『終の巫女』・1
「姫川は、ちょっと変わったね」
九月になり、少しだけ過ごしやすくなった日曜日。
本屋へ行った帰り道、姫川みやかは偶然、中学の頃の恩師である白峰八千枝と会った。
ベビーカーには彼女の息子、翔もいる。
仕事柄平日は殆ど家にいられない為、休みの日は可能な限り子供との時間を持つようにしており、今も散歩の途中らしい。
みやかにとっての白峰八千枝は気風のいい男前な先生。しかし教師ではなく、母としての八千枝は随分と優しく微笑む。
以前のイメージとはかけ離れているが、それがよく似合っていて、やっぱりお母さんなんだなと思わされた。
「そう、ですか?」
「うん。なんというか、余裕が出てきた?」
自覚はない。高校生になって半年、まだまだ慣れないことは多いし、最近はちょっとばかりオカルティックな事件に縁がありすぎていつも驚いてばかりだ。
余裕なんて全然ないけれど、八千枝がそう言ってくれるのなら、少しくらいは成長できたのだろうか。
「自分ではよく分からないけど……そう見えているなら嬉しいです」
ああ、でも。
こうやって素直に心情を吐露できるのは、些細ではあるが、確かな成長なのかもしれない。
それを嬉しいと感じる。そのくらい、高校生活は充実していた。
「じゃね、姫川。引き留めて悪かったね」
「こちらこそ。失礼します、白峰先生」
少しいい気分になってみやかは自宅へ戻り、八千枝は散歩を続け近所のみさき公園へと向かう。
散歩コースはいつもほとんど変わらない。
だからか、八千枝が公園へ行くと以前も見た顔が軽く手を振っていた。
「あ、こんにちは。翔くん、翔くんママさん」
そこには、中性的な若者の姿があって。
「ねぇ、ママさん。赤ちゃんくれない?」
いつものように、冗談を言うのだ。
鬼人幻燈抄『終の巫女』
2009年 9月
第二次世界大戦後、日本は深刻な米不足に陥っていた。
他国への侵略行為から国交が途絶え輸入は滞り、引揚者や復員兵によって人口が増加した為である。
主食としての米も足りていない状況、当然ながら日本酒の原料に使える米はごく僅か。
そういうご時世だから、戦後は酒といえば清酒に同濃度のアルコールを添加した粗悪な増醸酒が一般的だった。
それに比べれば、カップ酒でもそこそこ呑める今の時代は恵まれている。
「最近は安酒でも質がいいな」
「然り。とはいえ戦後の酒も、あれがあれで悪くはなかった」
「分からんでもない。決して旨くなかったが、時折懐かしくもなる」
甚夜と岡田貴一はコンビニで買えるような酒を酌み交わしながら、ふと昔を思い返す。
今でこそ戦後の三倍醸造は悪酒のように語られるが、貴一にしてみればそうでもない。
なにせ安値で買えてすぐさま酔える。ああいった酒も彼は嫌いでなかった。
甘くてべとべととして、独特のアルコール臭が鼻を突く。三倍醸造は辛口を好む甚夜には合わなかったが、戦後米不足で出回る酒が少なかった頃はよく世話になった。
少しでも風味を誤魔化そうと熱燗にして、肴の代わりに塩を舐めながら、井槌と顔を顰めて呑んだ覚えがある。
だから旨くはないが、時折あの不味い酒が懐かしくなる。
今になってみれば、苦笑しながら酌み交わした酒もそう悪くはなかった。
「しかし、こうしてぬしと酒をやるのも随分と久しい」
「確かに。大正の頃が最後か」
「いつぞやは藤堂もおったな。あれのひ孫も呼べればよかったのだが」
「勘弁してやってくれ。夏樹は未成年だ」
そういえば貴一は随分藤堂芳彦のことを買っていた。
あれはぬしよりも余程澄んだ男よ、などと語り、芳彦の子や孫に対してもそれなりの態度をとる。
夏樹とも面識があり、一応ではあるが気にかけているようだ。
「して、何用だ。酒だけを呑みに来るほど暇でもあるまい」
「都市伝説の怪人共が、近頃活発に動いている。おそらく吉隠は遠からずことを起こすだろう」
捏造された都市伝説を生む元凶、吉隠。
狙いは間違いなく甚夜であり、あの抜け目のない鬼が動くというのならば勝利を確信してのこと。
そしてあれの性質を考えれば、甚夜だけを狙うなど有り得ない。
「みやか君か」
「ああ。あれは悪辣だ。自身の愉しみの為に、意味もなく被害を広げる」
正直なところ手が足りない。
甚夜が貴一を訪ねたのは、助力を願い出る為。
夏休み後もみやかはコンビニでのバイトを続けている。或いはそこを突いてくるかもしれない。
ならばもしもの時を考えて、彼が知る中でも最上位の人斬り、岡田貴一の手を借りておきたかった。
「構わん。四六時中という訳にはいかんが、気にしてはおこう」
「……随分と簡単に受けるじゃないか」
「かっ、かかっ。なに、みやか君は見た目に反して真面目でな。うちのバイトの中でもよく働くのだ」
だからあの娘に死なれるのは、こちらとしてもちと困る。
ぐいと盃を煽り、空気がかすれるような気味の悪い笑い声を漏らす。
なんとも反応に困る理由だ。そもそもこの人斬りが真面目にコンビニ店長をやっていること自体、甚夜にはひどく奇妙に感じられる。
とはいえ岡田貴一の助力が得られるのは僥倖。黙ってそれを受け、礼の代わりに彼の杯へ注ぐ。
「あのー、店長? それに、甚夜も」
ちょうどそのタイミングで、話の渦中の少女、姫川みやかが酒宴へ顔を出した。
困ったように曖昧な表情で、おずおずと遠慮がちに彼女は言う。
「どうした、みやか?」
「普通の顔されても困るんだけど。……バックヤードで酒盛りは、あんまりよろしくないんじゃないかな、と思って」
彼ら二人が酒を呑んでいたのは、コンビニのバックヤード。
ついでに言えば肴はコンビニのホットスナック類。
こればかりはみやかの言が正しかった。
◆
九月も終わりに差し掛かった、とある日のことである。
「そう言えば、アキちゃんって秋津染吾郎なんだよね?」
「そうだよー、十代目秋津染吾郎。お父さんが鬼との戦いで怪我しちゃったもんだから、かなり前倒しで名前継いだんだけどね」
「そっか、秋津さんかぁ」
みやかと薫、萌と麻衣の女子四人は、学校帰りにファミレスで甘いものでも食べながらおしゃべりに興じていた。
授業やテストの話、新しい服、隣のクラスの男子が声をかけてきた。久美子は夏樹と二人きりで遊びに出かけている、ちくしょーなんか負けた気がする。話題は二転三転し、今度は薫が持ち出した萌の身の上。
じっと萌を見る薫は、多分明治の頃に出会った秋津の三代目を思い出しているのだろう。
染吾郎や平吉を知っている彼女にしてみれば、桃恵萌の存在は何やら感慨深いものがあった。
「じゃあさ、三代目の秋津さんも知ってたりするの?」
「そりゃあね。稀代の退魔と謳われた四代目、彼が最後まで敵わなかったという三代目秋津染吾郎。そもそも甚の親友だった人だし、色々と話は伝わってるよ」
三代目秋津染吾郎。
数多の付喪神を操り、鍾馗の短剣を造り上げた、退魔としての秋津の祖ともいえる人物。
眉目秀麗にして頭脳明晰、若かりし頃は精悍な青年であったという
金工としての実力も然るものだが、木彫りなどの細工をやらせても一級品。
数多の女性に言い寄られても“殺して生きる者が床で死ねるとは思わない”とストイックにそれらを退けた伊達男。
なにより甚夜の親友として数多の鬼と相対した話は今でも語り草。
中でもたった二人で百鬼夜行を相手取り、マガツメの眷属を打倒した逸話は萌のお気に入りだった。
「えーと、それ多分別人じゃないかな?」
「なに失礼なこと言ってんの!?」
……話がすごい盛られていた。
なにせ薫が実際に会った染吾郎は、とてもではないがそんな精悍な青年ではなかった。
『甚夜、えらいお盛んやなぁ』
『なにがだ』
『いやいや、娘おるくせに二人も女連れ込むとか。やるなぁ。よっしゃ、ちょい待ちぃ。今から東京行って来るから。そんでおふうちゃんに現状伝えてくるわ』
『ほう、その首要らんと見える』
『冗談、じょーだんやって。本気で睨むとかやめてえな』
薫が蕎麦屋に泊まっていると聞くや否や、これはチャンスと弄り出す。
なんというか気がよくてノリもいいおっちゃんであり、萌が語る三代目は大分美化されているように思う。
とはいえ薫が過去に行った話は誰も知らない。みやかには、むー、と考え込む親友が不思議に感じられた。
「ねえ薫、なにか気になることでもあるの?」
「うーん、なんというか、アキちゃんのご先祖様だからもっとノリがいい感じじゃないかなーって」
「大概失礼だね……」
いくら親友でも、明治での日々はちょっと内緒にしておきたくて、薫は誤魔化すことにした。
含み笑いのせいで何か隠し事をしているのは丸分かりだったけれど、きっと大切なことなのだろうから無理に聞き出そうとは思わない。
代わりに「なんだかなぁ」なんて、みやかはゆったりと微笑んだ。
「話変わるけどさー、麻衣は富島とどんな感じ?」
「え、どんな感じって……」
「だから付き合っちゃわないのかーって話」
萌の明け透けな物言いに、麻衣は顔を赤くして俯いた。
こういった反応を素直にできる辺り、可愛いなとみやかは思う。
柳に好意を向ける女子の中には「なんで富島君があんな地味な子を構うのか分からない」などと言う者もいるが、そもそもよく知りもしない相手にそんなことを言えてしまう時点で、柳の興味が向かないのは当然だ。
結局のところ地味だの派手だのは問題ではなく、麻衣がいい子で、柳は見るべきところを見ているというだけの話なのだろう。
「やなぎくんとは。……どう、なのかな?」
「ダメダメ、そこは久美子を見習って積極的にいかなきゃ。あんまり曖昧なままでいると横から掻っ攫われちゃうよー? なんかいつもの奴らが、富島が金髪の女の子と並んで歩いてるの見たとか言ってたし」
「メアリーちゃんのこと?」
「ありゃ、麻衣も知ってんの?」
「うん、夏休みにちょっと」
中学の頃はいじめられていた麻衣も、高校生になって交友を少しずつ広げ、今ではみやか達の知らない友人もできているようだ。
それが何となく嬉しくて、みやかは麻衣に微笑みかける。こちらの意が伝わったのか、彼女もはにかんで頷いてくれた。
「もしよかったら、今度紹介してね」
「うん。次に日本に来た時は、みやかさん達も一緒に」
「どこの国の人なの?」
「アメリカ。日本のお菓子が、おいしいって、いっぱい買って帰ったよ」
海外で日本のチョコやスナック菓子が人気だというのはよく聞く話だ。
日本人が外国製のお菓子に心惹かれるのと同じようなものなのだろう。
妙に納得して、今度は好きなお菓子談議に花が咲く。
薫の一押しはコンビニのアップルパイ。みやかは手軽につまめるチョコやガムなど、萌は意外なのかそうでないのか一口羊羹を勧めてきた。
ただ麻衣だけは体が弱かったせいか、小さい頃からジャンクなお菓子は食べさせてもらえなかったらしく、あまり詳しくないとのこと。
「えー、勿体ないよ」
「そーそー、折角だからいろいろ試してみるべきだって。今は体も大丈夫なんでしょ?」
ということで、四人はコンビニでそれぞれのおすすめを麻衣に献上する流れとなった。
バイト先のアイアイマートで買い物。バイト先の先輩に見られるのは、みやかとしては若干恥ずかしいのだが、皆乗り気なのでそこは我慢しよう。
それじゃ行こう、と燥ぎながらファミレスを出て、しかしいきなり出鼻をくじかれる。
人混みの中に、見慣れた顔を見つけてしまった。
「あれ、甚夜……と」
「てんちょー?」
視線の先には仲のよさそうな男女。
一人はクラスメイトの葛野甚夜。お相手は萌の行きつけの花屋、三浦花店の店長、三浦ふうである。
遠めでも分かるくらいに甚夜は穏やかで、店長もまた寛いだ微笑みを浮かべている。
そのまま人ごみに紛れ見えなくなるまで、みやかと萌は彼等の様子を眺めていた。
声をかけてもよかった。けれど二人の空気に何となくそれは躊躇われた。
「……葛野君。と、確か、おふうさん?」
ただ、それ以上に衝撃的だったのは、麻衣の零した言葉であった。
「おふうさん?」と薫が小首を傾げて聞き返す。
「うん。葛野君が昔通ってたお蕎麦屋さんの娘さんだって。前に、“幸福の庭”の話を聞いた、から」
「私も知ってるそれ! 友達で、お姉さんみたいな恩人さんだ!」
「多分、その人。花について教えてもらったりもしたって、言ってたかな」
「へぇー、店長さんのことだったんだぁ」
しかも薫が話についていけているところを見ると、「あれ、なんかこれ知らないこっちがおかしいの?」的な気分になってくる。萌も同じような心地らしく目を白黒させていた。
まあ甚夜の古い話を毎度せがむ麻衣や、明治時代にタイムスリップした薫がそこらの事情に詳しいのはある意味当然なのだが、みやか達が知る筈もなく。
取り敢えず恋愛的な興味など全くない二人の少女の方が彼に詳しい辺り皮肉ではあった。
「ねえ、みやか?」
「……どうしたの?」
「あたし達ってさ、実は大分出遅れてない?」
「そうかも……じゃなくて、なんのことか分からないけど」
「えー、それで誤魔化してるつもり?」
なんというか、萌がいてくれてよかったと思う。
お互い茶化し合い、雰囲気は重くならずに済んだ。
◆
このように、多少引っ掛かるところはあるが、姫川みやかの毎日は順風満帆といってよかった。
夏休みが終わり、二学期は恙なく始まり、和やかに日々は流れていく。
一部夏休み明けのテストに頭を悩ませている友人(薫・甚夜・萌)もいるが、基本的には平穏無事でいいだろう。
時々起こる都市伝説がらみの事件を知っても平穏だと言えてしまう辺り、みやかも完全に染まり切ってはいるが。
「これ、お弁当です。どうぞ!」
「ああ、いつも済まないな」
「いえ、そんな好きでやってる事ですから」
寧ろ都市伝説よりも、時折甚夜へお弁当を届けに来る、二年生の女子の先輩の方がみやかにとっては事件である。
以前怪異関係の事件で手助けしたという先輩。
名前は知らない為いつものメンバーの間では『お弁当先輩』と呼ばれている彼女は、夏休みが明けて一発目で弁当を持ってきたことから、一部女子からは警戒されている。
萌などは「やっぱここはあたしも弁当作るのしてきた方が……でもなんかずるい感じするし」と割合真剣に考え込んでいた。
「やっぱり、萌ってさ」
「どしたの、みやか?」
「……ううん、なんでもない」
十代目秋津染吾郎。
かつて甚夜の親友だった男の名を継ぐ彼女は、どう見てもそれ以上の好意を彼に向けている。
実際クラスでも甚夜と萌の組み合わせは、恋人と勘違いされるくらい距離が近い。
もっとも彼らにその辺りを問えば「親友」と返ってくるので、付き合ってはいないのだろう。
「みやか、今日はバイトか」
「うん、十時まで」
「精が出るな」
嫉妬はしない、いや、そもそも嫉妬する理由がない。いい友人なのは間違いなく、萌のこともちゃんと好きだ。
それに、戻ってきた甚夜は態々バイトの時間を確認し、帰る時は迎えに来てくれる。
都市伝説の怪人を警戒しているからだと分かってはいるが、その気遣いには感謝しているしやっぱり嬉しい。
だから不満はなく、勉強もバイトも上手くいき、家の神社や将来も前向きに考えている。
友人にも恵まれ、毎日が楽しいと、みやかは心から感じる。
「萌、済まないが昼休み時間はあるか?」
「ん? ……例の話? おっけ、だいじょぶだよー」
けれど彼女の知らぬところで、少しずつ事態は動いていた。
◆
「これでよかったか?」
「ありがとー。たまーに飲みたくなるよね。炭酸ってさ」
購買で買ったコーラを萌に渡し、壁を背に座り込む。隣にちょこんと座る彼女はにっかりと笑顔、随分と機嫌がよさそうだった。
昼休み、いつものメンバーと食事を終えた後、甚夜と萌は二人きりで屋上へ移動した。
みやか達もある程度事情を知っており、柳などは戦うだけの力を有しているが、あくまでも彼女達は一般人。甚夜としては深入りしてほしくはない。
その意味では、当代の秋津染吾郎である桃恵萌は気安い相手だ。
甚夜の事情に精通しており、並みの鬼など歯牙にもかけぬ腕があり、なによりマガツメに対する理解もある。
近頃は何かあるとまず萌に話を通し、どこまで話すべきかを相談してからいつものメンバーに伝えるという流れが定着していた。
「で、だ」
「うん、捏造された都市伝説っしょ? あたしの方も結構出くわしてる」
かつては職人としての在り方に重きをおいていた秋津染吾郎も、平成に至った現在では有数の退魔である。
なにせ桃恵は稀代の退魔と謳われた四代目秋津染吾郎の業を継ぐ一族。妖刀使いの南雲が没してからは、勾玉の久賀見と双璧を為す名家となった。
当代の秋津染吾郎である桃恵萌もまた、若年ながら相応の腕を持つ。
勿論家を取り仕切れるほどの経験はないため、その辺りは先代である父に任せきりだが、こと退魔においては同年代の中では飛び抜けている。
そういう彼女だ、捏造された都市伝説を相手にしても後れを取ることはない。
「甚の知らないやつは……昨日は<ひとりかくれんぼ>、その前は<ジャンピングババア>、更に前は<隙間女>。実際、ちょっと多すぎるかなー」
とはいえ、こう連日ともなれば億劫にはなる。
夏休みの終わり頃から萌は幾度も甚夜と肩を並べて戦っている。最初は喜んでいたのだが、九月も末に差し掛かり、都市伝説の怪人は目に見えて数を増していた。
十代目秋津染吾郎として、その手の事件に萌が単身で解決に乗り出す場合もあり、ここ数か月の都市伝説との遭遇件数は異様と言ってもいい。
学校の成績がよろしくなく、頭を使うのが苦手な萌であっても、なにかおかしいと感じてしまう程だ。
「私の方でも、いくつか相手にした」
「やっぱ、ちょっと変だよね?」
「ああ。……おそらく、吉隠が動き出したのだろう」
「吉隠……って、あ! 大正時代、南雲叡善に従った四匹の鬼の内の一匹!? 人造の鬼神を巡る戦いのやつっしょ!?」
ある程度は大正の頃の戦いを聞き及んでいたらしく、萌は目を輝かせている。
夜眠る前、シンデレラや赤ずきんの代わりに聞かされた、鬼を討つ剣豪の英雄譚。興奮してしまうのも無理からず、しかし流石に不謹慎かと思ったのか、こほんと一度咳払いして深呼吸。若干恥ずかしそうにしながらも、どうにか平静を取り繕う。
「えー、っと。吉隠が、元凶? 確か前から捏造した都市伝説を<力>で造る元凶の話はしてくれてたけど、名前は内緒にしてたよね? 今になって教えてくれんのは、動き出した……から?」
「そう、だな。正直なところ、あれとの決着は私一人でつけたかった。が、そうも言っていられない状況になってきた」
「都市伝説、めっちゃ増えてきたもんねー」
その辺りも不安要素の一つではあるが、何よりも問題なのは吉隠が動き始めたこと。
顔を合わせたのは数える程度だが、あれの気質は理解している。
吉隠は合理で動かぬ輩。自分が愉しいからという理由で、吐き気を催すほどに悪辣な手立てを平気で取れてしまう。
それだけに、警戒に警戒を重ねても、予想の範疇を容易に超えてくる可能性がある。
「吉隠の狙いは今一つ読み切れんが、十分に注意しておいてほしい」
「おっけ。みんなにも話しておく?」
「出来れば知らせずにはおきたかったが、警戒はしておいてもらわないと困るな」
「あー、薫は特にね。富島にも協力してもらった方がいいんじゃない?」
「いや彼にはあくまで自衛を第一に考えてもらいたい」
「そんだけでいいの?」
「ああ。奴は、それ程の難敵だ」
重々しく甚夜は頷く。
富島柳は<ひきこさん>の力を有し、実戦もある程度こなしている。
だとしても、多少やれる程度では、本腰を入れて動き出した吉隠相手はちと辛い。
彼は無理をせず、麻衣達を守る程度にとどめておいてもらう方が無難。
その後も軽く話し合い、粗方の方針が定まった辺りでそろそろ昼休みも終わりに近づく。
「おっけ。んじゃ、そんな感じで」
「萌も無理はしないでくれ。正直、あれがどんな手で来るか、私にも分からない」
「うん。だいじょぶ、まっかせて! よゆーよゆー!」
「……本当に頼むぞ。おそらく、あれの狙いは」
朗らかな笑顔でピースを見せつける萌に一抹の不安を感じながら、甚夜は奥歯を強く噛み締める。
吉隠がいかなる手段に出るかは分からない。
しかし目的の方は、ある程度推測が付いていた。
かつて、大正の世をひっくり返す為に吉隠は戦った。
だが、平成に至った今、おそらくあの鬼の狙いは。
「私が、大切に想う者達だ」
己が無力に打ちひしがれ、這い蹲って悶える甚夜の無様な姿に他ならない。
◆
捏造された都市伝説の怪人。
それらを造り出していた元凶の名は吉隠。
かつて大正の世を覆そうと目論んだ“妖刀使いの南雲”、その配下である一匹の鬼だという。
彼奴らの企みは葛野甚夜、四代目秋津染吾郎の手によって阻止されたが、生き残った吉隠は再びことを起こそうとしている。
同時に、甚夜への恨みを抱え、彼の周囲の人間にも危害を加えるだろう。
「だから、十分に注意してくれ」
それが甚夜と萌から語られた現状。
放課後、教室に集められたみやか達は各々息を飲んだ。大正時代から生きる鬼が、最終的に何を為そうとしているのかは分からない。
けれど今までの都市伝説の怪人とは違い、能動的にこちらへ危害を及ぼそうとするかもしれない。
その想像は、荒事とは縁のない少女達を怯えさせるには十分すぎた。
「富島も、済まないがこの娘達に気を配ってくれないか」
「分かってる。送り迎えとかで協力して、何かあったら全力で逃げろってことだろ?」
「君は話が早くて助かる」
力を貸してくれ、と言わない時点で相手がどれだけ厄介か察したのだろう。
戦うのではなく、持てる力を全て逃走に費やしてようやく無事が確保できる。
柳と敵の戦力差はそこまで離れていると甚夜は判断した。
「これでもそこそこ実践は積んできた。そりゃあ葛野には及ばないけど、腕にはそれなりに自信がある。……その程度じゃ、相手にならないんだよな?」
軽んじられても腹を立てず、裏の意図を読み、素直にそれを受け入れる。
幾度も稽古をつけてもらったのだ、甚夜の強さは骨身に染みている。
隔絶した実力を有する彼がそこまで警戒するのならば、相応の理由がある筈。そうと自然に思えるくらいには、強さも人格も信頼していた。
「……ああ。はっきり言おう。大正の時点では、吉隠は私よりも強かった」
そこに嘘はなく、実際単純な能力においては吉隠の方が上だ。
かつて対峙した時は経験と<力>の多さで互角にまで持ち込んだが、あれから長い歳月が流れた今、彼我の優劣は甚夜にも読み切れない。
「……えーと、甚くん。冗談、だよね?」と顔を引きつらせて薫が聞くも、残念ながら答えは変わらない。
「鍛錬は欠かさなかった。いくつか、あれの知らぬ<力>も得た。だが成長するのはあちらも同じ。確実に勝てるとは言えないな」
こういった時に冗談を言ったり、虚勢を張るような人ではない。そうと知っているから、みやか達は戦慄する。
今まで如何な都市伝説も容易く退けてきた彼を上回る鬼の存在。
それが掛け値のない真実であるのだと、心底思い知らされてしまった。
「ってことだから、なんかあったら甚かあたしにすぐ報告。昼間なら滅多なことはないと思うけど、学校帰りとか遅くなるような時はあたしらと富島で送り迎えもするんで、遠慮せずにメールしてね。つか、しろ。けっこーマジでヤバイっぽいから」
いつになく真剣な萌が締め括りこの日は解散となった。
大正時代に敵対したという吉隠なる鬼がどのような輩なのか、みやかには分からない。
それでも甚夜の険しい表情に、事態がひっ迫していることくらいは感じ取れた。
「うー、なんか怖いなぁ」
帰り道はいつものように甚夜とみやか、薫の三人。
最近は柳や麻衣、夏樹に久美子に萌とメンバーが増えたけれど、やはりこの三人で動く機会が多い。
薫は警戒しているつもりなのか、歩きながらきょろきょろと辺りを見回している。
本人は真面目なのだろうが、彼女の様子はちょこまかと動くハムスターを思わせて何となくほっこりする。
「そう身構えなくてもいい。私がいる時は、盾くらいにはなってやれる」
「なら大丈夫だね。そだ、新しいおすすめのお店があるんだー。明日皆で行かない?」
「いや、流石にそこまで気を抜かれても困るが……まあ、少しくらいなら」
とはいえそれも長くは続かない。
一瞬にして緊張感を投げ捨ててしまう薫は薫で、この娘の我儘になんだかんだ頷いてしまう辺り甚夜は甚夜だった。
「……甚夜、ほんと、あんまり甘やかしちゃ駄目だよ?」
「しかしな。あまり締め付けても窮屈だろう。いつまでも気を張ってはいられない。偶の息抜きは必要だ」
「それは、そうだろうけど」
実際あんまり気を張っていてもどこかで無理が来る。
そういう意味では彼のいうことも正しいのだが、一日も緊張が持続しないというのは流石にどうか。
それはそれとして「なんか子供の教育方針で言い争うお父さんお母さんみたい……」と子供扱いにいじける薫へフォローは入れておかねばならないだろう。
ちょっとだけその物言いに照れたのは、勿論内緒だ。
みやかの日常は順風満帆で、けれど少しずつ綻びは見え始めていた。
「みやかちゃん、朝よ」
翌日。
昨夜は色々聞かされたせいか、寝覚めはあまりよくなかった。
久しぶりに母の声で起こされ、目をこすりながらベッドから出る。
あと五分……、というのはあまり好きじゃない。起きると決めたらちゃんと起きて、身嗜みをしっかり整える。
腰まである長い髪はお手入れが結構大変だ。寝る時もタオル地のシュシュでまとめて、摩擦で髪が痛まないようにしている。ブラッシングも欠かせないので、朝の五分はベッドよりも洗面所で使う。
手間はかかるが手は抜かない。萌の言葉を借りるなら、ロングヘアは心意気。……伸ばそうと思った最初は、母であるやよいの長い髪が綺麗に見えたからという、至極単純な理由ではあるのだけど。
ともかく今朝も丁寧に髪を梳く。これでも思春期の女の子、その辺りに気を付けている。薫のように「髪? 特に何も……」でさらさらを保てるタイプじゃないのである。
「おはよう、みやかちゃん」
二十分ほど洗面所の鏡とにらめっこしてからリビングへ。
ふんわりとした柔らかな母の微笑みと、美味しそうな朝食の香りが迎えてくれる。
神社の朝は早く、父は六時には動き始めている。
ただ娘一人で朝ごはんを食べさせるのは嫌らしく、母の時間は基本的にみやかと同じ。それも父の気遣いなのだが、やはり年頃なのか、素直に感謝は伝えられなかった。
いつものように母と二人で朝食、テレビは大概朝のニュースだ。
朝から手を抜かず、昼と必ずメニューが違う辺り、母はすごいと思う。
私も料理習って手伝おうかな、やっぱり萌に頼もうか……なんて考えつつ、お味噌汁に口を付ける。
テレビでは色々な情報が流れている。ほんわかするような出来事、或いは痛ましい事件。毎日似たようなことが起こるから、余程のものでなければ気にもならない。
毎朝のニュースは、BGMの代わりでしかなく。
『……葛野市××町、公園で白峰八千枝さん(28)が遺体で発見されました。一緒にいた子供の翔くんは行方が分かっておらず、誘拐の可能性も……』
そう、みやかの高校生活はとても楽しくて、順風満帆に過ぎていく。
だからこそ彼女は、ニュースで報道される痛ましい事件に、思わず箸を落とした。




