『In Summer Days』・1
時間は半月ほど前に遡る。
都市伝説・渋谷七人ミサキの事件に際し、甚夜は「お誘いがある」という理由で調査を一日遅らせた。
姫川みやかはそれを桃恵萌からの誘いだと勘違いしていたようだが、実際は違う。
彼を呼び出したのは、なんと言おう、ひどく複雑な間柄の女性だった。
『おじさま、お久しぶりです』
駅前にあるハンバーグレストラン「Aster」。
そこそこの味と学生でも気軽に使える値段設定が受けて、チェーン展開しているファミレスの中でも鉄板の一つに数えられる有名店である。
テーブルには、一組の男女……と表現するには些か年齢が若すぎるか。
男子高校生と幼げな娘の組み合わせ。艶っぽい雰囲気などある訳もなく、精々が兄妹といったところだろう。
『本当に、久しいな……向日葵』
甚夜の前に座り、ストロベリーパフェを頬張る、見た目九歳くらいの可愛らしい少女。
名を向日葵。マガツメが長女、彼女もまた百年を生きる高位の鬼であった。
肩まで伸びた栗色の髪は柔らかく波打ち、年齢に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強い。
白レースがあしらわれた黒を基調としたブラウス、それに合わせたハートのフリルリボンスカート。
幼くも愛らしい容姿も相まって、まるで童話の少女がそのまま出てきたかのようだ。
『うふふ、二人でお茶。デートの定番ですね、おじさま』
『叔父と姪っ子では色気がないな』
『そこは愛情で補えば問題ありません』
そういう娘に慕われていても、甚夜はあまり嬉しそうではない。
一応は叔父と姪という関係であり、同時に仇敵の娘。かつては同盟を組んだ時期もあるが、基本的には敵対している。
彼女がマガツメの娘である以上、互いの立ち位置を違えることはできない。
しかし心情的には両者とも嫌悪や害意の類はなく、それどころか向日葵は一切隠さず好意を示す。
敵同士であり、いずれ対峙する未来は避けられないというのに、互いに敵意はない。
向日葵に対する心情はどうにもおさまりが悪く、正直に言えば甚夜はこの娘のまっすぐな好意が苦手だった。
『呼び出してしまってすみません。それに、ごちそうになってしまって。ぱふぇ、美味しいです』
『敵とはいえ、子供に払わせはしないさ』
『むぅ、敵を強調しなくてもいいじゃないですか』
『事実だろうに』
『おじさま、冷たいです』
ぶつぶつと不満そうな向日葵は、パフェを一口食べると、すっと表情を消した。
呼応して甚夜の目付きも鋭くなり、徐に手を伸ばし、少女の口元のクリームをハンカチで拭う。
見た目こそ幼いが、向日葵はマガツメの眷属。決して油断していい相手ではない。
『まずは、母に関して。おそらく年内に動くことはないでしょう。母が完全に目覚めるのは、早ければ来年の一月。遅くても四月頃になるかと』
『目覚める、か』
『今は故あって動けません。おじさまやその周りに対しても、干渉はないものと考えてもらってよいでしょう。ですから』
『分かっている。この街を騒がせる無粋な輩は、それまでに片付けよう』
『はい、お願いします』
にっこりと、無邪気な笑顔が戻ってきた。
向日葵は敵ではあるが、隠し事をしても嘘は言わない。
彼女はマガツメがまだ鈴音であった頃の、『にいちゃん大好き』という想いの具現であるからだ。
マガツメを母と慕い従っていても、甚夜は特別な存在。だからこそ敵対する筈の彼に、当然のように情報を漏らす。
彼女が語った内容は紛れもない真実、最後の時が近づいてきているのだ。
『気を付けてくださいね。吉隠は好んで邪道を選ぶ、とても厄介な相手です』
『そう、だな』
コーヒーを啜りながら甚夜は低い声で返した。
向日葵の見立ては正しい。あれは合理ではなく趣味で手段を選ぶ。自分が楽しむ為ならば下種な行いも平然とやれてしまう、放置しておいてはいけない類の害悪だ。
その上抜け目もない。おそらく吉隠が姿を現すのは、確実にこちらを討てると確信した時だけだろう。
『……と、済まない。メールだ』
時間を確認しようと携帯を開けば、いくつかの着信とメールが届いていた。
全てみやかから。内容を確認し、甚夜はすぐさま席を立った。
『悪いな、用が出来た。今日はこれで失礼させてもらおう』
『むぅ、残念ですけど仕方ありませんね。あ、残ったコーヒー貰っていいですか?』
『好きにしろ。会計は済ませておくぞ』
『はい、ごちそうさまです』
心から嬉しそうに微笑み、向日葵はコーヒーカップを手にする。こういうところだけを見れば、とてもではないが鬼女とは思えない。
夏の花の笑顔に、ふと思い出す。
そういえば昭和の頃、七緒は「向日葵には最後の役割がある」と言っていた。同時に、向日葵だけは姉妹の中でも例外だとも。
その言葉が何を意味するかは分からないまま。問い詰めてもよかったが、時間はないし、真面に答えるとも思えない。
結局甚夜は何も聞かず店を後にした。
コーヒーを啜りながら、去っていく彼の姿を向日葵は見送る。
『……ふふ、美味しいです』
口付ける場所を調節したのは、乙女心というやつなのだろう。
鬼人幻燈抄『In Summer Days』
『葛野市にある託児所で火災が発生。職員三人、預けられた子供七人が死傷しました』
朝からニュースでは気分の悪くなる事件を報道している。
朝食をとりながら、姫川やよいは悲しそうに眉を顰めた。
母親になってから、子供の死亡事故や事件の類は以前よりも痛ましいと感じる。もしもみやかがこういった事件に巻き込まれたら。想像するだけで辛い。
「最近物騒ねぇ。みやかちゃんも気を付けてね?」
「ん、分かってる」
親の心配など煩わしく感じられる思春期、素直に頷けたのは“最近物騒”というフレーズが身に染みているからだろう。
NNN臨時放送、口裂け女、赤マント、トイレの花子さん、渋谷七人ミサキ。その他もろもろ凶悪な都市伝説の怪人。
うん、最近の葛野市は物騒なんてもんじゃないのである。気を付けるに越したことはない。
もしかしたら、この火災も都市伝説関係かも知れない。最近の愛読書である『都市伝説大辞典』を読み直して、火に関係する話を探しておこうとみやかは心に決める。
それはそれとして時間も差し迫ってきた。
朝ごはんはしっかり食べて、「いってきます」と学校へ向かう。
足取りは軽い。
それもその筈、今日は一学期の終業式だった。
抜けるような青空、じりじりと肌を焼く日差し。
むせ返るほど濃い緑の香りを漂わせ、夏が横たわっている。
「やぁっと、終わったぁ」
「おつかれー。アキちゃん、今日はどうするの?」
「んー、いつもの奴らと出かけるー。ってことでごめんね、先行くわ。甚、連絡するからまた今度遊びに行こうねー」
一学期の終業式を終えると、解放感からか、クラスには緩い空気が流れていた。
今日は午前中で終わり。早々に下校して駅前へ繰り出す生徒も多い。
桃恵萌の属する派手な女子グループもその一つで、早速とばかりにスイーツやら買い物らしい。
慣れない学校生活、長期休暇にほっとしたのは甚夜も同じだ。楽しそうな薫、みやかも普段より幾分表情が寛いでいる。
多くの生徒が待ちに待った夏休みが、明日から始まるのだ。
「みやかちゃん、今日は大丈夫?」
「うん、バイトは明日からだから」
「あ、そっか。夏休みに始めるって言ってたっけ。どこのお店?」
「学校近くのアイアイマート。やっぱりコンビニが定番かなって」
何度も利用して店長の顔も知っているし、学校から近ければ夏休みが終わっても続けられるかもしれない。
面接で話してみた感じ、店長も話し方は独特だけど悪い人ではなさそう。
初めてのアルバイトとしては、中々悪くない選択だったと思う。
「アイアイマート……」
そう考えていたのだが、コンビニでアルバイトをすると聞いた甚夜は、何故か凶悪な都市伝説と相対した時でさえ見せない真剣な表情をしていた。
彼はみやかと向かい合い、がっしりと少女の肩を掴んだ。
すごく真面目な顔。というか近い。
男の子に吐息がかかるくらいの距離まで迫られて、嫌っていない相手だからこそ、思春期の少女は僅かに顔を赤くした。
あまり表情には出ないが内心大慌て、緊張に心臓は高鳴っている。
「みやか、何かあったら言うんだぞ」
「え?」
「ああ、いや、やはり送り迎えはするべきか」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫、だと思うけど。萌に色々と貰ったし」
呪詛の身代わりになるドール、防御力を高める福良雀、災い(悪鬼)を遠ざけるフクロウ、幸運を与えるウサギなどなど。
「最近危ないしお守りがてらにもっててー」と渡された、萌謹製の使わなくても所持しているだけで効果のある付喪神のストラップだ。
都市伝説が跋扈する今、バイトで遅くなるのは危ない。
みやかを心配した萌は、せめてもの護身にと幾つかの付喪神を預けてくれたのである。
その為、怪人に遭遇しても逃げるくらいはできると思う。「ローズクォーツのストラップはあげないけどね」なんて笑顔で言われた意味は分からなかったけれど。
「秋津の付喪神ならば多少は安心できるか。しかし、アイアイマート。大丈夫、だと思いたいが。やはり不安はあるな」
それを説明しても甚夜の憂いはやはり晴れない。
都市伝説の次は、バイト先の心配。
お父さんは「バイト? おー、がんばれよー」なんて流していたのに。確実に実の父親よりも心配している。
百歳を超えると聞いているし、過保護なのも分かっていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「初めてのアルバイトだ、慣れないことも多いだろうが、あまり隙を見せてはいけない。特に店長には気を付けろ」
「店長に気を付けろ……? そんなに変な人には見えなかったけど」
「だとしてもだ。後は、警戒は必要だが、あまりに失礼な態度もいただけない。あれで理性的な男だ。滅多なことはないと思うが、それでも下手をすれば、首を斬られることになるかもしれないからな」
「そっか、いきなりクビ切られるのは困るね」
「もしも何かあればすぐに連絡してくれ。必ず駆けつける」
「う、うん。ありがと。なにかあったら、頼るから」
たかだがバイトでどれだけ心配しているのか。
いや、それだけ大切に想ってくれているということであり、嬉しいのだけど、目が真剣過ぎる。
心配している点が双方微妙にずれているが、そこは仕方のないところだろう。
「おーい、じいちゃん。二年の先輩が呼んでるぞー。前のお弁当先輩」
「ああ、夏樹、今行く。話は途中になったが、みやか。私の言ったことを忘れないでほしい」
「うん、分かった。心配し過ぎだとは思うけど」
「し過ぎて損をすることもないさ」
そう言って甚夜は去っていく。
何故か知らないが今はお弁当先輩の話もあまり気にならなかった。
あまりの勢いにたじたじだったがようやく落ち着いた。みやかは先程までの彼の様子を思い、ふう、と小さく溜息を吐いた。
「まったく、あいつは。アルバイトくらいで心配性なんだから……」
「そうだねー」
「店長に気を付けろとか。必ず駆けつけるとか、ほんと恥ずかしい奴」
「そうだねー、うん。ほんとーに」
「薫、なんかすごい棒読みだけど、どうしたの?」
「どうしたのって……あのね、みやかちゃん?」
「うん」
「気付いてないかもしれないけど。表情、ものすっごく緩んでるからね?」
「……えっ?」
ともかく、夏休みの始まりである。
【麻衣と図書館】
吉岡麻衣は中学の頃いじめを受けていた。
リーダー格はクラスの女子だったが、面白がって男子も参加していた。
だから派手な格好の女子や怖そうな男子は今でも苦手。実を言うと、見た目遊んでいる風の桃恵萌や目付きが鋭く強面な葛野甚夜は、ちょっとだけ怖かったりする。
勿論、それはちゃんと接する前の話だ。
外見とは裏腹に萌は愛嬌があり接しやすいし、甚夜は穏やかで優しく、同学年なのに保護者っぽい。
一番甘いのは薫に対してだが、柳がいない時は麻衣のこともよく気遣ってくれる。
「……済まない。ここをいいか?」
今では全然怖くない。二人きりでいても緊張しないくらいに慣れた。
柳は男友達と遊びに出かけているし、今日は朝から甚夜と図書館でお勉強。英語の宿題で教えてほしいところがあるとのこと。
なんといっても彼が追試を乗り切れたのは、吉岡麻衣先生の特別授業のおかげ。以来勉強関係では時折お願いされる。
なんでもできそうな彼に頼られるのは、ちょっとだけ恥ずかしく、ちょっとだけ嬉しかった。
「こ、ここはね?」
甚夜は決して頭が悪い訳ではない。
ただ高校一年生、一学期の英語は中学で習った基礎を更に掘り下げていく為、以前の積み重ねの殆どない彼はよく躓いてしまう。
つまるところ英語ができない理由は、頭の出来不出来以前に、単語や文法などの知識量が絶対的に足りないのだ。
「葛野君は、まず句と節の違いを意識しながらやるのがいいと思う。あとは、単語の量が少ないから、ちょっとしたことでも辞書を引く癖をつけると、ぐっと成績もよくなるんじゃない、かな? 細かなところは後回し。あんまり一気に詰め込むと、混乱しちゃうし」
「ふむ、成程」
真面目にノートを取りながら、どうにかこうにか甚夜は宿題を進めていく。
まずは基礎固めをしつつ、応用の必要なところでは麻衣が手助けをする。
それを繰り返し、単語や文法の量を増やしていく。
追試の時は手っ取り早く点を取れるよう試験範囲だけを重点的に勉強したが、時間のある今は基礎力を高めた方が後々の為になる。
「しかし、吉岡は本当に教えるのが上手いな」
「そ、そう、かな?」
「ああ。教師なんて向いているんじゃないか? といっても、今まで学校に通ったことのない私の意見ではあてにならないな」
聞いた話では、彼は百歳を超える鬼なのだという。
けれど麻衣は怖いとは思わなかった。
それを言うなら柳もひきこさんだし、なにより、いじめられていた彼女にとっては鬼よりも同じ人間の方が怖い。
いじめをしながら笑う女子。表情はあまり変わらないけれどいつも気遣ってくれる鬼。
どっちがいいかなんて考えるまでもなかった。
「教師、かぁ」
「……済まない、気に障ったか?」
「あ、ううん。そうじゃ、ないんだけど。先生には、あんまりいい思い出、ないから」
「そう、か……。なら、吉岡はどういった職業に憧れる?」
「え? え、ええと。あの、その」
憧れの職業。
思い当たるものは、二つあって。どちらも恥ずかしくて麻衣は頬を赤く染めて俯いてしまう。
顔を隠しながら、ちらりと甚夜の方を見れば、相変わらず表情の変化は小さいけれど、目はとても穏やか。
ちゃんと答えられない麻衣を呆れもからかいもせず、微笑ましく見つめている。
柳以外の同年代の男の子はちょっとだけ怖い。まだ耳には中学の教室で聞いた、馬鹿にしたような笑い声が残っているから。
でも保護者のような彼のことは、あんまり怖くない。
それに、何かを喋るまでちゃんと待ってくれているような人だから。
恥ずかしいけれど、夢みたいなことを話しても馬鹿にはしないだろうな、とも思う。
「……あの、ね。笑わないで、聞いてくれる?」
「ああ、勿論」
きっぱりと、ではなく、ゆったりと。彼は頷きながらそう言った。
だから麻衣は、恥ずかしさに声は小さくなってしまったが、なんとか答えを返せた。
「あの、こ、声のお仕事……」
「アナウンサー。それとも、声優というやつか?」
「そ、そういうのだけど、そうじゃなくて。出版社とかの、名作小説の朗読CDみたいなの、あるでしょ? ……やって、みたいなぁって」
それが一つ目。
ああいった朗読CDの読み手は大抵が彼の言う通りアナウンサーや声優。
自分にはなれるとは思えないし、まあ、本当に憧れだ。
「そっちは、そんなに強くじゃなくて。でも、やっぱり本を読むのは好きで。だから、いつか。自分の子供に、絵本を読んであげたり、そういうのができたらいいなって、思う、かな?」
二つ目は、ある意味在り来たり。
つまるところ、“将来の夢はお嫁さん”というやつだ。
麻衣は顔を真っ赤にしてわたわたとしている。自分で言っておいてなんだが、顔から火が出そうになるくらい恥ずかしかった。
「いい夢じゃないか。吉岡の可愛らしい声なら、きっと子供も喜ぶ」
甚夜は目を細め、眩しそうに麻衣を見る。
「結婚なんてお前には無理」。昔のクラスメイトなら言っただろうけど、やっぱり彼は馬鹿にしない。
褒め言葉もお世辞ではないと分かるから余計に照れてしまう。その後「富島との結婚式には呼んでくれ」と言われて頭が沸騰してしまったのは内緒である。
その後は真面目に宿題と向かい合い、午前中だけでかなり進んだ。
時刻はちょうどお昼の12時。麻衣はともかく、甚夜はかなり憔悴している。今日はこの辺りで切り上げた方がいいだろう。
「今日は、このくらいに、しておく?」
「そう、だな。流石に疲れた……これなら都市伝説の怪人達を相手取る方が余程楽だよ」
「もう……」
本当に英語が苦手らしい。甚夜の口からほっと安堵の息が漏れる。
暴走するひきこさんや渋谷七人ミサキの時は涼しい顔をしていたのに。それを考えると、ちょっとだけおもしろかった。
手早く教科書類を片付けながら、軽く雑談を交わす。そういう風に気安い会話ができるくらいには、甚夜と麻衣は仲良くなった。
「吉岡。今度、何かお礼をしよう」
「それなら。また昔の話、聞かせて、ほしいな」
「そんなものでいいのか?」
麻衣はこくこくと何度も頷く。
実はこの手の頼みは初めてではない。
読書が趣味の麻衣にとって、自分の知らない時代をたくさん知っている甚夜の話は非常に興味深いものらしい。
初めてコーラが入ってきた時の驚きとか、白黒テレビが家に来た時の子供達のはしゃぎよう。
そういった些細な話や、甚夜が経験した、単なる謳い文句ではなく「本当にあった」怖い話。
それにちょっと切ない不思議な話。
百年を生きる鬼の見聞きしてきた物語はとてもおもしろい。
だから下手にお茶やお菓子をご馳走してもらうより、彼の話の方が麻衣にとってはご褒美だった。
「そう、だな。前は“夜桜の下の怪”について話したか」
「う、うん。すっごく、悲しかったけど。江戸時代の世相まで分かるから、結構好き」
「なら……よし、今度はとっておきを話してあげよう。鳩の街を知っているか?」
「昔あった、東京の、赤線区域……だよね?」
「ああ。山の手の男も通うアプレ派娘の街。社会現象にまでなった花街だが、売春防止法によりその灯を消した……だが、昭和三十四年。私は鳩の街で、とある娼婦に出会った」
え、と麻衣は不思議そうに声を上げた。
昭和時代にもてはやされた赤線区域は、売春防止法の完全施行により営業を停止した。
それが昭和三十三年、三月三十一日のこと。
つまり三十四年には、鳩の街は存在していないのである。
なのになんで。目を丸くしている麻衣に、甚夜は小さく笑みを落とした。
「君も知っているようだが、昭和三十三年には全ての赤線が営業を停止した。しかし私は確かにこの目で見た。……これは私が、“存在しない筈の鳩の街”に立ち寄った時の話なんだ」
存在しない鳩の街。
その言葉面だけでもロマンに溢れている。
今度はどんな話を聞かせてくれるのかと、麻衣は子供のように目をキラキラさせていた。
そういう反応をされると、話す方も楽しい。
さて、片付けも済んだ。
適当なところで食事をとりながら、古い話をするとしよう。
……ちなみに。
甚夜に遠慮をして過去には深く踏み込まない姫川みやか。
そもそもその手の話にあまり興味のない梓屋薫。
今は秋津染吾郎ではなく一人の女の子として接したい桃恵萌。
幼い頃は共に暮らしていた藤堂夏樹を別枠とすれば、いつものメンバーで最も甚夜の過去について詳しいのが吉岡麻衣だという事実は、誰も気づいていなかったりするのであった。
【柳と訓練】
富島柳は、普通とは言い難い高校生である。
人並み以上の容姿、成績優秀で運動神経もいい。当然ながら女子生徒からモテる。
そもそもからして一般的ではなく、しかし彼が普通ではないと評されるのは、ある特殊な能力に起因していた。
都市伝説保有者。※命名・梓屋薫
彼は一度自身の心の闇から怪異へと堕ち、吉岡麻衣の手によって人へと戻った。
それにより、都市伝説<ひきこさん>の力を行使する能力に目覚めたのである。
「こ、のっ!」
夜半、葛野市に流れる戻川の土手で、二人の高校生がぶつかり合っていた。
喧嘩ではない。未だ戦いに慣れない柳の訓練である。
とはいえ訓練にしては少しばかり激し過ぎる。
葛野甚夜は武骨な太刀を振るい、富島柳は<ひきこさん>の能力を余すことなく発揮する。
共に人を超えた力の持ち主。殺す気のない手合わせでさえ圧倒的だ。
「ふむ、随分とよくなった」
「くっそ、余裕じゃないかっ……!」
富島柳はごく普通の高校生ではない。
成績も運動も優秀、特異な能力も有している。
それでも、こと戦闘に関してはまだまだ甚夜には届かない。相手は百の歳月を戦い続けた歴戦の鬼。当然といえば当然だろう。
しかし、殺す気はないとはいえ柳の方は殆ど全力で戦っているのに、息も乱さずいなされるというのは流石に悔しい。
勝てないなら勝てないなりに、ちょっとくらい“ヒヤリ”としてもらわなきゃな。
意を決した柳は迫りくる甚夜に向けて、掌から生み出したカミソリの刃を投擲する。
雨あられと降り注ぐ刃物は振るう刀に全て叩き落された。
構わない。距離を取り、位置を変え、何度も何度も刃物を投げつける。
数が増えたところで通じる筈もない。投げては叩き落されての繰り返しだ。
それでいい。
重要なのは単調な動きに慣れさせること。
同時に、意味のない行動に呆れさせること。
この程度か、そろそろ終わりにしよう。
そう思ってくれれば大成功。油断しろ、侮れ。大事なのは緩急。動きの速度を押さえ、単調な動きに慣れさせ。相手が攻めに転じた瞬間、最高の挙動で出鼻をくじく。
何度目かの投擲の後、襲い来る刃を一振りで防ぎ切った甚夜は小さく息を吐き、もう一度吸って、彼の呼吸がぴたりと止まった。
タイミングは、ここだ。
予想通り、甚夜は一気に踏み込んでくる。その一歩目、蹴り足に体重を傾けた瞬間、狙いすましたようにカミソリを投げつける。
振るわれる夜来、刃物は砕け散る。
一手目は防がれた、甚夜は一足に間合いを侵す。距離が詰まる。大丈夫だ、カミソリは目くらましに過ぎない。
近付いてくる、投擲、防がれる。
しかし砕けた刃が一瞬視界を遮り、隙を突いての最大速度。野球で言えば変化球の後のド真ん中ストレートだ。
遮られた視界、生まれた死角、こちらから距離を詰めての接近戦。
初めからこれが狙い……
「……じゃ、ない!」
死角から踏み込んでもごく小さな動きで体勢を立て直し、容易く夜来で迎撃される。
そいつも、予想済み。
甚夜が薙ぎ払ったのは柳ではなく布。ひきこさんが纏う、刃を編んだぼろきれだ。
ひきこさんの刃物は脆い。いとも簡単に砕け、それが本当の狙い。
砕けた刃の布に甚夜の刀はからめとられ、それをそのまま無理矢理に引っ張り遠ざける。手を離しはしなかったが、甚夜の体は大きく開き無防備を晒した。
駄目押しとばかりに至近距離からの投擲。
ぼろきれにからめとられた分、対応は一手遅れた。刀は使えない。が、甚夜は左手の鞘をもって防ごうとする。
だけど。
「だぁまされたっ、と!」
投げたのは、刃物だけじゃない。
散々掌からカミソリを生み出したことで破れた皮膚、刃と共に放ったものの正体は滴る血液だ。
単調な投擲を繰り返したのは、この瞬間を出し抜くため。視界を遮る血。これで仕込みは済んだ。
後は一発、拳骨を入れる……
「悪くない。が、ちと詰めが甘いな」
よりも早く、腹に衝撃。
刀を遠ざけ、鞘で防御に回り、視界を遮り。
そこまでやったのに、甚夜は刀も鞘も手放して、柳の体に強烈な蹴りを叩きこんでいた。
「刀を絡めとるまではいい。同じ動きを続け、真正面から不意を打つのもよかった。だが後が続かないのはいただけない。あそこまでやったなら、追撃はほぼ同時に叩き込め。瞬きをする暇も与えてはならない。他には、刀を使うからといってそれだけで攻めてくると思うな、といったところか」
「……はい、まいりました」
「まあ二か月でここまで動けるようになったんだ。十分すぎるとは思うがな」
「ありがとう、ございます」
結局、手合わせは柳の敗北で終わった。
この訓練を始めたのは六月の初め。既に二か月近く経ってはいるが、未だに足元にも及んでいない。
いや、寧ろ力に目覚めたばかりの高校生がついていけているだけでも上等なのだが、そこは思春期の男の子。やはり負けっ放しは悔しいらしかった。
「あー、やっぱり葛野は強いなぁ」
「はは、これでも相応の経験は詰んでいる。二か月かそこらの訓練では負けてやれんよ」
柳が有するのは『カミソリに代表される脆く鋭い刃物の生成』と『敵意に対する感知』の二種の特殊能力。
<ひきこさん>は決して戦闘向きの都市伝説ではない。
おそらく最も適しているのは、敵意に対する鋭敏な察知と刃物の投擲を使った中距離援護だろう。
それが曲がりなりにも一対一の戦闘を行えているのは、柳本人のセンスもあるが、やはり一番は甚夜に戦闘のイロハを叩きこんで貰ったおかげだろう。
「ま、でもこの訓練のおかげであいつに勝てたしな。感謝してる、実際」
「それは君の努力の結果だ」
謙遜しているが、やはり甚夜のおかげだと柳は思う。
訓練で荒れた息を整えつつ、数々の教えを思い出す。
『立ち合いの最中に目を瞑るな。私の知る人斬りならば、瞬きほどの隙があればその間に首を落とすぞ』
『直接戦闘に向かないと思うなら考えろ。百回やって一回しか勝てない相手なら、初っ端にその一回を持って来れるよう罠に嵌めればいい』
『正々堂々なんぞ糞喰らえだ。無様でもなんでも生き残った方が勝ちだ』
『私は“毒を仕込む”のが最上の戦術だと考える。次点、“寝込みを襲う”だな』
……うん、改めて考えてみると言っていることは結構最低だった。
いや、役には立ったけれど。
「しかし、厄介ごとはもう終わったんじゃなかったのか?」
「あー、そうなんだけどさ。やっぱり少しは強くなりたいし。時々こうやって相手してくれないか?」
「それは構わないが。……あまり無理はするなよ。なにかあれば頼ってくれ」
「おう、ありがと」
訓練を申し出たのは柳の方からだった。
六月の初め。いやに真剣な表情で甚夜の下を訪ねた柳は、鬼気迫る様子で“強くなりたい”と願い出た。
理由を聞いても教えては貰えず、しかしその目は決意に満ちている。
それを無碍にはできず、多少稽古をつけてやったのが始まりである。
七月の頭には「全部、終わったよ」と晴れやかな笑顔で言ってくれたから、その件に関しては深くは追及しなかった。
なにがあったのか、詳しくは知らない。
だか富島柳は、甚夜の目の届かない場所で何かと戦った。
話さなかったのは、彼なりに意地を通したのだろう。
それを責める気はない。しかし、もしも次があるのなら、今度は力になってやりたい。
訓練を終え疲れた様子で笑うクラスメイトに、甚夜はそう思った。
……何かと戦った。甚夜の予想はものの見事に的中していた。
六月から七月半ばにかけての話である。
都市伝説保有者として目覚めた富島柳。
彼はある雨の日、十四歳くらいの見目麗しい金紗の髪の少女“メアリー”と出会う。
怪しいと思いながらも怪我をしていたメアリーを見捨てられず助け、しかし彼女を追って謎の刺客が現れる。
<ひきこさん>の力を用い、辛くも刺客を撃退した柳。彼は少女の口から衝撃の事実を知る。
そう、メアリーもまたアーバンレジェンド・ホルダーだった。
保有都市伝説名<青い目の人形>。
青い目の人形は、1927年アメリカ合衆国から日本に贈られた友情人形を原典に持つ、深夜の学校を徘徊する人形の都市伝説である。
歩く以外の逸話を持たぬ怪異であり、それを発現させたメアリーもまた戦闘能力を有さない。
ただし<青い目の人形>には、原典に起因する特性が一つだけある。
『貢物として贈られた時、相手を満足させる』。
メアリーは生まれた時から誰かのプレゼントになると運命づけられていたのだ。
そして追手の正体は、メアリーを利用しようとする、彼女の叔父の配下だという。
柳は彼女の境遇に憤り、かくまうことを決意する。
麻衣の助力も得て、生活品を整えたり一緒に遊んだり、比較的穏やかな日々が過ぎる。
しかしそんな彼らの前に現れた、左腕に包帯を巻き、日本刀を携えた謎の男。
金剛寺嶽。
最強の追手、<トンカラトン>のアーバンレジェンド・ホルダーであった。
刀を操る<トンカラトン>に<ひきこさん>では対応しきれず柳は敗北を喫する。
メアリーを奪われた彼は失意に膝をつく。それを支えたのは、吉岡麻衣という少女だった。
何の力もないのに、麻衣は柳を助けてくれた。
彼女の激励に再び立ち上がった柳は、同じく刀使いである友人に特訓を願い出る。
そうして、決死の覚悟で金剛寺嶽に戦いを挑む……というまったく世界観の違うストーリーが裏では展開され、富島柳の手によって解決していたりするのだが、当然ながらそんなことは甚夜のあずかり知らぬところである。
そもそも復讐に身を窶す鬼の物語とはあんまり関係ない為、詳細はここででは割愛する。
まあつまり、人の知ることの出来る範囲には限りがある。
どれだけ聡明な人間でも、どんなに努力しても、人は自分の見ているものしか見えていない。
普通に見えるただのクラスメイトも、その裏にはちゃんとストーリーがある、という話であった。
「よし、もう一回いっとくか?」
「いや、ここまでにしておこう。明日に響いても困る」
「あ、そうだな。駅前に午前十時でいいんだっけ?」
「ああ」
「おっけー、じゃあ今日は帰って休むか」
明日は明日で別の予定がある。その為訓練は此処で終了となった。
都市伝説がらみの事件ではない。
夏休み前からの計画も、遂に明日決行となる。
なんのことはない。皆で海に行く、という話である。




