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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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『終の巫女』・7




 物語には主人公がいます。

 主人公はヒロインといつしか恋仲に落ちます。

 敵が襲ってきても大丈夫。主人公はヒロインを守り、紆余曲折を経てハッピーエンド。

 でも、もし守ってもらえないヒロインがいるとしたら。

 彼女はどうなるのでしょうか。




 ◆




 マヒルさまとミヅチ。

 姫川みやかと吉隠は性質の異なる神に仕える巫覡である。

 マヒルさまは火の神、齎すは産鉄。ミヅチは水の神、育むは農耕。

 そもそもが人と鬼。同じく巫女といっても、その趣きはまるで違う。

 しかしある意味で両者はよく似ていた。

 マヒルさまの巫女は既に絶え、平成の世には何の力も持たぬ名前だけが残った。

 人を愛し、人に裏切られ堕ちたミヅチの巫女は、かんかんだらとなった。

 どちらも時代に切り捨てられた、かつて在った尊きものの成れの果てに過ぎない。

 それが平成の世に至りこうして対峙するというのは、本人らの預かり知らぬところではあるが、奇縁と言えなくもない。


「みや、か……?」


 巫女装束を纏い現れたみやかに、甚夜は茫然としていた。

 だが、すぐさま意識を取り戻す。逃げる吉隠の前に、少女は立ち塞がる。駄目だ、あれは無抵抗だからと見逃すような手合いではない。

 無惨な結末が脳裏を過り、けれど、いくらなんでも無理をし過ぎたらしい。

 全霊の一撃を透かされ、<合一>も解けた。その反動が一気に甚夜の体を襲う。

<御影>で自身の体を操り強制的に立ち上がろうとするも、全身の筋肉が断裂してしまったかのような尋常ではない痛みが走り、意識が途切れかけた。


「く、そ」


 みやかの危機にあって、動くことさえままならない。

 それは他も同じ。柳は呪詛のせいで体力を極端に消耗し、子供達を庇い続けた井槌も似たような状態で地面に転がったままだ。萌もまた静かに呼吸を整えながら沈黙している。

 その中で唯一反応できた溜那は、瞬間駆け出していた。


 彼女とて限界に近いが、最悪の想像が体を突き動かす。

 吉隠も甚夜の一撃を喰らい、命にこそ届かなかったが、決して小さくない傷を負った。

 あの鬼の悪辣さは嫌という程理解している。今なら倒し切れる、そう考える程自惚れてはない。

 それでも僅かに一瞬出し抜くくらいなら。


『ごめんね、溜那ちゃん。大人しくしてようか?』


 読まれていた。

 動きを抑えようと、大蛇の尾が鞭のようにしなる。

 狙ったのは、溜那ではない。避けるどころか構えることさえできない柳達だ。


「……っ」


 疾走するもみやかのいる場所には辿り着けず、後退を余儀なくされる。

 子供達を庇い、蛇の一撃を受け止める。傷のせいか威力は今迄よりも弱い。けれど間を置かず、牽制するように瘴気の槍が打ち込まれた。


「ぅ、んくぅ……!」


 左腕と、右足。貫かれたほっそりとした手足から血が流れる。

 心臓や頭を狙わなかったのは敢えてか、それとも正確に狙うだけの余裕がなかったのか。

 判別は付かない、しかし負った傷以上の足枷を付けられた。余計な手出しをすれば、被害は広がる。暗に吉隠はそう言っている。

 萌達とみやか。どちらも爺やにとっては大切な子供達。ならばどちらを優先すれば。逡巡し、更なる一歩を躊躇い、それが隙となる。

 ぐにゃり、と蛇の下肢が蠢く。踏み込む必要がないからか、ぬるりとした初動は寒気がするほどスムーズだ。

 瞬きの間に吉隠はみやかとの距離を詰める。

 甚夜や溜那、それなりに戦いを経験した者達でさえ驚かせる挙動。みやかには殆ど何が起こったか理解できていない。


『こんばんは、みやかちゃん』


 気付いたら、吐息がかかる距離に、薄笑いを浮かべる怪異が。

 彼女の視点では、そうとしか思えなかった。


『どうしたの、こんなところで?』


 その意味を間違えない。

 白峰八千枝が死んだのは、他ならぬ甚夜のせい。仇敵がいる場所に何故わざわざ来たのか。

 理由があったとして、何の力も持たぬただの人間が、どういうつもりなのか。

 それこそ蛇に睨まれたようなもの、みやかは真っ青になっている。いくら気を張っても体の震えは隠せず、対峙しているだけで吐き気を催す。


「つと、務めを、果たしに来た……私は、いつきひめだから」

『へぇ? で、キミに何ができるの?』


 吉隠は一度顔を離し、見下すような視線をみやかへ向ける。

 弾む口調に混じった明らかな侮蔑。同じ巫女ではあっても、かんかんだらは鬼神にも届こうという隔絶した力を有した怪異。

 だがこの小娘は違う。大層なのは名前だけ、特別な力を何一つ持たぬいつきひめなど、時代に捨てられた路傍の石に過ぎない。

 それが、務めを果たす。

 いい冗談だ。吉隠は溢れる愉悦に、多分笑ったつもりだった。事実笑っていた、なのに表情はひどく歪で。


「あ、う……」


 怖い。恐怖に足が、心が竦む。

 口裂け女、赤マント、渋谷七人ミサキ。散々都市伝説の怪人を目にしてきて、危機ならば幾度も味わってきたが、ここまで怖いと感じるのは初めてだ。

 吉隠が強大だからではない。みやかが怪異に遭遇する時、いつだって鉄のような背中が目の前にあった。けれど今は見えない。それが何よりも怖い。

つまりは守られていたのだ。

 今迄の怪異が怖くなかったのは、守られて頼り切っていただけ。そんなことにさえ気付かず、気付こうともしなかった。

 頭の天辺から足の爪先まで、余すことなく凍てつくような怖気に、自分がどれだけ彼に甘えていたかを思い知る。


「私にはなんの、力もない。そんなこと、知ってる。なにも、できない。でも、逃げない……」


 思い知ったからこそ、一歩たりとも退かなかった。

 なけなしの意地を総動員して踏み止まる。

 此処で逃げたら、もう二度と彼に向き合えない、そんな気がする。


「甚夜……ごめんなさいっ!」


 怯えながらも声を絞り出す。目の前の化け物なんてどうでもいい。

 守ってくれたのに、傷つけてしまった。許してなんて厚かましいことは言えないけれど、せめて心は伝えたい。

 危険を顧みず都市伝説に頼ったのは、怖くても逃げないのは。此処に来た理由は呆れるくらいに単純だ。

 少女は、ただ彼に謝りたかったのだ。


「私、ひどいこと言った。本当は知ってた、貴方が救ってくれたから。命を懸けて体を張って頑張ったからの今だって、知ってたのに……」


 なのに、失くしたものにだけ目を奪われて、理不尽にも彼を責めた。

 何度も命懸けで助けてくれて貰ったくせに、傷つけてしまった。

 なら口先だけの謝罪でいい筈がない。

 だって謝れば彼はきっと受け入れる。「気にしないでいい」と言って、許してくれる。

 それでは駄目だ。そんなのは謝ったとは言わない、彼の優しさに胡坐をかいているだけ。

 傷つけて、その上甘えるなんて出来ないし、したくない。

 

「謝りたいことが沢山あるの。今更遅いかもしれない。怒ってもいい、嫌ってもいい。でも、今度は、ちゃんと向き合いたいって思う。胸を張って友達だって言いたいから、今迄命懸けで私達を守ってくれたように、私も此処で命を懸けて貴方を守る」


 そうしなければ謝る資格さえない。

 彼が命を張って助けてくれたように、此処で命を張らないと、もう友達にもなれない。


「もう怖いことからも、貴方からも逃げない。私は、いつきひめとしての役割を果たす……!」


 決意というには頼りなく、言っていることも支離滅裂。

 でもそれでよかった

 理屈どうこうより、彼の為に何かしたかった。そうすれば今度こそ、まっすぐ、真正面から彼と向き合える。

 そう在りたいと願ったなら、馬鹿になって意地を張らないと。

 さとるくんへの電話も、かんかんだらから逃げないのも結局はそういうこと。

 けじめをつけて、もう一度仕切り直す為に。

 姫川みやかは命を懸けると決めたのだ。









 ……憎まれても、仕方ないと思っていた。

 吉隠の言葉は悔しいが真実だ。数多を踏み躙った男が、分不相応にも普通の幸せにしがみついた。

 その皺寄せが、白峰八千枝の死。少なくとも甚夜にはそう思えた。

 だからけじめをつけようと思った。

 吉隠を討ち果たした後は、みやかに憎まれ、責められても仕方ないと覚悟していた。


“なら、こうしましょう。答えは過去に出してもらえばいいんです”

“過去が、今を害しにきたというのなら。貴方の幸福の行方もまた、過去に委ねましょう”


 けれど支離滅裂なみやかの叫びに、おふうの言葉を思い出す。

 ああ、本当に。

 彼女の言うことはいつだって的を射ている。


 多くのものを踏み躙ってきた。それを忘れて幸福に浸るなど、許されるのだろうか。


 その答えが此処にある。

 数多を踏み躙ってきた。けれど、些細でも救えたものだってあった。

 そして、いつか救ったものが巡り巡って甚夜を救おうとしている。

 積み重ねてきた小さな欠片が、踏み越えてきた過去こそが、彼の今を肯定してくれている。

 ならば辿り着いた幸福を、否定することはしない。

 弱くて、なんの力もなくて。それでも精一杯の意地を張ったあの少女の優しさくらいはこの手で拾えたのだと。

 ちゃんと意味はあったのだと自惚れられる。


「いい、もういいから。みやか、逃げろっ……」


 だから、それで十分報われた。

 もういい。心はちゃんと伝わったから、早く逃げてくれ。

 甚夜の切なる願いは、彼がかつてそうしてきたように、容易く踏み躙られる。


『……そう、じゃあ頑張ってみれば?』


 明るく、軽く、朗らかに。愉しそうに怪異は蠢く。

 表情とは裏腹に、声はひどく昏い。

 底なし沼を思わせる淀んだ眼が、みやかを捉えた。

 とうの昔に壊れてしまった吉隠には、少女のまっすぐさは不愉快でしかなかったのだろう。 

 たかってくる虫を払うような雑さで致死の一撃は放たれる。

 甚夜達は動けない。いつきひめとはいえ少女に特別な力はない。

 抗う術はなく、誰にも止められず。

 悲鳴すら上がらなかった。

 姫川みやかは当たり前のように、此処で死を迎える。








 けれど、あらゆる答えを知る都市伝説、さとるくんは語った。

 原典において<かんかんだら>は巫女の力によって封ぜられる。

 故に、鍵となるのはいつきひめだと。

 かの怪異は決して嘘を言わず、真実のみを教えてくれる。

 つまり、これは予定調和の一幕だ。








『……………………う、あ?』


 目の前のゴミを片付けよう、それくらいの軽い気持ちで薙ぎ払った。

 しかし吉隠の一撃は、ぴたりと、みやかに当たる寸前で止まった。

 それも、ただ止まったのではない。

 かんかんだらは全身を拘束されている。

 吉隠は、自身の<力>。<織女>によって作られた、瘴気の鞭に全身を絡めとられ、身動き一つできないでいた。


『あが、ぎ。な、なん、でっ?』


 更に、立ち上る炎。

 吉隠の皮膚を火の粉もないのにいきなり吹き上がった炎が焼いていく。自らの<力>に縛られ、炎に包まれる怪異。

 かんかんだらは止められない。

 故に姫川みやかは死ぬ、その筈だった。

 けれど今彼女はこうして生きている。覆された死の運命を前に、誰もが目を疑っていた。





 常識では起こるとは考えられないような、不思議な出来事。

 特に、神などが示す思いがけない力の働きを、人は“奇跡が起きた”と表現する。

 けれど、これを奇跡とは多分呼ばない。

 そも特別なことは何もなかった。


『最近危ないしお守りがてらにもっててー』


 夏休み前、バイトで帰りが遅くなるのは危ないと、桃恵萌はみやかに幾つかの付喪神を渡した。

 呪詛の身代わりになるドール、防御力を高める福良雀、災い(悪鬼)を遠ざけるフクロウ、幸運を与えるウサギなどなど。

 使わなくても所持しているだけで効果のある、萌謹製の付喪神のストラップである。

 だから、かんかんだらの呪詛にみやかが耐えられたのは当然、驚くようなことではない。


『あ、うん。“都市伝説大辞典”。あいつ、新しい都市伝説については詳しくないみたいだし。こういうので勉強しておけば、知識面ではちょっとは力になれるかなって』


 甚夜はネット由来の都市伝説に疎い。戦えはしないが、せめてその辺りで力になろうと、姫川みやかは都市伝説大辞典を買った。

 少しは恩返しがしたい。

 そんな些細な気持ちが、都市伝説関連の書物に興味を持たせ、結果みやかは携帯電話を使う現代の都市伝説、さとるくんのことを知った。


『ああ。あれは悪辣だ。自身の愉しみの為に、意味もなく被害を広げる』

『構わん。四六時中という訳にはいかんが、気にしてはおこう』


 そういう優しい娘だから、甚夜は岡田貴一に気遣いを願った。

 みやかはいつきひめについて知り、ちょっとだけ神社について考え、バイトや勉強を頑張り始めた。

 その縁で貴一と知り合い、だからこそ時代遅れの人斬りも、頼まれたという以上に身を入れて少女を守った。

 結果彼女はさとるくんの都市伝説を失敗しながらも、此処ではない何処かへ連れ去られることはなかった。

 奇跡ではない。ほんの小さな積み重ねがみやかを守り、かんかんだらの前にまで辿り着かせた。

 だから、吉隠が動きを止めたこともまた、当然だったのかもしれない。





「く、はは。ああ、そうか。そうだったな」


 それに思い至り、甚夜は思わず笑った。

 ごうごうと燃え上がる、宵闇に滲む焔。夜の境内に灯る橙色は、そんな場合ではないというのに美しく思える。

<織女>を制御できていないせいか、かんかんだらの呪詛も薄れている。

 お蔭でようやく立ち上がることが出来た。


「思い掛けない結末になった……或いは、然して驚くようなことでもないのか。なんにせよ、縁というのは不思議ものだ」

『なに、を、言ってっ。ぐぅ』


 自身が作り出した黒い瘴気に縛られ、炎に焼かれ、吉隠は苦悶の声を上げる。 

 いや、違う。鬼は本来一つしか<力>を持ち得ない。

<戯具>。自分以外の対象を死なせない。それだけが吉隠の元々の<力>だ。


「忘れたのか? お前のその<力>が、誰のものだったのかを」


 けれど吉隠は半月はにわりでありミヅチの巫女。鬼の<力>とは別に巫覡としての特性を有している。

 神降ろし。

 神の託宣を受ける為、或いは疫病や災害を鎮める為に、対応する神霊・悪鬼をその身に降ろす。

 近代化に伴い廃れてしまった、万象に宿る霊威と繋がる“かんなぎ”の業だ。

 吉隠はそれを以って、鬼哭の妖刀に封じられていた鬼をその身に降ろし、<織女>を得た。


「……夜風さんは、そんなになっても戦ってくれていたんだな」


 郷愁に浸り、甚夜は穏やかに息を吐きながら呟く。

<織女>は元々、彼の義母に当たる女性のもの。

 マヒルさまの巫女。夜風とよばれたいつきひめの<力>である。


『ふざけるなよ、そん、な。そんな理由で、なんて、有り得ない。あって、たまるもんかっ……!』


 甚夜の言わんとすることを理解し、朗らかで軽い態度をかなぐり捨て激昂する。

 確かに<織女>はそもそも、いつきひめたる夜風の<力>。

 だから同じくいつきひめである姫川みやかを傷つけまいと、喰らった夜風の心が抗い、吉隠を止めた?

 そんな馬鹿な話があるか。


「有り得ないか。そうかもしれないな」


 実際、本当のところは甚夜にも分からない。

 動けなくなったのも、<織女>を使い、己を都市伝説に変えた弊害が出てきただけ。

 或いは、単に体力の消耗と甚夜が与えた傷によって、<力>の制御が上手くいかなくなったのか。

 もっともらしい理由なら幾らでもつけられる。

 それでも甚夜は、夜風の最後の足掻きだと信じたかった。


「だがその方が面白いと思わないか? 互いに<力>を突き詰め、相応の強さを得た。しかし個人の悪意も意地も、所詮はこの程度」


 かんかんだらは巫女と蛇の都市伝説。

 人を愛し人に裏切られた巫女は蛇の怪異となり、最後には巫女の力で封ぜられる。

 堕ちたミヅチの巫女は現代に至り、いつきひめに屈する。


「結局、お前は……おそらくは、私も。散々踏み躙ってきた想いに負けるんだ」


 つまりはそういうこと。

 常識では起こるとは考えられないような、不思議な出来事。

 特に、神などが示す思いがけない力の働きを、人は“奇跡が起きた”と表現する。

 けれど、これを奇跡とは多分呼ばない。

 この結末は天の配剤などではなく、心の積み重ねが作り上げたもの。

 結局のところ吉隠は。同じく甚夜も、連綿と繋いできた想いに敗北したのだ。


『ふざ、けるなっ!』


 そんなもの、受け入れられない。

 憎しみにも似た激情が、縛られた体を無理矢理に突き動かす。

 拘束を食い破り、炎を振り払い。

 狙いをつける余裕などない。それでも目の前の巫女もどきを葬ろうと、再びかんかんだらはみやかに襲い掛かる。


「おいでやす、鍾馗さま……」


 だが、させない。

 皆が苦しむ中、呼吸を整え沈黙していたのはこの瞬間の為。

 桃恵萌は最後の力を振り絞り、みやかを庇うように付喪神を繰り出した。


「も、萌?」

「友達が意地張ってるんのにそれを応援してやれないようじゃ、女がすたるっての!」


 鍾馗は特別な力を持たない代わりに、桁外れに強大。

 逆にかんかんだらの呪詛は薄まり、炎に全身を焼かれ、先程までよりも力を随分落としている。消耗した吉隠の一撃なぞ容易に受け止めはじき返す。


「さっきの、お返し」

『ぐぁ、ぎぅ……!』


 それを見逃すことはない。

 いつの間にか距離を詰めていた溜那は、異形の右腕で吉隠の顔面を殴りつける。

 ぐしゃり、と響いた嫌な音。肉を骨を潰す感触が伝わり、勢いに押され怪異は退く。

 ここが勝機。萌は追撃をかけようと、しなやかな四肢に力を籠める。


「これ以上はだめ」

「……分かってる。あたしだって空気くらい読めるって」


 しかし踏み止まる。

 動けないのではない。溜那に止められずとも、動いてはいけないと萌にも分かった。


「男の意地は立ててあげるもの。それがいい女……って、じいやが言ってた」

「え、マジ? じゃ、めっちゃ立てる。もうびっくりするくらい立てる」


 満身創痍、表情にも活力はない。

 それでも井槌は立ち上がり、吉隠の前に出る。

 コドクノカゴを巡る戦いにおいて、彼らは肩を並べていたと聞く。

 そんな両者の睨み合いに横槍を入れるほど萌は無粋ではない。

 動いてはいけない。男の意地に水を差すような女ではいたくなかったから、萌も溜那も警戒しつつも事の成り行きを見守っていた。


「……おう、吉隠」

『井、槌……』


 戸惑うように、僅かな躊躇いを滲ませながら井槌は吉隠に声をかける。

 お互い大正の世を覆そうと、妖刀使いの南雲に与した。

 かつては肩を並べて戦い、酒を酌み交わしたこともあった。どれだけ悪辣であろうとも、憎しみに任せた暴言を吐く気にはなれなかった。


「なんつーかよ、皮肉だな。俺もお前も、目指したもんは同じだったのに、どうしてこうなっちまったのかな」

『同じ? 馬鹿なこと言うね。違ったよ、最初っから』

「……ああ。そうなんだろうな、きっとよ」


 同じ陣営にはいたが、本当は、同じものなんて見ていなかった。

 井槌は弱い自分が嫌で、鬼を軽んじる近代が嫌でぶっ壊したかった。

 吉隠は古きものを不要と切り捨てる新しい時代に八つ当たりがしたかった。

 言葉面こそ大人しいが、きっと吉隠の方が大正の世を恨んでいた。

 当時はそれを理解できていなかった。だから多分、仲間だというには関係が浅すぎる。


「だがよ、それなりに上手くはやれてたと思ってたんだぜ?」


 同じと括るには、互いの在り方はかけ離れていて。

 それでも悪くはなかったと思う。偽久と吉隠に振り回されてばかり、胃痛はいつものことだったが、呑む酒は十分に旨かった。


「なぁ、吉隠。なんでお前はこんなこと」

『なんでって、愉しいじゃないか。命って、一番面白いおもちゃだとボクは思うなぁ……』


 だけど分かり合えない。

 もはや、“かつて肩を並べた”程度の理由では見逃せない。これを野に離せば、無為な被害が何処までも広がってしまう。


「……ああ、そうかよっ!」

『ぎぃ……!?』


 だから歯を食い縛り、痛みに耐えるような、泣きそうな顔で井槌は拳を振るう。

 決別の意を込めた全霊の一撃が吉隠の胸へ打ち込まれ、その体躯が吹き飛ばされる。

 いくら消耗しているとはいえ、かんかんだらは強大な怪異。膂力に優れた鬼であっても、拳一つでは殺すには足らない。

 或いは、本当は殺したくないとまだ思っていたのか。

 地に転がされ、息も絶え絶えではあるが、吉隠はどうにか命を繋ぎ立ち上がろうとしている。


「井槌、お前には悪いが」


 ただ飛ばされた方向が悪かった。

 その背後には、冷たい視線で見下す、左右非対称の異形の鬼が。


「こいつを、見逃す訳にはいかない」

「分かってるさ。……嫌なこと任せて、済まねぇ」

「なに。下種の相手は下種に任せておけばいい」


 たぶん、井槌は吉隠を殺せない。

 それが甚夜には分かっていた。だから掻っ攫うようで悪いと思いながらも動いた。

 <力>の八種同時行使、その反動で体は軋んでいる。

 もはや拳を振るうことも、刃を突き立てることもできない。

 ただ幸いにも相手は死にかけ。

 そして、殆ど動かない体でも、触れるくらいはできる。


『鬼喰らい……』

「そういうことだ。吉隠、お前の<力>も過去も、私が喰らおう。……此処で消えていけ」


 細い首に左手で触れ、へし折るぐらいの力で締め付ける。気持ちではそうだった。実際は押さえつける程度の力しか残っていない。

 だが抵抗はない。余裕がないのか、諦めたのか。

 だらりと手を放り出し、されるがままになっていた。

 その意味を考えることはない。

 どうであれ彼奴を見逃すなど有り得ないのだから。


<同化>


 左腕に神経を集中すれば、どくりと脈打つ。

 鬼を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。

 かつて葛野を襲った鬼から与えられた<力>である。


「……考えてみれば、二つの<力>を有した鬼など、自分以外ではお前しか知らないな」

『あはっ、はぁ。それ、ボクもだ。やっぱり、似た者同士なの、かぁ、もね』

「そのようだ。これも奇縁、引導は渡してやる。今度こそ、遠慮なく死ね」

『わぁ、こわーい。でも、ちょっとだけ、愉しいかも』


 命で散々遊んできた、ならば奪われる時もこんなものだろう。

 元より執着するほどの生ではなかった。此処で終わりになるとしても、似たような誰かに殺されるというのは、そんなに悪くはないかもしれない。

 体を預けるように脱力し、首を絞められたからか、<同化>によって喰われている為か、次第に意識が遠くなる。


「……っ」


 代わりに、甚夜には記憶が流れ込む。

 人を愛し、人に裏切られたミヅチの巫女。

 人に弄ばれ、人に捨てられた玩具。

 同情には値しない。始まりがどうであれ、吉隠は意味もなく殺し過ぎた。

 哀れに思うなど犠牲になった者達への侮辱。過去を垣間見ても、甚夜が心を動かすことはない。

 鬼喰らいの鬼は、その異名の通りに、吉隠を喰らう。 

 記憶を、体を、<力>を。

 そして最後には、その根幹。

 大切な何かへと辿り着いた。




 * * *




 捨てられたから、要らなくなった。

 壊れちゃったから、壊したかった。

 沢山泣いてきたから、その分沢山愉しみたくて。 


 だけど時折ちらつく景色もある。

 なにかとても大切だったような。 

 ああ、でも、よく思い出せない。


 願ったものは、なんだっけ?


『叡善さんにも考えがあるんだよ。まあ馬鹿な君じゃ分からないだろうけど』

『あ? “あんまり人は殺したくないよー”だとかふざけたことぬかすモヤシは黙ってろや』

『え? 何か言った? ごっめーん、君ってば小さすぎて声が耳まで届かなかったや』

『いや、だからお前ら少しは落ち着けや』

『だがよ、井槌』

『だけどさ井槌』


 鬼の<力>は才能ではなく願望。

 心からそれを望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。

 <戯具>に目覚めた吉隠も、多分願っていた。

 自分以外何かを死なせない<力>。

 だから本当は、なにか。

 壊れてほしくないものがあったような。




 だけど、考えても、やっぱりよく思い出せない。

 ならきっと、大したことじゃなかったんだろう。




 * * *




「……最後に、名を聞いておこう」


 それでも、心が動くことはやはりない。

 ただ己が踏み躙るものなら、名を聞くのが彼の流儀。


「名前? なま、え……?」


 その問いに、朦朧とした意識で吉隠はうわ言のように呟いている。

 焦点は合わず、考え込み、でも答えは出て来なくて


「あれ、ボクって、なんだったっけ……?」


 最後に、そんな冴えない言葉を零して。

 時代に捨てられたミヅチの巫女は、そっと消えていった。






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