬼女か夜叉か、或いは夜叉にも理解できぬ妙な女くらいのものだろう。
夜鷹の夜鷹。
まともに名乗りもしなかった彼女の肌は、うすぼんやりとした朧月の下、殊更青白く映る。
「まるで幽霊のようだな」
「おや、いきなり随分失礼じゃないか」
「隠したところで意味もないだろう」
「そりゃあね。あんたは、分かりやすいから」
くつくつと夜鷹は笑う。
街娼でありながら悲壮な雰囲気はまるでなく、年若い割に何処か達観している。
本当に、夜鷹は妙な女だ。
「しかしなんだ、その呼び方は」
「あたしは夜鷹。なら、あんたは浪人。それで十分だろう?」
親しみを込めるつもりがなければ、取り敢えずの呼称さえあればそれでいい。
成程、彼女の言う通りだ。甚夜としてもその方が気楽、夜鷹の態度に文句はない。
「じゃあ、後は任せたよ浪人。夜桜の下の怪を、終わらせてやっておくれ」
元から顔を出すつもりだけだったらしく、夜鷹は一言二言交わし、面倒くさそうに手を振り去っていった。
呼び止めることはしない。興味もない。
彼にとっては、夜桜の下に現れる鬼女の方が重要だった。
どれくらいの時間が経ったろうか。
春先とはいえ夜の空気はまだ冷たい。
びゅう、と強く風が吹き抜けた。
朧月にかかる雲は流れ、はらりはらりと花弁が舞い散る。
そんな頃合いだった。
桜の木にもたれ掛かって待つ甚夜の前に、女が姿を現したのは。
粗末な着物、ではまだ上等な表現だ。
ぼろきれとしか言いようのない布を纏った女。がりがりに痩せこけた肢体、手にした血で錆びた包丁。
野放図に伸び広がった水気のない髪、しかし片側は抜け落ちてしまっている。
ちらりと覗く顔は醜く爛れ、鼻は削げ落ち、豆粒大の赤褐色の丘疹や斑点が浮かび上がっていた。
「お侍様……私を、買って、くださいませんか?」
包丁を突き付けながら女は言う。
手も声も震えるのに、放たれる気配に迷いはない。
彼女が夜桜の下の怪、件の鬼女に相違なく、しかしその両の目は黒色。
つまり女は鬼女ではなくただの人。噂は怪異でもなんでもなく、眼前の女によって引き起こされた現実の殺人である。
「遠慮しておこう」
「買って、ください」
「夜桜の下の怪。君が、そう呼ばれているのは知っているか」
「おねがい、です」
女の焦点は定まらず、会話も噛み合わない。
気付けば、彼女は泣いていた。
爛れた皮膚を涙が滑る。涙の意味は、甚夜には分からなかった。
「痛い、いたいんです。体が、だからお願い、買って」
「だから、買う気はないと」
買う気はない。
多分、それは禁句だったのだろう。
その言葉を引き金に彼女は激昂し変化する。
「あ、ああ、あああああ、ああああああああああああ!」
先程までは確かに人だった。
目は黒、怪異の気配もなかった。
にも拘らず、今は赤目。
彼女は、一瞬で鬼となったのだ。
「ちくしょう、ちくしょう! なんで、私を、私はぁあぁぁぁぁぁ!」
遅い。
飛び掛かる女の動きは、鬼でありながら人よりも遥かに遅かった。
甚夜は刀を鞘に収めたまま、女を横から小突いた。
ただそれだけ、殆ど力も入れていない。にも拘らず、女は簡単によろめいた。
人から鬼へと堕ちた。<力>に目覚めていない下位の鬼。
だとしても、この弱さは。
「君は、いったい」
「いたいぃ、いたいよぉ。ちくしょう、殺してやる。ああ、ああ」
泣きながら、がむしゃらに包丁を振るう。
夜来を抜かずとも体術だけで捌ける、それくらいに女は遅い。
何故此処まで弱いかは分からない。
しかしその包丁は血で錆びついている。
彼女が夜桜の下の怪と呼ばれた鬼女であることに間違いなく、放っておけば再び男を殺すだろう。
ならば捨て置くのも気が引ける。
「……女。私は、甚夜と言う。名を聞かせては貰えないか」
奪うなら背負う。殺す相手の名を聞くのは彼の流儀だ。
だが女は何も返さない。「いたい、ちくしょう、ころしてやる」口にするのはそれくらい。そもそも最初から話は噛み合っていなかった。
彼女はとうの昔に壊れていたのだ。
多分、夜桜の下の怪となるずっと前から。
「残念だ」
甚夜はゆっくりと夜来を抜いた。
武骨な太刀を構え、だというのに、鬼女は警戒もなく突進する。
哀れと思わないでもないが、買う気も見逃すつもりもない。
名前を聞けなかったことだけは残念だが、それも所詮は自己満足だ。
女であろうと加減はしない。
脇構え。右足で大きく踏み込み、勢いを殺さぬまま横薙ぎへ繋げる。
抵抗はなかった。
幾人もの男を殺した鬼女は、最後にはいとも容易く斬り伏せられ、自らの屍を夜桜の下に晒した。
此処に夜桜の下の怪は、あまりにも呆気なく終わりを迎えたのである。
◆
吉原遊郭。
華やかな花魁は見目麗しく、江戸中の男が憧れ恋をした。
けれど花魁となり大名や裕福な商家に見受けされる遊女はごく一部。
殆どは中級、下級の遊女であり、馬車馬のように働いて、食事も粗末なものばかり。
見世では折檻を受け、男に買ってもらおうと自腹で着飾り、増えた借金の為にまた働いて。
それでも逃げない。逃げる場所などないと知っているから。
煌びやかな嘘で飾り立てられた吉原も、裏を覗けばそんなもの。
多くの遊女達は夢に囚われたまま、厳しい生活に耐えかねて、その命を落としたのだ。
そんな吉原の遊女が最も恐れた病気は梅毒だった。
鳥屋につく、という言葉がある。
鷹は羽毛の生え替わる時期、鳥屋(鳥を飼っておく小屋)に籠りじっとしている。
季節になれば、鷹の羽は抜け落ちる。
その姿が、梅毒にかかり閉じこもった遊女の毛髪が抜け落ちていく様に似ていることから、吉原では梅毒にかかることを「鳥屋につく」と言った。
吉原では「鳥屋についてこそ遊女は一人前」とされた。
梅毒にかかると自然に流産、死産が多くなる。
遊女にとって妊娠は恥。その為、孕むことのない遊女は高値で取引された。
にも拘らず梅毒は遊女に恐れられた。
江戸時代、梅毒は治療法のない病気だったからだ。
花魁などの高級遊女は自分の稼ぎから「出養生」といって別荘で養生することもできたが、下級遊女はそうもいかない。
一時期高値で買われたとしても、すぐに体は動かなくなる。
赤い発疹が生じ、皮膚や筋肉、骨に腫瘍ができる。
全身を尋常ではない痛みが襲い、十年も過ぎれば臓器ばかりか、脳や脊髄神経まで侵され。
鼻や陰部など末端の肉が削げ落ち、最後には麻痺性の痴呆で何も分からなくなり死を迎える。
「いいや、素直に死ねればいい方さ。大抵はそうなる前に吉原を追い出される。梅毒で鼻の削げ落ちた女なんざ、飼ってる意味もないからねぇ」
春の朧月、夜桜の下、遠い目で夜鷹は語る。
鬼女を討ち果たした翌日の夜半、彼女は甚夜を件の桜に呼び出し、約束の金を渡した。
袋に詰められた銭の中から受け取ったのは二十四文。夜鷹の一晩の値段、それで十分。甚夜は残りを殆ど無理矢理突き返した。
ならば代金代わりにと夜鷹は知っている限りのことを話してくれた。
語るのは吉原の裏と梅毒、そして捨てられる遊女のこと。
男達が見る煌びやかな夢ではなく、女にしか見えない夢の裏側だった。
「夜鷹に身を落としたり、親元に返されたりするのもいるけど、殆どはそこいらに捨てられて野垂れ死に。あんただって見たことくらいあるだろう?」
「まあ、な」
道端で死に絶えた遊女など然して珍しくもない。
それでも男達は夢を見る。
煌びやかな嘘に飾り立てられた夜の街。夢が綺麗なのは、汚い部分を見ようとしないからなのかもしれなかった。
「でも、あれは生き残っちまったんだろうねぇ」
夜桜の下の怪は、多分そうやって捨てられた遊女が鬼となったもの。
梅毒にかかり、鼻は削げ落ち髪も抜け。
痛みに全身を苛まれ、痴呆で何もかもが分からなくなって。
そうなっても春をひさぎ生きようと、買ってくださいと懇願した。
そして、買ってくれない男を殺した。
体を売るしか生きる術はないと、壊れてしまっても鬼女になっても、彼女は覚えていたのだ。
「夢に囚われ、夢を売って。病にかかって捨てられたら、夢に苛まれたまま男を殺す鬼女になる。いくら何でも、あんまりじゃないか」
吉原に囚われ、性の捌け口として男に抱かれ、梅毒にかかり捨てられた。
鼻は削げ髪が抜け落ち、頭が壊れても夜鷹となり、けれど醜悪な容貌のせいで誰にも買ってもらえなくなった。
こうなったのは男のせい、なのに男は醜い姿に怯え逃げ出す。
その憎しみは、彼女を鬼へと変え。
最後には、男を殺すだけの怪異となった。
それが夜桜の下の怪。
あまりにも哀れな、名も知らぬ遊女の末路だ。
「依頼した理由は同情か?」
「感傷さ。あたしもいつかはああなるかもしれない。そう考えると、放っておけなくてね」
してやれることはなにもない。だからせめて、引導を渡してあげたかった。
それが夜鷹の望み。
同じ女、同じく夢から零れ落ちた遊女として。
夜桜の下の怪となった名も知らぬ誰かを、苛む夢から解き放ってやりたかった。
「感謝するよ、浪人。嫌な思いをさせたね」
甚夜の表情は変わらない。
しかし哀れな女を斬り捨てたことに、少なからず悔いはあった。
そういう胸中を自然と察する辺り、相変わらず心の機微に聡い女だ。
「ついでに、もしもあたしが夜桜の鬼女になったなら、その時は一思いにやっておくれ。金は払ってやれないけどね」
「ただ働きは御免だな」
「おやおや、つれないねぇ」
ただ働きをするつもりはない。だから、斬らせるような真似はしてくれるな。
言葉の裏を正確に読み取った夜鷹は、素直でない甚夜の憮然とした表情がおかしくて、堪えきれず苦笑を零した。
「それじゃあ、また」
物憂げに桜を一瞥してから、簡素な別れの挨拶を残して夜鷹は去っていく。
春の風に舞い散る夜桜、青白い肌は朧月に映えて。
溶け込むように夜へ消えていく様は、風流と言ってもいいのかもしれなかった。
「妙な女だ……」
一人取り残された甚夜は、夜桜を眺める。
夜にはらりと舞う、薄紅の花。
風情に酔いしれ、ふと浮かんだのはおふうの話。
夜桜心中。
遊郭から逃げる花魁と男が、幽世では共に在ろうと、夜桜の下で命を落とす。
「なあ、もしかしてお前は……」
あの鬼女は、待っていた。いや、探していた?
花魁にとっての若旦那を、苦しみから連れて逃げてくれる誰かを探して。
けれど出会えないから、男を殺し続けていたのではないだろうか。
浮かんだ想像を振り払い、溜息と共に外へ吐き出す。
「……詮のないことか」
所詮は想像だ。事実かどうかは分からないし、今更知る術もない。
もしそれが真実だったとしても、与えられない救いを求めた鬼女の哀れさが浮き彫りになるだけ。
ならば考えたところで意味はない。
甚夜は夜桜に背を向けて歩き始める。
はらり、桜は地に落ちて。
知られぬ想いも花弁も、季節が終わる頃には、土になって消えるだろう。
『夜桜の下』・了




