『マガツメ』・2
『最後の最後で母さんを止められるのは、あんたしかいない。それを忘れちゃ駄目だよ』
昭和の頃。
存在しない筈の鳩の町で出会った娼婦、七緒はそう言った。
心情的にも能力的にも、最後の最後でマガツメを止めるのは私しかいないと。
彼女から全てを聞かされ、だからこそ選んだ。
もう、選んでしまったのだ。
◆
桃恵萌は夜歩きする機会が多い。
友達連中と遊び歩いているばかりではない。見た目は今時の女子高生だが彼女は秋津の十代目。あやしげな話が舞い込むこともそれなりにあり、そうすれば怪異を探して夜の町に繰り出す回数も増えてくる。
「だから客なんて探してないっての!」
ただ彼女の容姿やスタイルから、性質の悪いオヤジ連中やチャラい若者が声をかけてきたりするので結構煩わしい。
今夜も「いくら?」なんて聞いてきたおっさんを一蹴、不機嫌顔で捜索に戻る。
時には警察官が職質してきたりもする。いや、なんのために夜歩きしていると思っているのか。流石にちょっとだけ苛立ってしまう。
「っとにもー、感謝しろとは言わないけどさ。あーあ、昔はこんなことなかったんだろうなぁ」
例えば明治の後期から大正にかけて、四代目秋津染吾郎は稀代の退魔と謳われた。
江戸の頃は、京都で秋津といえばすぐに付喪神使いへと行きついた。
けれど現代。怪異も都市伝説もフィクションだと信じられ、それを討つ者達も「幸運を招く壺買いませんか?」とあやしげな品物を売るオカルト商法と同列に扱われる。時代の流れとはいえ切ないものはあった。
多分それが行き過ぎてしまったのだろう。
萌は以前遭遇した高位の鬼を思い出す。
人工の光に町の片隅へと追いやられた鬼は、マガツメの降臨に希望をかけた。
勿論彼女自身は平成の世を覆そうなどと考えないが、正直に言えば鬼の気持ちは分からないでもない。
居場所を奪われ、存在しないものとして扱われる。鬼達の嘆きは価値を認められなくなった退魔のそれとよく似ていた。
「だからって、見過ごせないけどさ」
けれど彼女は人で、今の生活が大好きで、理不尽な犠牲を見過ごせもしない。
悲哀にうすらと細められた目は、郊外へ辿り着き、目的の廃墟を捉えたことで消え去った。
兵庫県葛野市を中心部から離れれば、元々然程都会という訳でもない為、すぐにコンクリートの建物と緑の木々が混在する景色に変わる。
件の施設はそういう場所に建てられた、二階建ての横に長いボウリング場だった。
昭和四十六年頃、第一次ボウリングブームに乗っかって建てられたはいいが、交通の便が悪く、流行りが過ぎ去った後は瞬く間に廃れてしまった。
管理していた企業は倒産。買い手も見つからないままに歳月だけが過ぎ、建物は緑に浸食され老朽化が進み、今では人が殆ど寄り付かない。
ただ何処にでも「妙な趣味の人」というヤツはいて、一部の心霊マニアや廃墟マニアが時折そのおどろおどろしい雰囲気に誘われて訪ねるそうだ。
今回の噂の出所は廃墟で度胸試しをしていた心霊マニア。
曰く、「誰もいない筈の場所で折り重なるように赤ん坊の泣き声が聞こえてきた」。なんとも“らしい”話である。
「わお、雰囲気出てるなぁ……」
萌はボウリング場の外観を眺めながら、うへぇと嫌そうに顔を顰めた。
ガラスの窓は無惨に割られ、ツタに覆われたコンクリートの壁は所々ヒビが入っている。
当然ながら光はない。いかにもな廃墟だ、場数を踏んでいる少女でも多少躊躇ってしまう。
幽霊だろうが妖怪だろうが問答無用でぶちのめす力量があっても、怖いものは怖いのだ。
加えて、かんかんだらの件もある。
幾ら彼女が十代目秋津染吾郎とてそれを上回る怪異も存在する。であれば迂闊な行動はとりたくない。
「……え?」
そう思っていた矢先、二階の窓際に人影が見えた。
八、九歳くらいの女の子。幽霊? 化け物? イタイケナ少女を救おうと心霊スポットに足を踏み入れた、実は亡霊の罠でしたー、なんてのは怪談の鉄板だと萌は考える。
けれど同じくらいの確率で、もう一つの可能性があるのを彼女は知っている。
手は自然と携帯に伸び、百年を生きる親友にコール。何度鳴らしても出てくれない。ああ、そうか。今日は“おしごとがある”と言っていた。
通じない。駄目だ、これ以上は待てない。危険がある、無謀でもある。そんなこと誰に言われずとも萌自身よく理解していた。
だが可能性の話である。
もしもあの女の子が罠でなかったら───
「もう、しゃあないっ」
その想像が一歩目を踏み出させた。
幸いにも窓は割れている。萌はガラス片で肌を切らないよう注意しながら施設内へと侵入。照明は壊れているし、そもそも電気も水道も通っていない。懐中電灯などは持ってきておらず、だが特に問題はない。
「行燈」
“ひるあんどん”と書かれた、行燈の和風ストラップ。これも付喪神、当然ながら能力は簡易照明である。
薄ぼんやりとした灯を纏わせボウリング場内をさ迷う。どちらかといえば妖しいのは萌の方かも知れなかった。
受付を通り過ぎて、ロッカールームや談話スペース。料金表やボウリングボールなどは朽ちてこそいるが営業していた時のまま残されている。
ぎしり、傷んだ床が嫌な音を立てた。
放置された古びた自動販売機、売られているドリンクは瓶だけ。今時珍しいが、当時はこれが普通だったのだろう。
第一次ボウリングブームは大層な騒ぎで、皆挙ってボウリング場へ訪れたらしい。しかし今は見る影もない廃墟。これもまた時代に捨てられたものの末路なのかもしれない。
感慨に耽っても意味はない。萌は周囲を警戒しながらも二階へと昇る。
二階は全てレーンになっている。窓はあるが若干高めの位置、間違っても幼い子供が偶然映り込んだりはしない。
それは、つまり。
然して頭は良くないと自覚しているが、必死に働かせながら施設内を進み、二階のレーンに辿り着いた時萌はその光景に息を飲んだ。
「なに……これ」
おぎゃあ、おぎゃあ。
確かに、赤ん坊の声が聞こえる。当初は渋谷七人ミサキのような怪異を想像していたが実態は違った。
声が聞こえるも何も、本当に何人もの赤子が放置されている。ざっと数えただけでも十。火が付いたように泣いていた。
「捨て子、じゃないわよね」
赤ん坊を心配しつつも駆け寄れなかったのはその光景があまりにも異様だったから。
実はここ捨て子の有名スポットでした、なんてオチならどれだけ楽か。無論そう上手くはいかない。異様なのは赤子が理由だけではなかった。
「……新しい?」
萌は屈み込んで床にそっと触れた。
二階に入ってから、嫌な音は途端に消えた。当然だ、此処の床は板張りではあるが綺麗にワックスがかけており殆ど傷んでいない。見回してもレーンや放置されたボウリングボールも妙に真新しい。まるで昨日リフォームしたばかりのような。
なのに一階は廃墟のまま。いくらなんでもおかしい。これはいったい。
「こんばんは、秋津さん」
鈴の音の声が響き渡った。
びくりと体を震わせた萌は飛び退いてその主に対峙する。
幼い、九歳くらいに見える女の子。
肩まで伸びた自然な色味の栗色の髪は柔らかく波打ち、年齢に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強い。
白レースがあしらわれた黒を基調としたブラウス、それに合わせたハートのフリルリボンスカート。
幼くも愛らしい容姿も相まって、まるで童話の少女がそのまま出てきたかのようだ。
街中で目にすれば「お人形さんみたいにきれいない少女」で終わっただろう。
だというのに会う場所が変わるだけで、こうも歪に映る。
「あんたは……」
「初めまして。向日葵と申します」
整った容姿、冬の寒さの中、少女はまるで夏の花のように鮮やかな笑みを咲かせる。
向日葵を名乗った彼女とはこれが初対面。しかし桃恵萌は、秋津染吾郎は彼女が何者かを知っている。
「ひまわり。マガツメの娘……」
いずれ現世の全てを滅ぼす鬼神となるマガツメの娘、その長女。
葛野甚夜の、秋津染吾郎の仇敵と、萌は百年を超えて再会したのだ。
「あまり驚かないんですね」
「そりゃね」
もう少し反応があるかと思えば存外萌は冷静。それが意外で向日葵はきょとんとしていた。
可能性の話である。もしもあの女の子が罠でなかったら。
巻き込まれただけの被害者なら、その想像が彼女に一歩目を踏み出させた。
しかし同じくらい罠であるとも考えていた。
もっと言えば、もしもあれが幽霊でも妖怪でも被害者でもなく、“マガツメの眷属”であったなら。
時期が時期だけに、そういうこともあるのではと心の何処かで考えていたのだ。
始めからその可能性を想定して行動し、それが的中しただけのこと。そこで驚くほど間抜けでもない。
「なに? ここマガツメの隠れ家?」
「いえ、違いますよ。一時期は確かにいましたけど、今はもういません」
「一足遅かったかぁ」
「そうですね。ですが流石は今代の秋津。三代目は飄々としながらも思慮深い方でしたが貴女もです。ここに来るのはおじさまだと思っていましたから」
「へ? どゆこと?」
「はい?」
驚きはしなかったが、言葉の意味が理解できず聞き返す。
向日葵はこてんと小首を傾げる萌にこそ驚いた。退魔と鬼女はなんとなく噛み合わないまま見つめ合う。
「……えーと、ですね。秋津さんは噂を聞いたからここに来たのでしょう?」
「うん。なんか赤ん坊の声が聞こえるとかなんとか。あと、ちっちゃい女の子を見たってのもあったっけ」
「合ってます。それでいて私が、マガツメの娘がいることに驚かなかった。つまりある程度は予測していたのでは?」
「まあ。今の時期なんか企んでそうなのは、くらいには」
「だったら当然、噂自体がおじさまを誘き寄せるものと気付いたのでは……」
向日葵は萌が「誘き寄せる為の罠だと看破した上で敢えて乗ってみせた」のだと判断した。
だが真相は「噂を聞いたから行ってみたらなんか妖しい女の子がいた。あれ? 悪だくみしてる女。もしかしたらマガツメの眷属じゃね?」くらいのノリだった。
その辺りの認識の齟齬がずれた会話の理由である。
それにようやく気付いた萌は顔を真っ赤にして、誤魔化すように捲し立てる。
「そ、そーよ! 当然じゃん!? 分かりやす過ぎて逆に引くくらいだし!?」
「あ、もういいです。分かりましたから」
「なにが!? あんたらの悪だくみなんてオミオトシだってーの!」
「お見通しです」
勿論誤魔化し斬れる筈もなく、冷たい視線が注がれる。
こほん、と咳払いして仕切り直し。向日葵は再び花の笑顔を取り戻す。
「ともかく、此処はお母様の住処ではありません。それに、悪だくみでもないです。だってお母様の心は企みでなく純愛ですから」
先程までの弛緩した空気は一気に引き締まった。
おぎゃあ、おぎゃあ。泣き続ける赤子の叫びをBGMに暗闇からすぅと影が浮かび上がる。
照らし出されたその姿に萌は警戒を強めた。
「まずはご挨拶を。この子は末の妹、名を鈴蘭といいます」
目も鼻も口もないのっぺらぼう。
ぬるりと白い肌、奇妙なくらい長い手足がゆらゆらと揺れている。
醜悪でも見るからに恐ろしい訳でもない。寧ろシンプル過ぎて逆に気味が悪い。
無貌の鬼。
初めて見る怪異に萌は身構える。
じりと僅かに退いたのは初見でも聞き覚えがあったから。
マガツメの娘はそもそもが無貌の鬼だと伝えられる。
地縛は南雲和紗。古椿は三枝小尋。
秋津には知りようもないが、東菊は白雪。水仙は七緒。
向日葵以外の娘達は人を喰らうことで自我や記憶、女性としての容貌を獲得する。
つまり鈴蘭はまだ人を喰らっていない娘。末の妹というからにはまだ生まれて間もないのかもしれない。
これから誰かを喰らい、そこで初めて人格が成立する。
ならば見過ごせない、だが油断もできない。萌は懐から鍾馗の短剣を取り出し、いつでも動けるように腰を落とす。
「純愛ねぇ。結局赤ん坊集めてなにしてんの?」
「集めていた訳ではありません。これらは母の為したこと、鈴蘭の<力>とは関係ないです」
「へぇ。じゃ、その<力>って?」
「教えてほしいですか?」
退魔と向かい合っているにも拘らず向日葵の応答は非常に呑気である。
反対に萌の気配は固くなった。
見たところ向日葵は戦いには向いていない。ただし後ろに控えた鈴蘭なる鬼女は別だ。
お世辞にも思慮深いとは言えない萌ではあるが、年若いながらにそこそこ場数は踏んでいる。
そういう彼女をして、あれは得体が知れない。強いのか弱いのか、大まかな判別さえできないでいた。
だからこそ警戒は怠らない。
姉妹を明確な敵と認め、その一挙手一投足に注意を払う。
「ではお望み通り、<鈴蘭>を披露してあげましょう」
ぐにゃり、無貌の鬼は蠢く。
姉の言葉に呼応し、鈴蘭はその白い腕を伸ばした。
◆
最後の異形を躊躇いなく斬り伏せる。
今宵の依頼は戻川高校の体育教師から。ある夜、陸上部の顧問である彼は、繁華街で自身が受け持つ男子生徒を見かけた。
種目は短距離、真面目で将来有望な部員だ。夜遊びしているのならば注意せねばと追いかけたが、追いかけていた筈がいつの間にか掻き消えてしまった。
見失ったのではない。本当に目の前から一瞬でいなくなったのだ。
なんらかの怪異に巻き込まれたのは明らか。そこでどこからか<鬼を斬る夜叉>の噂を聞き付けた教師は、その解決を甚夜に依頼した。
それはいい。依頼自体は解決、男子も傷一つなく無事だった。
しかし問題はその後。帰路の途中、甚夜は依頼関係なしに襲われた。
「襲うならばもう少し考えてほしいものだが」
幾体もの下位の鬼は人もまばらな通りで殺気を向けてきた。
隠れてはいるが今にも襲い掛かってきそうな雰囲気である。少ないとはいえ人目がある場所で動かれてはたまらない。
結局甚夜は自分から路地裏へと入り込み、そうすればもはや堪えきれぬと鬼達は一斉に牙を剥く。
もっとも所詮は下位の鬼。相手になる筈もなく、片付けるのには一分とかからなかった。
「お前は、見ているだけか」
無駄な殺生は好まないが萌ほど優しくもない。甚夜は構えを解かず、ぞっとするくらい冷たい声を発した。
暗がりを睨みつければ影が浮き上がる。
赤く濁った眼をした、ひょろりと縦に長い異形。高位の鬼ではないようだが、先だって相手した雑魚とは気配が多少異なる。おそらくはあれが襲撃を企てた頭だろう。
『鬼喰らい……マガツメ様に立て付く愚か者』
「マガツメ様ときたか。あれも随分と祭り上げられたものだ」
この鬼もまたマガツメが現代を覆してくれるのではと期待しているらしい。
<力>を持たぬ弱い鬼にとって、人を滅ぼすと伝えられるマガツメの存在はある種の希望なのかもしれない。
ああ、そういえば<遠見>の鬼も言っていたか。
兄妹は、この葛野の地で再び殺し合う。
そして永久に闇を統べる王が、鬼達を守り慈しむ鬼神が生まれるのだと。
『何故だ。何故お前は人に加担し同胞を斬る』
「私は、私を曲げられぬというだけ。己が在り方に生き、その果てに死ぬが鬼の本懐だろう」
だが甚夜からすれば鬼だ人だと語られても然程興味はない。
所詮は私怨故の道行き、既に答えも決めてしまった。もはや何を言われようと微塵も揺らがず、恨みがましい鬼の言葉を切って捨てる。
「さて、どうする。退くか死ぬか、どちらでも私の手間は然程変わらんぞ」
傲慢ではなく、事実としてそれだけの力量差が両者にはある。
凄むでも脅すでもない。ごく自然に言えば異形はひょろりと長い体躯を躍動させ、決死の突進を試みる。
僅かに眉を顰めた。
理由があれば誰でも斬るし、なければ誰も斬りたくはない。無為な殺戮は趣味ではないが此処で躊躇うほど初心でもなく、襲い掛かる鬼に合わせて一歩を踏み込み、すれ違いざまに横薙ぎの太刀。
肉を骨を刃は滑らかに通り、両断された鬼は地へ転がる。
完全に気配が消えたことを確認してから血払い、夜来を鞘に収めた。
「儘ならぬな」
腐臭の漂う路地裏で一人溜息を吐く。
退かなかったのは追い詰められていたから。甚夜にではなく平成という時代に鬼はこれ以上なく追い詰められ、逃げることも抗うこともできずマガツメという希望に縋った。
南雲叡善、井槌に吉隠。人にせよ鬼にせよそういう輩は今迄も見てきた。
なのに、勝手にマガツメを希望と語る鬼共。それを殊更苛立たしく思ったのは何故だったろうか。
◆
あやかしの夜も明け翌日、いつものように朝の教室は騒がしい。
高校生になったのはついこの間だと思っていたが、もう一年が経とうとしていた。
そろそろ進級の時期、楽しみな反面寂しくもある。親友の薫と同じクラスになれて、桃恵萌や吉岡麻衣、根来音久美子と新しい友達もできた。中学校の頃は縁のなかった男子とも多少は交流を持ち、富島柳や藤堂夏樹とは結構話をするし皆で遊びに出かけたりもした。
それに、百年を生きる彼とも。
高校二年生になればクラス替え。折角仲良くなれたが離れ離れになってしまう訳で、どうしたって残念だと思ってしまう。
「来年も同じクラスだったらいいのにねー」
にっこりと笑う薫の物言いもどことなくぼやくようで、このクラスをかなり気に入っているのだと分かる。
二年生になればいつものメンバーで集まって何かをすることも少なくなるのだろう。 それはやはり少しだけ寂しい。仕方ないことだと理解はしているが、みやかも「そう、だね」と微かな笑みで同意した。
「っしゃ、間に合ったぁ! おっはよー! ……ってあれ、まだ時間全然ある?」
若干しんみりした雰囲気をぶっちぎって響く明るい声。
朝のホームルームの十分前、先生が来るまで余裕はかなりある。にも拘らず、ぎりぎりのタイミングで教室に滑り込むような勢いで桃恵萌は登校してきた。
ぜーはーと息を切らしつつ、「はよー、センセまだ来てねぇよ?」「うわぁ、どうりで皆ゆっくり歩いてると思った。あたしの時計ダメになってんじゃん」なんて軽い調子でいつもの派手なグループと挨拶を交わす。
「おっはよ」
みやかや薫にもすれ違いざま軽く声をかける。
挙げた右手を握ったり開いたりして「また後で」と伝えてから女子グループの方へ。
どうやら勘違いで急いできたらしく、走ったせいか恥ずかしいからか頬は少し赤くなっていた。
「あはは、アキちゃんは相変わらずだねー」
「ほんと。……でも、なんかちょっといつもと違うような」
「え、そう?」
薫は気付かなかったようだが、今朝はなんとなく普段と違った印象を受けた。
振る舞いに違和感があるでもなく、何故そう思ったのかは分からない。
ただそれとは別に、少し疲れているようには見えた。
大方友人達と遅くまでカラオケか、秋津の役目で夜歩きをしていたのだろう。
捏造された都市伝説の事件が解決しても怪異は依然として存在している。けれどみやか達がのほほんと暮らせているのは十代目染吾郎たる萌や<鬼を斬る夜叉>が人知れず頑張っている証拠だ。
ここは感謝の意を込めて、後で萌にジュースでも奢ってあげよう。安い紙パックの方だが。
感謝はしているしバイトも続けているが、みやかのお財布は決して暖かくはないのである。
教室の窓際、男子連中と雑談を交わしていた甚夜もまた、元気よく登場した桃恵萌をじっと見つめていた。
明るい茶色に染めた髪をリボンでワンサイドアップに纏め、派手にならない程度のメイクで整えた、いかにも女子高生らしい女子高生。
服装の方もかなり派手で、スカートは当然のように短く、ブラウスのボタンを一つ二つ空けている。胸元が豊かなせいで、多分見せブラなのだろうが、谷間と共に黒い布地がちらちらと覗いていた。
遊んでいそうな服装で、容姿は十人並み以上。反して性格は真面目とは言い難いが意外とおおらかで接しやすい。
あまり接点のない生徒はやれ「援交してる」だのと口幅ったいことを言うが、同じクラスの男子が偏見の目で彼女を見ることは随分と少なくなった。
「やっぱさ、桃恵さんいいよなぁ」
その分クラスでは結構人気があり、このように執心する男子もちらほら。
走ってきたせいで上気している萌を眺めながら恍惚といった表情である。
「綺麗だし性格いいしスタイル良いし、あんな彼女欲しい……」
「そうか? 確かに綺麗だし性格もいい、友人には素晴らしいかもしれない。ただ残念なことに個人的にはちょっと年齢が行き過ぎてるかな。多分中学の頃に会ってたらヤバかった」
「黙れロリコン」
「いや、ロリコンじゃないって。ただ慎ましやかな胸で低身長、かつ腋がきれいで輪郭の丸い女の子が好みってだけ。まあジュニアアイドルファンだし、ベストは13歳くらいかな?」
「十分ロリコンだよそれ」
思春期の男子の興味はやはりそちらに偏っているらしい。
彼女にするならこんな女性がいいと各々の願望を語っている。周りの女子の目を気にして声が小さくなる辺り、微笑ましく見えなくもない。
「俺は」
「あ、富島はいいわ。どうせ吉岡さんだろ? それにお前選び放題じゃん」
「扱い雑過ぎるだろ……。確かに麻衣は可愛いと思うけどさ」
「うるせーよ」
話に参加しないのは甚夜と柳くらいか。正確には整った容姿で女子の人気も高く、本命のいる柳は参加させてもらえないだけだが。
実際彼が麻衣以上に興味を示す女子は現状おらず、付き合ってこそいないが男子達の判断は間違いという訳でもなかった。
「そういやさり気に藤堂もあれだよな。根来音さんとか、前教室に来た人とか。後、めっちゃかわいい妹がいるって聞いたけど」
「マジか? 妹ってことは中二くらいか。なっき、今度紹介してくれない?」
「誰がロリコンに里香を近づけるか。あの子は俺の妹、絶対守る。というかなっき呼ぶなや」
夏樹も巻き込んで話は声を潜めつつもそれなりに盛り上がる。
その輪から外れ、甚夜は萌を注視していた。
いつも通り派手な女子グループで集まりわやわやと騒ぐ。「やべ、急ぎ過ぎて鞄忘れた」「バカでー」なんて笑い合う様は、年頃の少女らしい気の抜け方だ。
「甚夜……」
「ああ」
それを見る甚夜の視線は、年頃の少年からはかけ離れた鋭さ。それに気付いた柳もまた表情は固い。
チャイムが鳴り、教師が訪れ、朝の騒ぎも一先ず落ち着く。
ただ彼らの物々しい空気は最後まで変わらなかった。
◆
「あれ、甚夜は?」
ホームルーム、一時限目が終わる。
休憩時間になり教室を見回せば、既に甚夜の姿はない。みやかが不思議そうに聞けば、麻衣がそれに答える。
「さっき、萌さんと一緒に何処かへ行ったみたい、だよ」
「萌と?」
麻衣は出入り口付近のため授業が終わるとすぐに出て入った二人を見ていたらしい。
声もかけないなんて水臭いなと思いつつも、彼らの組み合わせを考えると、また危ない話なのかもしれないとみやかは納得する。
「それじゃ、ジュースはまたお昼休みかな」
まあ気になるは気になるが、除け者にされている訳でもなし。
必要な時が来れば彼らは話してくれる。だからみやかはそれ以上考えることを止め、麻衣とそのままおしゃべりをすることにした。
「そういえば、本読ませてもらったよ。大和流魂記、結構面白かった」
「そっか、よかったです。ああいう説話集はそのまま読んでも面白いけど、当時の世相と照らし合わせたり、裏にある意味を考えると、もっと楽しめるよ」
「確かに……姫と青鬼とか、実際を知ると」
「ちょっとそれは特殊だけど、うん。そうやって文の間を読むのが読書の楽しみ、かな」
こと読書の話になると途端麻衣は饒舌になる。
今回は彼女のおすすめで『大和流魂記』を読んだ。江戸後期の説話集で、有名無名関わらず様々な怪談が記載されている。
中には『姫と青鬼』や『寺町の隠形鬼』、『幽霊小路』に『九段坂の浮世絵』など。少なからず甚夜が首を突っ込んだ話もあり、そういう意味でも中々に興味深かった。
「それと、あとがきの現代語訳もよかったかな。“姫と青鬼”ってちゃんと作者分かってる話だったんだ?」
「はい。大和流魂記の編者が書いたものだそうで。“この話は、私の初恋を”で始まるあとがきは、わたしもお気に入り」
「全部読んだけど、買おうかな」
「それなら河野出版社のものがおすすめ、だよ。原文と現代語訳が両方載ってて、一つ一つの話が読み易く整理されてるんだ」
それは中々良さそうだ。
都市伝説大辞典に続く新たな愛読書になりそうだと、みやかはちょっと満足げ。麻衣と一緒に書店へ行く約束をしつつ、他にもお気に入りの本について話し合った。
「どしたの甚、いきなり屋上にとか。あ、もしかし告白? だったらいつでもウェルカムだよ」
みやか達が読書の話で盛り上がっているのと同じ頃。
授業が終わると同時に甚夜はすぐさま萌を屋上へ呼び出した。男子が女子に「二人きりで話がある」といういかにもなシチュエーション。すわ告白かとおどける彼女は実に楽しそうだ。
「いや、違う」
「なーんだ、つまんない」
反して甚夜の態度はどこか淡々としている。
萌の振る舞いには殆ど取り合わず、ほんの僅か目を細める。見た目に反して愛嬌のある少女。多少疲れているようにも見えるが、立ち振る舞いもいつもと殆ど変わらない。
「体は大丈夫か。疲れているようだが」
「あ、バレた? 実はさ、昨日もちょっち夜歩きしてさ。遊んでるんじゃないよ、これでも十代目の秋津だから」
「では、また?」
「そ。ほら、最近多いっしょ。マガツメがーとか言っちゃう鬼。そっちも昨日は“おしごと”だったっけ?」
以前二人だけで動いた時、マガツメの為とほざく高位の鬼を見た。
この話は他の誰にもしていない。彼女はそれをちゃんと覚えている、知っている。
「あ、話ってマガツメのこと?」
だから別段問題はないのだ。
振る舞いは普段と変わらず、彼女しか知らない筈のことを知っている。ならば疑問に思う方がおかしい。
「いいや、匂いのことだ」
にも拘らず甚夜の目は冷静を通り越していっそ冷淡。
萌に対して明確な敵意を向けていた。
「……匂い? え? もしかして、あたし匂う?」
「そうではないが。振る舞いは変わらないし、話にも破綻はない。表情も何気ない仕草も普段通り。彼女しか知らぬことを知っており……なのに、匂いが違う」
「どゆことよ?」
意味が分からないと萌は小首を傾げている。
それはみやかが僅かながら感じた違和感の正体だ。
容姿や所作は共に普段通り。外見は変わらず、ただ匂いが違う。
比喩的な表現ではない。萌はいつものメンバーの中でも特にオシャレには気を遣っている。そういう娘だから新作のリップは大概チェックしているし、普段からうっすらメイクをしており、普段のトワレにも拘っている。
「記憶はあっても実践が拙い。或いはそもそも物を用意できなかったのか。外見は変わらずとも細部の詰めが甘いな」
彼女からは微かにもそういった化粧っ気が感じられなかった。
オシャレは心意気と公言して憚らず、遅刻ギリギリになってもきっちり身嗜みを整える萌が、匂いと指摘されて尚そこに思い至らない。
初めから違和感はあった。それがここにきて急激に現実味を帯びてくる。
甚夜は自身の右掌の皮膚を食い破る。滲む血、<血刀>、その手には赤い刀が。
萌はいきなりの行動にわたわたと慌てている。けれど流れるように切っ先を向け、低く重い言葉を彼女へとぶつける。
「お前は誰だ?」
少女の動揺は一瞬で消える。
突き付けられた赤い切っ先を見詰め。
桃恵萌は。
彼女のように見える何者かは、にたりと笑った。




