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鬼人幻燈抄  作者: モトオ
平成編

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187/216

『In Summer Days』・5(了)



【夏の終わりに】



 楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 今年の夏休みは、姫川みやかにとって非常に満足のいくものとなった。

 その分毎日は短く感じられて、気がつけばもう8月31日。明日から新学期が始まる。

 明日の準備を整え、ベットに腰を下ろして、窓の外に広がる夜空を眺めながら、皆と作った思い出を指折り数える。

 皆で海に行ったり、買い物を楽しんだりもした。甚夜の普段着を萌と一緒に見立てて、女の子だけでケーキバイキングにも行った。

 縁日では巫女装束でお守り販売。ああ、そう言えば、その日を境に薫の元気が戻ったような。

 バイトもうまくいっている。岡田店長にも褒められた。

 不思議な事件もちょこちょこあって、少しだけ切ない都市伝説も見た。

 夏期講習を終えて、宿題もばっちり。

 今年の夏は本当に楽しくて、終わるのが勿体なくなるくらい。

 でも明日からはちゃんと気持ちを切り替えないと。

 名残惜しさを感じながらもベッドに入り込む。夜更かしが続いていたし寝付けないかと思っていたけれど、驚くほどの早さでみやかは眠りに落ちた。




 ───もう少しくらい、夏休みがあるといいのにな。




 この夏は本当に楽しかったから。

 意識が消える間際、みやかは多分、そんなことを思った。








 ……朝が訪れると、自然に目が覚めた。

 むくりと体を起こして、着替えようと思って、ふと気付く。


「あれ……服」


 みやかは何故か、私服を着たままベッドの中にいた。昨日は確かにパジャマで寝たのに。

 それに用意しておいた筈の制服が見当たらない。

 なにか、おかしい。まだ眠気が取れていないのか、ぼーっとした頭で部屋を見回す。

 おかしいと感じたのは、音があまりにもないから。

 蝉の声が聞こえない。夏の騒がしさに耳が鳴れていたせいだろう、静寂がひどく奇妙に感じられる。

 しばらく視線をさ迷わせていたみやかは、壁に掛けられたカレンダーを見て固まった。

 背中に冷たいものが走る。

 日めくりカレンダー。まだめくっていないので、8月31日のままの筈。

 なのに、それが示すのは。


「……“8月32日”?」


 有り得ない日付だった。






 * * *






《8月32日》


 終わらない夏休みの都市伝説。


 小学生の“ぼく”は、母親が臨月を迎えたため、夏休みの間中、おじさんの家に預けられることとなった。

 好奇心旺盛で心優しい“ぼく”は、初めての田舎で夏を過ごす。

 虫取り、魚釣り。地元の子供たちと遊び回った。

 おじさんとおばさんも優しく、一か月という期間が短く感じられるくらい、毎日はあっと言う間に過ぎていく。

 それぐらい楽しくて、でも、夏休みはいつか終わる。

 友達もたくさんできて、いろんな約束を交わして。

 けれど8月31日、自宅へ帰る当日になった。

“ぼく”は絵日記を眺めながら、楽しかった夏休みの思い出に浸る。

 ここに来てからは初めての経験ばかりで、移る景色は鮮やか過ぎて、だから多分“ぼく”はこう思った。




 ────帰りたくないなぁ……。




 その願いは叶えられる。

 絵日記を見ながらうたた寝してしまった“ぼく”は、奇妙な違和感に目を覚ます。

 あれだけ騒がしかった蝉の声が聞こえない。

 どうしたんだろう。

 不思議に思いながらおじさんの家をうろつくも、おじさんやおばさんの姿はない。

 不気味なほどの静けさ。家を出ると、ようやくおじさんを見つけた。


 

 おじさんの下半身はなかった。


 

 カレンダーを確認すれば、8月32日の日付。

 楽しかった夏休みは終わりを告げ、様々な怪奇現象が“ぼく”を襲う。

 静かすぎる町、セミの声も聞こえない。

 青白い肌、頭部がちぎれ。出会う人は皆、容貌が醜く崩れている。

 足音だけが聞こえるのに、誰の姿もない。

 おじさんの家から何故か出られなくなる。

 自分が描いたはずの絵日記は、絵も文章も支離滅裂になっていた。

 けれど終わった筈の夏休みは続く。

 8月32日、8月33日、8月34日、8月35日。

 どれだけ時間が経っても9月は訪れない。

 次第に“ぼく”の体はぐちゃぐちゃになり、動作も思考も、なにもかもが壊れ。

 そして最後には、動かなくなった。




 ……という、某夏休み体験シミュレーションゲームの初代に存在するバグ。

 ある行動をとるとエンディングへいかず8月32日になり、ゲームは続けられるが内容はめちゃくちゃ、最後にはフリーズする。

 本来は単なるバグなのだが、8月32日というインパクトのある日付とあまりの薄気味悪さに都市伝説として定着してしまった。

 P○2のメモリーカードに入っていた謎のデータ「身」や、『真・女○転生』のオープニングで「ハヤクケセ」と出てくるなど、数多いゲーム系都市伝説の一つ。

 その不気味さからプレイしたユーザーの間では「まるで死後の世界」「8月と9月の狭間に迷い込んで出られなくなってしまったみたい」と語られている。


 ただ、これはゲームの話だが、夏休みが終わらなくなるという怪奇現象の体験談は少なからず存在する。

 また8月32日や9月0日など、夏休みを続けるための架空の日付は様々な創作作品で使用されている。

 郷愁と願望が作り上げた、此処ではない何処かの都市伝説である。






 * * *






 有り得ない日付。

 手は意識せず携帯電話に伸び、コールするのは彼の番号。


『おかけになった電話番号は現在使われておりません。もう一度……』


 けど何度かけても繋がらない。

 今度は付喪神を操る彼女や、ひきこさん。力を貸してくれそうな友達。

 でもやっぱり『おかけになった電話番号は現在使われておりません』。いくらやっても電話は繋がらない。

 なに、これ?

 ここにきてようやくみやかは、自分が何らかの怪異に巻き込まれたのだと理解する。

 でも頭はまだぼんやりしていて。普段なら考えられないくらい無警戒に、彼女は部屋を出た。

 リビングに行っても両親の姿はない。

 代わりに何故か、一振りの刀がテーブルの上に置かれていた。


「あれは……」


 父が自慢げに見せてくれた、鉄鞘に収められた太刀。

 名前は確か、夜刀守兼臣。クラスメイトの彼が太鼓判を押した、本物の妖刀だ。

 なんでこんなところに。

 みやかは訝しげな目でそれを見詰めながら近づいていく。


『どうかしましたか?』


 するといきなり、刀が喋った。

 驚いて一歩二歩と退く。すると刀は更に『ああ、すみません。驚かせてしまいましたね』なんて気遣ってくる。

 女性の声。けどそれは間違いなく、刀から発されたもの。普通ならあり得ない状況に、みやかは面食らっていた。


『そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。貴女に危害を加えるつもりはありませんので』


 刀が喋る。不思議で、不気味だ。

 にも拘らず恐怖も嫌悪も感じなかったのは、その声がびっくりするくらい穏やかだったからだろう。

 優しい、まるでお姉さんといった感じの語り口。何となく悪い人……悪い刀? ではないと思えた。


「あの、貴女は」

『見ての通り刀です。兼臣、とお呼びください』


 みやかは当たり前のように刀と会話し、そこに疑問を抱かない。

 まだ眠りからさめきっていないのかもしれない。

 かつてこの夜刀守兼臣は喋ったのだと父が語っていた。それだけのことで、喋る刀を奇妙なくらい素直に受け入れていた。


「兼臣、さん? あの、ここは何処ですか?」

『ああ、貴女は迷い込んでしまったのですね。でしたら、この神社を出るとすぐのところに蕎麦屋があります。そこを訪ねれば、貴女の力になってくれる人がいるでしょう』

「え? あの、ありが、とう?」

『いえいえ。妻として、夫の意に添わぬことはしたくありませんから』


 なんだかとんとん拍子に話が進んでいく。

 それに、妻? どういうことだろう。

 よく分からないけれど、特に何も聞かずみやかは家を出た。その行動に、疑問はやっぱり抱かなかった。




 ◆




「へい、らっしゃい」


 甚太神社の石段を下りると、すぐの所に蕎麦屋があった。

 以前は、なかったような気がする。考えると頭がぼーっとするせいで、はっきりとは思い出せない。

 古めかしい蕎麦屋、厨房では店主が小忙しく動いている。


「おー、お嬢ちゃん待っとったよ」


 みやかを迎えたのは、狩衣をまとった関西訛りのおじいさん。

 油揚げの入ったお蕎麦を食べながら、にこにこと気のいい笑みを浮かべている。


「兼臣に言われてきたんやろ?」

「はい。あの、あなたは?」

「僕? 僕は、そやなぁ……うん、アキ。アキさんとでも呼んでもらおかな」

「アキ?」


 今の言い方だと多分本当の名前は別にあるのだろう。

 なのにアキと呼べなんて、まるでクラスメイトの女の子みたいで、だからちょとだけ肩の力が抜ける。

 おじいさんをじっと見ていると、何を勘違いしたのか彼は丼を手で隠して、むむ、なんて唸ってみせる。


「あげへんよ?」

「あ、いえ。別にお蕎麦を見てたわけじゃ」

「そんならええけど。お嬢ちゃん、こういう場所では誰に何を勧められても食べたらあかん。戻れんくなるからね」


 黄泉竃食ひ(よもつへぐい)という言葉がある。

 意味は「黄泉の国のかまどで煮炊きしたものを食べる」。古い時代、今よりも現世と死後の世界の境が曖昧だった頃。黄泉竈食ひをすると、その後は現世に戻れなくなると信じられた。

 同じ釜の飯を食うことは、仲間になった証。異界で食物を口にすれば、そこの住人になってしまうのだ……とクラスの文学少女に教えてもらった。

 おじいさんが言っているのはそういうこと。つまり、兼臣が頼れと言うだけあって、彼はいい人なのだろう。


「んで、お嬢ちゃん。兼臣から力になったってくれ頼まれとるけど、どないしたん?」

「あ……それが、ですね。私、ここが何処か分からなくて。元の場所に帰りたいんですけど」


 みやかはおじいさんに現状を説明する。

 気付けば8月32日になっていたこと。

 電話しても誰にも通じなかったこと。

 多分この世界に閉じ込められてしまったこと。

 どうすれば帰れるのか分からないこと。

 自分自身状況が把握しておらず、たどたどしくなってはしまったが、とにかく自分の知る限りを伝える。

 聞き終えたおじいさんは腕を組んで悩み込み、なにか思い付いたのか、軽妙に笑ってみせた。


「ほんなら、この街で一番有名な川、その土手に行きい。そこに君を元の世界へ返してくれる奴がおる」

「川……戻川のことですか?」

「そ。ごめん、僕は付いてってやれん。そやけど大丈夫。ここに君を傷つけるようなのはおらんから安心しい」

「そう、なんですか?」

「うん、勿論や。代わりに、何を勧められても飲み食いしたらあかんよ。そこだけは守ってな」

「はい、ありがとうございます」


 おじいさんに変える方法を教えてもらえた。

 知らない場所に閉じ込められて、まずは疑ってかかるべき。なのに、なんでだろう、素直に信じられてしまう。

 不思議な感じ、でも嫌な気分はしない。

 みやかはもう一度おじいさんにお礼を言って店から出た。


『大丈夫、貴方にならこの子を託せる』


 暖簾をくぐると、女の人の声が聞こえた。

 振り返っても店の中に女性はいない。

 多分気のせいだろう。そう思うことにした。




 ◆




 てくてく歩く。

 みやかはおじいさんの言葉に従い、戻川を目指す。

 町に音はまったくない。代わりに時折、奇妙な人達とすれ違う。


「強くなりたかった訳じゃない。ただ、壊れない体が欲しかった」

「俺もです。人からも鬼からも隠れて生きていたかっただけ。なのに……あ、どうぞ、もう一杯」

「すまない。だが、死に場所を与えてもらえた。思い返せば、悪くはなかったのかもしれん」

「ですね。ああ、酒が旨い」


 てくてく歩く。

 凄く体の大きい人、逆に小柄な人。二人の男が昼間から道端でお酒を呑んでいる。

 近づいたりして絡まれたら嫌だ。視線を向けず心なし早足で通り過ぎる。


「いらっしゃいいらっしゃい! 安いよ安いよー、今なら全品二割引きだ!」

「ちょっと、何勝手なこと言ってるのよ」

「まあまあ、御嬢さん。ここは俺に任せてくださいって。損して得取るのが商人ってもんですよ」


 てくてく歩く。

 デパートの前で、男の人と女の人が客引きをしている。 

 須賀屋。前に、皆と水着を買いに来た。 

 というか、なんでデパートの前で客引きなんてしてるんだろう。分からないから通り過ぎる。


「きぬ、どこか行きたいところはないか?」

「なにいってんだい。あなたと一緒にのんびり過ごせれば、それで十分幸せさ」

「そうか……思えば、こんなにゆっくり過ごしたことはなかったか」


 てくてく歩く。

 仲のよさそうな夫婦が、腕を組んで歩いていく。

 ゆったりとした空気になんだか心が温かい。邪魔するのも悪いし、通り過ぎる。


「おいしいあんぱんどうですか」

「悪いなぁ、手伝ってもらって。旦那さんと遊びに行ったっていいんだぞ?」

「そんなこと言わないで、手伝わせてください。おとうさ……」

「駄目だ。俺を、父とは呼ばないでくれ。そんなことされると、あの人に合わせる顔がない。……あの人って、誰だったかな」


 てくてく歩く。

 和菓子屋さん。売ってるあんぱんは、前食べたことがある。

 野茉莉あんぱん、京都の銘菓だったっけ。

 店主は女の子にお手伝いしてもらっていて、でも「お父さん」とは呼ばれたくない様子。

 ちょっと気になるけど、他人の家の事情に首を突っ込むのは下世話だから、やっぱり通り過ぎる。


「今年も紫陽花が綺麗ですね」

「ああ。彼に感謝だね」


 てくてく歩く。

 道の端に、物凄く豪華なお屋敷。庭は紫陽花で埋め尽くされて、まるで紫陽花のお屋敷みたい。

 庭にいる老夫婦の目は優しい。きっと紫陽花に思い出があるのだろう。美しい花を横目に通り過ぎる。


「ねえ、そこのお嬢ちゃん。そっちの道、今通行禁止よ? 川に行くなら一本違う通りを使った方がいいわ」


 てくてく歩く。

 途中でアパートの管理人っぽい人に呼び止められる。

 女言葉で喋ってるけどおじいさんだ。なんか変な感じなのに、妙に似合っている。

 言われた通り少し遠回り。こっちを歩くのは初めてかもしれない。


「あら、貴女」


 てくてく歩く。

 オープンテラスのカフェには、嫋やかな女性の姿。

 慎ましやかなドレス調の洋服。あしらい程度にフリルのついた純白の衣装がよく似合っている。

 コーヒーを飲みながら誰か待っているのか、とても穏やかに微笑む。

 手の中で遊ばせている星の砂の小瓶。優しい手つきに、とても大切なものだと分かる。


「貴女のこと、探している人がいますよ」

「え?」

「この先の土手で、待っているそうです」

「そうなんですか、ありがとうございます」

「いえ」


 多分それがおじいさんのいっていた人だろう。

 嫋やかな女性にお礼を言って、てくてく歩く。

 他にもいろいろな人と通り過ぎて、辿り着いた川辺。

 土手には、懐かしいような、初めて会うような。

 不思議な女の人が待っていた。







「こんにちは、みやかちゃん」


 腰まである艶やかな黒髪を靡かせた、少し垂れた瞳の端が幼さを醸し出す、細面の少女だった。

 肌は透き通るように白く、細身の体は触れれば壊れる白磁を思わせる。

 緋袴に白の羽織。巫女装束にあしらい程度の金細工を身に付けた美しい少女は、繊細な見た目とは裏腹に、朗らかな笑顔をみやかへと向ける。


「こんにちは。……あの、どこかで会ったことありましたか?」

「ううん、ないよ。でもあなたのご先祖様のことは知ってるの。ちとせちゃんっていってね、とっても可愛い女の子だよ」


 ちとせ。いつか、聞いた覚えがあるような。

 でも思い出せなくて、考えが纏まらない。

 名も知らぬ巫女装束の少女は、くるりと舞うように背を向けた。

 表情は見えない。見てほしくなったかもしれない。


「ただ、ちょっとだけ残念かな」

「なにがですか?」

「貴女に、私の面影のないことが。もしあったなら、嬉しかったんだけど……駄目だね、お互い不器用だったから」


 真っ白なその肌を夕暮れの風が撫でている。

 通り抜ける風の優しさに黒髪は揺れて、ざぁ、とさざ波のように木々が鳴いた。


「みやかちゃんは、今楽しい?」


 もう一度こちらに向き直り、少女は問いを投げ掛ける。

 頭がまだぼーっとしているんだろう。

 感情表現の苦手なみやかにしては珍しく、素直に答えは零れる。隠しても意味がないと思えた。


「はい。とても」


 それが、あの少女には嬉しかっただろう。

 目尻を下げ深く頷く。

 聞きたかったことがようやく聞けた。そんな風に見えた

 

「あの、もしかして、貴女が私を此処に呼んだんですか?」


 だからみやかは思った。

 この8月32日の世界を作ったのは目の前の少女で、こうやって逢う為に呼び寄せたのではないか。


「違うよ。逢えたのは偶然。だって、私達のお話はとっくに終わってるもの」


 少女は優しくそれを否定する。

 寂しそうな、でもどことなく満ち足りたような、表現しにくい不思議な表情。

 同い年くらいなのに、春先の雪を思わせる儚げな遠い目だ。


「繋がる想いがあるのなら、途切れてしまう想いだってあるの。どれだけ通じ合っても、報われる恋ばかりじゃないね」


 けれど一転、少女は柔らかく微笑む。

 報われぬ恋を語りながら、彼女の笑みは本当に綺麗で暖かい。

 上手くはいかなかったけれど、心から愛していたと。

 言葉にしなくても彼女の想いがまっすぐ伝わってくる。


「だからね、貴女がいつきひめだとしても、それは私の想いじゃない。貴女の想いは貴女だけのもの」

「え……?」

「同じように、彼も。いつきひめだから貴女を守ってる、なんて思わないであげて。その心を、どうか疑わないで」


 彼というのが、誰を指しているのかくらい分かる。

 そして彼女が、彼を好きだったことも。

 百歳を超える鬼。ならば遠い昔には、みやかの知らない恋物語があってもおかしくはない。

 もしかしたら、この少女は、いつかを彼と過ごしたのかもしれない。荒唐無稽な想像がすとんと胸に落ちる。


「私達の恋はもうおしまい。想いを伝えて、ちゃんとお別れして。歳月を重ねて、私の心は彼へと還った。……今度は、貴女の番かな?」

「恋って……別に、私は、そんなんじゃ」

「ふふ、そうなの?」


 みやかは口籠ってしまう。

 気になることはあっても、躊躇って踏み込めない。初めて会った筈なのに、そういう性格を見透かされてしまっている。

 少女は「仕方ないなぁ、お姉ちゃんがいないとなんにもできないんだから」なんて冗談めかして肩を竦めていた。


「私は、彼が本当に好きで。なのに、いつきひめである為に切り捨ててしまった。そうまでして巫女であろうとしたくせに、巫女として死ぬこともできなかった。私は結局何一つ為せなかった……でもね、不思議と後悔はしてないんだ」


 報われる想いばかりじゃない。

 傍にいたいと願っても叶わなくて、信じたものは崩れ去って。

 何一つ為せず終わりを迎える。そういうことだってあるのだと、少女は誰よりもよく知っている。


「何もかもうまくいかなかったけれど、彼を好きになれてよかったって思ってる。報われない恋だって、きっと無駄じゃなかった。お互いに美しいと信じたものがあって、不器用でも最後まで守り抜いた。その結末を、貴女は見せてくれたもの」

「わたしが?」

「そう。なにより、巫女であろうと決めたのは自分だから。私は、これでいいの」


 だけど、と少女は笑う。


「だけど、貴女は貴女の心を大切にしてね。報われる恋ばかりじゃないけれど、自分の想いにだけは嘘を吐いちゃ駄目。いろんなものに振り回されて、本当の想いを後回しにしちゃった馬鹿なお姉さんからの、せめてもの助言です」


 いつきひめだからとか、巫女守とか。

 鬼だから人だから。

 余計なことに振り回されて、貴女が本当の心を見失わないように。

 少女は慈しむように優しく、そっと目を細めた。

 想いを託すのではない。彼女の恋は既に終わっている。

 だからこそ、同じいつきひめというだけで血も想いも繋がらない、何の関係もない誰かさんに伝えたかった。

 彼女には後悔してほしくなかった。


「貴女は……」


 だれ、ですか?

 みやかは問えなかった。

 聞いてはいけない。そも、聞けない、その余裕がない。

 彼女が誰かは分からない。分からないまま、がたがたと、世界の挙動がおかしくなっていく。

 ざざ、ざざ。ノイズ混じりに。

 夏の青空も色褪せて、移る景色はモノクロに。 


「頑張ってね、女の子。彼、すっごく不器用だから大変だと思うけど」


 その中で、少女の微笑みだけが鮮やかで。

 けど、そこで終わり。

 なにもかもが、動かなくなった。








 ◆








 ぴぴぴ、ぴぴぴ。

 電子音が響いている。

 姫川みやかはのっそりと目覚まし時計に手を伸ばした。

 時間は7時30分。もう、そろそろ起きないといけない。

 壁にかけてあるカレンダーへ目を向ける。

 9月1日。

 今日から、新学期である。


「おはよー、みやかちゃん!」

「おはよう、薫」


 久しぶりに袖を通す制服は、なんだか少し変な感じがする。

 夏休みボケかな、とみやかは軽く首を横に振り、気合を入れ直す。

 通学路で合流した薫は、今日から学校だというのにとても元気だ。勉強がちょっと苦手だから、中学の頃は「もっと夏休みが続けばいいのにー」なんて言っていた彼女が珍しいこともあるものだ。


「なんか、元気だね? いつもはもっと夏休みが欲しい、っていうのに」

「えへへ。休みはね、休みだからいいんだよ? 長く続けば有難みも薄れる……なんてね」


 誰かの言葉をそのまま借りてきたようなぎこちない口調、でも心からそう思っているのだと分かる。

 実際、彼女は本当に楽しそうだ。休み明けの憂鬱さは全く感じられない。


「それに、学校は学校で楽しいよ? 皆に会えるしね」

「そう、だね。うん、私もそう思う」


 そこはみやかも同意見だ。

 夏休みは楽しかった。もっと続けばいいとも思った。

 でも学校生活もそんなに悪くない。

 そう思えたから、元の世界へ帰ってこられたのかもしれない。


「……あれ?」


 そこまで考えて、みやかは小首を傾げる。

 元の世界、とはなんだったか。

 昨日、8月31日は普通に寝て、特に何もなく9月1日となり新学期を迎えた。

 別段何かあった訳ではない。なのに、どうして元の世界とか帰ってくるとか、妙なことを考えたのだろう。

 少しの間思い悩むも、明確な答えは出てこない。

 ただ、昨夜は変な夢を見たような。

 内容は覚えていないけれど、不思議で、切なくて、ちょっと暖かい。

 そんな夢を見た。


「どうしたの、みやかちゃん?」

「……ううん、なんでもない」


 本当に、なんでもない。

 みやかは何も覚えていない。

 だから8月32日も、そこで出会った女の子のことも、残るものなど何もなかった。


「なら、いいけど。あ、おはよー甚くん!」


 その返しに取り敢えず安心した薫は、登校する生徒の中に甚夜の姿を見つけ、ぶんぶんと大きく手を振る。

 以前は葛野君と呼んでいた。

 嫉妬という程ではないけれど、知らないうちに仲良くなっている二人が少しだけ気になった。


「ああ、おはよう。朝顔、みやかも」

「うん、おはよう」


 だけど追及はしない。

 感情表現が苦手で、相手を慮り、踏み入ることを躊躇ってしまう。

 姫川みやかは、相変わらずそういう女の子だ。


『頑張ってね、女の子』


 誰かに呼ばれた気がして、みやかは振り返った。

 そこには当然誰もいない。けれど耳にはどこかで聞いた優しい少女の声が残っている。

 不意に風が吹いて、彼女の長い髪がゆらり揺れた。

 通り抜けた風は柔らかく、まるで頬を撫ぜるみたいだ。

 それが誰かの優しさのように思えて、そっと微笑みは零れる。


「みやか?」

「なーんでも、ない。さ、行こうか?」


 残るものなど何もなくて。

 なのに胸が暖かいのは何故だろう。

 やっぱり分からないまま、誰かに背中を押されるように、みやかは一歩目を踏み出した。

 背中を押されたからには少し頑張らないと。

 みやかは自然と彼の隣に並ぶ。触れそうで触れない程度の距離感が、今の彼女の精一杯の素直さ。

 傍から見れば本当に小さなこと。

 それがなんだか妙に嬉しくて誇らしい。


「今日から学校だね」と、みやかはいつもより幾分柔らかな笑み。

「ああ、そうだな」

「これからも、よろしくね?」

「こちらこそ」


 こうして長い休みが終わった。

 一つの季節を越えた子供達はいつもちょっとだけ大人になる。

 彼女もまた、ほんの少し素直になれた。

 

 つまりこれは青色のお話。

 いつか忘れ去られ、大人になった時ふと蘇る。

 そういう、些細な夏の思い出だ。



『In Summer Days』・了





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