『終の巫女』・3
街灯、ネオン、ビルの電気。
駅前は夜でも其処彼処に光が散らばっている。
雑踏はどこか遠くに感じられて、人の流れに逆らってみやかは歩く。
学校をサボって、こうして一日中そこいらを散策している。
時折、すれ違う誰かと肩がぶつかって。その分だけ人混みは寂しく感じられた。
夜でも眩しく騒がしい駅前から逃げるように離れ、今度は閑散とした通りへ。
当てもなくさ迷い、時折立ち止まって、蹲ってはまたぶらついたり。自分でもよく分からないことをしていると思う。
もう時計は夜の十時を回った。
そろそろ帰らなきゃ、でも後もう少しだけ。
何度目かの思考は行ったり来たり、歩く道も行ったり来たり。まるで夢遊病のようなおぼつかない足取りだ。
あとちょっと、あと一時間くらい。そう言い訳して公園へ。
真っ暗の公園はひどく不気味で、だからこそベンチに腰を下ろす。
足をぶらぶらと揺らしながら、多分みやかは誰かを待っている。
来ないと知っているのに、彼女は、待っていたのだ。
「みやか」
そうして現れたのは、彼女が望んでいた人物ではなく。
葛野甚夜。
クラスで一番仲のいい男の子。だけど今は、あまり会いたくなかった。
「……よく、分かったね。此処にいるって」
「分かった訳じゃない。虱潰しに探しただけだ」
「それは、言わなくてもよかったんじゃないかな」
なんとなくだとか、此処にいると思った、なんて言っておけば格好も付くだろうに。
不器用だけど、そういう素っ気なさが何となく彼らしいとも思う。
いつもはそれが微笑ましく感じるけれど、今夜は頬が緩んだりはしなかった。
「帰れって言いに来たんじゃないの?」
「言って聞くくらいなら最初からここにはいないだろう」
「そう、かも」
甚夜は何も言わず隣へ腰を下ろした。
手には太刀がある。都市伝説の元凶を警戒してのことだろう。
こうやって探しに来てくれたのも、みやのことを純粋に慮ってだ。
危ないと初めから伝えていたのに、学校をサボって夜中に出歩いて。そんな馬鹿な子供を怒りもせずに彼は夜空を眺める。
その横顔は普段と変わらない無表情で、みやかにはその胸中は分からない。
けれど多分、待ってくれているのだ。話すなら聞くし、言わないならそれでもいい。
何を言われても受け止めると、態度で示してくれている。
「夜遅く出歩くと危ないって先生に、怒られたことがあるんだ。だから、こうしていたら先生がまた来てくれるんじゃないかって思ったの。前みたいに怒ってくれるような気がして……馬鹿みたいでしょ?」
黙っているべきだった。なのに自然と喋っていた。
沈黙に耐えられなかったのか。
或いは、沸き上がる何かを押さえられなかったのかもしれない。
きっと聞いてほしかったのではなく、我慢が出来なかっただけ。
「だから……来てほしくなかったかな、甚夜には」
それは掛値のない本心。彼には、来てほしくなかった。
一度口にしてしまったせいで、心の片隅にあったなにかが溢れてくる。
目を背けたくて、俯いて。でも後から後から沁み出して。本当は隠しておきたかったのに、見たくなかったものが顔を覗かせる。
「みやか……」
「慰めないで。優しくしないでよ。私が何考えてるかなんて、本当は分かってるんでしょ? だから、来てほしく、なかったのに」
ああ、だめだ。
そんなこと思ってはいけない。
分かっているのに止められない。
この一か月、皆に助けられてきた。
そのおかげで白峰八千枝の死も少しずつ薄れ、余裕ができてきたから、気付いてしまった。
「散々言われても夜歩きするような馬鹿なんて、放っておいてくれてよかった。危ない目に合っても自業自得だよ」
「出来る訳がないだろう」
「うん。甚夜は、そう言うよね。感謝してる、本当に……でも、今は止めて。お願いだから」
彼は、決して鈍くはない。
みやかが今何を考えているかなんてきっと分かっている。
分かっていて、それでも案じ、ここに来てくれた。
多分、罵倒されるのも前提に。心底みやかの為だけを考えて。
それくらい、ちゃんと理解している。抱く感謝だって掛値のない本心だ。
だからこそ彼の優しさが辛い。
気遣わしげな甚夜の視線を感じ、でも脳裏を過る考えに俯き、みやかは子供のように癇癪を起こし叫んでしまう。
「お願い。今優しくされたら。きっと、私ひどいこと言う……!」
彼には来てほしくなかった。
だって、本当に、感謝しているのに。
“彼がいなければ、先生が死ぬことはなかった”なんて。
そんなひどい考えが、ずっと消えてくれないのだ。
「分かってる……悪いのは、甚夜じゃなくて。今までずっと守ってくれて、だけど、もしかしたらって、そうやって、私。わ、たし……っ!」
言っていることは滅茶苦茶、気付けば涙が流れていた。
悲しくて、情けなくて、あまりにも理不尽だと分かっているのに、もしかしての想像が頭にこびり付いている。
泣き過ぎて顔は見せられないくらいグチャグチャになって、そもそも合わせる顔などない。
最低だ。我慢しようと思っていたのに、結局ひどいことを言った。
傷つけた。彼も、きっと呆れてる。大切なものを、自分で壊してしまったのだ。
隣にいる甚夜が立ち上がる気配を感じた。多分ベンチから離れたのだろう。
正直ほっとした。
散々助けてもらった。彼がいなければどうにもならなかった事件だって沢山あった。
そのくせに、手前勝手に感情をぶつける最低な女なんて放っておけばいい。
その方が、いっそ救われる。
顔を上げるのも憚られて。俯いたまま、みやかは背中を見送ることさえできないでいた。
「………いせ…」
そう思ったのに、何故か甚夜はぽんと優しくみやかの頭に手を置き、小さく何事かを呟いた。
そして、ちゃきり、鉄の音が鳴る。
「や、甚太くん。久しぶり」
公園に響く、男か女かも分からぬ高めの声音。
みやかは涙を止められないまま、場違いな程あっけらかんとした誰かの言葉にようやく顔を上げた。
暗がりから姿を現した人物は、端正な顔立ちで、声と同じくらい中性的だ。
気の利いた少年風の少女にも、少女のように線の細い少年にも見える。
明るく、人懐っこい笑み。親しげな口調。
けれど真面な相手ではないと、甚夜の纏う気配に、彼が突き付けた夜来の切っ先に察する。
「ああ、久しいな」
甚夜の声はぞっとするくらいに冷たい。
自分に向けられたものではないと知っていながら、それでも背筋が粟立つほど。彼を怖いと感じるのはこれが初めてだった。
「あれ、なんか意外と冷静? もっと怒ってるかと思ったのに」
「……どうだろうか。苛立ちはあるが、お前を責められるような男でもない」
「あはは、まあそっか。同族喰らいの君がよそ様を批判出来る訳ないもんね。人だっていっぱい殺してるんだし……ねえ、みやかちゃん?」
いきなり呼びかけられて、みやかはびくりと体を震わせた。
ひどく軽い態度に感じたのは、違和よりも不気味さだ。刀を突き付けられて平然と、それどころか面白そうに笑うこの人物は、とてもではないが真面には見えなかった。
「あっと、自己紹介がまだだったね。ボクは吉隠。捏造された都市伝説の生みの親……っていった方が、キミには分かりやすいかな?」
事実、この性別不詳の人物は真面ではない。そもそも人ですらなかった。
吉隠。以前語っていた、大正の頃に甚夜が対峙したという鬼。
捏造された都市伝説の怪人、それらを生み出した元凶。
……そして、おそらくは。
白峰八千枝の死の直接の原因になったであろう存在。
「でさ、話は戻るけど、みやかちゃんも甚太くんってひどい奴だと思うよね?」
「そんな、こと」
「気を遣わなくていいよ。君だってちゃんと分かってるでしょ? ほんと、可哀そうだよねー」
はっきりと否定できないみやかを見る吉隠は、傍目には本当に無邪気で朗らかだ。
だから泣きたくなる。
みやかの名を知っていたのは、つまり予測が正しかった証明だ。
「甚太くんさえいなければ、翔くんママさんも死なずに済んだんだから」
葛野甚夜の友人、その恩師だからという理由で白峰八千枝は狙われた。
吉隠という鬼は、みやかに「お前さえいなければ」と言わせる為に、そんなことの為に彼女を殺したのだ。
「ほんと、みやかちゃんも災難だったね。彼がいなければ今頃先生だって」
「やめて……」
「それに、知ってる? 彼こうやって普通の顔して高校に通ってるけど、当たり前のように人を殺したり、同じ鬼を食べたりしてるんだよ?」
「やめてっ!」
耳を塞ぐ。けれど吉隠の朗らかな笑い声が聞こえてくる。
もうやだ。楽しかった高校生活が、全部なくなってしまいそうな、そんな錯覚。
いや、錯覚ではないのかもしれない。「彼のせいで」と考えてしまった時点で、本当は終わっていたのではないのだろうか。
愉しそうな吉隠の態度が、その想像を肯定しているかのように思えて。
「っ、と。……危ないなぁ」
けれど一息に間合いは詰まり、首を落とそうと振るわれる刀。
甚夜の一太刀に笑い声は掻き消えた。
夜来は、いつの間に取り出したのか、拳銃の砲身で防がれている。あのような細い鉄で防ぐには、何かからくりがあるのだろう。みやかには分かりようもないが、実際甚夜は大して驚いていなかった。
「みやか……私に思うところはあるだろう。だが、今は言う通りにしてくれ。少し離れ、しかし目の届くところにいてほしい」
「う、うん……」
あれだけ酷い態度を取ったのに、甚夜はまだみやかを守ろうとしてくれている。
それが申し訳なく、自分が情けなく。せめて邪魔にはならぬよう彼の言う通り距離を取る。
逃げろ、と言わなかったのは吉隠の悪辣さを知っているから。
この場から逃げてはいけない。間違いなく、吉隠は逃げ道にこそ罠を敷く。
経験の浅い彼女ではそこまでは読み取れないが、甚夜の言うことには意味があるのだろうと素直に従った。
「いきなり首狙いとか、甚太君てば相変わらず容赦ないね」
「なに、お前が相手ならば、これくらいは挨拶の域を出ないだろう」
そのまま縺れ込むように両者は相対する。
吉隠は獰猛な獣の形相。対する甚夜は無表情、眉一つ動かさない。
首への一太刀。眉間を狙う銃弾。互いに放つは致死の一手、それを瞬き一つせず容易に躱す。
挨拶という表現に間違いはない。
殺すつもりだが、この程度では死なぬと知っている。
ならば至近距離からの銃撃も振るう白刃も所詮は戯れ。いくら殺意をぶつけ合おうとも、彼らにとっては挨拶でしかない。
「それもそうだねー」
なにより吉隠はまだ<織女>を使っておらず、甚夜は鬼としての姿を晒していない。
本気ではあるが全力には程遠く、この数合は戦いというよりも計り合い。歳月を経て、彼我の優劣がどう変じたか。それを確かめているに過ぎなかった。
「なら、久しぶりだし、しっかり挨拶しておかないと!」
踏み込み、肘打ち。
体を捌いて躱し、しかしそれは吉隠も予測済み。
本命は別。肘を支点に最小の動作、銃口が甚夜の心臓を狙う。吉隠の戦法は大正の頃と同じ、二丁の拳銃と体術の複合だ。
拳銃はHeckler & Koch USP。警察でも使われる大型のオートマチック拳銃。どうやって手に入れたかはあまり想像したくない。
回転式を使用していた頃よりも隙は無くなった。
が、体術に劇的な成長はない。
「少し、遅くなったか?」
トリガーを引くよりも早く吉隠の右腕を蹴り飛ばし、態勢を立て直す前に唐竹一閃。
流石に骨は断たせてもらえなかったが、後退は間に合わず、胸元の肉を斬り裂いた。
「くぅっ!?」
演技ではなく、吉隠が苦悶の表情を浮かべる。
リソースの問題である。自身を鍛え続けた甚夜とは違い、吉隠は<織女>によっていくつもの捏造された都市伝説を造り上げてきた。
成長したのは互いに同じ。だが吉隠は己を鍛えるのではなく、<力>の習熟にリソースを割いた。その差が、顕れている。
かつての力量差は此処に引っ繰り返り、今や単純な力量は甚夜が上。
だから、この勢いのままに───
「……っ!」
攻めては、まずい。
甚夜は一気に後退し、棒立ちになっているみやかへと意識を向ける。
あの抜け目のない鬼が、力量を読み違え、勝ち目のない戦いに挑む?
まさか、有り得ない。
つまり奴は初めから甚夜を打倒するなど考えていない。おそらく姿を現したこと自体が陽動。
初めから盤外の一手で戦況を掻き回すことこそが狙いだ。
「勘が良すぎるなぁ、甚太くんは」
構えた銃口はみやかを狙っている。
放たれる弾丸。射線に割り込み、<不抜>。計三発、鉛玉などで体は壊れない。
一瞬足を止められた程度。甚夜はみやかを庇うように立ち、それを愉しそうに吉隠は見下す。
「ま、でもいっか。どっちに転んでも面白いことになりそうだし」
夜が、ゆらり揺れる。
本来ならばそれは伏兵だった筈。奇襲は失敗。にも拘らず、攻め手を読まれて尚、吉隠は“そいつ”を嗾ける。
闇から浮かび上がるように姿を現したのは、悲痛な叫びを上げる女。
『おね、が』『…こ、のこ……』と、声を絞り出し、哀れに思える程なにかを繰り返し訴える怪異だった。
肌の色に生気はなく、顔は血だらけ。皮膚はえぐれ、ところどころ骨や筋肉が露わになってしまっている。
怪異は緩慢な動きで甚夜へと、正確に言えばみやかへとにじり寄る。
何かを仕出かす前に、一太刀で斬り伏せる。
上段に構え、駆け出そうと四肢に力を込め。
「待って……甚夜、お願い。まって」
けれど、みやかの悲しげな声に足を止められる。
刀は振り下ろす先を見失い、改めて怪異を睨み、甚夜は強く奥歯を噛み締めた。
「……そういう手で来るか」
「初めから甚太くんに奇襲なんて通じるとは思ってないよ。なら、読まれても問題ない手を打つ。当然のことじゃない?」
ああ、確かにその通りだ。
自分に注意を引き付けてからの、伏兵による強襲。甚夜には、吉隠の腹がちゃんと読めていた。
なのに、奴の悪辣さを予測できていなかった。
伏兵は甚夜の不意を打つ為ではなく。
始めから、彼が守ろうとする少女に揺さぶりをかける為の一手だった。
「白峰、先生……」
みやかは、わなわなと震えている。
恐怖か悲哀か。それとも怒り? 或いは、もっと別の何かだったのか。
沸き上がる感情は自分でも理解できない。ただ彼女は、動くこともできず、底冷えするような呻きを上げる怪異に……白峰八千枝に見入っていた。
かつての恩師の変わり果てた姿。
説明されないでも分かる。
八千枝は今や捏造された都市伝説となった。
吉隠は、その為に彼女を殺した。
「どう、甚太くん、気に入ってくれた? キミの為の特別製なんだ」
彼がいたからこうなった。
全ては甚夜のせいだと知らしめるように、吉隠は高らかに語り上げる。
さて、どうする。
姫川みやかを助けるためには、白峰八千枝を斬らねばならず。
斬れば、みやかは甚夜を憎む。
どう転んでも鬼喰らいは苦しむ。倒す為の戦略ではなく、愉しむ為の余興だ。
「みやか……済まないが」
「分かってる。分かって、る。け、ど……」
ああなってはもはや殺すしかない。
そんなこと、みやかにだって分かる。それでも見たくはない。
怪異と化した八千枝が斬られるところも、甚夜が斬るところも、見たくなくて。
『おねが、い。この、子を……』
まるで助けを求めるように、恩師が手を伸ばすから。
みやかはふらふらと、自ら怪異へ歩み寄ろうとした。
流石にそれは認められず、肩を掴み制止する。
が、遅かった。距離がほんの少し近付いた、それだけで十分だということに、二人はまだ気付いていない。
「……恨んでくれていい」
「ま、って」
甚夜はみやかの躊躇いを無視して、一息で間合いを詰めた。
あれが如何な怪異であれ、狙いがみやかであることは一目瞭然。
だから、恨んでくれていい。
夜の闇に、刀は翻る。
鈍く光る白刃は美しく、けれど、彼女が見たくなかった光景を見せつける。
吉隠が手を加えたとはいえ、元はただの女。捏造された都市伝説は袈裟懸けに斬り裂かれ、いとも容易く地に伏した。
「ああ、言い忘れてたや。今回のはね、コトリバコと産女の合成だよ」
始めから、それこそが狙い。
姫川みやかを助けるためには、白峰八千枝を斬らねばならず。
斬れば、みやかは甚夜を憎む。
けれど斬ろうが斬るまいが、そこで終わり。
吉隠は、態々手遅れになってそれを教えた。
みやかはコトリバコという名称に戦慄する。近代の都市伝説に疎い甚夜はともかく、彼女はその恐ろしさをちゃんと知っていた。
「ぬ、ぐっ……!?」
ずきずきと頭が痛み、脳が撹拌されるような気色の悪い感覚。
今や白峰八千枝はコトリバコと産女を合成した、捏造された都市伝説。
コトリバコは呪殺というカテゴリーに置いて、究極の一つとされる凶悪な都市伝説である。
その特性は、近づくだけで相手を呪い殺す。
甚夜はまだいい。彼は鬼であり、男であり、既に百歳を超えている。
だがコトリバコは『子取り箱』。
子供であり、女であるみやかにとっては、致命的ともいえる呪詛だ。
そしてみやかは、恩師のあまりにも無惨な姿を見て、近寄り手を伸ばしてしまった。
故に、都市伝説は此処に成就する。
「あ、あ……?」
コトリバコに近付いた子供や女は、まず精神に変調をきたす。
意識障害を起こし、動けなくなる。
ぐちゃり、ぐちゃり。嫌な音が響く。
心を侵し、次は肉。
血を吐くのは、内臓が壊れるから。
呪いは体の内にまで浸透し、臓器をずたずたに。
「おが、ご。がが、ぎゃ……? が、あががぁぁぁぁっ!?」
抗う術はない。
吉隠が用意したのは究極の呪詛、その中でも一際強力な“ハッカイ”である。
白峰八千枝を斬り殺したとて同じ。
確殺の呪いは姫川みやかに襲い掛かり。
吐血し、力なく膝から崩れた。
◆
全ては、葛野甚夜を倒すのではなく、苦しめる為の余興。
殆どは吉隠の予定通りに運んでいた。
姫川みやかは、恩師の死は彼のせいだと責めた。
そんな彼女の前で、甚夜は八千枝を斬り殺した。
そうまでしたのにコトリバコは止められず、確殺の呪詛は成就する。
「あっれー、おかしいなぁ……」
その筈だった。
なのに、おかしい。
想定していたように事態は進んだ。コトリバコの呪いは確かに振り撒かれ。
「なんで生きてるの、みやかちゃん?」
にも拘らず、呪いが向かう先の子供は、腰を抜かし座り込んでいるだけ。
死んでいない。それどころか傷一つなく、全くの無事。これは流石に想定外だった。
「え、あ」
そんなことを言われても、みやかにも状況が理解できていない。
先生が斬られて、倒れて。手を伸ばした。
その結末は、都市伝説に語られる通り。血を吐き死に至る筈で。
けれど彼女は今もちゃんと生きている。
「が、は……」
代わりに倒れ込んでいるのは、甚夜である。
吐血し、焦点は合わず、けれど勝ち誇るように口の端を釣り上げる。
その態度に、これは彼の横槍の結果なのだと吉隠は理解した。
「お前の腹は…読み切れなかったが……保険は、かけておいて、正解だった」
マガツメの娘は全員が花の名を冠し、名と同じ<力>を有し、自身を象徴する言葉を持つ。
みやかの頭に触れた時、<力>を使っておいた。
<水仙>
昭和の頃、存在しない鳩の街で出会った娼婦、七緒から託された<力>だ。
水仙の花言葉は自己愛。
しかし七緒が好きだと言った、黄色の花の持つ意味は「もう一度、愛して」。
故に、能力もまた言葉に添う。
他者へ向けられる愛情を、自身にも向けてほしいという願い。
だから<水仙>は、他者に与えられるものを我がものとする。
「……<水仙>。対象への干渉を、使用者に移し替える」
つまり“身代わり”こそが<水仙>の能力である。
もっとも決して使い勝手はよくない。使用するためには対象に触れねばならず、身代わりできるはあくまで一人、二人同時には行使できない。
その上、一度身代わりをすれば解除され、なにもしなくても一時間すれば自然と解けてしまう。
いくつもの条件をクリアしなければならない特性上、ある程度決め打ちでしか使えない厄介な<力>だが、今回は見事にはまった。
そして詳しい説明をしなければ、しばらく吉隠は「周りに手出ししても意味はない」と勘違いしてくれる。
後は、ハッタリがばれる前に、奴を片付ければいい。
「……前々から思ってたけど、キミってさ、刀で戦う割に正々堂々タイプじゃないよね」
「以前も言った筈だが。卑劣、卑怯大いに結構。お前を討てるのなら、その程度の誹り安いものだ」
<御影>で自らを傀儡と化し、動かない体を無理矢理に起こし立ち上がる。
コトリバコは、子供と女には致命的。裏を返せば、それ以外には効果が薄くなる。
お蔭でどうにか命は繋いだが、無事とは言い難い。
臓器や筋肉はズタズタ、意識も定まらない。まるで脳に手を突っ込まれ、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたようだ。
全身に走る激痛。顔には出さず、努めて平静を装う。
「<御影>だっけ? みやかちゃんを庇ったのはいいけどさ、自分がそうなちゃったら意味なくない?」
けれど吉隠はこちらの状態を正確に把握しているらしい。
まあ、何でもいいけどね。軽く肩を竦め、甚夜の演技をにまにまと嘲笑う。
奴の指摘は紛れもない事実。<御影>で体を動かしたところで勝ちの目はない。
つまりこの場における勝利条件は「みやかを連れ、逃げ果せる」こと。
「じゃあ仕切り直し、かな。逃がさないよ」
吉隠は銃を構える。
逃がさない、と言う辺り、この鬼は本当に抜け目ない。
甚夜の思考を完全に読み切り、その上でさせないと宣言する。
だがやらねばならぬ。甚夜は夜来を構え、左手で<地縛>。奴を出し抜く為、最大限頭を働かせ。
「だいじょうぶ、だよ」
凛として涼やかな声に、両者とも動きを止めた。
透明な響きは、昂ぶった心を落ち着けてくれる。
夜の公園に現れたのは、十四歳くらいの少女。
顔立ちは幼くも整っており、ワンサイドの三つ編みが可愛らしい。
ネイビーのワンピースにベージュのジャケット。年齢からすれば些か落ち着き過ぎた装いだが、端正な容姿も相まって清楚な印象を醸し出している。
ここが夜の公園でなく、対峙する二匹の鬼がいなければ、単に美しい女の子を見かけたで済む話だ。
しかし少女は、血みどろの甚夜を、吉隠を見据えながらも、とことこと普通に歩いてくる。
「ひまわりに頼まれた。手がたりないって。間に合って、よかった」
みやかなどは呆気に取られているが、別段不思議なことではない。
彼女もまた人ではなく、甚夜や吉隠ともそれなりに因縁がある。
だから当然の如く甚夜の隣に立つ。
「だから、じいや。だいじょうぶ……今度は、わたしが助けるから」
かつて人造の鬼神と謳われたもの。
いつかと同じように、誰よりも優しく誰よりも綺麗に、溜那は微笑んだ。




