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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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192/216

『終の巫女』・5




 人を愛したミヅチの巫女は堕ち、かんかんだらとなった。

 左右に三本ずつ、計六本の腕が蠢いている。

 大蛇となった下半身、その体躯はまるで太い幹のようだ。にも拘らず上半身は中性的で整った容姿のまま、だからこそ歪に感じられる。

 目を背けたくなる異形。醸し出す気配は淀み、息がつまってしまう。


「うげ……」


 萌は少女らしからぬ声を上げた。

 彼女程あからさまな反応は見せないが、この場にいる全員が似たような気持ちだった。

 あれは、化け物だ。

 溜那が吉隠を、井槌らがまわりの都市伝説を。その思惑は最初から外れることとなる。

 周りにいた都市伝説を戦力だと考えていた。けれど違った。かんかんだらとなった吉隠は、それらに手をかけると、怪人達は溶けるように消えていく。

 食べられているのだ。

<織女>は負の感情を操り、物理的な干渉力に変える。

 ならば仄暗い情念から生まれる都市伝説達は格好の食料なのだろう。

 あれは初めから力を溜め込む為の栄養に過ぎない。喰い終わった吉隠は、六本の腕と蛇の下半身を持つ異形となりながらも、朗らかな作り笑いを張り付けている。


「ごめんなさい、読み違えた」

「いや、ありゃしゃあねぇ。つーか、謝ってる場合じゃねえぜ。今度は邪魔になるとか言うなよ」


 流石にこの状況ではそんなことを言っている暇はない。溜那は黙って小さく頷いた

 元々彼女は一人で吉隠を相手取るつもりでいた。井槌らへ向けた「邪魔になる」という発言は、多分に気遣いが含まれたものだ。

 見目こそ幼いが相応の齢を重ねている。高校生の子供達を危険な目に晒すような真似はしたくなかった。

 だから受け持ちは自身が吉隠、井槌や子供達が都市伝説の怪人。それが一番安全だと考えた。

 そういう判断ができたのはつまり、倒すまでは至らなくとも、一人でも吉隠をある程度抑えきれる自信があったからだ。

 しかし彼女の判断は覆された。

 もはや果たして抑え切れるかどうか、の話ではない。


「冗談じゃ、ないっ」

「これ、マジでヤバすぎるんですけど……!?」


 苦悶に顔を歪ませる子供達。萌は咄嗟に柳達へ何かを投げ渡した。

 天然石のドール。呪いの肩代わりをしてくれる彼女お手製の付喪神だ。

 かんかんだらの特性は、「蛇の下半身を見た者は助からない」と言わしめる程に殺傷力の高い“存在そのもの”。

 コトリバコほどの即効性はないが、視認するだけで結ばれる呪詛。

 コドクノカゴである溜那はともかく、他の者達は対峙するだけで蝕まれていく。

 事実、咄嗟の判断で萌から呪い避けのドールを渡され、ある程度の軽減をしながらも、井槌らはじくじくとした痛みを感じている。

 故に問題は、果たして抑え切れるかどうか、ではない。

 果たして逃がし切れるかどうか。

 子供達の無事の確保さえ危うい状況に、溜那は整った顔を僅かながらに歪めていた。


『あはっ、愉しいなぁ!』


 空気を根こそぎ抉り取り、蛇の体が辺りを薙ぎ払うように躍動する。

 振るわれるのは、“攻撃”では生温い。“暴虐”の域にまで達した、理不尽なまでの一撃。溜那達を纏めて叩き潰すだけの威力がそこにはあった。


「……っ!」


 状況は決して良くないが、手を拱いている訳にはいかない。

 長引けばそれだけ負担がかかる。選択肢は極端に狭められた。子供達を助けるには逃がすのではなく、かんかんだらを打ち倒さねばならぬ。

 溜那は躊躇いなく駆け出す。めきめきと奇妙な音を立てながら彼女の右腕は身の丈の二倍ほどまで膨張し、全霊の拳を瞬時に叩き込む。


『流石に、易々とはやらせてくれないね』

「当たり前。お前なんかに負けない」


 ずうん、と地鳴りのような重苦しい音が響き渡る。 

 蛇の尾の薙ぎ払いと巨大な異形の拳。

 共に人から外れた力がぶつかり合い、余波だけで体が震えた。

 一先ずは、互角。だが数多の悪意を身に溜め込んだ吉隠が持久力では勝る。

 ならば決着は早々に。こちらが力尽きる前に、あの尋常ならざる怪異を上回らなくてはならない。


「……おいでやす、鍾馗様」


 拮抗する両者に横槍、突如として現れた髭面の大鬼の一刀が振り下ろされる。

 鍾馗。疫病を退け、鬼を討つ鬼神。三代目秋津染吾郎の造り上げた、秋津に代々伝わる付喪神である。

 特殊な能力ではない。純然たる力の塊は、かんかんだらと化した吉隠をほんの僅かであるが退かせる。

 隙は逃さない、頭を叩き潰す勢いで放つ拳。

 が、相手も然る者。そうも容易く事は運ばず、溜那の一撃は数多の腕に絡めとられ、返し振るわれる蛇の尾が無防備な萌を襲う。


「坊主!」

「分かってる!」


 瞬時に柳は駆け出し、数え切れないくらいの刃物を吉隠の顔面へ放ちながら、萌を連れ一気に後退。

 ダメージを与える程ではないが目晦ましにはなってくれた。吉隠の暴虐は空振り、寸でのところで事なきを得る。

 しかし追ってくる、太い幹のような体躯から次いで繰り出される薙ぎ払い。庇うように井槌が割り込み、それを受け止めた。


「んがっ……!?」


 重い。

 たった一撃受けただけ、それだけで体がばらばらになり、精神を削り取られそうなほどの衝撃が走る。

 が、どうにか防いだ。

 四肢にありったけの力を籠め、井槌はかんかんだらの体を無理矢理に引っ張る。相手も無抵抗ではない、当然堪えられてしまうが、ほんの僅か動きが止まれば十分。


「ん……」


 溜那は、ぱかりと大口を開けた。

 今の溜那は、コドクノカゴとしての力をある程度制御している。

 だから人の姿のままでも、こういった真似ができる。

 かつては甚夜を苦しめた、口から放たれる熱線。その原理は<織女>に近い。物理的な干渉力を持つまでに圧縮された、溜那の力そのものだ。

 淑やかそうな見目麗しい少女が、大口を開けて放つエネルギーの塊。なんとなく奇妙にも思えるが、相応の威力がそれには込められている。


『いやいや、口からビームとか女の子のやることじゃないでしょ?』


 けれど、通らない。

 今の溜那は、コドクノカゴとしての力を使える。

 吉隠もまた同じ。異形と化しても、今迄出来たことは当然のようにできる。

<織女>。黒い瘴気は強固な膜となって熱線を遮る。以前よりも更に習熟した<力>。む、と短く困ったように溜那は呻いた。


『自分の考えが証明されるってのは最高だよ。今のボクは、鬼神をも凌駕するってことだね』


 まるで人ごとのように軽い笑みが境内に木霊する。

 四人がかりでようやく真面にやりあえるレベル。吉隠は真実化け物に、新しい鬼神へと至ろうとしていた。




 ◆




『時折、考えるんだ』


 九月も終わりに差し掛かった、とある日のことである。

 みやかと薫、萌と麻衣の女子四人は、学校帰りにファミレスで甘いものでも食べながらおしゃべりに興じていた。

 ちょうど同じ時、甚夜はおふうと旧交を温めていた。

 白雪を失い、憎しみに目を覆われ、ただ力だけを求めた。

 今では成熟した、そう言い切れるほど自惚れてはいない。それでも未熟だったと思える頃合いに出会った彼女は、甚夜にとって取り繕う必要のない、気の置けない相手だった。


『本当に時折だが。こうしていていいのだろうかと、考える』


 雪柳の季節は過ぎ去ってしまった。

 けれど彼女との思い出は花に繋がっている。当てもなく駅前を二人で歩き、涼やかな水音に誘われて戻川へ辿り着けば、透き通る風に揺れる赤い花。

 秋の日が暮れるのは早い。だからこそ昼と夜の間にある一瞬は、橙色を帯びた彼岸花は殊更に映える。

 死人花、地獄花、幽霊花。彼岸花の異称は多々あり、古来より不吉な花だと忌み嫌われる。

 しかし可憐な佇まいは名のおどろおどろしさからは随分と遠い。秋の季節、切り取られ川縁の景色は、思わず息を漏らしてしまう程に優美だった。


『甚夜君?』

『多くのものを踏み躙ってきた。それを忘れて幸福に浸るなど、許されるのだろうかと』


 子供達には聞かせられない弱音だ。

 おそらく吉隠は甚夜の周囲を狙ってくる。つまり彼の大切な者を傷つけるのは、彼の過去に他ならぬ。

 歩んできた道程に多少の後悔はあれど、納得はしている。

 守り切れず失って。それでも必死になってしがみ付いて。

 辿り着く今を間違いなく幸福だと思えるのに、だからこそ、ほんの少しの陰りを落とす。


『そんなことを言ったら、誰一人幸せになる権利なんてないでしょう?』

『そう、だな。多かれ少なかれ誰もが間違いを侵す。正しさだけを選び取って生きていくなどできはしない……分かっては、いるんだ』


 分かってはいる。 

 それでも今回の件は、間違いなくかつての甚夜が引き起こした。

 あの時、確実に吉隠を討っていれば。そもそも、もっとうまくやれていれば。人を鬼を殺しながら生きた日々がなければ、こうはならなかった。

 何度も言うが、選んだ道に納得はしていた。過去に手を伸ばしたところで為せることなどないとも知っている。

 だからこれは単なる弱音。どうにもならない現状を愚痴っているに過ぎなかった。


『少し、弱気になっているのかもしれませんね』

『そのようだ。過去が、かつての因縁が今を害しに来た。だからそんなことを考えてしまったのだろう』


 けれど同時に本心でもあった。

 過去を否定することは、今に対する侮辱。

 辿り着いた景色を美しいと思えるならば、歩んできた道のりは間違いであっても、大切だったと胸を張って言える。

 ただ、今が幸せであればあるほど、微かな棘は時折痛む。どれだけ自分を肯定したとしても、棘はきっと抜けない。


『なら、こうしましょう。答えは過去に出してもらえばいいんです』


 その痛みは、同じく長い時を生きる彼女も、同じだったのかもしれない。

 だから何処か儚げな微笑みで、いっそ無責任なまでに彼の愚痴を放り投げる。


『過去が、今を害しにきたというのなら。貴方の幸福の行方もまた、過去に委ねましょう』


 結末はどうなるかは分からない。

 それでも、積み重ねてきたい過去が今を作るのならば。如何なる終わりでも受け入れられる筈だとおふうは微笑む。

 ああ、やはり彼女には敵わない。

 秋風に揺れる花を二人眺め、彼岸の花の美しさに酔いしれる。

 けれどそれも一瞬、切り取られた景色は、訪れた夜に消えていった。




 ◆




 つまり、おふうが夜の町を歩いていたのは、多分彼の幸福の行方を見届ける為だった。

 その途中偶然に薫達と出会い、状況を知り甚太神社へ訪れたのは僥倖。

 おふうもまた百年を経た高位の鬼。戦う力はないが、今の甚夜にしてやれることはある。


「うう……すごい音」


 薫が怯えに肩を震わせる。

 拝殿の奥には本殿があり、その二つは渡殿わたりでんが繋いでいる。

 吉隠の襲撃と共にみやか達は本殿へと逃げた。本来ならば神職以外はみだりに立ち入ることの許されぬ禁域だが、今は状況が状況だ。

 三人は本殿にまで響いてくる戦闘の激しさに、寄り添い合って身を潜めていた。


「アキちゃんたち大丈夫かなぁ。……それに、甚くんも」

「……た、たぶん。溜那さん達がいて。あの方が、お話の通りの、おふうさんなら」


 心配そうに呟く薫に、ある程度の事情を知っている麻衣は、たどたどしくだが心配ないと語る。

 けれど不安は消えない。薫も麻衣も表情は暗く、時折響いてくる激しい戦闘音にびくりと体を震わせている。


「……っ」


 無言でみやかは携帯電話を握りしめている。

 身を潜めるのは、三人。みやかと薫と麻衣だけである。

 三浦ふうと葛野甚夜は既に此処にはいない。そも彼女はその為に来た。


『実は私、鬼なんです』


 そう言った花屋の店長は、嫋やかに微笑んでいた。

 驚きはなかった。寧ろ「ああ、だからなのか」と納得した。

 甚夜とおふうの間には、他の誰かには入り込めないなにかが。言葉はなくても通じ合える、そういう不思議な一瞬がある。

 それはきっと同じ鬼だからで、みやか達には分からない大切なものを共有しているから。

 二人の特別な空気に、おふうのいきなり過ぎる告白はすとんと胸に落ちた。


『少しだけ、甚夜君をお借りしますね。私の<力>なら、彼をゆっくりと休ませてあげられますから』

『……本当、ですか?』

『はい』

『なら、お願いします』


 みやかは、彼を休ませてあげられるのならと、おふうの提案を受け入れた。

 二人は目の前で姿を消したが、逃げたとは思わなかった。彼女の人となりは殆ど知らないが、甚夜のことはそれなりに知っている。

 ひどい言葉を投げ掛けたのに守ろうとしてくれた。そういう彼が信じた相手なら不誠実な真似はしないだろうし、逃げるならそれはそれでいい。

 少なくとも甚夜の無事は確保できる。

 なら、悪くはないのではないか。


「みやかちゃん?」


 激しさを増す境内の音に怯えながら、薫はみやかの横顔を覗き見た。

 もともとこの親友はどちらかと言えば物静かで、感情表現は豊かではない。

 だからクラスの殆どの人はみやかをクールだと評し、けれど薫には、少なからず内心を察することが出来る

 今のみやかの表情は固く、しかしそこに怯えはない。

 緊張、でもない。

 それは多分、決意だ。なにかしら腹を括った。ぎこちないながらに、そういう力強さが見て取れた。


「私ね、甚夜にひどいことしたんだ」


 ぽつりと、懺悔をするように、みやかは静かに語る。


「白峰先生が死んじゃって、あの鬼が襲ってきて。悲しくて、頭の中グチャグチャになって。甚夜がいなければって、そう思った」


 口にはしなかったけれど、彼が気付かない筈はない。

 みやかの考えなんて多分分かっていて。でも受け入れて、矢面に立って、馬鹿な少女を守って倒れた。

 本当は、分かっていた。

 彼が悪いのではない。単なる八つ当たりだって分かっていたのに、止められなかった。

 しかし彼は何一つ言い訳しなかった。

 それが全て。子供の癇癪で、今迄散々助けてくれたのに、彼を傷つけてしまった。

 その時点で何かが終わったのだ。


「でも傷つけたのに、彼は命懸けで私を守ってくれて」


 だから。


「なら、私も命を懸けないと、ちゃんと向き合えない。……これからも、向き合いたいって思うから。私、少し無茶してくる」


 だから、もう一度始める為には相応の代償が必要だ。


「え?」

「ごめん、ちょっと出てくる。二人は此処にいて」

「み、みやかちゃん?」

「大丈夫。神社の裏手の雑木林を抜けていくから。都市伝説には見たらいけないタイプもいるしね」

「ちょ、ちょっと待って!?」


 薫の制止を振り切り、携帯電話を握りしめ、みやかは立ち上がる。

 そして僅かな躊躇いもなく本殿を出て、境内の方には目もくれず雑木林へ。

 馬鹿だなぁ、と自分でも思う。

 けれど彼は、恩知らずの少女を馬鹿になって守ってくれた。

 なら同じように馬鹿な真似をしてでも、彼に報いる。そうしないと、もう彼と向き合えない。ちゃんと友達だと呼べない。

 だからみやかは走った。

 今から馬鹿なことをするから。全てが終わった暁には、彼に叱ってほしいと、そんなことを考えながら。




 ◆




 くらり、花の香に酔う。

 甘酸っぱい、懐かしい花の香り。

 覚えている。これは春の訪れを告げる沈丁花。

 昔、教えてもらった。

 雪柳、沈丁花。思い出の彼女は春の花と繋がっている。


「……っ、あ………」


 ぼんやりと思考には靄がかかったまま。

 ゆっくりと軋む体を起こせば。

 いつか見たような、初めて見るような、花の庭に目を覚ます。


「ここ、は……っ」


 古い武家屋敷の縁側で眠っていた。

 春花の香りに誘われて意識は揺り起こされ、体を動かした瞬間走った激痛に、甚夜は完全に覚醒した。

 遠い過去に見た、まほろばの景色が目の前に広がっている。


「ああ、甚夜君。気付かれましたか?」


 傍らには、おふうの姿が。

 縁側からどこか切なげに庭を眺める彼女は、ひどく希薄で。今にも消えて行ってしまいそうなくらい頼りなかった。


「おふう……そうか、ここは」

「懐かしいでしょう? 此処は既に失われた場所。かつて幼い私が過ごした幸福の庭……もう、戻ることもないと思っていましたけど。巡り合わせというのは不思議ですね」


 江戸の頃だったか、此処には来たことがある。

<夢殿>。

 幸福の庭へ帰りたいと願った彼女が造り上げた、現世とは異なる箱庭だ。


「大丈夫、ゆっくりと休んでください。此処では外の世界よりも遥かに速く時が流れる。いつだって、大切なものこそ簡単に失われる……思い出はどうしようもなく歳月の彼方に押し流されていくものですから」


 それが<夢殿>のルール。

 此処はおふうの夢見た場所でありながら、理想には今一歩届かぬ願い。

<夢殿>は箱庭を造り、その中に入ることのできる、空間を制御する<力>。

 その本質は『思い出の再現』。此処にいる限り、おふうは幸福な思い出に浸れる。

 ただし、他の者を招き入れた場合、<夢殿>の主たる彼女以外の時間は、異常なまでに早く流れる。

 此処での一年は、外の世界では一瞬。

 幸福の庭では、誰もが彼女より早く寿命を迎える。

 流れ去る幸福の日々に取り残されてしまった彼女は、その速さに着いて行くことが出来ないのだ。


「コトリバコの呪いは、時間をかけてしか緩和できないそうです」

「……成程。であれば、確かに巡り合わせの妙だ」

「でしょう?」


 今回はそれが功を奏した。

 コトリバコは近づけば呪われるという性質上解体ができない為、その呪詛を受けた者は、神社や寺などで長い永い年月をかけて少しずつ清めて呪いを薄めていくしかないという。

 故に、<夢殿>のデメリットが役に立つ。

 外では一瞬だが、幸福の庭で眠る甚夜にとっては、長い歳月が過ぎ去る。その分多少なりとも呪詛は薄れ、どうにか目を覚ますことが出来た。


「綺麗、だな」

「ええ。大切な思い出ですから」


 縁側に腰を下ろした甚夜は、おふうと共に、春の花が咲き誇る幸福の庭を眺める。

 あの頃は、鬼女の哀切の象徴だった。

 けれど今は、素直に綺麗だと思える。変わったのは景色ではない。百を超える歳月が過ぎ、ほんの少しだけ前に進めて。

 あの頃とは違う心持で、花を愛でる余裕ができた。


「有難う、おふう。悪いが、そろそろ行かせてもらう」


 だけど、いつまでも立ち止まってはいられない。

 甚夜は何の躊躇いもなくそう言った。

 目が覚めたとはいえ完調には程遠い。呪詛は未だ彼の体を蝕み、軋むような痛みに覆われている。

 しかしそんなことおくびにも出さず、夜来を手にする。

 穏やかながら表情には活力が戻っていた。


「はい、今お送りします。お気をつけて」


 本当は立っているだけでも辛いだろう。

 そうと知りながら、おふうもまた、当たり前のように答えた。

<夢殿>でならば一年二年休んだところで外では瞬きの間。多少の休息くらい何の問題もない。

 互いに理解しながら、それを選ばない。まるで打ち合わせでもしていたかのようにすんなりと話は纏まった。


「止めないんだな」

「すぐに行くと、そう言うと思っていましたから」

「君なら、そう言ってくれると思っていた」


 女は敢えて不合理を選ぶ男に優しく微笑みかけ、それを受けた男は女に苦笑で返した。

 吉隠は難敵、相手取るなら万全を期すべき。まだ体を休めた方がいい。言われるまでもない、ちゃんと分かっている。


「貴方は、たくさんの想いを大切にしてきたのでしょう? なら、受け取った心を薄れさせるような真似はできませんよね」


 それでも戦いに臨むのは、吉隠がどうこう以前に、きっと自分を曲げられなかったから。

 直接は口にしなかったが、みやかは思っただろう。“貴方さえいなければ”と。

 例えば、此処でもう少し休めば、体の痛みはマシになるだろう。

 だが同時に、心もきっと薄れる。

 みやかの言葉に感じた痛みもマシになる。なってしまう。


「ああ。歳月は痛みを薄れされる、だが痛みと共に失ってしまうものもある。……私は、それを仕方ないで済ませたくはないんだ」


 それではいけないのだ。

 立ち止まれば楽にはなる。代わりに、色々なものと向き合えなくなる。

 あの子の憎しみは、ちゃんと真正面から受けてやらねばならない。

 だから今は不合理でいい、愚かでいい。冷静な判断で少女の心を蔑ろにする男ではありたくなかった。


「だから、けじめをつけてくる」


 吉隠のことも、みやかの痛みにも。

 あれを斬り伏せ、その後は憎まれても仕方がない。代わりに死ねと言われても従ってはやれないし、過去を取り戻せもしない。

 だが責められても、真摯に受け止めよう。そのくらいしか、彼に出来ることはないのだ。


「ほんと、馬鹿ですね」

「悪いな、性分だ」

「知ってます」


 余計な言葉はいらない。

 彼女なら分かってくれる。いつだって、呆れながらも微笑んで。


「いってらっしゃい」


 そう、送り出してくれる。


「ああ、行ってくる」


 素直にそう言えたのは、江戸の頃、かつて共にいた頃よりも、少しは前に進めた証で。

 甚夜は小さく笑みを落とし、けじめをつけるために、しっかりと夜来を握り直した。

 そして───




 ◆




「……んぅ、はぁ」


 溜那は、微かに息を漏らした。

 致命傷には程遠い。けれど全身に小さな傷、衣服も所々破れている。


「おう、溜那。無事かぁ」

「とうぜん。あんなのに負けない」

「そんだけ言えりゃ十分だな」


 寧ろ矢面に立って攻撃を受け止め続ける井槌の方がダメージはひどい。

 萌や柳を幾度も庇った。それでも膝をつかないのは彼の意地だろう。


「悪い、も……無理かも」

「富島ぁ、しっかり、しなさいよ……。男の子から、意地取ったら…何が残んの……?」


 井槌のおかげで傷はない。しかし柳や萌にとっては、かんかんだらと対峙するだけでも負担だ。

 柳は既に殆ど動けず、それを支える萌も既に限界。もはや戦うことは叶わず、かの怪異の前に立ってしまった時点で逃げる道など端からない。

 四対一。尚も、届かず。吉隠は、相変わらず朗らかな笑みを浮かべていた。


『まあ流石に子供達には負けてやれないけどね。意外だったのは、井槌かな?』


 余裕綽々といった態度でかつての同僚に視線を向ける。

 不思議そうに、というより小馬鹿にして、吉隠は小首を傾げる。なにを言いたいのか分かったようで、井槌は盛大に舌打ちをしてみせた。


『なぁんで<力>を使わないのかなぁ、って思ってだけど。キミ、使えなかったんだね』


 指摘通り、井槌は歳月を重ね、しかし今も昔と変わらず<力>を宿してはいなかった。

 通常、百年を経た鬼は<力>に目覚め高位の鬼となる。

 しかし彼はそうならなかった。その理由は、井槌自身何となく理解していた。


「おう、そうだよ」

『残念だね、<力>があったらもう少し強くなれたのに』

「残念なもんか。今の俺にゃあ、自分で叶えられねえ願いなんてないし、必要ねえんだ」


 鬼の<力>は才能ではなく願望。心から望み、尚も今一歩届かぬ願いの成就。

 だから、井槌は百年を経ても<力>に目覚めることはなかった。

 大正の世をぶっ壊したいと願った鬼は、鬼喰らいに敗れた。

 己が弱さを認めて、暦座キネマ館の清掃員になった。

 そこで人でありながら自分よりもはるかに強い“芳彦先輩”と出会った。

 一緒に働いた。じゃれ合って、ふざけたりもして。成人した時はキネマ館の皆で集まり酒盛りもした。

 ほとんど無理矢理芳彦に酒を注ぐ井槌、窘めながらも甚夜も嬉しそうで。ああ、そういえば岡田の奴も偶然来ていたか。

 呑めや歌えやどんちゃん騒ぎ。酒宴は一晩中続いて、希美子に正座させられ怒られたのを覚えている。


 希美子と言えば、結婚する時のドタバタを腹抱えて笑った。

 芳彦は奥手で告白するのも一苦労。父親の説得なんて更にだ。希美子は希美子で溜那に背を押されても恥ずかしがって。そんな二人を微笑ましく眺めたものだ。


 戦後、空襲で焼けたキネマ館を再建する為に奔走する夫妻を傍で支えた。

 映画の全盛期を経て、昭和後期の衰退。幾度も降りかかる苦難を、館長である芳彦、妻である希美子。その子供達や甚夜や溜那、皆で力を合わせて乗り越えてきた。


 そうやって歳月を重ねてきたから今がある。

 もう世の中をぶっ壊したいなんて思わないし、身の丈に合わぬ願いを抱くこともない。

 暦座キネマ館で過ごす日々に井槌は報われた。

 叶わない願いに焦がれる筈もなく、結局、井槌が<力>を得ることはなかったのだ。


『へえ。昔は“弱いってのは、惨めだなぁ”なんて言ってたのに』

「まったくだ。だがよ、弱いってのも悪くねえさ。もう、ない物ねだりはしねえ。俺は、十分すぎるくらい報われたんだ」


 だから井槌は弱いまま。

 なんの<力>もない下位の鬼のままで、それでも辿り着いた今を悪くないと思う。

 彼は誇らしげに、心底楽しそうに口の端を釣り上げる。

 それが吉隠には不快だったのかもしれない。

 中性的で端正な顔立ちをした鬼は、初めて不快げに表情を歪めた


『ふぅん……分かんないなぁ。弱いのが嬉しいなんて気持ち』


 なじるような物言い、視線は見下すよう。

 けれど井槌は何も反論しなかった。

 代わりに、


「こいつは強いさ。少なくとも、お前などよりはな」


 鉄のように固い声が響いた。

 同時に飛来する特大の斬撃。<合一>……<剛力><飛刃>の同時行使。

 威力を高められた横薙ぎの太刀、しかし吉隠は大して動揺もせず、冷静に<織女>でそれを防ぐ。

 驚きはなかった。

 あの男のことだ、必ず来る。信頼ともいえるレベルで、吉隠はこうなると予測していた。


『思ったより、早く来たかな』

「高校に通うようになって初めて知ったんだが、どうにも私はやり残しがあるとゆっくり休めない性質らしい。宿題も、厄介ごとも、邪魔者も。早めに片付けておくに限る」

『あはは、言うね』


 視線は、井槌から声の主に移る。

 武骨な太刀を手にした男は、まるで散歩でもするかのように悠然と境内に姿を現した。

 萌の柳の、井槌の溜那の横を、軽やかに彼は通り抜ける。

 目を背けたくなるような異形を前に、やはり力強さなど欠片もない、ゆったりとした所作で切っ先を突き付け。


「決着を……いや。そろそろけじめをつけておこうか、吉隠よ」


 そうして彼は、大正から続く下らない因縁を終わらせると此処に宣言した。





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