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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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193/216

『終の巫女』・6




 捨てられたから、要らなくなった。

 壊れちゃったから、壊したかった。

 沢山泣いてきたから、その分沢山愉しみたくて。 


 だけど時折ちらつく景色もある。

 なにかとても大切だったような。 

 ああ、でも、よく思い出せない。




 願ったものは、なんだっけ?




 ◆




「決着を……いや。そろそろけじめをつけておこうか、吉隠よ」

 

 宵闇に染まる神社の境内。

 切っ先を突き付け堂々と、甚夜は四人を庇うように吉隠と対峙する。 

 上半身には六本の腕、下半身は大蛇。少し見ぬ間によくもここまで様変わりしたものだ。

 変わったのは外見だけではない。眼前の鬼から漏れる気配はかつての溜那、コドクノカゴにも匹敵する。

 これは、少しばかり危ない橋を渡らねばなるまい。甚夜は薄らと目を細めた。


「じいや……」


 ほっ、と溜那の口から微かに安堵の息が漏れた。

 桃恵萌は、十代目秋津染吾郎だけに実力は折り紙付き。特に切り札である鍾馗は単純な能力値で言えば溜那に迫るほどだ。それでもまだ子供であり、能力の高さに反してその扱いには拙さが残る。

 富島柳は、そもそも<ひきこさん>自体が援護向き。元は普通の高校生ということもあり、踏んだ場数も萌に及ばず、あまり高望みはできない。

 下位とはいえ鬼である井槌は、膂力に優れ打たれ強い。しかしガトリング砲を失い<力>も持たぬため決定打に欠ける。

 結果どうしても溜那が矢面に立つ形となり、当然ながら四人の中で最も負担が大きかった。

 甚夜の登場で誰よりも助かったのは、涼しい顔で誤魔化しながらも、心身ともに追い詰められていた彼女だろう。


「溜那、ここからは替わろう」

「ごめんなさい、たおせなかった」

「なにを。子供達を守ってくれて。なにより、無事でいてくれて有難う」

「……ん」


 しかし溜那を何よりも安堵させたのは、甚夜の無事そのもの。

 慕う“じいや”が此処にいてくれる。それが何よりも嬉しく、彼が来たならもう大丈夫と、何の疑いもなく信じられる。それだけの時間を積み重ねてきた。

 自然と肩の力が抜け、その分余裕も生まれる。

 溜那は一歩引いて、吉隠の挙動に目を光らせた。彼が前に出るのなら、子供達を守るのは自分の役目だろう。


「甚……大丈夫、なの?」


 先程までの青白い顔、呪詛に苦しむ彼の姿を見ていたからこそ、萌は目を大きく見開いている。

 柳も似たような心地らしく、狐につままれたような顔をしていた。

 彼らの目には確かに心配の色がある。それが、少しだけ辛い。

 いつになっても慣れない。こうやって素直に案じてくれる誰かの前で、本性を晒すのは。


「ああ、君達が体を張ってくれたおかげで、ゆっくりと休めたよ。……後は、任せてくれていい」

「でも、あたしだって、まだ、やれる」

「いや、本当にいいんだ。餅は餅屋、化け物の相手は化け物がやるさ」


 甚夜は子供達を一瞥し、再びかんかんだらを睨み付ける。

 瞬間、彼の体が奇妙な音を立てて変化し始めた。

 みるみるうちに筋肉は肥大化し、甚夜の体躯は一回り以上巨大になった。

 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。

 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。

 白目まで赤く染まった異形の右目。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。

 髪は宵闇で尚も輝く銀色。円と曲線で構成された、漆黒を赤で縁取りした不気味な紋様。

 右腕は若干太さを増し、鋭利な爪がよく目立つ。

 変化は止まり、境内には異形がもう一匹増えた。

 数多の鬼を喰らってきたが故の、歪で醜悪な鬼の姿である。


「葛野……それ。その、姿」

「離れていろ。加減はしてやれない」

「あ、ああ……」


 柳は茫然としている。その反応が普通だ、今更傷つくことはない。

 萌達はクラスメイトのことを心配してくれている。そんな彼らの前で鬼としての姿を晒すのは、正直気後れもした。

 しかし吉隠は想定した以上の難敵だ。加減して相手取れるような輩ではなく、一度やると決めた以上迷いも躊躇もありはしない。

 化け物の相手は化け物で十分。ここから先は、怪異同士の喰らい合いだ。


『けじめ、かぁ。うん、いいね。そろそろキミの顔も見飽きたし、派手に遊ぼうか?』

「お前にとっては今生最後の戯れだ。多少は付き合おう」

『甚太くんってさ、何気に結構ノリいいよね』


 吉隠の笑みには余裕がある。

 お前如きにそんな真似できるものか。傲慢ではなく、相応の実力に裏打ちされた自信故の余裕だ。

 実際、見栄を切ったはいいが、状況は決してよくない。

 コトリバコの、かんかんだらの呪詛は今も甚夜を蝕み続けている。体調は万全とは程遠く、対して半人半蛇の妖異と化した吉隠の力は、以前とは比べ物にならない。

 だが問題はない。苦難も窮地もとうの昔に見飽きている。ここで臆するほど初心でもなく、格上相手などそれこそ今更だ。


『にしても、反応薄くない? 今のボク<かんかんだら>なんだし、もうちょっと驚いてくれてもいいと思うんだけどなぁ』


 かんかんだらとなり、鬼神に迫る力を得た。にも拘らず、甚夜には然したる反応もない。

 平然とした様子が不満なのか、吉隠は口を尖らせる。敵対しながらも態度は相変わらず軽い。やけに気安い蛇の怪異、対する甚夜の返答も投げやりだ。


「なに、人から外れているのはお互い様だ。怯ませるにはちと外連が足りないな」

『あはは、それもそっか。お互い化け物だもんね……でも、その度合いには、違いがあるんじゃないかな?』


 今の吉隠は都市伝説、現代に流布される新しい神話の主。

 古い鬼である甚夜とは格が違うとでも言いたげである。

 彼奴には自惚れるだけの、並みの鬼では歯牙にもかけぬ程隔絶した力がある。

 合図などいらない。気安い雑談から、流れるように吉隠の体躯は蠢く。

 堕ちた巫女の都市伝説は、その憎しみをぶつけるかのような、理不尽なまでの荒々しさで甚夜へと襲い掛かった。


「っ……!」


 蛇の下半身でありながら、吉隠の挙動はいっそ気色が悪いほど滑らか。

 踏み込みの動作がなく、だというのに尋常ではない速度で距離を詰める。

 咄嗟に飛び退いたが回避と呼ぶにはあまりに無様。全力で逃げ、尚も服を皮膚を掠めた。


『よく避けたね』

「動きは読めなくても下種の考えは読める。どうやら不意打ちの類が好み、初めから警戒くらいはするさ」


 人の下肢を持たぬが故に初動はひどく読み難い。それでいて、掠めただけで皮膚を容易に裂く。

 肩慣らし程度の一撃でさえこちらの想定を容易に超えてくる。成程、自慢するだけのことはある。確かに外見だけではなく、中身の方も大した化け物だ。


『あはは、ひどいなぁ。下種もお互い様だろ?』

「違いない。私もお前と然程変わらん」

『へぇ、素直だねっ!』


 高らかな嘲笑が響き渡り、そのままぐるり反転、蛇の尾の薙ぎ払い。

 避け、間に合わない。<不抜>で受け止め、しかしその衝撃は桁外れ。体は壊れないが踏ん張れず、そのまま甚夜は吹き飛ばされた。

 井槌が受け止めた時はまだ手加減していたらしい。殺意が籠れば威力も相応、<不抜>でも痛みが伝わってくるほどだ。

 壊れない体とはいえ完全ではない。事実、本来の使い手である土浦もまた<剛力><疾駆>の同時行使は防げなかった。

 つまり吉隠の一撃はそれに匹敵するということである。


「<飛刃>」


<不抜>を解き返す刀、一息で三度、斬撃を放つ。

 速度では<疾駆>、膂力では<剛力>に匹敵し、けれどそれらは所詮余技。己が身を都市伝説に変えることで得た後付けに過ぎない。

 奴には<織女>がある。黒い瘴気は槍へと変わり、飛ぶ斬撃をいとも容易く叩き落とす。


『ほら、ちょっと凄いでしょ? 今のボクは鬼神をも上回る。同じ化け物って、それは流石に自惚れが過ぎるよ』


 止まらない。

 かんかんだらは堕ちた巫女と蛇、死に至る呪いの都市伝説。

 憎しみに歪んだ巫女は、大蛇となって命に食らいつく。


『新しきに古きは駆逐されて当然。ここで潰れろ、時代遅れの古き鬼』


 吉隠は躍動し、にたりとそれこそ蛇のように嗤う。

 そして矮小な鬼を、古い時代の象徴を叩き潰さんと、全霊の一撃を振り下ろし───




 ◆




 桃恵萌は十代目秋津染吾郎。

 目の前で甚夜が鬼になったとて、父や祖父から既に聞き及んでいる。

 だから恐ろしいとは思わず、それどころか話の通りだと少しばかり興奮したくらい。

 クラスメイトで、親友で、昔から憧れていて、大好きで。つまり彼女は鬼と為った彼を恐れなかった。

 けれど吉隠は怖いと思った。

 人から外れた容貌、それは甚夜も同じだし、そもそも見慣れている。怖いと思ったのは外見ではなく、寧ろその中身。

 性格だの下種な所業ではない。単純に、その力量を恐ろしいと感じた。

 あれは今迄対峙した怪異や都市伝説を一笑に付すほどの化け物。恐ろしいのは、自分を遥かに上回る敵は初めてだったから。

 だから怖い。

 萌には吉隠が、甚夜よりも強大な存在に見えたのだ。


「甚、っ……!?」


 事実、彼は後手後手に回り続けている。

 速度や膂力で劣り、<不抜>では防げず、<飛刃>も届かない。

 駄目だ。やっぱり、あれは化け物過ぎる。

 少しでも援護しないと。そう思って呪詛に体を蝕まれながらも、萌は立ち上がり、鍾馗の短剣に力を籠める。


「だめ」


 けれど、それを邪魔するように溜那は立つ。

 違う。邪魔ではなく、萌を庇っている。吉隠から遠ざけようと、少女はその身を盾にしていた。


「ごめん、溜那さん……いかなきゃ。あたし。親友で、秋津染吾郎だから」

「だめ」

「お願いっ、そこを」


 どいて、とは言えなかった。

 言うより早く吉隠は躍動し、甚夜を叩き潰さんと、全霊の一撃を振り下ろす。

 先程まで溜那達四人を相手にしていた時とは比較にならない。手加減なし、心底殺す気の一手だ。

 甚夜はそれを無防備に受け。

 そこで萌は、信じられないものを見た。




 ◆




 かんかんだら。

 堕ちた巫女の都市伝説。並みの鬼では追い縋ることのできぬ、隔絶した力を有した怪異。

 幹のように太い大蛇の尾が鞭のような滑らかさでしなる。 

 ずうん、と鈍い音が響き渡る。

 襲い掛かる蛇の一撃は、脳天から甚夜を叩き潰そうと、振り下ろされた。


「……お前と同じ発想というのは、癪だが」


 吉隠は目を疑う。

 蛇と巫女。自身と最も相性のいい都市伝説を用い、人造の鬼神を上回る、それだけの力を得た。

 手加減はしていない、完全に殺す気だった。


「肉や技は今迄散々鍛えてきた。それ以上を求めるならば、どうしたって最後には<力>の習熟に行き着く」


 だからこそ驚愕する

 甚夜はそれを無防備に受けた

 事も無げに、片手で止めていたのだ。

 吉隠は息を飲む、その間に距離は詰まっている。

 ただの踏み込みが奇襲と変わらぬ程に不意を打つ。乱雑に振るわれる拳が<織女>、瘴気の膜を軽く穿ち、頬へ突き刺さる。

 踏み込みが不意打ちなら、込められた膂力も想定の外。ただの拳が吉隠を退かせた。 逃げたのではなく下がったのではなく、単純に力で押された。

 更に追撃、夜に白刃が翻る。


「……流石に、棒立ちはしてくれんか」

『そりゃそうさ。でも、驚いたのは事実かな』


 虚を突くことで一撃は入れたが、流石に相手も然るもの。立て直しは早かった。

 夜来での袈裟懸けは六本の手に計三本、瘴気の槍で防ぎ、しかし吉隠にはまだ戸惑いが残る。


『キミも、凄い変わりようじゃないか』

「お前自身の言葉だ。成長は何も専売特許ではない。私とて歳月を重ねた、少しは前に進んで見せねば、格好がつかないだろう」


 鬼となった甚夜の姿は大正の頃に見た。容貌は多少の差異こそあれど殆ど変わらず、だというのに彼の力は、かんかんだらとなった吉隠をして驚かせるほど。

 鬼の姿になったからではない。本性を晒したとて、此処まで力が増すはずはない。

 実際先程までの身のこなしは常識の範囲内だった。これほどに急激な能力の上昇、明らかになんらかの“からくり”がある。


「鬼神を上回る、か。何とも有難いな」


 吉隠の驚きを余所に、甚夜は再び全身に力を籠める。

 鬼神を上回る。口だけではない。確かに吉隠はコドクノカゴと比肩する、それだけの怪異となった。

 ならばこそ、有難いと呟く。煽ったのでも舐めている訳でもない。

 ここに至り、彼奴程の難敵と巡り合えたのは僥倖だと、甚夜は素直に思う。


「ならばそれを下せば、私はマガツメに追い縋れるという訳だ……!」


 絞り出すような静かな咆哮と共に、再び戦端は開かれた。 

 肉や技は今迄散々鍛えてきた。

 それ以上を求めるならば、どうしたって<力>の習熟に行き着く。

 つまりは吉隠と同じ。奴は<織女>を突き詰め、「捏造された都市伝説の怪人の創造」に至った。

 同じく甚夜も自身を鍛え、更に<合一>を突き詰めた。

<合一>の能力は「二種以上の<力>の複合」。かんかんだらに追い縋れるほどの身体能力も、これによって得たものである。

 複合したのは<剛力><疾駆>。規格外の膂力と速度の合成。それ自体は以前からやっていた。

 しかし一瞬ではマガツメやコドクノカゴには届かない。だから甚夜が求めたのは、膂力と速度の“維持”。


<剛力><疾駆>、更に<御影>の身体操作の二種を加え、三種同時行使。


 当然ながら体への負担も尋常ではないが、己の意思で規格外の膂力と速度を完全に掌握、長時間そのままの状態を維持する。

 格上ばかりを相手取ってきた彼が求めた、自身より強い誰かを下す為の鬼札。

 それが鬼神を上回ろうとした吉隠の発想と同じ、「<力>を突き詰め、己を高める」技であったことは、皮肉としか言いようがないだろう。


『成程、ボクと同じって訳だ。お互い化け物で、お互い下種。ボク達、仲良くやれそうじゃない?』

「似た者同士は否定しないが、ごめんだな。楽しみを分かち合えない相手とは酒を呑んでもつまらない」

『気取るね。同種食い、人殺しの分際で』


 今の甚夜の動きはかんかんだらに勝るとも劣らない。

 精神ごと削り取るような大蛇の一撃を、<織女>によって生み出される瘴気の槍を鞭を、六本の腕から繰り出されるそれぞれを、真っ向から叩き落す。 

 だが吉隠は決して与しやすい相手ではない。

 初見こそ驚きはあった。しかし抜け目のないこの鬼は一瞬で立て直し、笑みを浮かべた軽薄な言動とは裏腹に、冷静に対応してくる。

 応酬は苛烈を極める。他者を寄せ付けず、一部の隙もない。宣言通り、化け物同士の喰らい合いだ。


「事実だけに耳が痛いな。お前の言う通り、所詮は下種。ならば下種の流儀でいこうじゃないか」


 化け物、下種。どちらも今更だ。

 元より正義の為に刀を振るってきた訳ではない。

 目的の為と他者を喰らい、あまりに多く踏み躙ってきた

 私怨故の道行きならば、倫理や人道を掲げるなど許されず、吉隠が少女の恩師を奪ったとて彼に責める資格はない。

 ならば下種は下種らしく、ただ己の欲望のままに振る舞うが本道。


「お前は気に喰わない。此処で死んでいけ」


 自分のことは棚上げに、気に喰わないからあれを殺す。

 そういう下種な振る舞いが似合いだ。


『いいなぁ、キミ。ボク今すっごく愉しいよ』


 研ぎ澄まされた殺気を心地よさそうに受け、吉隠は朗らかに笑う。

 馬鹿にしたのではなく、心底愉しいとその表情は語っていた。




 ◆




 甚太神社の裏手、雑木林を抜けて、姫川みやかは国道沿いにまで辿り着く。

 逃げたのではない。彼女なりに、命を張ろうとしている。

 葛野甚夜は何度も言っていた。

 正体は鬼だと、長くを生きてきたと。その意味を軽く考えすぎていた。 

 きっと白峰八千枝のことも、彼は自分のせいだと考えている。傍にいなければ、こうはならなかったと。

 でも本当に間違えたのはみやかの方、少なくとも彼女はそう思っていた。

 守られてきたから勘違いしていた。今迄が上手く行き過ぎていただけ。本当なら薫は口裂け女に殺されていたし、柳はひきこさんへ堕ち、みやかもNNN臨時放送で語られた通りになった。

 彼がいたから、沢山のものが救われた。

 安全だったのに、彼のせいで壊れたのではない。

 元からまったくの平穏ではなかった。無理をして、守ってくれて。恩に着せたりもしないから、上手く回っていたように見えただけ。本当はもっと早くに破綻していてもおかしくはなかったのだ。

 それを忘れて、零れ落ちたものに目を奪われて責めるなんて、お門違いにも程がある。

 そうやってせめて、傷つけて。なのに彼は、また命懸けで守ってくれた。

 ならばもう一度向き合うには、中途半端ではいられない。

 馬鹿な自分をそのままにしたら、友達にもなれない。

 そんなのは嫌だから、今度はまっすぐに彼と向き合いたい、そう思ったから。

 どうすればいいのか、自分に何ができるかなんて分からないままに、みやかは神社を抜け出した。

 彼女が唯一知っているのは、国道沿いにあるものだけだった。


「あった……」


 電話ボックス。

 かつて公衆電話はもっと多かったらしいが、誰もが携帯電話を持っているため、今では使われることも殆どなくなり、その数を減らした。これも時代に取り残された一つ。そう思えば僅かに思うところもある。

 けれど感傷に浸っている場合ではない。みやかは電話ボックスに入り、投入口に十円玉を。

 ゆっくりと、確実に、番号を押す。

 ポケットから音楽が流れる。鳴ったのは彼女の携帯電話。

 みやかがダイヤルしたのは自分の携帯の電話番号。だから鳴るのも、誰も出ないのも当然。

 それでいい。

 もしもの話である。都市伝説というものが本当にあるのなら。

 例え創作であっても、誰かが信じることで、真実怪異として成立するのならば。

 心から信じる、どうか在ってほしいとみやかは願う。

 祈るような真摯さで受話器に耳を傾け、無情にもコール音だけが響き。

 けれど彼女の祈りが通じたのか、或いは善からぬものが降りたのか。

 携帯電話から音楽は鳴り続けているのに、公衆電話が、ぷつりと。


 何処かに繋がった。

 

 相手が都市伝説ならこちらも都市伝説。

 みやかは緊張と恐怖に僅かながら戦き、しかしあらかじめ用意していた呪文を口にする。


「さとるくん、さとるくん、おいでください」


 何度も言うように、みやかにはどうすればいいのか分からない。

 萌のように戦うことも、おふうのように癒すことも。薫や麻衣のように、純粋に心配してあげることさえできない。

 傷つけてしまったけれど、彼の為に何ができるなんて、分からなくて。


「さとるくん、いらっしゃったらお返事ください」


 だから、何でも知っている誰かに、その方法を聞くのだ。






 * * *






《さとるくん》



 公衆電話に10円玉を入れて自分の携帯電話にかける。

 本来ならば誰も出ることはなく、しかし時折、どこかに繋がってしまう。


「さとるくん、さとるくん、おいでください」

「さとるくん、いらっしゃったらお返事ください」


 繋がったら公衆電話の受話器から携帯電話に向けてそのように唱える。

 そうすると、24時間以内にさとるくんから携帯電話に電話がかかってくるという。


『今、駅前にいるよ』

『コンビニを通り過ぎたよ』

『十字路にまで来たよ』


 電話に出ると、さとるくんは今いる位置を携帯電話に知らせてくれる。

 それが何度か続き、さとるくんは少しずつ近づき、


『今、君の後ろにいるよ』


 最後には自分の後ろに来る。

 この最後の電話の時に限り、さとるくんはどんな質問にも答えてくれる。

 それが未来のことでも過去のことでも、嘘を交えず、正しい答えを教えるのだという。

 ただし呼び出すときの呪文を間違えたり、後ろにさとるくんがいる状態で振り返ったり、質問を出さなかったりするとさとるくんに何処かへ連れ去られる。

 何処か、というのはあの世であるというのが一般的な見解だ。

 答えてもらえる質問は一つだけ。

 命の危険の代わりに、本当に知りたいことを教えてくれる、恐ろしくも奇妙な都市伝説。


 携帯電話を使う。自分の居場所を逐一報告する。背後に現れ「貴方の後ろにいるよ」。

 このような特徴から“メリーさんの電話”と同系統とされることも多いが、実際は少しばかり趣が違う。

 能動的に呼び出し、正答を教えてもらうという観点からすれば、寧ろ“こっくりさん”や“エンジェル様”などに代表される、テーブルターニングを祖とする都市伝説の方が近い。

 リスクはあるが、本人になんの素養がなくても理外の存在を呼び出せる、変則的な降霊術の一種である。


 ちなみに対策として、手順を間違えない以外の方法もある。

 それは背後に来るという特性上、「うまいことメリーさんや三本足のリカちゃんなど、同じく背後に来る都市伝説とかち合わせればいい」というもの。

 どうやら女の子たちの方が力関係では上にあるらしい。

 だから例えば『メリーさんの電話』に慕われている誰かがいたとすれば、そいつがさとるくんに連れ去られる心配はなかったりする。






 * * *






 さとるくんは、結構空気を読んでくれた。

 二十四時間以内に連絡は入るというが、みやかが電話ボックスを出ると、殆ど同時にコールが鳴った。

 液晶に電話番号は表示されない。非通知ともなっていない。

 此処ではない何処かから電話がかかってくる。


『いま、駅前にいるよ』


 出れば、スピーカーから子供のような、大人のような。男なのか女なのかも分からない声。

 怖い、けど助かったとも思う。

 時間がないから。すぐに来てくれたのは有難かった。


『コンビニを通り過ぎたよ』

『角を曲がったよ』

『もうすぐ、国道沿い』


 都市伝説の通り、幾度となくコール、出る度に近付いてくる。

 自分で呼び出しておいて、心臓が何か得体の知れないものに掴まれたような。縮こまって、呼吸が少し荒れた。

 そうして、最後のコール。

 みやかは震える指先で携帯電話を操作し、耳元へ。


『今、君の後ろにいるよ』


 遂に来た。

 此処で振り返ったり、躊躇ったりしてはいけない。質問できなければあの世に連れ去られる。

 大丈夫、聞きたいのは一つだけ。

 怯えを噛み殺し、はっきりとした口調で、みやかはさとるくんに問う。


「葛野甚夜が、吉隠という鬼に襲われています。彼を助ける方法を教えてください」


 危険を冒したのは、命懸けで助けてくれた彼に、命を張って報いる為。

 親友の薫に何度も勉強するよう言ってきたくせに、自分も大概頭が悪いと自嘲する。

 命の借りは命で返す。それ以外の方法が見つからなかった


『吉隠はかんかんだら、堕ちたミヅチの巫女だ』


 さとるくんはすらすらと、一瞬さえ間を置かず、まるで「1+1は2だ」と答えるような気軽さだ。


『かんかんだらは蛇と巫女の怪異、最後には彼女自身が生まれた巫女の家に伝わる方法で封じられた。だから吉隠を封じるには、巫女の力がいる。マヒルさまの巫女、いつきひめの系譜がカギとなるだろう。かんかんだらは巫女であるからこそ、巫女の力に敗北する。特別なことはない、ただ前に立ち、いつきひめとしての役目を果たせばいい。意味があるのは力ではなく、積み上げた年月。何なら巫女装束も着ると映えるよ』


 それが、正答。

 吉隠を倒す為には、いつきひめの力がいる。

 けれど萌とは違い、みやかには特殊な能力など何もない。ただ前に立つと言っても、それでどうなるというのか。

 質問したかったが、さとるくんが答えてくれるのは一つだけ。もう一度問えば命はない。

 だからみやかは黙し、ぶつりと、電話は切れてしまった。


「……いこう」


 半信半疑だが、さとるくんは確かに存在した。

 そしてさとるくんは怪人アンサーとは違い、嘘を交えず、真実のみを答えてくれる都市伝説。

 ならばもう信じるしかない。

 みやかは決意を胸に、一歩を踏み出し。


「ちょ、ちょっと待ってよ、みやかちゃん!」


 背後から聞こえてきた親友の声に足を止めた。

 いけない、そう言えば薫の言葉を殆ど無視して出てきてしまったのだ。

 大方心配して付いてきてしまったのだろう。みやかは事を終えた安心もあり、薫の声に後ろへ振り返った。







『振り返ったなぁ……?』






 そこにあったのは、醜悪なまでの愉悦に歪んだ異形の笑み。

 洋の東西を問わず、『見るなのタブー』は、多くの神話や民話に於いて語られる。

見てはいけない、振り返ってはいけない。タブーを課せられたにも拘らず、それを破ってしまったがために悲劇は訪れる、

 または決して見てはいけないと言われた物を見てしまったために恐ろしい目に遭うという類型パターンを持つ。

 往々にして、こういった怪異は、様々な手管で振り返らせようとする。

 さとるくんは正しい答えを教えてくれる、ある意味で正直な都市伝説。

 だから、向こうから仕掛けてくる可能性をみやかは失念していた。


「え、あ」


 この目で見た今でも、みやかよりも小さなこの怪異が、子供なのか大人なのか。男かも女かも定かではない。

 さとるくんがどのような存在かは彼女には分からず、ただ一つだけ理解した。

 伸ばされた手は、きっと此処ではない何処かへ連れ去る為。

 姫川みやかは失敗し、結末もそれに沿う。

 都市伝説の通りの最後を、少女は迎える。






「みやか君。君は物覚えがよい故に、教えておいてやろう」


 しかし幸運だったのは、別段この状況を予見していた訳ではないが、仕込みがあったことだろう。

 吉隠は悪辣。どのような方法を取るか分からない。

 甚夜は初めから、いざという時の保険はかけておいた、


『構わん。四六時中という訳にはいかんが、気にしてはおこう』

『……随分と簡単に受けるじゃないか』

『かっ、かかっ。なに、みやか君は見た目に反して真面目でな。うちのバイトの中でもよく働くのだ』


 夏休み後もみやかはコンビニでのバイトを続けている。或いはそこを突いてくるかもしれない。

 ならばもしものことを考えて、彼が知る中でも最上位の人斬り、岡田貴一の手を借りておきたかった。

 それが、此処に活きた。


「かっ、かかっ。この手の怪異の対策はな。呼び出して、答えを聞いた後に“斬り伏せればいい”。さすれば、知りたいことを知れ、後の憂いも断てる。しっぴんくっぴん親の総取りよ」


 さとるくんの手がみやかに触れるより早く、突如として現れた人斬りはあまりにも理不尽なことをのたまい、ひゅるり風が抜ける。

 彼女のバイト先であるコンビニ、アイアイマート。

 そこで店長を務める、酒好きで案外丁寧に仕事を教えてくれる、岡田貴一その人であった。


「……<剣ニ至ル>」


 何事かを呟き、それですべてが終わった。

 武骨な太刀が振るわれ、斬った。

 素人目にも分かる。それくらいに清廉な太刀筋。あれは体躯を斬り裂いただけではなく、その奥、もっと大切な何かを斬ってしまった。みやかはそれを訳もなく理解する。

 血は出ない、断末魔の悲鳴もない。さとるくんは溶けるように白い蒸気を上げながら消えていく。

 まるで物足らないとでもいうように、貴一は眉を顰めた。

 事実つまらない。肉や骨の手ごたえもなく、返り血もないとは、なんとも斬り甲斐のない。

 拍子抜けだ。血払いもそこそこに刃を鞘に収め、みやかへと向き直った。


「ふむ。まあ、仕方なしとするかの」

「て、店長……?」

「おお、みやか君。このような場で怪異と戯れる、中々によき趣味よ」


 バイト先の店長が、怖気が走るくらい血生臭い笑みを浮かべ、呼吸するような自然さで怪異を斬る。

 しかも普段とは口調も纏う気配もまるで違い、正直見ていると体の芯が震えてくる。


「よいのか、立ち止まっていて」

「え、あ、あの。ごめんなさい、ありがとうございますっ」

「うむ。では、次のシフトで」


 本気なのか冗談なのか、そう言って貴一は空気が漏れるような気色の悪い笑い声を零す。

 なんで、店長が。疑問は尽きないが、立ち止まっている暇がないのも事実。

 とにかく、よく分からないが、助かったのだ。

 今はそれで十分。ぺこりと頭を下げ、みやかは走り去る。幾重もの偶然に拾った命。かけどころは間違えてはいけない

 まずは家に。巫女装束を着て、それから境内。着替えに手間取り遅くなったでは話にもならない。

 本当に効果があるのかは分からない。

 それでも、今は信じるしかないのだ。









「かっ、かかっ。他が為に命を張り、敢えて過ちを犯す。如何にもあれが気に入りそうな娘よな」


 思えば、藤堂芳彦もまたああいう澄んだ男であった。

 不確実な怪異に頼る辺りあの娘は多少濁っているが、それでも今の若人の中では幾分かマシ。貴一は楽しげに、気色の悪い笑みを零す。


「さて、続きといくか。一番の大物には携われぬ。多少物足りなくはあるが、仕方あるまい」


 斬るべきを斬れぬは無様。人斬りとして生きたからこそ、他者の獲物を奪うような真似はしない。

 代わりに、夜の町を流離う。

 幸い葛野市には、吉隠の放った捏造された都市伝説の怪人がいくらか残っている。

 それらがほとんど被害を出していないのは、岡田貴一が悉く斬って捨てているからだ。

 一応頼まれてはいるし、趣味には合う。案外楽しんではいるが、少しだけ、みやかの背中には思うところもある。

 今の時代、剣など必要とされず、けれど剣に守れるものは確かにあり。

 剣どころか、なんの力もなく、それでも我を張ろうする者もいる。

 その中で、剣にならんと願った己は、どう在るべきなのか。


「剣の意味、か……」


 貴一は、走り去る背中に、ぽつりと呟いた。

 流れ往く時代に、少しだけ。

 本当に少しだけ、手にした刀の意味を、貴一は考えた。




 ◆




 二者の戦いは互角、だが状況は甚夜の方が不利である。

 吉隠は<織女>を以って、自らを都市伝説と変えた。

 甚夜は<合一>を以って、能力を底上げしている。

 だがリソースの問題、<力>の習熟度に関しては、只管に専心した吉隠が優る。


『いいなぁ、愉しい。一緒に遊んでくれる誰かがいるって最高だね!』

「そうか、こちらの気分は最悪だっ」

『つれないなぁ、もっと仲良くしようよ! ああ、本当に愉しい。これでキミの絶望する顔が見れたら、気持ち良すぎてどうにかなっちゃいそうだ!』


<合一>による<疾駆><剛力>の複合、<御影>を加えて長時間“維持する”。

 甚夜のそれは、吉隠の変化とは違い、<力>を使って無理矢理能力を引き上げているに過ぎない。

 当然負担は大きく、今もコトリバコとかんかんだらの呪詛に蝕まれ。

 吉隠からの直撃は一度もなく。しかしいくら避けても弾いても、ただ息をしているだけで消耗し、いつかは致命傷へと至る。


「がぁっ!」

『残念、まだまだ』


 短い咆哮と共に夜来を振るう。

 ちゃんと斬れる。だが、足りない。

 ならば更に無茶をするだけ。

 自身の皮膚を斬り、刀身を血で濡らす。

<血刀>。夜来を血の刃で包み、その上に刃を生成、身の丈を超える程の大刀へと変える。

 それだけでは硬さが足りない。頑強に、壊れない刃で斬り伏せる。

 血の刀身を<不抜>で強化。同時に、吉隠の動きを<地縛>で阻害。


『邪魔、だな!』


 走る三本の鎖、吉隠は瘴気を鞭へと変え叩き落し、それどころか黒い槍を雨あられと降らせる。

 血の大刀でそれらを弾き、再び鎖を放ちつつ、距離を詰めて剣と槍の応酬。

<疾駆><剛力><御影><血刀><不抜><地縛>。六種同時行使及び維持、流石にこの領域は初めてだ。

 体が軋む。知るか、今は奴を葬ることだけ考えていればいい。


『ホント、色々してくるよね!』


 更に追加、<空言><隠行>、八種同時。姿を消し、幻影を交え、隙を穿つ。

 しかし吉隠の対応は早い。姿が見えなくなると同時に暴れ狂う。幻影もなにも関係ない、辺りを丸ごと薙ぎ払うつもりだ。

 無論、そういう手に来るのは想定済み。

 姿を消せば、奴はやたらめったら暴れる。適当に、ではない。そうすれば被害は萌や柳、子供達にもいく。甚夜が出て来ざるを得ないと知っているからだ。

 目晦ましは無駄。そんなこと初めから分かっている。寧ろ狙いはそうさせる為だ。

 暴れ、意識は外に広がり。動きは大きくなり、僅かながら雑に。

 その一瞬を狙いすまし、<地縛><不抜><隠行>。消しておいた最後の鎖は吉隠の首へ。<剛力>、高まった膂力で無理矢理引っ張り、崩れた体勢、<疾駆>で駆け間合いを零に。


「お、おおおおおおおおおおお!」


 千載一遇の好機。

 仕込みに仕込んで動きを制限し、多種多様な<力>を複合した一太刀で斬り伏せる。

 今の甚夜が取れる最大限、最高の一手だ。

 ただ、相手を読むのは何も彼だけではなく、吉隠もまた思考する。

 かんかんだらはにたりと哂う。

 待ち構えている。吉隠の目に理解し、しかし知ったことか、企みごと斬り伏せる。






 最上の戦術とはなにか。

 漁夫の利。奇襲。目先の勝利に拘らず、うまく負け、うまく逃げること。

 明確な答えなどない。

 何を最上とするかは人によって変わり、そこに優劣はない。

 故に、吉隠ならば、問いにこう答える。


“最小の労力で相手の最大を潰すこと、かな”


 自身の損害は可能な限り小さく、相手の損害は可能な限り大きく。

 それこそが最上の戦術だと吉隠は考える。

 分かりやすく例を挙げていうのならば、最大を潰す最小というのはこういうことである。

 つまり気力は充実、準備万端。絶好の機会を逃さず、完璧な状態で走り出した人がいるとして。

 最上の戦術とは、


『……そういう前しか見てない人の、“足を引っ掛ける”こと。ボクは、それが最上の戦術だと思っている』


 吉隠は、そう答える。


『さて、いっぱい愉しんだし、そろそろ逃げよっかな』

「なっ」


 待ち構えてなど、いない。

 首に絡み付く鎖を引き千切った吉隠は、一転すぐさま逃げの態勢に入った。

 こいつ、ここまできて。

 甚夜は掛値のない全力。一太刀で終わらせるつもりだった。

 それを吉隠は全力で避け、この場から逃げるという。

 避けられれば、逃げられれば、そこで終わり。

 力を把握した吉隠は、甚夜の前に二度と姿を現さないだろうし、そもそも復調する前に事を起こす。

 逃げ果せた後は、再び捏造した都市伝説の怪人を生み出し続け、被害を無為に広げる。

 そうなれば詰み。もはやどうしようもない。

 吉隠は勝敗の見えない衝突よりも、退いての再起を選んだ。


「おま、え……!」

『うん、いい顔。キミって、ボク好みの表情するよね』


 ならば、尚のこと、この一太刀でけりをつける。

 全霊を以って振るう血の大刀、狙うは命、仇敵の首。

 対して仇敵には元より戦う気はなく、有り余る力、その全霊を回避に費やす。

 互いの力は互角だった。

 ならば当然、狙いをすべて読み切っていた方に勝敗は傾く。


『ぐ、ぅいぅ!?』


 折り重なる瘴気の盾を、悉く打ち破り。

 大刀が、かんかんだらの体躯を斬り裂く。

 夜に舞う鮮血。肉を、骨を、抉りながら。

 甚夜のは放った最後の一撃は。


『ざぁんねん、でし、た』


 仇敵を斬り裂きながらも、命には、届かなかった。

 傷は決して浅くない。今すぐ戦闘は続行不可能な筈。

 しかし、この一太刀に全てをかけた。元々無理矢理身体能力を底上げしていたに過ぎない。それが解ければ当然、吉隠には追い縋れない。


「吉隠ぃ……!」

『あはは、前と一緒だね。逃げるボクと追えないキミ。でも、結末は違うよ。最初っから逃げる気だったしね』


 痛手は、寧ろ甚夜の方。

 此処で逃がせば、次はない。なのに、体が動いてくれない。

 そして、逃げる態勢に入った吉隠は、甚夜よりも溜那を注視している。

 動けば、子供達や甚夜がどうなっても知らない。にやついた口元がこれ以上なくらい雄弁に語っていた。


『じゃあ、ね。今度は、そうだなぁ。秋津の先代とか、みやかちゃんのお父さんとか? うーん、動けないうちに学校丸ごとってのも面白そう。ああ、後は眼鏡の女の子。麻衣ちゃんだっけ、あの子もいい感じだよねー。折角だから、都市伝説の母体とか?』


 不穏当な、無邪気過ぎる悪意を撒き散らし、けれど止める者はなく。

 境内に高らかな嘲笑が響き渡る。

 そうして、吉隠は甚夜らに背を向け、逃げ道を塞ぐように立つ巫女の姿を見る。

 





 何の力も持たず。

 そしておそらくは、今後も人知を超える才になど目覚めないであろう、ごく普通の少女。

 いつきひめ。姫川みやかは、かんかんだらと対峙する。


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